プッシーキャット1
午前十一時。主婦が買い物で家を空けることが多いこの時間帯を狙って住居に侵入する連続空き巣犯を確保すべく、被疑者の自宅付近で島村と車で待機している。被疑者には窃盗の他に暴行、傷害罪の容疑もある小悪党。現場経験の少ない島村は不安と緊張からかガチガチに固まっている。
「おい、大丈夫かよ」
「こういう張り込みとかって憧れてたけど、実際やると緊張しますネ……」
さっきからペットボトルの水を三十秒に一回は口に含んでいる気がする。
「肝心な時に漏らすなよ」
「その可能性は無きにしも非ず」
「なんで一係に来たんだよ。総務行け、総務」
「そんな冷たいこと言わないで下さいよ。こう見えても闘志でみなぎってますから!」
「あーそう。そりゃ最後まで任務をまっとうしてくれ」
腕時計を見る。そろそろ被疑者が現れる頃かと窓を少しだけ開けた。遠くで独特のエンジン音が聞こえたので、降りる準備をする。
「手錠ちゃんと持ってる? お前が掛けろよ」
「え? 来ました?」
「車の音が聞こえたから」
「野田さん、耳いいッスね」
駐車場に被疑者のベンツが到着し、ドアが開いたので俺と島村は目標に向かって走った。車から降りた被疑者はセンスの悪い柄シャツを着た極道もどきの男である。
「なんじゃい」
すごんではいるが、目が僅かに泳いでいるのでかなり動揺しているはずだ。
「警察の者ですがね、なんの用で来たかもう気付いてるとは思うんですけど」
「知らんな」
「知らんと言われても証拠もあるし、逮捕状も出てるんで。……これね。住居侵入、窃盗、暴行、傷害。いっぱいあるね」
島村に視線を送ったら、島村は手錠を出すのに手間取り、なんとも格好のつかない状況に思わず苦笑いだ。隙を見せたのが悪く、被疑者が走り出して逃亡を図る。
「おいコラ! ……島村ァ!!」
「すすすすみません!」
でかい図体して逃げ足の速い奴だ。通り魔を追った時もそうだったが、全力で走っているのに中々差が縮まらない。もしかして俺って足が遅いのかもしれない。別方向から先回りして被疑者の行き先を阻んだ島村は、そこから立ち向かう勇気がないのかへっぴり腰だ。だが足止めしただけ上等である。俺は脱いだスーツの上着を投げて被疑者に被せ、パニックに陥ったところで体当たりして両腕を封じた。
「手錠! 時間!」
今度こそ島村は手錠を掛けた。
「午後十二時三分です」
「俺は知らんぞ! なんもしとらんぞ!」
「うるっせーわ! なんにもしてねーなら逃げねーだろうがよ!」
「野田さん、菅野さんになってます」
―――
「で、一回逃げられたのか」
「……はあ、でも、確保できたんで」
「あのっ、逃げられたのは僕が手間取ったからで、でも最後は野田さんが捕まえたので……」
何がそんなに気に入らないのか、菅野は俺ばかり睨んでくる。
「島村がいて良かったな、野田。前みたいに単独だったらそのまま逃げられてたな」
足が遅いことを遠回しに言われた気がしてむかっ腹が立つ。自分でさえ今しがた気付いた事実なだけに尚更だ。
「まあまあ、菅野くん、いいじゃない。捕まえたんだから褒めてあげてよ。あ、島村くん、お茶ちょうだい」
「はいっ」
通りかかった署長のおかげで、菅野の鋭い視線から解放され、俺は溜息をつきながら背を向けた。無事に逮捕できたことを被害者に報告しなければならない。
「おい、ドジで考えナシののろま主任」
「なんすか、チンピラ鬼課長」
「茶ぁ、淹れろ」
「島村が淹れてますよ」
ギロリとまた睨まれたので、なんで俺がと不平をこぼしながら緑茶を湯呑みに注いでいる島村の隣に立った。まだ残っているからと急須を渡されたが、淹れ直すと断った。菅野は薄めの緑茶が好きなのだ。あえて濃い渋い茶を出してやりたいところだが、さすがにそれは大人げないのでやめておく。
湯呑みを菅野のデスクに置くとすぐに手に取り、唇を湿らせる程度にひと口含んだ。そして俺を見上げて、言った。
「調子が戻ってきたみたいだな」
意外な言葉だった。俺は返事に困って「お陰さまで」とだけ返してその場を去った。
祐之介が死んでから、一ヵ月が過ぎた。
確かにこの一ヵ月は調子が悪かった。自分としては引き摺っていないつもりでも、どこかで勘が鈍ったり、行動が遅かったり、書類一枚作成するのにも時間がかかり、毎日遅くまで残業した気がする。けれども人間とは都合のいい生き物で、一日一日を過ごすうちに悲しみは薄らぎ、刑事を辞めようかとすら思ったのに、結局以前とたいして変化のない生活を送っている。ひとりの人間の死はひとりの人間に大きな打撃を与えると思い知ったが、一方でいつかはそれも一部の記憶として残るだけで世の中にはなんの影響もないのだと悟ると、人間ってちっぽけな存在だなと虚しくもなった。
菅野とのこともそうだ。あの夜のことを菅野は何も触れてこない。あの日、菅野は俺が来ることを知っていたのか、なぜ俺を抱いたのか、こっちは謎だらけで悶々したというのに菅野はいつもと変わらない様子でスカしていて、俺も相変わらずそれに腹を立てている。このままお互いが何も触れずにいれば、あの夜のことはただの間違いだったということで記憶の片隅に追いやられるか、消え去られるだろう。
――が、それはさすがに少々納得がいかない。
「島村ぁ」
「はい」
「初検挙おめでとう。やっぱりお前はたいしたもんだよ。敏腕刑事になること間違いなし。きみはわが刑事課のホープだよ」
「えっ、なんかすごく嘘くさいけど、野田さんにそんな風に言われるなんて感激です」
「ということで、あとよろしく」
「え!? 僕が取り調べるんですか!? 野田さんは!?」
「俺はこれから捜査があるんだよ。詐欺事件の」
「詐欺は一係の担当じゃないでしょう!?」
「悪人捕まえるのに担当なんて関係ねぇだろ。大丈夫だよ。送検までまだ四十二時間ある。どぉぉぉしても、無理だったら電話して。じゃ、お疲れ」
「野田さーん!」
定時から一時間後に署を出ると、すっかり陽は沈んでいた。寒くはないが風が吹くと身震いする。街路樹も黄色く色付き始め、ああ夏が終わったんだなと感慨にふける。
仕事が終わってからまっすぐ向かったのは、いつものバーだ。バーに行くのはマスターに嵌められた(かもしれない)夜以来だった。開店したての店にはまだ誰もいない。俺はゆっくり話をするつもりで早い時間を選んだのだ。
店の扉を開けるとカウンターに立っているマスターはいつも通りの笑顔を向けてくる。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね、野田さん」
「詐欺の容疑が掛かってるんで、署まで同行願えますかね」
「ははっ、詐欺って! やだなぁ、穏やかにいきましょうよ」
「スクリュードライバー」
「またそんなアルコール高めの選んで、大丈夫ですか?」
「マスター、菅野さんのこと知ってたんだろ」
マスターは含み笑いをしながらカクテルを作る。一見ただのジュースのようなカクテルをグラスに注ぎ、オレンジを淵に挿して俺の前にスッと出した。
「首尾よくいきました?」
「首尾もクソもねぇよ。なんなの、どういうことなの」
「え? 菅野さんから何も聞いてませんか?」
マスターは目を丸くして言うが、その驚きの表情さえ胡散臭く見える。
「なんにも。会って、ヤッて、終わり」
腹を抱えて笑っている。
「菅野さんは素直じゃないから。菅野さんは野田さんと同じ、僕の店の常連客なんですけどね、開店当初からずっと来てくれてるんです。もうね、本当面白かったですよ。野田さんは菅野さんのことを、菅野さんは野田さんのことを話してくれて、双方の話聞いてたらおかしくって」
「俺は菅野さんの名前出したことないよね?」
「ええ、でも菅野さんは思いっきり野田さんのこと話してましたから。それ聞いたうえで野田さんの話聞いたら菅野さんのことだってすぐ分かりましたよ」
「あいつ俺のなんの話してたの。どうせ碌でもない話だろ」
「いえ、むしろ……」
その時、店の扉が大袈裟に鈴を鳴らしながら開いた。
「余計なこと言うな、大塚」
「噂をすればですね」
菅野だった。菅野はずかずかと店に入ると、さも当然という顔で俺の隣に腰を下ろした。
「てめぇ、島村に丸投げしてんじゃねぇよ」
「島村もそうやって経験していくんでしょう。今日はすることないし、大丈夫ですよ」
「ちゃんと見ててやれよ。どうせ段取り悪い聴取だろうからな」
「へー、島村には優しいんすね。俺が新米の時は鑑識鞄ひとつ持たせて現場に行ってこいっつって無茶ぶりしたくせに」
「野田さんにそんな心配はしてないってことですよね?」
口を挟むマスターを、菅野は舌打ちして制した。マスターは微笑んでいる。
「マスターと菅野さんは仲良いんですか?」
「こいつは高校時代の同級だ」
「菅野さんのことならなんでも知ってます」
夜の菅野も? なんて無粋なことは聞かない。
菅野は注文したマティーニを一気に飲み干した。こいつ、苦手なものとかあるんだろうか。化け物でも見るような眼で眺めていたら、視線がかち合ったのですぐに逸らした。
「上司を睨んで目が合ったら先に逸らすたぁ、無礼な奴だな」
「もともと、こういう人間なんです」
「お前が礼を尽くさないのは俺だけだろう。どういう了見だ」
「そもそも、最初に俺を睨んできたのは菅野さんですよ」
「別に睨んでねぇよ」
「いっつも、人を見下したような目で見る」
酒の力はすごい。いつもなら心の中だけに留めておくようなことも、ひとつ栓を抜いたら溢れてくる。
「初めて現場に行った時、腐乱死体にショックを受けてる俺にそんな小さい肝っ玉でやっていけるのかって、まるで虫けらを見るような目で見た。あれでも俺は頑張ったほうなんです。それだけじゃない。他の仕事でも、どれだけ成果を上げても菅野さんは俺の働きを評価しない。そりゃあ、なんなんだよって腹も立ちますよ」
菅野はクク、と笑う。それがまた癇に障った。
「なんだ、褒めて欲しかったのか」
「そんな単純なもんじゃないです。馬鹿にされてる気がしてムカつくんです」
「一緒だろ。頑張ったのに褒めてくれなかったから拗ねてる。悪いな、俺はそう簡単に褒める人間じゃないんだ」
ジン・トニックに口をつけようとする菅野をまた睨み付けたら、菅野はグラスを置いて俺の顎を掴んだ。
「怖くねぇな。お前みたいな小僧が睨んでも迫力なんかねぇよ。ニラみってのは、こうやるんだ」
菅野はそう言って鼻がぶつかる直前まで顔を近付け、スゥッと瞼を落として刃物のような目で俺の目を捉えた。
――睨まれている。……が、この眼じゃない。俺にいつも向けられる、あの蔑む眼は、この眼じゃない。
「はいはい、お店でイチャつかないでくださいね」
「どこをどう見たらイチャついてるように見えるんすか」
「付き合ってるんじゃないんですか?」
「馬鹿言わないで下さい」
「したんでしょ?」
マスターは両人差し指でバッテンを作ってニヤニヤしている。ついに本性を表したのか、野暮な男だ。
「だからそれ聞きたいんだけど、マスターはホテルに菅野さんがいるって知ってて、俺をあの場へ行かせたわけ? 菅野さんは知ってたんですか?」
「小生意気な野田を、いつかシメてやろうと思ってた。お前がここに出入りしてるのは大塚から聞いてたんでね。チャンスがあれば仕向けるように言っておいた。本当ならお前、とっくに左遷だぜ。あの程度で済んだだけマシだと思え」
「もし俺がタチならどうしたんです」
「俺がヤるっつったら、ヤるんだよ」
「強制わいせつ罪」
「ふん、俺を検挙するか? 同意の上で来たくせに」
「菅野さんだと知ってたら、行かなかった」
「せっかく『慰めて』やったのによ」
拳を握り締めて、「あの日」の二の舞になりそうだったのを堪えて、俺は席を立った。スクリュードライバーの代金を置いて、何も言わずに店を出る。
生意気な部下をマスターとグルになって仕置きしただけか。身勝手で出鱈目なやり方が菅野らしい。理由が分かってすっきりするどころか、かえって憤懣やるかたない。何より三十前のいい大人がまんまと騙されたことが情けなくて惨めだ。
「オイ」
菅野に腕を捉えられて引き止められた。振り払おうとしたが、がっしり握られていて全然振りほどけない。
「やっぱ、弱ぇな」
「離してくださっ……」
無理やり振り向かされ、唇を奪われた。人目のある路上であるにも関わらず、早くて、唐突で、気後れのないキスだった。唇を重ねるというより、覆われている。どうにも逆らいようがなかった。顔が離れ、俺は口の周りの湿り気を袖でゴシゴシ拭いた。
「何、考えてんすかっ! 誰が見てるか分からないでしょう!?」
「うーわ、失礼な奴だな。俺はバイ菌か」
「バイ菌よりタチ悪いです」
「拗ねてるのか」
「何にですか!」
「大塚と仕組んだことだよ」
「拗ねてません。純粋に腹が立ちます。よりによって落ち込んでる日に、つけこむような真似して本当に最低ですね」
すると菅野は片腕だけで俺の体を包んで、分厚い胸板に抱き寄せた。びっくりしすぎて抵抗できなかった。そして耳のすぐ傍で、意外な一言を放った。
「悪かったよ」
「……」
「――って、言うと思うか?」
「――……ッ」
菅野の硬い胸を拳で叩いて離れようとするが、解放してくれない。菅野は俺の肩を抱いたまま、耳元で続けた。
「やるか」
「……何をっ」
「セックスに決まってんだろ」
「冗談じゃ……な……」
言い終わらないうちに、またキスをされる。ぬるりと舌が侵入してきて、上から下まで菅野の舌が這った。誰が見てるか分からないのに……。そんな背徳感に俺はかえって敏感になってしまった。
「仕組んだことじゃなければ、いいんだろう。今日は『褒めて』やるよ」
「いらない……」
「頑張ったことを褒めてもらいたいんだろ?」
「違う……」
「そんな腑抜けた顔で反抗しても逆効果だぜ。こっちは、その気だな」
「……っ」
――こんなとこで、そんなとこを掴むな!
通行人のいい注目の的だ。周りの視線がすべてこちらに集中している気がした。顔を見られたくなくて、俺は菅野を突き放すどころか、胸にしがみついていた。
こんな街中で。路上で。見知らぬ人間の前で。男二人が抱き合いながら、ひとりは下半身をまさぐられている。
――モラルってもんがねぇのかよ、こいつには!
だけど、そんな状況にしっかり反応してしまっている俺も人のことは言えない。とうとう腰が抜けて地面に膝を付いた時、菅野は俺の体を支えながら、微笑して言った。
「ヤるだろ?」
そして俺は言ってしまったのだ。
「……は……い」
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「おい、大丈夫かよ」
「こういう張り込みとかって憧れてたけど、実際やると緊張しますネ……」
さっきからペットボトルの水を三十秒に一回は口に含んでいる気がする。
「肝心な時に漏らすなよ」
「その可能性は無きにしも非ず」
「なんで一係に来たんだよ。総務行け、総務」
「そんな冷たいこと言わないで下さいよ。こう見えても闘志でみなぎってますから!」
「あーそう。そりゃ最後まで任務をまっとうしてくれ」
腕時計を見る。そろそろ被疑者が現れる頃かと窓を少しだけ開けた。遠くで独特のエンジン音が聞こえたので、降りる準備をする。
「手錠ちゃんと持ってる? お前が掛けろよ」
「え? 来ました?」
「車の音が聞こえたから」
「野田さん、耳いいッスね」
駐車場に被疑者のベンツが到着し、ドアが開いたので俺と島村は目標に向かって走った。車から降りた被疑者はセンスの悪い柄シャツを着た極道もどきの男である。
「なんじゃい」
すごんではいるが、目が僅かに泳いでいるのでかなり動揺しているはずだ。
「警察の者ですがね、なんの用で来たかもう気付いてるとは思うんですけど」
「知らんな」
「知らんと言われても証拠もあるし、逮捕状も出てるんで。……これね。住居侵入、窃盗、暴行、傷害。いっぱいあるね」
島村に視線を送ったら、島村は手錠を出すのに手間取り、なんとも格好のつかない状況に思わず苦笑いだ。隙を見せたのが悪く、被疑者が走り出して逃亡を図る。
「おいコラ! ……島村ァ!!」
「すすすすみません!」
でかい図体して逃げ足の速い奴だ。通り魔を追った時もそうだったが、全力で走っているのに中々差が縮まらない。もしかして俺って足が遅いのかもしれない。別方向から先回りして被疑者の行き先を阻んだ島村は、そこから立ち向かう勇気がないのかへっぴり腰だ。だが足止めしただけ上等である。俺は脱いだスーツの上着を投げて被疑者に被せ、パニックに陥ったところで体当たりして両腕を封じた。
「手錠! 時間!」
今度こそ島村は手錠を掛けた。
「午後十二時三分です」
「俺は知らんぞ! なんもしとらんぞ!」
「うるっせーわ! なんにもしてねーなら逃げねーだろうがよ!」
「野田さん、菅野さんになってます」
―――
「で、一回逃げられたのか」
「……はあ、でも、確保できたんで」
「あのっ、逃げられたのは僕が手間取ったからで、でも最後は野田さんが捕まえたので……」
何がそんなに気に入らないのか、菅野は俺ばかり睨んでくる。
「島村がいて良かったな、野田。前みたいに単独だったらそのまま逃げられてたな」
足が遅いことを遠回しに言われた気がしてむかっ腹が立つ。自分でさえ今しがた気付いた事実なだけに尚更だ。
「まあまあ、菅野くん、いいじゃない。捕まえたんだから褒めてあげてよ。あ、島村くん、お茶ちょうだい」
「はいっ」
通りかかった署長のおかげで、菅野の鋭い視線から解放され、俺は溜息をつきながら背を向けた。無事に逮捕できたことを被害者に報告しなければならない。
「おい、ドジで考えナシののろま主任」
「なんすか、チンピラ鬼課長」
「茶ぁ、淹れろ」
「島村が淹れてますよ」
ギロリとまた睨まれたので、なんで俺がと不平をこぼしながら緑茶を湯呑みに注いでいる島村の隣に立った。まだ残っているからと急須を渡されたが、淹れ直すと断った。菅野は薄めの緑茶が好きなのだ。あえて濃い渋い茶を出してやりたいところだが、さすがにそれは大人げないのでやめておく。
湯呑みを菅野のデスクに置くとすぐに手に取り、唇を湿らせる程度にひと口含んだ。そして俺を見上げて、言った。
「調子が戻ってきたみたいだな」
意外な言葉だった。俺は返事に困って「お陰さまで」とだけ返してその場を去った。
祐之介が死んでから、一ヵ月が過ぎた。
確かにこの一ヵ月は調子が悪かった。自分としては引き摺っていないつもりでも、どこかで勘が鈍ったり、行動が遅かったり、書類一枚作成するのにも時間がかかり、毎日遅くまで残業した気がする。けれども人間とは都合のいい生き物で、一日一日を過ごすうちに悲しみは薄らぎ、刑事を辞めようかとすら思ったのに、結局以前とたいして変化のない生活を送っている。ひとりの人間の死はひとりの人間に大きな打撃を与えると思い知ったが、一方でいつかはそれも一部の記憶として残るだけで世の中にはなんの影響もないのだと悟ると、人間ってちっぽけな存在だなと虚しくもなった。
菅野とのこともそうだ。あの夜のことを菅野は何も触れてこない。あの日、菅野は俺が来ることを知っていたのか、なぜ俺を抱いたのか、こっちは謎だらけで悶々したというのに菅野はいつもと変わらない様子でスカしていて、俺も相変わらずそれに腹を立てている。このままお互いが何も触れずにいれば、あの夜のことはただの間違いだったということで記憶の片隅に追いやられるか、消え去られるだろう。
――が、それはさすがに少々納得がいかない。
「島村ぁ」
「はい」
「初検挙おめでとう。やっぱりお前はたいしたもんだよ。敏腕刑事になること間違いなし。きみはわが刑事課のホープだよ」
「えっ、なんかすごく嘘くさいけど、野田さんにそんな風に言われるなんて感激です」
「ということで、あとよろしく」
「え!? 僕が取り調べるんですか!? 野田さんは!?」
「俺はこれから捜査があるんだよ。詐欺事件の」
「詐欺は一係の担当じゃないでしょう!?」
「悪人捕まえるのに担当なんて関係ねぇだろ。大丈夫だよ。送検までまだ四十二時間ある。どぉぉぉしても、無理だったら電話して。じゃ、お疲れ」
「野田さーん!」
定時から一時間後に署を出ると、すっかり陽は沈んでいた。寒くはないが風が吹くと身震いする。街路樹も黄色く色付き始め、ああ夏が終わったんだなと感慨にふける。
仕事が終わってからまっすぐ向かったのは、いつものバーだ。バーに行くのはマスターに嵌められた(かもしれない)夜以来だった。開店したての店にはまだ誰もいない。俺はゆっくり話をするつもりで早い時間を選んだのだ。
店の扉を開けるとカウンターに立っているマスターはいつも通りの笑顔を向けてくる。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね、野田さん」
「詐欺の容疑が掛かってるんで、署まで同行願えますかね」
「ははっ、詐欺って! やだなぁ、穏やかにいきましょうよ」
「スクリュードライバー」
「またそんなアルコール高めの選んで、大丈夫ですか?」
「マスター、菅野さんのこと知ってたんだろ」
マスターは含み笑いをしながらカクテルを作る。一見ただのジュースのようなカクテルをグラスに注ぎ、オレンジを淵に挿して俺の前にスッと出した。
「首尾よくいきました?」
「首尾もクソもねぇよ。なんなの、どういうことなの」
「え? 菅野さんから何も聞いてませんか?」
マスターは目を丸くして言うが、その驚きの表情さえ胡散臭く見える。
「なんにも。会って、ヤッて、終わり」
腹を抱えて笑っている。
「菅野さんは素直じゃないから。菅野さんは野田さんと同じ、僕の店の常連客なんですけどね、開店当初からずっと来てくれてるんです。もうね、本当面白かったですよ。野田さんは菅野さんのことを、菅野さんは野田さんのことを話してくれて、双方の話聞いてたらおかしくって」
「俺は菅野さんの名前出したことないよね?」
「ええ、でも菅野さんは思いっきり野田さんのこと話してましたから。それ聞いたうえで野田さんの話聞いたら菅野さんのことだってすぐ分かりましたよ」
「あいつ俺のなんの話してたの。どうせ碌でもない話だろ」
「いえ、むしろ……」
その時、店の扉が大袈裟に鈴を鳴らしながら開いた。
「余計なこと言うな、大塚」
「噂をすればですね」
菅野だった。菅野はずかずかと店に入ると、さも当然という顔で俺の隣に腰を下ろした。
「てめぇ、島村に丸投げしてんじゃねぇよ」
「島村もそうやって経験していくんでしょう。今日はすることないし、大丈夫ですよ」
「ちゃんと見ててやれよ。どうせ段取り悪い聴取だろうからな」
「へー、島村には優しいんすね。俺が新米の時は鑑識鞄ひとつ持たせて現場に行ってこいっつって無茶ぶりしたくせに」
「野田さんにそんな心配はしてないってことですよね?」
口を挟むマスターを、菅野は舌打ちして制した。マスターは微笑んでいる。
「マスターと菅野さんは仲良いんですか?」
「こいつは高校時代の同級だ」
「菅野さんのことならなんでも知ってます」
夜の菅野も? なんて無粋なことは聞かない。
菅野は注文したマティーニを一気に飲み干した。こいつ、苦手なものとかあるんだろうか。化け物でも見るような眼で眺めていたら、視線がかち合ったのですぐに逸らした。
「上司を睨んで目が合ったら先に逸らすたぁ、無礼な奴だな」
「もともと、こういう人間なんです」
「お前が礼を尽くさないのは俺だけだろう。どういう了見だ」
「そもそも、最初に俺を睨んできたのは菅野さんですよ」
「別に睨んでねぇよ」
「いっつも、人を見下したような目で見る」
酒の力はすごい。いつもなら心の中だけに留めておくようなことも、ひとつ栓を抜いたら溢れてくる。
「初めて現場に行った時、腐乱死体にショックを受けてる俺にそんな小さい肝っ玉でやっていけるのかって、まるで虫けらを見るような目で見た。あれでも俺は頑張ったほうなんです。それだけじゃない。他の仕事でも、どれだけ成果を上げても菅野さんは俺の働きを評価しない。そりゃあ、なんなんだよって腹も立ちますよ」
菅野はクク、と笑う。それがまた癇に障った。
「なんだ、褒めて欲しかったのか」
「そんな単純なもんじゃないです。馬鹿にされてる気がしてムカつくんです」
「一緒だろ。頑張ったのに褒めてくれなかったから拗ねてる。悪いな、俺はそう簡単に褒める人間じゃないんだ」
ジン・トニックに口をつけようとする菅野をまた睨み付けたら、菅野はグラスを置いて俺の顎を掴んだ。
「怖くねぇな。お前みたいな小僧が睨んでも迫力なんかねぇよ。ニラみってのは、こうやるんだ」
菅野はそう言って鼻がぶつかる直前まで顔を近付け、スゥッと瞼を落として刃物のような目で俺の目を捉えた。
――睨まれている。……が、この眼じゃない。俺にいつも向けられる、あの蔑む眼は、この眼じゃない。
「はいはい、お店でイチャつかないでくださいね」
「どこをどう見たらイチャついてるように見えるんすか」
「付き合ってるんじゃないんですか?」
「馬鹿言わないで下さい」
「したんでしょ?」
マスターは両人差し指でバッテンを作ってニヤニヤしている。ついに本性を表したのか、野暮な男だ。
「だからそれ聞きたいんだけど、マスターはホテルに菅野さんがいるって知ってて、俺をあの場へ行かせたわけ? 菅野さんは知ってたんですか?」
「小生意気な野田を、いつかシメてやろうと思ってた。お前がここに出入りしてるのは大塚から聞いてたんでね。チャンスがあれば仕向けるように言っておいた。本当ならお前、とっくに左遷だぜ。あの程度で済んだだけマシだと思え」
「もし俺がタチならどうしたんです」
「俺がヤるっつったら、ヤるんだよ」
「強制わいせつ罪」
「ふん、俺を検挙するか? 同意の上で来たくせに」
「菅野さんだと知ってたら、行かなかった」
「せっかく『慰めて』やったのによ」
拳を握り締めて、「あの日」の二の舞になりそうだったのを堪えて、俺は席を立った。スクリュードライバーの代金を置いて、何も言わずに店を出る。
生意気な部下をマスターとグルになって仕置きしただけか。身勝手で出鱈目なやり方が菅野らしい。理由が分かってすっきりするどころか、かえって憤懣やるかたない。何より三十前のいい大人がまんまと騙されたことが情けなくて惨めだ。
「オイ」
菅野に腕を捉えられて引き止められた。振り払おうとしたが、がっしり握られていて全然振りほどけない。
「やっぱ、弱ぇな」
「離してくださっ……」
無理やり振り向かされ、唇を奪われた。人目のある路上であるにも関わらず、早くて、唐突で、気後れのないキスだった。唇を重ねるというより、覆われている。どうにも逆らいようがなかった。顔が離れ、俺は口の周りの湿り気を袖でゴシゴシ拭いた。
「何、考えてんすかっ! 誰が見てるか分からないでしょう!?」
「うーわ、失礼な奴だな。俺はバイ菌か」
「バイ菌よりタチ悪いです」
「拗ねてるのか」
「何にですか!」
「大塚と仕組んだことだよ」
「拗ねてません。純粋に腹が立ちます。よりによって落ち込んでる日に、つけこむような真似して本当に最低ですね」
すると菅野は片腕だけで俺の体を包んで、分厚い胸板に抱き寄せた。びっくりしすぎて抵抗できなかった。そして耳のすぐ傍で、意外な一言を放った。
「悪かったよ」
「……」
「――って、言うと思うか?」
「――……ッ」
菅野の硬い胸を拳で叩いて離れようとするが、解放してくれない。菅野は俺の肩を抱いたまま、耳元で続けた。
「やるか」
「……何をっ」
「セックスに決まってんだろ」
「冗談じゃ……な……」
言い終わらないうちに、またキスをされる。ぬるりと舌が侵入してきて、上から下まで菅野の舌が這った。誰が見てるか分からないのに……。そんな背徳感に俺はかえって敏感になってしまった。
「仕組んだことじゃなければ、いいんだろう。今日は『褒めて』やるよ」
「いらない……」
「頑張ったことを褒めてもらいたいんだろ?」
「違う……」
「そんな腑抜けた顔で反抗しても逆効果だぜ。こっちは、その気だな」
「……っ」
――こんなとこで、そんなとこを掴むな!
通行人のいい注目の的だ。周りの視線がすべてこちらに集中している気がした。顔を見られたくなくて、俺は菅野を突き放すどころか、胸にしがみついていた。
こんな街中で。路上で。見知らぬ人間の前で。男二人が抱き合いながら、ひとりは下半身をまさぐられている。
――モラルってもんがねぇのかよ、こいつには!
だけど、そんな状況にしっかり反応してしまっている俺も人のことは言えない。とうとう腰が抜けて地面に膝を付いた時、菅野は俺の体を支えながら、微笑して言った。
「ヤるだろ?」
そして俺は言ってしまったのだ。
「……は……い」
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