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罠1

「瑞樹ぃ、非番だからってゴロゴロしてないで、どこか出掛けたらどう?」

 自宅の縁側でうたた寝をしていたら、母親が掃除機で俺の頬を吸った。

「ひゃへへ(やめて)」

「あんた休みの日になると一日中寝るか、飲みに行くだけでしょ? 彼女のひとりやふたりいないの?」

 だって俺ゲイなんだから彼女なんかできるわけないじゃん。って言ったら、どんな反応をするのだろう。母親が背後で掃除機をかけながら「あんたも、もう二十九なのね~」と溜息をついている。

「あの子は? 祐之介くん。仲良しでしょ? 最近も一緒に遊んでるの?」

「飲みに行ったりはするけど」

 祐之介とは、家に行ってから一度も会っていない。仕事が忙しかったこともあって、こちらからは連絡せずにいると、向こうは向こうで気まずいのか何も言ってこない。気付けば一ヵ月が経とうとしている。
 八月下旬だというのに、この猛暑。あいつは昔から軟弱なので、毎年夏バテしている。今年は大丈夫だろうか、と心配になり、今夜バーにでも誘うつもりでスマートフォンを手に取った。

「瑞樹、伯父さんが来たわよ」

 アプリを開く前に伯父が訪れたので、スマートフォンを置いてリビングへ向かった。

「久しぶりだな、瑞樹。どうだ、仕事は」

 仕事帰りに歩いて寄ったのか、伯父は頬に汗の筋をつけ、ワイシャツもびっしょり濡れている。それなのに暑苦しさを感じさせない。現在は退職して警備会社の社長を務めているが、さすが本部の元部長だっただけに、とても還暦を過ぎているとは思えない威厳を放っている。

「まぁ、そこそこだよ」

「こないだ北署の署長に会ったよ。お前のことを聞いたら、中々優秀だと褒めてくれたぞ」

「伯父さんに聞かれちゃ誰でもそう言うしかないでしょ」

「検挙率はトップ2だって? トップはあの子だろ。菅野警部」

「悔しいけど、そうらしいね」

「悔しいのか」

「俺、あいつ嫌いなんだ」

 伯父は「はは、」と笑うと冷茶を口に含んだ。

「確かに、彼はとっつきにくい印象だけどな。なかなかアツい男だぞ」

 そのアツさ故に、俺は殴られたんだよ。

「目が良いだろう」

 目付きは悪いけど。

「昔、一緒に窃盗現場に行ったことがあってな。玄人の窃盗犯で現金だけ盗む奴だったんで割り出しは難しいかと思ったんだけど、その時は現金の他に競輪の当たり車券も盗られてたんだ。僕は張り込みには行ってないけど、サテライトで菅野くんと一緒に張った刑事が、雑踏の中からホシを見つけた時の早さに驚いてたよ」

「ふぅん」

「興味なさそうに言うな。彼から色々盗め」

「取り調べで脅すとか?」

「脅しじゃなくて、とどめの一言って言うんだ。けど、彼は……」

 縁側に置きっぱなしにしているスマートフォンが鳴った。無視しようかと思ったが、呼び出しだといけないので伯父に断って席を立った。電話の相手は長らく連絡を取っていなかった学生時代の友人だった。

「なんか用かよ」

『久しぶりの電話なのに、開口一番冷たい奴だなぁ』

「うそうそ、久しぶりだな。マジでなんか用あるの?」

『お前、まだ刑事してんの? お前みたいな奴、一番刑事になっちゃ駄目だろ』

「一番刑事になっちゃ駄目な奴が刑事になるもんなんだよ」

『へー、なのに電話しちゃって大丈夫なの? こっちから掛けといてなんだけどさ』

「なのにって何?」

『さっきさぁ、電車乗ってて、昭和駅で停まったんだけど、なんか警察がアパート囲ってて、ただ事じゃない感じだったから事件なのかなと思って。そしたら野田のこと思い出したから、掛けてみただけ。本当に刑事なら今頃現場じゃねぇのかよ』

 友人はゴシップ感覚で笑っているが、職業柄か俺は笑えなかった。というより、嫌な胸騒ぎを覚えた。一気に両手に汗が噴き出してくる。

「……今日は……非番だから……」

『非番って休みってこと? いいなぁ、俺、これから取引先で……』

「なあ、そのアパートって、どこだっけ?」

『え? 昭和駅』

「駅の……どこ?」

『真裏。白い二階建ての……』

 途中で電話を切って、衝動的に家を飛び出した。

 ――いや、そんなまさか。有り得ない。

 考えすぎであって欲しい。だけど、この胸騒ぎはなんだろう。嫌な予感しかない。
昭和駅は俺の実家から自転車を飛ばせば十五分程度で着く。仮にも警察官が思いっきり信号無視をして、友人の言っていた現場に向かった。事件があったかもしれないアパートは、俺が予想したものと同じだった。自転車を捨て、野次馬の中をかい潜って事件があったであろう部屋を探す。

「勝手に入っちゃイカン」

「北署の刑事だ」

 家を出る直前に咄嗟に持った警察手帳を出し、現場を囲むブルーシートをめくった。今にも心臓が爆発しそうなくらいの鼓動。荒くなる息。

――あの、異臭……。

 ……まさか、
 まさか、まさか、
 まさか、まさか、まさか――。

 菅野と島村の後姿を見つけた。二人の背後から部屋の中を覗く。
 胸騒ぎは、的中した。

「――祐之介!!」

 俺の存在に気付いた菅野と島村は、目を見開いて振り返った。

「野田さん!? いつの間に……」

 俺が見たものは、部屋の真ん中でぶら下がっている、祐之介の姿だった。

「祐! なんで! 嘘だっ、嘘だ!!」

 現場ではまず鑑識が検証しないと俺たちは中に入れないのだが、今の俺はそんなことは頭から抜けていて、現場検証の途中であるにも関わらず祐之介に近寄った。菅野が声を張る。

「野田ァ!! 勝手に触るな!」

 ――そうだ、素手だ。

 触れる直前で妙に冷静な感覚が戻り、ゆっくり後ずさる。鑑識員に床に下ろされた祐之介の前で足の力が抜けてしまい、膝をついた。

「あ……あぁ、裕……なんで、ど……して……」

「野田さんの、お知り合いですか……?」

 変わり果てた姿。とても美しいと言えない。
 一体いつ、吊ったのか。柔らかくて可愛い猫のような髪はパサパサに乾き、白くて透明感のあった肌は青紫に、焦げ茶色の目も、唇も……桃色だったのに。目の前に横たわっている、苦しみの表情のまま腐敗してしまった、この……遺体は、

 ――ダレ? 原型ガ、分カラナイ。

「……っ」

 俺はその場から駆け出し、アパートから少し離れた植木の前で吐いた。「死体」を見たから吐いたんじゃない。ショックが大きすぎて、現実に頭が追いつかなくて吐いているのだ。吐いても吐いても止まらない。こんなに嘔吐するのは、初めて現場に行った日以来だった。野次馬の好奇の視線を気にする余裕もない。体が動かず、ぐったりと地べたに座り込んだまま時間だけが過ぎていった。やがて現場検証を終えて辺りが落ち着きを取り戻してきた頃、菅野が、俺の背後に立った。

「慣れてねーじゃねぇか」

「……慣れの……問題じゃ、ない……」

「いくらなんでも取り乱しすぎだろう。知り合いだったからって、現場で勝手な真似が許されるとでも思ってるのか」

「……冷静で、いられるわけが……ない」

「それともなんだ、慰めて欲しいのか?」

 俺の中で何かが切れた。拳を握りしめて菅野を思い切り睨む。

「あんたには分かんねぇだろ」

「何がだ」

「目の前で大事な人が死んでた時の気持ちなんか、分かんねぇだろ。あんたの『刑事たるもの』にはウンザリだよッ!」

 立ち上がると同時に、渾身の力を込めた拳を菅野に向かって突き出した。けれども、菅野は顔色ひとつ変えず、まるで蚊を仕留めるかのような涼しい表情で、やすやすと俺の拳を左手で受け止めた。菅野のでかくてごつい手に完全に覆われている。どうしても一発喰らわせたくて無理やりに拳を進めようとするが、ぶるぶる震えるだけでびくともしない。

「野田さん! 何やってるんですか!」

 島村の言葉など耳に入らないくらい頭に血が昇っている。暫く至近距離で睨み合ったあと、菅野が低い声で言った。

「上司に手を上げる度胸だけは、認めてやる」

 直後、強烈な鉄拳が俺のみぞおちを捉えた。こめかみを平手打ちされた時とは比べ物にならない、目玉が飛び出るかと思うほどの衝撃に息が詰まる。

「――……かはっ」

 視界がだんだん暗闇に包まれ、耳が遠くなる。水の中にいるようだった。

 ――僕は、みっちゃんの強さが羨ましい。―――

「弱ぇな」

 ――そうだ。 俺は、弱い。


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