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菅野の過去5

 ***

 あれから菅野とセックスをしていない。体を合わせることがなくなると、欲求不満が溜まるからなのか心に隙間風が吹き込むような虚しさがあった。いよいよ冬を迎えて人肌恋しい時季になった所為もあるかもしれない。
 悔しいことに、体はもはや菅野の感触を覚えてしまっていて、もどかしい夜は菅野の体や、手や、仕草を思い出してはひとり飢えた自身を慰める羽目になった。
 なんてことだよ。自分でするなら材料はなんでもいいじゃないか。わざわざ嫌いな奴を思い出してするなんて、そんな馬鹿で惨めで情けない話があるだろうか。
 そしてそんな後ろめたさを抱えながら、またあの逞しい体に抱かれている時のことを思い出して夜を過ごした翌日、菅野に呼ばれた。

 その日、仕事が終わって連れて行かれた場所は、菅野の部屋だった。いつもは近場のホテルで済ませるものを、なぜここにきて自宅なのか、俺はその行動が不自然に思えてならなかった。
 菅野は街中のマンションに住んでいる。しかも分譲だ。両親は隣町で暮らしていると言う。2LDKのひとりで住むには広すぎる部屋。案の定、物が少なくてデッドスペースが多い。が、その分ソファやテーブルなど、ひとつひとつの家具が大きくて、黒を基調にしているので、すっきりしているわりに重厚感がある。部屋というのはそこに住む人間の性質が表れる。祐之介の部屋を訪れた時に感じたことを思い出した。

「その辺に座れ」

 その辺と言われても、と、気兼ねしながら真っ黒な革のソファに腰掛けた。冷たい。

「何か飲むか。酒もあるぞ」

「いえ、おかまいなく」

 そう言うのにも関わらず、菅野はワイングラスと白ワインを持ってきて、ローテーブルに置いた。いつものようにホテルに入ったのであれば、そんな一服などせずに素っ裸になっているだろうに、このもてなしが不気味すぎる。
 というより、俺は正直言って早くしたかった。ひとりでしていたとはいえ、妄想とセックスはやっぱり違う。実際にその感触を、確かめたかった。菅野の喉仏や、ワインを注ぐ手の甲に見入って、生唾を飲んだ。それを気付かれたのか、菅野がふいにこちらを見て視線が絡むと、ワイングラスを倒したことにも構わず、抱き締められた。力強い腕。骨が折れそうだ。苦しい。煙草の匂い。――だけど、この胸の高鳴りはなんだろう。よっぽど溜まっているのか。俺は自然に瞼を閉じ、菅野の背中に控えめに手を回した。触れるだけの、今まで一度もしたことのない、優しいキス。菅野は腕の力を弱めると、キスをしながら頬を撫で、髪を撫で、胸を撫でた。

 ――なんだ、これ。

 真っ先に抱いたのは違和感ばかり。優しすぎる。そして咄嗟に思った。

 ――誤魔化そうとしている……?

 俺は菅野の両肩を、思いきり押して突き放した。

「……どうした」

「ご、誤魔化さないで下さい」

「何をだ」

「このあいだのこと……誤魔化そうとしないで下さい」

「誤魔化してなんかない」

「なかったことにしようとしてる」

「……あれは、間違いだったんだ。驚かせて悪かったと思ってる」

「間違いじゃない。菅野さんは、『俺の』首を絞めた」

「だから、悪かっ……」

「そんなのが聞きたいんじゃない。どうしてあの時、突然理性を失くしたんですか」

「俺自身の問題だ。野田には関係ない」

「でも恋人を殺されたことと何か関係がある」

 菅野は目を見開いて、俺を凝視した。

「すみません、マスターに聞いたんです。恋人を殺されて、その犯人は自殺した……。菅野さん……お願いします。教えて下さい」

 菅野が怖い。また首を絞められるんじゃないだろうか。殴られるんじゃないだろうか。またあの眼で睨まれるんじゃないだろうか。恐怖で俺の拳と声は、震えていた。だけど目を逸らすわけにはいかなかった。暫く黙り込んでいた菅野はゆらりと立ち上がり、俺の隣に腰を下ろした。そして、静かに、口を開いた。

「お前のその顔……」

「顔?」

「……お前は……野田は、あいつを殺した男に似てるんだ」

「……詳しく教えてもらえませんか」

 菅野はうなだれたまま沈黙し、思い出したように倒れたワイングラスを置き直した。大きく息を吐き、話し始めた。

「あいつ……晴斗とは十八の時に知り合った。俺は感情をあんまり口にしねぇから、誰かと付き合っても誤解されることが多くて長く続いたことがない。来るもの拒まず去る者追わずだからよ、ひとりの人間にそんなに執着することもなかった。どうも俺は人を寄せ付けない空気があるらしくてね。目が合うだけでビビられたもんだよ。別にこっちはそんなつもりねーのに、勝手に怖がられることもあった。……だけど、晴斗は、そういう俺を全部分かってくれる奴だった。怖がるところか人懐こくて、いつも一緒にいた」

 いつも、一緒にいたんだ、と繰り返した。

「たぶん、あんなに誰かといたことはない。付き合いの長い大塚よりもだ。誰かの一挙一動に一喜一憂したことなんかなかった。らしくねぇな、って馬鹿みたいだったけど、そんな馬鹿みたいな自分も悪くないと思った」

「……本当に好きだったんですね」

「ああ、好きだった」

 心臓がズキン、と痛くて重くなった。

「二年の時だ。晴斗の態度がよそよそしくなって、約束をすっぽかしたり、嘘をつくようになった。どういうことだって詰め寄ったら、あいつ、知り合いが開いた飲み会にいた奴と浮気してやがってよ。一夜限りならまだしも、その後も続いてたらしい。……俺も相当、キレたね」

 自分を卑下するかのように、ハッ、と乾いた笑いを洩らした。おもむろにワインを注ぎ、「飲め」と勧められる。

「お前は?」

「え?」

「そういう相手と付き合ったことがあるのか?」

「……ないです。実を言うと、俺も誰かに執着できるほど好きになったことがないんです」

 自分で言っておきながら、虚しい話だと思った。これまで生きてきて、まともに人を好きになったことがないなんて、なんて愚昧なんだろう。

「お前はまだ若い」

「もう二十九です」

「まだ二十九だ」

 菅野は恋人の話を続けた。

「今まで晴斗と喧嘩なんかしたことなかったけど、その時はさすがに喧嘩して、暫く口も聞かなかった。喧嘩っつーか、俺が一方的にキレただけだけど。ガキっぽいだろ?」

「……まあ、まだハタチの頃の話ですから」

 菅野はクッと噴き出すと、俺の髪をがしがし搔きながら「クソガキ」「生意気」と罵った。けれど表情はどこか穏やかだった。

「そろそろ許してやるかって頃だよ。大学に来ない、連絡も取れない。もしかして浮気相手んとこに行ったんじゃねぇかと思いながら、家に行ったんだ。数週間ぶりに。……そしたら、死んでた。――つーか、腐ってた」

「……」

「お前ももう知ってるだろ。腐った人間がどんなひどい状態か。ただでさえ死体なんか見たこともなかったんだ。最初、何が倒れてんのか分からなかった。ひでぇニオイだし。近付いてみて、そいつが晴斗だと分かると、もう吐きまくったし、何がなんだか考えられなくてよ。警察に通報したのは、見つけてから三十分経ってからだ。……刑事ってのは、デリカシーのかけらもねぇよな。自分も今となっては同じことやってるけど、ショック受けてる人間から根掘り葉掘り、脅迫まがいなことして聴取してよ。こいつら人間かよって疑ったね」

 俺は少し前まで菅野に対して同じことを思っていた。でも菅野はおそらく、刑事というのはそうやって非難されて嫌われるものなのだと覚悟してやっている。自分も嫌な想いをしたのに、それでもこいつは刑事になった。その精神力の強さには感服するし、俺自身、刑事でありながら菅野を非難する人間のひとりであったことを済まなくも思った。

「現場には、ベテランと新米と合わせて五、六人は来たと思う。そのベテランのひとりは山下部長だ。当時は課長補佐だったかな」

 俺の伯父である。伯父は若い頃は所轄の刑事課で、本部に栄転してからも刑事部の鑑識課で腕のある鑑識員として一目置かれていたらしく、大きな事件は筆頭に臨検したと聞いた。

「あの人は、いい人だった。気遣ってくれるし、現場でもキビキビしててスゲー頼りになるなって思った。……そのうちの新米刑事は、当たり前だけどてんで駄目な奴だった。晴斗を見るなりゲロゲロ吐いて、しまいにゃ貧血になってぶっ倒れたよ。その前に散々吐いた俺が言うのもなんだけど、やっぱり他人が自分の身内の死体見てそうやって動揺するのは気分が良くなかった。同じ刑事からすりゃ新米なんだから仕方ないって大目に見れるけど、新米だろうがベテランだろうが素人にしちゃ刑事は刑事なんだ。そこは被害者や遺族を思いやるべきだと俺は思うね」

 俺が初めて行った現場で菅野が冷たく突き放したのは、そういう理由なのかとようやく理解した。確かにあの時、ただ気分が悪いとか、初めてしちゃ頑張ったとか、俺は自分のことしか頭になかった。その姿をどう思われるかなんて考えもしなかった。今更ながらとんだ失態だ。けれど同時に、その意図を上手く伝えられない菅野の不器用さも窺えた。
 菅野の声をトーンが変わり、目付きが冷ややかになるのを感じた。

「そして、その中にいた刑事のひとりが、晴斗を殺した奴だ」

「――……」

「よく現場にのこのこ来れたもんだよ。自分が殺しておいて悪びれもせずに、俺を気遣う言葉を掛けながら、ほくそ笑んでやがる」

「犯人がその刑事だって、いつ分かったんですか」

「事情聴取が終わって家に帰ったあとだよ。家にその男がわざわざ言いに来やがった」

 ――さっきはどうも。晴斗の恋人の菅野くん。いや、『康介』。
   いつもそうやって呼ばれていたんだろう?
   彼は本当に、可愛いね。あんなに美しい人を見たことがない。
   君がいつも彼を独り占めしていたのか。狡い男だ。
   ただね、彼はもう、僕のものなんだよ。
   晴斗の体に僕の印をたっぷりつけておいた。
   彼は本当に、いい声で啼くよね。たまらないよ。
   だから、彼を永遠に僕のものにしたくて、僕が手を掛けた。
   ああ、勘違いするなよ。
   晴斗は自分で殺してくれと頼んできたんだからね。
   悪いね、晴斗は僕のものだ。――

「そいつが晴斗の浮気相手で、晴斗を殺した犯人だった。……なんも言葉が出てこなかった」

「勿論、他の刑事に話したんでしょ?」

「当たり前だ。でもその時点では確実な証拠がなかったもんで信じてもらえなかった。むしろ、俺が犯人と思われたくなくてデマ言ってると思われたね。けど、山下部長は重要な証言として信じてくれたよ。晴斗の体に付着した精液をDNA鑑定に出しているから待っていろと言ってくれた。だけど突然姿をくらました男は、山奥で自殺した。最初からそのつもりだったんだろう。無責任にもほどがある。勝手に死にやがって」

 そんな、男に……俺は、

「……似てるんですか……」

「今までも、あの男に似た奴を見ると頭に血が昇って殺したい衝動に駆られた。でもあの男はもう死んでる。それでなんとか自分を抑えてこれたんだ。……お前は自分より身長のある人間を見上げる時、顎をちょっとだけ引いて上目で睨むようにするんだけど、その時の表情がそっくりだ。初めてお前を見た時、あの男が戻って来たのかと思った」

 時々見せる、俺を睨むあの眼は、俺を通して犯人を見ていたということか。

「あの、現行犯で捕まえた男も、似てた……?」

 確かに、俺と同じくらいの背格好だったとは思う。菅野は頷いた。

「お前があの男じゃないことくらい理解してる。一緒に仕事していくうちにお前が真面目で誠実な奴だってのは、すぐ分かった。お前は……野田は、いい奴だ。いい部下であり、相棒でもある」

 無鉄砲さにハラハラさせられたり、
 いちいち歯向かってくるのは腹も立つけど面白かった。
 俺と違って感情表現が豊かなお前を、可愛い奴だと思ったよ。
 だけど時々、ふとした瞬間に、お前があの男に見えて憎悪が湧く。
 あの日の状況をありありと思い出して気分が悪くなることもあったんだ。
 違う、野田はあいつじゃない。だけど憎い。
 どうにかして苦しみから逃れたい。
 恨みを晴らしたい。

「……思い詰めた結果、お前を滅茶苦茶にしたら、もしかしたら憎しみは消えるんじゃねぇかと思ったんだ」

「だから俺を抱いたんですか。とんだ逆恨みだ」

「罵ってくれていい。悪かった、本当に。……すまん」

 やっぱりこいつは自分勝手で思いやりのない最低な男だ。本当にいい迷惑だ。勝手に殺人者とダブらされて、身に覚えのない恨みを晴らすために、いいように体を弄ばれた。こんなことなら「生意気な部下を懲らしめるため」と言われたほうがマシだった。

「今までのことは全部、……憎しみを紛らわすためだけに……?」

 こんな無様な話があるか。菅野に抱かれて喘ぎまくっている俺を、こいつはどういう風に見ていたんだ? 恥ずかしくて悔しくて腹が立って、開いた口が塞がらない。菅野は黙り込んでいる。

「なんで黙ってるんですか……」

「分からないんだ」

「分からないって!? 犯人が憎くて、犯人に似てる俺が憎くて、だけどどうすることもできないからヤるしかなかったんでしょ!? 何度も何度も!」

「……」

「だけど抱いたからって、結局憎しみが消えることはなかった」

「……違う」

「違わないでしょ。菅野さんにヤられて悦んでるその男は、さぞかし滑稽だったでしょう」

「違う」

「最初から菅野さんは、俺のことなんか見てなかった。俺を通して犯人を見てただけだ。……俺は、俺自身は、何もしてないのに」

 いつも楯突くと返り討ちにあうのに、菅野は頭を抱えたまま俺の悪態を受け入れている。「いい加減にしろ」とか「馬鹿なことを言うな」とか、殴られてもいいから力強く否定してほしい。やがて菅野は、消え入りそうな声で振り絞った。

「……やめてくれ……」

 ――肯定しやがった。

「……だったら、いっそ俺を殺したらどうですか。おそらくそれが一番手っ取り早い」

 すると菅野は俺の両手首を掴んで、ソファに押し倒した。
 充血した目でまっすぐ俺を見下ろしている。うっ血するほどの力で手首を握られているのに、ミシミシと骨が音を立てているのに、痛みを感じない。菅野の視線のほうがよっぽど痛い。その目は誰を見ているのだろうと、もはや何もかもが疑わしい。

「俺に一生苦しめって言うのか」

「どっちにしろ俺が菅野さんの近くにいる限り、菅野さんは苦しみ続ける。……そんなの俺だって……」

 一瞬だけ菅野の力が弱まり、俺はその隙に手首を振り払って菅野の下から逃れた。荷物を取って、玄関へ向かう。一度だけ菅野に振り返った。力なくソファにもたれかかっている。この期に及んで、いつかのバーの帰りみたいに引き止められることでも期待したのか、そんな気配を見せない菅野の姿に益々、苛立ちと虚しさが残った。

 菅野の気持ちは、分からなくはない。もし俺が菅野と同じ立場になったら、たとえ筋違いでもどうにかして恨みやトラウマから解放される術を探すだろう。

 どうして俺はこんなにショックを受けているのだ。もともと体だけの関係だったはずだ。菅野が俺をどう思おうが、身代わりだろうが不条理だろうが、性欲が満たされればそれでいいんじゃないのか。菅野の過去にひどく傷付いている俺はおかしい。イカれてる。それでも思わずにはいられない。

「殺された恋人に似ている」ならまだしも、「恋人を殺した男に似ている」って、なんだよ。


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