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究極の愛2

 京都は思いの外寒かった。薄めのコートだけでは凍えそうだ。せめてマフラーを持ってくるべきだった。京都駅で買い足そうかとも考えたが、マフラーを選ぶ暇も勿体ない。既に正午を過ぎている。京都駅付近で予約しておいたビジネスホテルに荷物を置いて、昼食も碌に取らずに下鴨まで電車と徒歩で目指した。

 京都は過去に何度か訪れたことがあるので土地勘がまったくないわけではないけれど、慣れない土地をウロウロして迷って時間を無駄にしたくはない。鴨川の河川敷に下りて、なるべく川に沿って歩いた。交通量の多い騒がしい路上と違って、川縁にはまばらに散らばって愛を囁き合うカップルたちや、自分の世界に浸りながらジョギングをする中年が、微かに聞こえてくるせせらぎのように穏やかに時の流れを楽しんでいる。俺は普段、花や草木に風流を感じる人間ではないし、頭の中は岡本家や菅野のことが大半を占めていて、決して明るい気持ちではない。だが、それだけに目の前に飛び込んでくる空の青と水面に揺れる光の反射、雑草の緑にさえ、荒んだ心が癒されるようだった。

 橋の下で、おそらく学生と思われる若い男二人が身を寄せ合っている。別にいかがわしいことをしているわけではないけれど、指を絡ませながら手を繋いでいて、あと数秒もあればキスのひとつやふたつするだろう至近距離で仲睦まじく会話している。俺が二人の傍を通り過ぎると警戒する空気を漂わせたが、そんなスリルも楽しんでいた。

 ――スリルがあって興奮するな――

 ほんの些細な記憶の断片にすら、胸が苦しくなる。なんでだろう。既視感、高揚感、羨望……。思い出しては体が熱いような気にもなるし、通りすがりのカップルのように、菅野も学生時代はあんな風に恋人と愛を確かめ合ったのだろうかと考えると、熱が一気に冷めるような気にもなる。

 もし菅野が過去のシガラミから解放されたら、俺の中にゴロゴロ纏わりつく正体不明の違和感もなくなるだろうか。そしたら俺と菅野は、どうなるんだろう。ただの上司と部下に戻るだけなのか。

 ――それとも……。それとも――、

 周辺に聞き込みをして回り、時計の針が午後五時を指した頃、ようやく岡本の家を見つけることができた。冷たくて強い風が体を叩きつける中、一分の休憩もせずに探し歩いたので体力的には疲労しきっているが、これからが踏ん張りどころなのだ。白い外壁が少し黒ずんだ、年代を感じさせる小さな一軒家。塀には「岡本」と書かれた表札があり、その隣のインターホンを、寒さと緊張で震える指で押した。数十秒経って、『はい』と女性が答えた。

「あの、岡本さんのご自宅で間違いありませんか」

『……はい』

 身分を告げるか迷ったが、突然訪れた男に「話がしたい」と言われても応じる人間などいないだろう。

「警察の者ですが」 

 小声で言うと、インターホンのマイクが途切れた。そして暫くして玄関の扉が開かれ、目尻とほうれい線にくっきりと皺を作った中年女性があきらかに警戒した様子で現れた。

「……なんでしょう」

「突然、申し訳ありません。仕事に関することではないのですが、僕、X県の北署から参りました、刑事の野田で……」

 そこまで言うと女性は顔色を変え、目を見開いて唇をわなわなと震わせた。

「北署の刑事がっ……今更なんの御用ですか……っ」

「あの、個人的にお話を……」

「刑事に話すことなんかありません!! わざわざこんなところまで訪ねてくるなんて、どういう神経ですか!! 帰って下さい!」

 彼女は玄関から駆け寄ると、門の上から腕を伸ばして俺の肩を押した。

「迷惑なのは重々承知しております。僕はただ……」

「帰って下さい! 仕事でないのなら尚更よ!」

「違うんです、話を聞いて下さい!」

「帰って! 警察なんか嫌いよ、刑事なんか大嫌いなのよ!」

 そう叫ぶと女性は家の中へ戻り、扉と鍵を閉めた。予想はしていた反応だが、あまりの激昂ぶりに驚いた。門前払いとはこのことだ。もう一度インターホンを押してみるが、当然応答はない。このまま門の前で待っていても出てきてはくれないだろう。俺はメモ用紙に「明日も来ます」と詫びの言葉を添えてポストに入れた。

 出てきた女性はおそらく岡本晴斗の母親だ。翌日は父親のいる時間帯を狙って、出勤前の午前七時という、はた迷惑な時間にインターホンを鳴らした。案の定、母親がマイク越しに声を荒げた。

『迷惑です。来ないで下さい』

「お願いします。晴斗さんのことでどうしてもお聞きしたいことがあるんです。それを伺ったら、帰ります」

『これ以上、傷をえぐらないで下さい』

「分かってます、本当に分かってます。だけどひとつだけ……」

 そこでマイクが切れた。暫く門の前で待っていたら、ベージュのコートと濃紺のマフラーを巻いた中年男性が玄関から出てきた。父親だろう。姿勢を正して口を開きかけた時、

「待っていても同じだよ。さっさと帰りなさい」

 怒りを抑えた声でそう言って、通り過ぎた。黒縁眼鏡の奥にある眼には憎しみが籠もっていた。……菅野の眼と同じ。みんなあの眼で俺を見る。俺が殺したわけじゃないのに。それでも引き下がるわけにはいかなかった。

 門の前で、ずっと立っていた。
 昼を過ぎ、
 風が吹き、
 日差しがなくなり、
 小雨が降り、
 夕方を迎え、
 ますます気温が低くなる。

 途中で何度か母親が出てきたが、買い物などのいつも通りの用事をこなすためであって、俺とは目を合わせようとしなかった。姿を見る度に頭を下げて頼み込んでみるものの、無視を決め込まれている。そのまま夜になり、帰宅した父親が幾分驚いた表情をしたが、すぐにそれは険しい顔つきに戻る。

「近所迷惑だ。帰りなさい」

「……明日も……来ます」

「何度来ても同じだよ」

「お願いします……少しだけでいいんです」

 その言葉は最後まで耳に届かないまま、父親は容赦なく扉を閉め、施錠した。
 俺はこれを、四日ほど続けた。朝早くに訪れ、無視をされながら夜まで一日中、門の前で、食事も摂らず、腰も下ろさず、雨が降ったり雪が降ったりする中を、傘も差さずにひたすら待った。本当ならとっくに地元の警察に通報されてもおかしくないくらいのストーカーぶりだ。けれども三日経っても通報されていないということは、俺を少しでも憐れんでいるか、そのうち話し合いに応じてくれる気があるのだろうと、確信のない予想だけが唯一の希望だった。

 寒い。凍える。あったかい部屋が恋しい……。
 やっぱりマフラーを買えば良かった。
 せめてダウンを着てくれば良かった。
 なんで俺、こんなことしてるんだろう。貴重な休みを。
 なんのために……。誰のために……。
 

「いつまで、そこにいるつもりだね」

 四日目の夜だったと思う。大粒の雪が降り出し、みるみるうちに辺りが白く色付き始めた頃だった。もう本当に体力も気力も限界で、あと一時間立っていたら、俺は確実に凍死していただろう。塀にぐったりともたれかかったまま、もうまともに頭も上げられなかった。

「……ずっと待ちます……」

「――もういい、分かった。入りなさい」

 これほど待ち望んで、有難くて、嬉しい言葉があるだろうか。思わず涙で視界が滲んだ。

 ――だけど、声が出ないし、足が動かない。

 反応が悪い俺を訝しんだ父親は、眉をひそめながら俺の額に手を当てた。

「……ひどい熱じゃないか」

 体を支えられながら家の中へ通される。少し焦りを見せた父親は、玄関先から母親を呼び、和室に布団を敷くようにと指示した。

「……すみません。ありがとうございます……」

「負けたよ。とにかく休みなさい」

「すみません、……ごめんなさい」

 この四日間、待ち遠しくて恋しくてたまらなかった、暖かい部屋とふかふかの布団。寝かされるや否や意識が朦朧とする。夢にいざなわれていく中で、「勇斗、水筒に水を入れて持ってきなさい」という声が聞こえた。ああ、兄弟がいたのか、と、考えながら、深い眠りに落ちていった。


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