究極の愛1
十五年前の検証調書を見ていたことを勘付かれたのか、資料室から出たところを菅野が険しい表情で阻んだ。
「何を見た」
「……捜査の一環で」
「ふざけるなよ。あれはとっくに解決してるんだ。そんなもん見る暇があったら、今片付けなきゃならない事件の捜査をしろ」
「菅野さんの中では未解決事件です」
菅野は顔をしかめて俺を睨んだ。人目を気にしたのか屋上に連れて行かれる。先にベンチに腰掛けた菅野が隣をパンパンと叩いて「座れ」と命令した。ひとり分の間隔を空けて、従う。目を合わせようとしない俺のあからさまな態度に、菅野は対応を変えてきた。声と表情から険が消えた。
「気を悪くさせたのは分かってる」
「別に謝って頂くほどのことじゃありません。俺が教えてくれって頼んだんですから。それに……」
――目の前で大事な人が死んでた時の気持ちなんか、分かんねぇだろ――
「俺も、菅野さんに暴言吐きましたから」
菅野は「どんな」と、素で聞いてくる。あえて蒸し返したくもなかったので「覚えてないなら、いいです」と終わらせた。
「野田を抱くきっかけは確かに憎しみを紛らわせるためだった。でも、お前にはちゃんとした情がある。お前に対する純粋な情と、あの男に対する憎悪で板挟みになってる中でお前を抱いたら、憎悪は消えると思ったんだ」
「……こじつけですよ。もういいです」
「お前には誤解されたくない」
「誤解も何も……、菅野さんはただ過去から解放されたいがために、俺を利用しただけです。そして結局、何も変わらなかった。俺への情が犯人への憎悪に勝ることもない。それが事実なんです」
「利用したのは悪かった。だけど俺はちゃんとお前自身を抱いてきたし、抱きたいと思ったんだよ。何も変わらないなんて、なんでお前が言い切れるんだ」
「菅野さんは俺に情があると言ったけど、菅野さんが俺を見る目はいつもどこか冷たい。前から不思議だった。なんで俺にだけ、そんな眼をするんだって。そしてあの時、殺意を込めて俺の首を絞めた。何も変わってない証拠でしょう。……そんな眼差しを向けられる俺の身にもなって欲しい」
「……悪かった」
「もういいんです。そんな謝ってばかりの菅野さんは気味が悪い」
「だったら、どうしろってんだ」
「……休暇をください。一週間」
いまだ菅野をまともに見られないが、怪訝な顔をして俺を見る菅野が視界の隅に映った。
「なんのために」
「やりたいことがあるんです」
「何を」
「そこまで言う必要がありますか。休暇中は一切、連絡をしてこないで下さい」
「緊急の事件が入ってもか」
「行けませんから」
「言い切るんだな。後輩にポストを取られるかもしれんぞ」
「それならそれで構わない」
「まさか、辞める気じゃないだろうな」
俺はいったん、そこで黙った。肯定したと判断した菅野は頭を掻きながら大きな溜息をつく。
「野田、頼むから勢いで行動するのだけはやめろ」
「勢いじゃありません。前にも刑事を辞めたいと思ったことがあります。たぶん、俺は辞めても後悔はしない。とにかく何を言われても、一週間は休ませてもらいますから。署長の承認を得てすぐにでも」
立ち上がると同時に、手首を握られた。
「俺から離れるのか」
「……離れる……わけじゃ、ない……」
手首から伝わる菅野の体温と、普段の菅野からは想像もできないほど困憊した姿に、心臓が痛くなる。鼓動が追いかけてくる。涙が出そうになる。
――なんで? こいつを苦しめてるのが俺だから?
手首を握っている菅野の手を振り払ったら、あっさりほどけた。気管支がギュッと締まる痛みを覚えながら、俺はベンチに菅野を残して仕事に戻った。
俺は菅野が嫌いだ。
愛想が悪くて、口が悪くて、不器用で、強引で自己中心的。
いきなり人の領域に土足で入り込んできて、掻き乱すだけ掻き乱して、とんでもない爆弾を落としていく。荒らされた人の気持ちも知らずに。
だから俺は、菅野が嫌いだ。
***
やりたいことがある、というのは、咄嗟の思い付きだった。単に休暇を取って菅野と会いたくなかっただけだ。ただ、咄嗟だったとはいえ一度思い立ったらそれを仕事にしなければならないような気がして、俺は休暇に入るなりすぐに行動に移した。
早朝に起きて最低限の必需品をボストンバッグに詰め込み、俺はある場所へ向かった。岡本晴斗……菅野の恋人の家族が住んでいる京都である。もともと高知に住んでいた岡本家は、事件後に周囲から注目を浴びて、居心地が悪くなったために父方の故郷である京都に越したという。
この情報は伯父からだ。京都に向かう前、事件のことを菅野から聞いたと報告したうえで、被害者家族の行方を知らないかと伯父に訊ねた。伯父は当時の菅野から信頼を得た人物だ。もしかしたら岡本晴斗の家族も伯父には気を許していたかもしれない。もしそうなら伯父にくらいは行き先を知らせているのではと考えたのだ。そしてその予想が当たったのである。精神的に苦痛を負った家族に色々と手助けしたのも、伯父だったらしい。
「岡本さんの行方か? 住所までは知らないが、京都の下鴨に越すと言っていたぞ。父親の里らしい。ただ、十五年前の話だから今も京都にいるとは限らないぞ」
けれど今の俺には、その情報だけが頼りだった。
「その事件に関わってもないお前が、なぜ今頃、岡本さんの行方を聞くんだ」
伯父なら菅野が岡本晴斗の恋人だったと知っているだろうが、菅野がその事件をまだ強く引き摺っていることを話すわけにはいかなかった。かと言ってそれらしい理由も思いつかない。下手に理由をつけずに「変に惑わすようなことはしないから心配するな」とだけ残した。伯父はそれ以上詮索してこなかった。
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「何を見た」
「……捜査の一環で」
「ふざけるなよ。あれはとっくに解決してるんだ。そんなもん見る暇があったら、今片付けなきゃならない事件の捜査をしろ」
「菅野さんの中では未解決事件です」
菅野は顔をしかめて俺を睨んだ。人目を気にしたのか屋上に連れて行かれる。先にベンチに腰掛けた菅野が隣をパンパンと叩いて「座れ」と命令した。ひとり分の間隔を空けて、従う。目を合わせようとしない俺のあからさまな態度に、菅野は対応を変えてきた。声と表情から険が消えた。
「気を悪くさせたのは分かってる」
「別に謝って頂くほどのことじゃありません。俺が教えてくれって頼んだんですから。それに……」
――目の前で大事な人が死んでた時の気持ちなんか、分かんねぇだろ――
「俺も、菅野さんに暴言吐きましたから」
菅野は「どんな」と、素で聞いてくる。あえて蒸し返したくもなかったので「覚えてないなら、いいです」と終わらせた。
「野田を抱くきっかけは確かに憎しみを紛らわせるためだった。でも、お前にはちゃんとした情がある。お前に対する純粋な情と、あの男に対する憎悪で板挟みになってる中でお前を抱いたら、憎悪は消えると思ったんだ」
「……こじつけですよ。もういいです」
「お前には誤解されたくない」
「誤解も何も……、菅野さんはただ過去から解放されたいがために、俺を利用しただけです。そして結局、何も変わらなかった。俺への情が犯人への憎悪に勝ることもない。それが事実なんです」
「利用したのは悪かった。だけど俺はちゃんとお前自身を抱いてきたし、抱きたいと思ったんだよ。何も変わらないなんて、なんでお前が言い切れるんだ」
「菅野さんは俺に情があると言ったけど、菅野さんが俺を見る目はいつもどこか冷たい。前から不思議だった。なんで俺にだけ、そんな眼をするんだって。そしてあの時、殺意を込めて俺の首を絞めた。何も変わってない証拠でしょう。……そんな眼差しを向けられる俺の身にもなって欲しい」
「……悪かった」
「もういいんです。そんな謝ってばかりの菅野さんは気味が悪い」
「だったら、どうしろってんだ」
「……休暇をください。一週間」
いまだ菅野をまともに見られないが、怪訝な顔をして俺を見る菅野が視界の隅に映った。
「なんのために」
「やりたいことがあるんです」
「何を」
「そこまで言う必要がありますか。休暇中は一切、連絡をしてこないで下さい」
「緊急の事件が入ってもか」
「行けませんから」
「言い切るんだな。後輩にポストを取られるかもしれんぞ」
「それならそれで構わない」
「まさか、辞める気じゃないだろうな」
俺はいったん、そこで黙った。肯定したと判断した菅野は頭を掻きながら大きな溜息をつく。
「野田、頼むから勢いで行動するのだけはやめろ」
「勢いじゃありません。前にも刑事を辞めたいと思ったことがあります。たぶん、俺は辞めても後悔はしない。とにかく何を言われても、一週間は休ませてもらいますから。署長の承認を得てすぐにでも」
立ち上がると同時に、手首を握られた。
「俺から離れるのか」
「……離れる……わけじゃ、ない……」
手首から伝わる菅野の体温と、普段の菅野からは想像もできないほど困憊した姿に、心臓が痛くなる。鼓動が追いかけてくる。涙が出そうになる。
――なんで? こいつを苦しめてるのが俺だから?
手首を握っている菅野の手を振り払ったら、あっさりほどけた。気管支がギュッと締まる痛みを覚えながら、俺はベンチに菅野を残して仕事に戻った。
俺は菅野が嫌いだ。
愛想が悪くて、口が悪くて、不器用で、強引で自己中心的。
いきなり人の領域に土足で入り込んできて、掻き乱すだけ掻き乱して、とんでもない爆弾を落としていく。荒らされた人の気持ちも知らずに。
だから俺は、菅野が嫌いだ。
***
やりたいことがある、というのは、咄嗟の思い付きだった。単に休暇を取って菅野と会いたくなかっただけだ。ただ、咄嗟だったとはいえ一度思い立ったらそれを仕事にしなければならないような気がして、俺は休暇に入るなりすぐに行動に移した。
早朝に起きて最低限の必需品をボストンバッグに詰め込み、俺はある場所へ向かった。岡本晴斗……菅野の恋人の家族が住んでいる京都である。もともと高知に住んでいた岡本家は、事件後に周囲から注目を浴びて、居心地が悪くなったために父方の故郷である京都に越したという。
この情報は伯父からだ。京都に向かう前、事件のことを菅野から聞いたと報告したうえで、被害者家族の行方を知らないかと伯父に訊ねた。伯父は当時の菅野から信頼を得た人物だ。もしかしたら岡本晴斗の家族も伯父には気を許していたかもしれない。もしそうなら伯父にくらいは行き先を知らせているのではと考えたのだ。そしてその予想が当たったのである。精神的に苦痛を負った家族に色々と手助けしたのも、伯父だったらしい。
「岡本さんの行方か? 住所までは知らないが、京都の下鴨に越すと言っていたぞ。父親の里らしい。ただ、十五年前の話だから今も京都にいるとは限らないぞ」
けれど今の俺には、その情報だけが頼りだった。
「その事件に関わってもないお前が、なぜ今頃、岡本さんの行方を聞くんだ」
伯父なら菅野が岡本晴斗の恋人だったと知っているだろうが、菅野がその事件をまだ強く引き摺っていることを話すわけにはいかなかった。かと言ってそれらしい理由も思いつかない。下手に理由をつけずに「変に惑わすようなことはしないから心配するな」とだけ残した。伯父はそれ以上詮索してこなかった。
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- Posted in: ★GUILTY‐ギルティ‐
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