菅野の過去2【R】
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特にこれといった事件もなく、溜まった書類仕事をせっせと片付けている時だった。出先から戻って来た菅野に、男が泣きながらすがりついている。菅野が逮捕でもして引っ張ってきたのかと思ったが、よくよく会話を聞いていると、男は揉め事に巻き込まれただけで、菅野に助けを求めに来たらしかった。
「うっ、うっ、菅野さん、俺、どうしたらいいんでしょうか」
「落ち着け。今から正直に全部話せば、お前はパクられずに済むからよ」
男を諭している菅野をパソコンの陰から見ていた。どこかダルそうな、面倒臭そうな、でもちゃんと男の話を聞いてやっては、時折冗談を交えつつ笑っている。子どものような笑顔につい見入ってしまった。
「あの人、ちょいちょい菅野さんに会いに来るんだよねぇ」
俺のすぐ後ろで言う大沢さん。全然気配を感じなかったので、肩が跳ねた。
「前科者?」
「窃盗でね。ちょくちょく来るのはああやって人生相談に。なんか悪いことしそうになったら、菅野さんに相談しに来るらしいよ」
「ふーん」
「知ってる? 菅野さんの電話帳、半分以上は菅野さんが検挙した奴らなの」
「そうなんですか? 友達にでもなってんすか」
「んー、なんか慕われちゃうみたいよ」
「俺、前に菅野さんが強盗の取り調べしてんの見たことあるけど、すごかったですよ。机蹴るわ、怒鳴るわ、胸ぐら掴むわ。よく訴えられなかったなと思いますよ。それなのに慕われるんですか」
「被疑者によるでしょ。それで冕罪事件作ってたらそりゃあ問題だけどさ。菅野さんだってそのくらい分かってるよ」
「……」
「その点、僕はきっと万年係長だわ」
と、大沢さんは溜息をつきながらデスクへ戻った。
菅野の笑い声が聞こえたので再びそちらに目を向けた。仕事に打ち込む振りをしながら、パソコンの画面と交互に菅野の姿を目で追う自分がいる。
あれだけ体を重ねても、菅野のことを一番知らないのは自分かもしれない。あいつが屈託なく笑う顔を、俺は今まで見たことがない。単に俺が知らないだけなのか、俺に見せることがないだけなのか。
俺に見せるのは、いつだってどこか冷めた表情だ。笑っても、あくまで嘲笑。かつてよく見た、あの蔑んだ眼は最近向けられないが、あの眼は一体なんなのか、今でも気になって仕方がない。あれは苦手だ。いつ、またあの眼が向けられるのかと心の中では怯えている。
――嫌い……、というより、怖い。
得体が知れない、目的が分からない、真意が見えない。きっと今、菅野と話をしている男よりも、俺は菅野を知らない。
「野田さん、昼、外行きます? 僕も行っていいですか?」
「ああ、いいよ。もう出る?」
「じゃ、ちょっとトイレ行ってくんで、出口で待っててもらえますか」
署の近くの牛丼屋を目指して出口に向かっていたら、背後から誰かが走ってきて俺の後襟を引っ張った。
「うっ……! か、菅野さ……」
菅野は短く「シッ」と人差し指を立てる。襟を掴まれたままトイレの個室に連れ込まれた。扉が閉まると同時に、ふたつ隣の個室から島村が出たらしかった。島村の下手くそな鼻歌と、水道の音を聞きながら、キスをされている。息ができないほど密着されて、俺は逃れようと必死で抵抗した。肩を押しても胸を叩いても、俺の背中に手を回している菅野は力を弱めようとしない。糸を引きながら唇を離すと、俺は大きく空気を吸った。
「ちょっと……っ、ここ職場……」
「黙れ。聞こえるぞ」
カチャカチャとベルトを外され、スラックスを膝まで下ろすと、菅野は俺の僅かに反応しているそれを揉み始めた。
「ぁ……っ、待っ……、何、考えて……」
「お前が、物欲しそうな顔で見てくっから」
パソコンの陰から菅野を見ていた時のことだ。気付かれるほど、俺は見ていたのか?
「主人を取られて寂しかったか」
「違……」
そんな顔をした覚えはない。覚えはないが、言われてそうかもしれないと思ってしまった。菅野も少しずらしたスラックスから凶器を出し、俺のものと重ねて手を上下に揺らす。
「これが好きなんだろ」
「や、……やめて……ッ、あっ……」
「今は声、抑えろよ」
――なら、するな!
心の中で叫んだその時、
「野田さーん、もしかしてトイレですか?」
島村が戻ってきやがった。今、声を出したら裏返る自信がある。
――どうしよう、こっちに来るな、俺を、探すな。
「野田さん、います?」
「俺だ」
返事をしたのは菅野だった。汗をかいて、息を切らせているのに、声色はいつもとひとつも変わらない。
「あ、菅野さんでしたか」
「てめぇ島村。気遣いがなってねぇだろ。俺ぁ今、クソしてんだからさっさと行けよ」
ガラガラとわざとらしくトイレットペーパーを回す。
「ははっ、それは失礼しました。野田さん見かけたら、先に行ってますって伝えてもらえませんか」
「了解」
島村が立ち去ると、菅野の手には力が籠もり、更にこんな場所に相応しくない音が、やたら響いた。
「スリルがあって興奮するな」
「あ……ぁ……、ん、も、だめ」
シャツの上から胸を撫でられる。不意打ちに大きな声を上げそうになり、それを察した菅野がキスして塞いだ。
――涙が出る。快感と、屈辱と、わけ分かんなさに、涙が出る。
強引さと横暴さに腹が立つ。腹が立つのに凌辱されて悦ぶ自分が理解不能。
菅野が怖い。あの眼が怖い。その力強い手と、でかい体が怖い。そして何が一番怖いかって、
「ん、ん……っ、イキそ……っ」
「ああ、イケよ」
先ほど千切ったトイレットペーパーを、菅野は素早く宛がう。タイミングよくその中に熱を放った。……紙がなかったら、大変なことになっていただろう。
ハアハアと肩を揺らしながら、菅野の胸に額を当てた。
「足りねぇな。全然、足りねぇ。……今日、車で待ってろよ」
俺は迷うことなく、頷いた。額に菅野の鼓動が伝わる。たぶん、俺はそれよりもずっと激しく波を打っている。
――何が一番怖いかって、菅野といると動悸がして苦しくなるのが、怖い。
―――
ある夜、家に帰ったら居間でひとり晩酌をしている伯父の姿があった。どうも俺の親父と急に酒を飲みたくなってアポイントもなく寄ってみたのだが、親父は仕事で都合がつかなかったらしく無駄足になったとのことだ。仕事一筋でやってきた伯父は一度も結婚したことがない。この年齢ではもはや伴侶は見つからないだろうと諦めている。伯父の人生に口を挟むつもりなど一切ないが、広い居間で背中を丸くしてビールを注ぐ後姿はなんとも哀れで、いつもこうしてひとりで酒を飲むのかと思うと他人事には思えず、俺は親父の代わりになることにした。
他愛ない世間話や仕事の話。職業が同じだから通じるものがあるのか、伯父とは話がしやすい。同じ小言でも両親から言われるより、伯父に言われるほうが素直に聞ける。他人より近くて親より遠い存在。もしかしたら伯父になら俺が同性愛者であることを話せるかもしれないと、酒の力を借りて打ち明けようかと思ったが、結局言い出せなかった。
「相変わらず、菅野くんとは仲が悪いのか?」
まさかセックスしているとは言えまい。最近はあまり一緒に現場に行くことがないからそうでもないと、遠回しに関わりがないことを匂わせておいた。
「大きくなったよなぁ、彼も」
まるで大昔から菅野を知っているような口ぶりだったので、どういうことかと訊ねたら、伯父は「どうしようかなぁ」とブツブツ勿体ぶりながらも話し出した。
「十五年前、僕が本部の課長補佐だった頃かな。十五年前だから菅野くんは……」
「……ハタチ」
「そう、それくらいだね。今よりもまだ線が細くて、初々しい青年だった。覚えてるか、十五年前、この辺りであった……」
その時、伯父の携帯電話が鳴った。話し方から仕事関係の電話だと分かる。数分ほどして電話を切った伯父は「すまん、急用だ」と言って、立ち上がった。
「え? さっきの話は?」
「やはり僕の口からじゃなく、菅野くん本人から聞け」
そう言って居間を出た伯父は完全に仕事モードに切り替わっていて、先ほどまでの気抜けた空気はどこかへ消えていた。
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特にこれといった事件もなく、溜まった書類仕事をせっせと片付けている時だった。出先から戻って来た菅野に、男が泣きながらすがりついている。菅野が逮捕でもして引っ張ってきたのかと思ったが、よくよく会話を聞いていると、男は揉め事に巻き込まれただけで、菅野に助けを求めに来たらしかった。
「うっ、うっ、菅野さん、俺、どうしたらいいんでしょうか」
「落ち着け。今から正直に全部話せば、お前はパクられずに済むからよ」
男を諭している菅野をパソコンの陰から見ていた。どこかダルそうな、面倒臭そうな、でもちゃんと男の話を聞いてやっては、時折冗談を交えつつ笑っている。子どものような笑顔につい見入ってしまった。
「あの人、ちょいちょい菅野さんに会いに来るんだよねぇ」
俺のすぐ後ろで言う大沢さん。全然気配を感じなかったので、肩が跳ねた。
「前科者?」
「窃盗でね。ちょくちょく来るのはああやって人生相談に。なんか悪いことしそうになったら、菅野さんに相談しに来るらしいよ」
「ふーん」
「知ってる? 菅野さんの電話帳、半分以上は菅野さんが検挙した奴らなの」
「そうなんですか? 友達にでもなってんすか」
「んー、なんか慕われちゃうみたいよ」
「俺、前に菅野さんが強盗の取り調べしてんの見たことあるけど、すごかったですよ。机蹴るわ、怒鳴るわ、胸ぐら掴むわ。よく訴えられなかったなと思いますよ。それなのに慕われるんですか」
「被疑者によるでしょ。それで冕罪事件作ってたらそりゃあ問題だけどさ。菅野さんだってそのくらい分かってるよ」
「……」
「その点、僕はきっと万年係長だわ」
と、大沢さんは溜息をつきながらデスクへ戻った。
菅野の笑い声が聞こえたので再びそちらに目を向けた。仕事に打ち込む振りをしながら、パソコンの画面と交互に菅野の姿を目で追う自分がいる。
あれだけ体を重ねても、菅野のことを一番知らないのは自分かもしれない。あいつが屈託なく笑う顔を、俺は今まで見たことがない。単に俺が知らないだけなのか、俺に見せることがないだけなのか。
俺に見せるのは、いつだってどこか冷めた表情だ。笑っても、あくまで嘲笑。かつてよく見た、あの蔑んだ眼は最近向けられないが、あの眼は一体なんなのか、今でも気になって仕方がない。あれは苦手だ。いつ、またあの眼が向けられるのかと心の中では怯えている。
――嫌い……、というより、怖い。
得体が知れない、目的が分からない、真意が見えない。きっと今、菅野と話をしている男よりも、俺は菅野を知らない。
「野田さん、昼、外行きます? 僕も行っていいですか?」
「ああ、いいよ。もう出る?」
「じゃ、ちょっとトイレ行ってくんで、出口で待っててもらえますか」
署の近くの牛丼屋を目指して出口に向かっていたら、背後から誰かが走ってきて俺の後襟を引っ張った。
「うっ……! か、菅野さ……」
菅野は短く「シッ」と人差し指を立てる。襟を掴まれたままトイレの個室に連れ込まれた。扉が閉まると同時に、ふたつ隣の個室から島村が出たらしかった。島村の下手くそな鼻歌と、水道の音を聞きながら、キスをされている。息ができないほど密着されて、俺は逃れようと必死で抵抗した。肩を押しても胸を叩いても、俺の背中に手を回している菅野は力を弱めようとしない。糸を引きながら唇を離すと、俺は大きく空気を吸った。
「ちょっと……っ、ここ職場……」
「黙れ。聞こえるぞ」
カチャカチャとベルトを外され、スラックスを膝まで下ろすと、菅野は俺の僅かに反応しているそれを揉み始めた。
「ぁ……っ、待っ……、何、考えて……」
「お前が、物欲しそうな顔で見てくっから」
パソコンの陰から菅野を見ていた時のことだ。気付かれるほど、俺は見ていたのか?
「主人を取られて寂しかったか」
「違……」
そんな顔をした覚えはない。覚えはないが、言われてそうかもしれないと思ってしまった。菅野も少しずらしたスラックスから凶器を出し、俺のものと重ねて手を上下に揺らす。
「これが好きなんだろ」
「や、……やめて……ッ、あっ……」
「今は声、抑えろよ」
――なら、するな!
心の中で叫んだその時、
「野田さーん、もしかしてトイレですか?」
島村が戻ってきやがった。今、声を出したら裏返る自信がある。
――どうしよう、こっちに来るな、俺を、探すな。
「野田さん、います?」
「俺だ」
返事をしたのは菅野だった。汗をかいて、息を切らせているのに、声色はいつもとひとつも変わらない。
「あ、菅野さんでしたか」
「てめぇ島村。気遣いがなってねぇだろ。俺ぁ今、クソしてんだからさっさと行けよ」
ガラガラとわざとらしくトイレットペーパーを回す。
「ははっ、それは失礼しました。野田さん見かけたら、先に行ってますって伝えてもらえませんか」
「了解」
島村が立ち去ると、菅野の手には力が籠もり、更にこんな場所に相応しくない音が、やたら響いた。
「スリルがあって興奮するな」
「あ……ぁ……、ん、も、だめ」
シャツの上から胸を撫でられる。不意打ちに大きな声を上げそうになり、それを察した菅野がキスして塞いだ。
――涙が出る。快感と、屈辱と、わけ分かんなさに、涙が出る。
強引さと横暴さに腹が立つ。腹が立つのに凌辱されて悦ぶ自分が理解不能。
菅野が怖い。あの眼が怖い。その力強い手と、でかい体が怖い。そして何が一番怖いかって、
「ん、ん……っ、イキそ……っ」
「ああ、イケよ」
先ほど千切ったトイレットペーパーを、菅野は素早く宛がう。タイミングよくその中に熱を放った。……紙がなかったら、大変なことになっていただろう。
ハアハアと肩を揺らしながら、菅野の胸に額を当てた。
「足りねぇな。全然、足りねぇ。……今日、車で待ってろよ」
俺は迷うことなく、頷いた。額に菅野の鼓動が伝わる。たぶん、俺はそれよりもずっと激しく波を打っている。
――何が一番怖いかって、菅野といると動悸がして苦しくなるのが、怖い。
―――
ある夜、家に帰ったら居間でひとり晩酌をしている伯父の姿があった。どうも俺の親父と急に酒を飲みたくなってアポイントもなく寄ってみたのだが、親父は仕事で都合がつかなかったらしく無駄足になったとのことだ。仕事一筋でやってきた伯父は一度も結婚したことがない。この年齢ではもはや伴侶は見つからないだろうと諦めている。伯父の人生に口を挟むつもりなど一切ないが、広い居間で背中を丸くしてビールを注ぐ後姿はなんとも哀れで、いつもこうしてひとりで酒を飲むのかと思うと他人事には思えず、俺は親父の代わりになることにした。
他愛ない世間話や仕事の話。職業が同じだから通じるものがあるのか、伯父とは話がしやすい。同じ小言でも両親から言われるより、伯父に言われるほうが素直に聞ける。他人より近くて親より遠い存在。もしかしたら伯父になら俺が同性愛者であることを話せるかもしれないと、酒の力を借りて打ち明けようかと思ったが、結局言い出せなかった。
「相変わらず、菅野くんとは仲が悪いのか?」
まさかセックスしているとは言えまい。最近はあまり一緒に現場に行くことがないからそうでもないと、遠回しに関わりがないことを匂わせておいた。
「大きくなったよなぁ、彼も」
まるで大昔から菅野を知っているような口ぶりだったので、どういうことかと訊ねたら、伯父は「どうしようかなぁ」とブツブツ勿体ぶりながらも話し出した。
「十五年前、僕が本部の課長補佐だった頃かな。十五年前だから菅野くんは……」
「……ハタチ」
「そう、それくらいだね。今よりもまだ線が細くて、初々しい青年だった。覚えてるか、十五年前、この辺りであった……」
その時、伯父の携帯電話が鳴った。話し方から仕事関係の電話だと分かる。数分ほどして電話を切った伯父は「すまん、急用だ」と言って、立ち上がった。
「え? さっきの話は?」
「やはり僕の口からじゃなく、菅野くん本人から聞け」
そう言って居間を出た伯父は完全に仕事モードに切り替わっていて、先ほどまでの気抜けた空気はどこかへ消えていた。
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- Posted in: ★GUILTY‐ギルティ‐
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