暗闇4
***
どうも気分が晴れずに毎日冴えない日々を過ごしている。
そんな時に入った一件の通報。若い女性が路上で突然切り付けられたという。俺がいる署は規模が小さいので、大きな事件でない限り捜査は少人数の班で行っている。通報があった時点で菅野は不在だったため、現場には警部補の大沢係長と島村と一緒に駆け付けた。被疑者は逃走中とのことだ。
喜ばしい事件でないことは分かっているけれど、久しぶりの事件らしい事件に、俺は密かに腕を鳴らせる。が、そんな気負いも現場に到着するなり一変した。真っ先に車を降りた大沢さんが現場を囲む人だかりに声を掛けた。
「どうして南署の方がいらっしゃるんです?」
一斉にこちらを睨む南署の刑事たちは、犯人顔負けの人相の悪さだ。こいつらといい、菅野といい、刑事と犯罪者は紙一重だなとつくづく思う。かくいう俺も似たようなことを伯父に言われて刑事になったわけなのだが。
「いえね、先週うちの管轄内で起こった傷害事件の被疑者と同一人物の可能性がありましてね、今回のことも含めてうちが捜査しますんで」
そんなアバウトな憶測で横取りすんのかよ、と言いたいところを飲み込んだ。大沢さんが代弁してくれないかなと期待したのも束の間、大沢さんは「あっ、そうですか!」とあっさり引き下がろうとしている。南署の刑事たちの陰で、被害者の女性がまだその場で怯えているのに、目の前で所轄同士のやり取りをさらけるのはいかがなものか。俺はおもむろに被害者に近付いた。
「大丈夫です? 怪我は」
「はい、あの、ほんのかすり傷です……。咄嗟に避けたので。びっくりして腰が抜けちゃって」
腕に血が滲んでいる。傷口に宛がうようにと皺の寄ったハンカチを差し出した。
「状況とか、犯人の特徴とか、覚えている範囲でいいので教えてもらえますか」
「こらっ、野田!」
「え……と、確か、黒のTシャツと黒のキャップを被っていました。顔は……すみません、よく分からなくて。頬骨が出ていたような気がします」
「野田!」
「犯人はどっちから来て、どっちに行きました?」
「前方から自転車で来ました。ナイフを持っていたのに気付いたので、避けられたんだと思います。そのまま後方に走って行きました」
「野田ァ!」
島村に腕を取られ、引き摺られるようにして車に押し込まれた。
「ちょっと、大沢さん!」
「では、よろしくお願いします」
大沢さんは南署の連中にペコペコ頭を下げ、俺たちはふがいなく去ることになった。
「ほんとに帰っちゃうんですか?」
「だって、しょうがないじゃん。南署の署長、怖いんだもん」
「じゃん」「だもん」じゃねぇよ。舌打ちをしたら、島村に肘で突かれた。
「でも被疑者は別人かもしれないじゃないですか」
「いいじゃない、南署が探すって言ってんだから。ウチが捕まえて被疑者が同じだったらあとで文句言われるの嫌だし。そもそもあの辺の境界あやふやなんだよね」
「目標管理は管轄内でって決まってますしね!」
「島村は密かにホッとしてんだろ」
「そそそそんなことないですっ」
「暑いねェ、せっかく外に出たし、質屋巡りしながらコーヒーでも飲もうかねェ」
「んなことしたら、また菅野さんに鬼コールされますよ」
「質屋巡りは立派な仕事の一環だよ。あの人、今いないからちょっとくらい、いいじゃない。あっ、そこのコンビニ寄ってくれない?」
用を足すと言うので街中のコンビニで車を停めた。どうせトイレに行ったらちょっと立ち読みしてコーヒーを買うのだろう。
特に何かを注視するわけでもなく街の様子を眺めていた。街と言っても道路は狭いし、昼間の中心部のわりに人通りは少ないほうだ。メインストリートはそれなりに整備されていても、一歩外れれば物騒な裏路地が多い。
警察官にノルマはないとは言うけれど、結局「目標管理」という名のノルマがある。各署ごとに「○人逮捕」といったゆるいものだ。それでもその数字にこだわる奴はこだわるし、そういう奴は「うちの管轄、よその管轄」と縄張り意識が強いのだ。「犯人逮捕のためなら関係ねぇ」なんて言うつもりはないが、厄介ごとはさっさと終わらせたいので管轄とか正直言ってどうでもいい。なのに、自分はそう思っていても上司が「駄目」と言えば思い通りにならないのだから、本当に世の中大丈夫かと心配になる。
ふと首を回すと、視界の隅にほんの一瞬だけ、怪しい人影が映った。改めてその場所に焦点を当てると人影は細い路地に入ろうとしている。
「島村さ、通り魔の特徴覚えてる?」
「え? 黒のTシャツってやつですか?」
「あいつ、ぽくない?」
「……あんな豆粒みたいなの、よく見えますね」
少しでも抱いた疑心は見逃すわけにいかなかった。
「ちょっと出てくるから、大沢さん戻ってきたら伝えといてよ」
「何をです?」
「管轄違いますけど、すみませんって」
車を降りて小走りで男が入った路地へ向かう。小洒落たブティックやカフェが並ぶ大通りと違って、空き缶や紙くずが散らばった小汚い路地だ。
数メートル先に十字路があり、男はどちらかに曲がったはずだが、こういう時は心理学的に左を選ぶらしい。とか言いながら右だったらどうしよう、なんて考えながら進む。角でいったん止まり、慎重に左方を覗くと、思いがけず至近距離で切れ長の目と視線が合った。一旦曲がって引き返して来たのだろう。男は細い目を大きく見開き、驚きのあまりか声を失って口をパクパクさせた。黒いTシャツに黒いキャップ、頬骨も出ている。あきらかな動揺ぶりに、「警察だ」と言って追い打ちをかけたら、男は背を向けて走り出した。まっすぐ抜けると再び大通りに出てしまう。それまでになんとか確保はしたいが、男が意外にも足が速いので中々追いつかなかった。
徐々に距離を詰めて、あと少しというところで男が突然立ち止まり、振り向くと同時に血の付いたナイフをこちらに向かって突き出した。勢いが付きすぎていたためすぐには止まれず、ギリギリのところで身をひねるも、刃先が上腕部をかすめた。けれども、これはチャンスとばかりに素早く手刀で男の手からナイフを落とし、間髪入れずに腹に膝蹴りを入れる。ひ弱な体つきの男はそれだけで呻きながらうずくまり、なんとか騒ぎになる前に確保することができた。
取り調べの結果、南署の管轄内で起きた事件の被疑者と同一人物であることが分かり、大沢さんは複雑そうに小言を呟いていた。島村は「野田さん、漢っす」と、あからさまにゴマを擂るが、どうせこいつも大沢さんタイプだろう。純粋に被疑者確保を喜んでいる連中なんていない。その証拠に、もうひとり俺の手柄に腹を立てている人物がいる。
就業時間を過ぎてから、外出から戻って来た菅野に屋上に呼び出された。声色と顔つきで良い呼び出しでないことくらい、すぐに分かる。西日に照らされた屋上で、渋面の菅野と向かい合った。
「お前、通り魔捕まえたってな」
「……はい」
「大沢係長は現場から署に戻る途中で、捜査の命令は出していないと言っていたが?」
菅野はライターを出し、煙草に火を点けた。
「……はい」
「被疑者を追ったのは、誰の指示だ?」
「……」
ほんの数秒、間を置いただけで菅野はつかつかと俺の目の前に立ちはだかり、顎を掴んだ。そして鋭い眼で見下ろされる。あの、人を蔑む眼だ。
「こ、た、え、ろ」
「……係長が席を外した際に、たまたま車内から被疑者らしき人物を見つけて、いくら管轄外でも野放しにはできないと考えたので、独断で動きました」
すると菅野は顎から手を放すと、俺のこめかみあたりを平手打ちした。
「俺はな、管轄なんかどっちでもいいんだよ。問題なのは、てめぇが勝手に動いたことだ。単独行動してたならともかく、班行動してて独断で動くたぁ、どういうつもりだ。なんのためにペアってもんがあると思う、あ?」
「……申し訳ありませんでした」
「てめぇみたいな考えナシの馬鹿が真っ先に現場で死ぬんだ。その証拠にコレやられたんだろう。俺はそういう奴に、この上なく腹が立つ」
腕の傷を掴まれ、痛みに眉間に皺を寄せた。
「今回結果が良かったのは運に恵まれただけだ。今度、勝手な真似をしたら手加減しねぇからな」
菅野は最後にひと睨みして、屋上を去った。今頃こめかみと腕の痛みが強くなる。俺は暫くその場から動けなかった。
―――
後日、来客があると言われて署を出たら、駐車場に女性が立っていた。通り魔事件の被害者である。
「お忙しい時にすみません」
事件直後は動揺していたこともあって疲れた顔をしていたが、きちんと化粧をして身なりを整えている彼女は別人のように明るく見えた。
「あれからすぐ犯人を捕まえて下さったと聞いて」
「ああ、はい。あなたが特徴をちゃんと教えて下さったおかげです。怪我は大丈夫ですか? 病院には行かれました?」
「はい、南署の方が病院まで乗せて下さいました。全然たいした傷じゃないので。あの、これ、ありがとうございました」
怪我を負った際に俺が彼女に差し出したハンカチだった。いつからポケットに入れていたのかも思い出せないくらい皺の寄ったハンカチだったのに、返されたハンカチは洗濯されてご丁寧にアイロンまで掛けてられている。まるで新品の状態だ。
「わざわざ、よかったのに。ありがとうございます」
「あの……刑事さんみたいな方がいてくれて心強かったです。これからも頑張って下さい」
「……」
女性は数歩下がると深々と頭を下げて、帰っていった。
被疑者を捕まえて被害者に感謝されるなんて刑事の醍醐味だと思うけど、なぜか俺は嬉しくなかった。むしろ恥ずかしくて被害者の女性に申し訳なかった。事件直後の一番恐怖だった時に、警察の見苦しい諍いを見せてしまい、結果的に捕まえられたから良かったものの、被疑者を追っている時の俺は被害者のことなど頭になかった。ただ捕まえたかっただけ。もしかしたら大沢さんや南署の連中に当てつけたかっただけかもしれない。これでは結局俺も他の奴らと変わらない。
積乱雲が迫る夏空を仰ぎ、ハンカチを目の上に載せた。微かに柔軟剤のフローラルな香りが鼻をくすぐると、やるせない気持ちでいっぱいになった。
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どうも気分が晴れずに毎日冴えない日々を過ごしている。
そんな時に入った一件の通報。若い女性が路上で突然切り付けられたという。俺がいる署は規模が小さいので、大きな事件でない限り捜査は少人数の班で行っている。通報があった時点で菅野は不在だったため、現場には警部補の大沢係長と島村と一緒に駆け付けた。被疑者は逃走中とのことだ。
喜ばしい事件でないことは分かっているけれど、久しぶりの事件らしい事件に、俺は密かに腕を鳴らせる。が、そんな気負いも現場に到着するなり一変した。真っ先に車を降りた大沢さんが現場を囲む人だかりに声を掛けた。
「どうして南署の方がいらっしゃるんです?」
一斉にこちらを睨む南署の刑事たちは、犯人顔負けの人相の悪さだ。こいつらといい、菅野といい、刑事と犯罪者は紙一重だなとつくづく思う。かくいう俺も似たようなことを伯父に言われて刑事になったわけなのだが。
「いえね、先週うちの管轄内で起こった傷害事件の被疑者と同一人物の可能性がありましてね、今回のことも含めてうちが捜査しますんで」
そんなアバウトな憶測で横取りすんのかよ、と言いたいところを飲み込んだ。大沢さんが代弁してくれないかなと期待したのも束の間、大沢さんは「あっ、そうですか!」とあっさり引き下がろうとしている。南署の刑事たちの陰で、被害者の女性がまだその場で怯えているのに、目の前で所轄同士のやり取りをさらけるのはいかがなものか。俺はおもむろに被害者に近付いた。
「大丈夫です? 怪我は」
「はい、あの、ほんのかすり傷です……。咄嗟に避けたので。びっくりして腰が抜けちゃって」
腕に血が滲んでいる。傷口に宛がうようにと皺の寄ったハンカチを差し出した。
「状況とか、犯人の特徴とか、覚えている範囲でいいので教えてもらえますか」
「こらっ、野田!」
「え……と、確か、黒のTシャツと黒のキャップを被っていました。顔は……すみません、よく分からなくて。頬骨が出ていたような気がします」
「野田!」
「犯人はどっちから来て、どっちに行きました?」
「前方から自転車で来ました。ナイフを持っていたのに気付いたので、避けられたんだと思います。そのまま後方に走って行きました」
「野田ァ!」
島村に腕を取られ、引き摺られるようにして車に押し込まれた。
「ちょっと、大沢さん!」
「では、よろしくお願いします」
大沢さんは南署の連中にペコペコ頭を下げ、俺たちはふがいなく去ることになった。
「ほんとに帰っちゃうんですか?」
「だって、しょうがないじゃん。南署の署長、怖いんだもん」
「じゃん」「だもん」じゃねぇよ。舌打ちをしたら、島村に肘で突かれた。
「でも被疑者は別人かもしれないじゃないですか」
「いいじゃない、南署が探すって言ってんだから。ウチが捕まえて被疑者が同じだったらあとで文句言われるの嫌だし。そもそもあの辺の境界あやふやなんだよね」
「目標管理は管轄内でって決まってますしね!」
「島村は密かにホッとしてんだろ」
「そそそそんなことないですっ」
「暑いねェ、せっかく外に出たし、質屋巡りしながらコーヒーでも飲もうかねェ」
「んなことしたら、また菅野さんに鬼コールされますよ」
「質屋巡りは立派な仕事の一環だよ。あの人、今いないからちょっとくらい、いいじゃない。あっ、そこのコンビニ寄ってくれない?」
用を足すと言うので街中のコンビニで車を停めた。どうせトイレに行ったらちょっと立ち読みしてコーヒーを買うのだろう。
特に何かを注視するわけでもなく街の様子を眺めていた。街と言っても道路は狭いし、昼間の中心部のわりに人通りは少ないほうだ。メインストリートはそれなりに整備されていても、一歩外れれば物騒な裏路地が多い。
警察官にノルマはないとは言うけれど、結局「目標管理」という名のノルマがある。各署ごとに「○人逮捕」といったゆるいものだ。それでもその数字にこだわる奴はこだわるし、そういう奴は「うちの管轄、よその管轄」と縄張り意識が強いのだ。「犯人逮捕のためなら関係ねぇ」なんて言うつもりはないが、厄介ごとはさっさと終わらせたいので管轄とか正直言ってどうでもいい。なのに、自分はそう思っていても上司が「駄目」と言えば思い通りにならないのだから、本当に世の中大丈夫かと心配になる。
ふと首を回すと、視界の隅にほんの一瞬だけ、怪しい人影が映った。改めてその場所に焦点を当てると人影は細い路地に入ろうとしている。
「島村さ、通り魔の特徴覚えてる?」
「え? 黒のTシャツってやつですか?」
「あいつ、ぽくない?」
「……あんな豆粒みたいなの、よく見えますね」
少しでも抱いた疑心は見逃すわけにいかなかった。
「ちょっと出てくるから、大沢さん戻ってきたら伝えといてよ」
「何をです?」
「管轄違いますけど、すみませんって」
車を降りて小走りで男が入った路地へ向かう。小洒落たブティックやカフェが並ぶ大通りと違って、空き缶や紙くずが散らばった小汚い路地だ。
数メートル先に十字路があり、男はどちらかに曲がったはずだが、こういう時は心理学的に左を選ぶらしい。とか言いながら右だったらどうしよう、なんて考えながら進む。角でいったん止まり、慎重に左方を覗くと、思いがけず至近距離で切れ長の目と視線が合った。一旦曲がって引き返して来たのだろう。男は細い目を大きく見開き、驚きのあまりか声を失って口をパクパクさせた。黒いTシャツに黒いキャップ、頬骨も出ている。あきらかな動揺ぶりに、「警察だ」と言って追い打ちをかけたら、男は背を向けて走り出した。まっすぐ抜けると再び大通りに出てしまう。それまでになんとか確保はしたいが、男が意外にも足が速いので中々追いつかなかった。
徐々に距離を詰めて、あと少しというところで男が突然立ち止まり、振り向くと同時に血の付いたナイフをこちらに向かって突き出した。勢いが付きすぎていたためすぐには止まれず、ギリギリのところで身をひねるも、刃先が上腕部をかすめた。けれども、これはチャンスとばかりに素早く手刀で男の手からナイフを落とし、間髪入れずに腹に膝蹴りを入れる。ひ弱な体つきの男はそれだけで呻きながらうずくまり、なんとか騒ぎになる前に確保することができた。
取り調べの結果、南署の管轄内で起きた事件の被疑者と同一人物であることが分かり、大沢さんは複雑そうに小言を呟いていた。島村は「野田さん、漢っす」と、あからさまにゴマを擂るが、どうせこいつも大沢さんタイプだろう。純粋に被疑者確保を喜んでいる連中なんていない。その証拠に、もうひとり俺の手柄に腹を立てている人物がいる。
就業時間を過ぎてから、外出から戻って来た菅野に屋上に呼び出された。声色と顔つきで良い呼び出しでないことくらい、すぐに分かる。西日に照らされた屋上で、渋面の菅野と向かい合った。
「お前、通り魔捕まえたってな」
「……はい」
「大沢係長は現場から署に戻る途中で、捜査の命令は出していないと言っていたが?」
菅野はライターを出し、煙草に火を点けた。
「……はい」
「被疑者を追ったのは、誰の指示だ?」
「……」
ほんの数秒、間を置いただけで菅野はつかつかと俺の目の前に立ちはだかり、顎を掴んだ。そして鋭い眼で見下ろされる。あの、人を蔑む眼だ。
「こ、た、え、ろ」
「……係長が席を外した際に、たまたま車内から被疑者らしき人物を見つけて、いくら管轄外でも野放しにはできないと考えたので、独断で動きました」
すると菅野は顎から手を放すと、俺のこめかみあたりを平手打ちした。
「俺はな、管轄なんかどっちでもいいんだよ。問題なのは、てめぇが勝手に動いたことだ。単独行動してたならともかく、班行動してて独断で動くたぁ、どういうつもりだ。なんのためにペアってもんがあると思う、あ?」
「……申し訳ありませんでした」
「てめぇみたいな考えナシの馬鹿が真っ先に現場で死ぬんだ。その証拠にコレやられたんだろう。俺はそういう奴に、この上なく腹が立つ」
腕の傷を掴まれ、痛みに眉間に皺を寄せた。
「今回結果が良かったのは運に恵まれただけだ。今度、勝手な真似をしたら手加減しねぇからな」
菅野は最後にひと睨みして、屋上を去った。今頃こめかみと腕の痛みが強くなる。俺は暫くその場から動けなかった。
―――
後日、来客があると言われて署を出たら、駐車場に女性が立っていた。通り魔事件の被害者である。
「お忙しい時にすみません」
事件直後は動揺していたこともあって疲れた顔をしていたが、きちんと化粧をして身なりを整えている彼女は別人のように明るく見えた。
「あれからすぐ犯人を捕まえて下さったと聞いて」
「ああ、はい。あなたが特徴をちゃんと教えて下さったおかげです。怪我は大丈夫ですか? 病院には行かれました?」
「はい、南署の方が病院まで乗せて下さいました。全然たいした傷じゃないので。あの、これ、ありがとうございました」
怪我を負った際に俺が彼女に差し出したハンカチだった。いつからポケットに入れていたのかも思い出せないくらい皺の寄ったハンカチだったのに、返されたハンカチは洗濯されてご丁寧にアイロンまで掛けてられている。まるで新品の状態だ。
「わざわざ、よかったのに。ありがとうございます」
「あの……刑事さんみたいな方がいてくれて心強かったです。これからも頑張って下さい」
「……」
女性は数歩下がると深々と頭を下げて、帰っていった。
被疑者を捕まえて被害者に感謝されるなんて刑事の醍醐味だと思うけど、なぜか俺は嬉しくなかった。むしろ恥ずかしくて被害者の女性に申し訳なかった。事件直後の一番恐怖だった時に、警察の見苦しい諍いを見せてしまい、結果的に捕まえられたから良かったものの、被疑者を追っている時の俺は被害者のことなど頭になかった。ただ捕まえたかっただけ。もしかしたら大沢さんや南署の連中に当てつけたかっただけかもしれない。これでは結局俺も他の奴らと変わらない。
積乱雲が迫る夏空を仰ぎ、ハンカチを目の上に載せた。微かに柔軟剤のフローラルな香りが鼻をくすぐると、やるせない気持ちでいっぱいになった。
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