暗闇2
***
その日、早朝から向かったのは、とある一軒家だった。しばらく住人の姿を見かけないことと、数日前から届く匂いがただ事でないと感じた隣人から通報が入った。
一歩足を踏み入れた途端に独特の「あの」異臭が漂った。腐敗ガスが充満した部屋の中をゆっくり見て回り、ニオイのもとを探す。何度嗅いでもきつい。
「いたぞ」
菅野の視線を追うと、仏間の隅で首を吊っている老婆の姿があった。かろうじて頭と胴体は繋がっているが、あと少し発見が遅ければ分裂していただろう。とにかく腐敗がすさまじく、体中を蛆に食われてしまった悲惨な姿に、今年の四月に刑事課に来たばかりの島村が噴水のように吐いていた。菅野は島村に舌打ちを放ったが、俺の時のように胸ぐらを掴んだりはしなかった。遺体を運ぶ際、ボロボロになった写真が落ちていることに気付いた。そこには、生前の老婆とおそらく娘であろう中年女性の姿が写っていた。
「くっせー!! オエッ!!」
刑事課に戻ると、すれ違う人間は口々にそう言った。それはそうだろう。俺たちには腐敗臭がついているのだ。死体を見慣れている人間ならともかく、当直以外で死体に直面しない奴らには地獄かもしれない。
扇子を扇ぎながら、署長がけだるそうに言った。
「なにー? 腐乱死体だったのー?」
「ええ、まさに」
菅野はしれっと答える。
「検視済んでから、ちゃんと着替えたー?」
「着替えましたがね、ニオイっていうのは髪や皮膚にも付くんで、完全に除去するのは無理ですよ」
「そうなんだけどさー、あれじゃ仕事にならないよ」
パン、と閉じた扇子でフロア全体を指した。大袈裟にえづいたりトイレに駆け込んだりする職員たちで騒然としている。
「死因はなんだったの?」
「ほぼ自殺で決定です。娘が松山にいるらしいので、呼び寄せてます」
「あらそぉ~。この歳にまでなって自殺なんてねェ」
と、言う署長からは弔っている様子など微塵も感じられなかった。
昼休憩に入った頃、松山から老婆の娘だという女性が署に現れた。写真に写っていた人だ。菅野が簡単な事情聴取をしたあとに遺体を引き渡す。棺に納められている遺体を霊柩車に乗せる際、その女性は声を上げて泣き出した。
「ああぁ……おかあさぁあん……」
菅野は泣いている女性を暫く見下ろしたあと、ビニールに入れた写真を差し出した。遺体が握っていたものだ。
「この写真を握ったまま亡くなられたんですよ」
「……これ……わたし……」
「あなた方の関係がどうだったか、わたしが口を出すことじゃありませんがね、お母さんがどういう想いでこの写真を握っていたか、考えてあげて下さい」
女性はもう声の掛けようがないほど泣き崩れ、巡査に支えられながら車に乗り、署を去った。菅野はデスクには戻らずに屋上に向かった。俺は思うところがあり、菅野のあとを追う。
「菅野さん」
俺が追っていることに気付いているくせに、一度も振り返らないし、返事もしない。呼んでいるのに無視しやがって、と苛々してくる。
屋上に着き、菅野はベンチに腰掛けると持参していたコンビニ弁当を広げ、豪快にかき込み出した。慣れているとはいえ、腐乱死体を見た直後によく肉なんか食えるなと、ある意味感心する。
「なんだ」
視線は肉にあるまま、ようやく菅野が口を開いた。
「さっきの人なんですけど、なんでわざわざ、あんなこと言ったんです」
「あんなことって」
「説教するようなことです。娘さんだって、好きで死に目に逢えなかったわけじゃないのに」
「じゃあ、なんであの仏さんは自殺したと思うんだ」
「……」
「松山なんてここからさほど離れてない。高速ぶっとばせばたいした時間もかからない。それなのに娘は長年、実家に帰っていない。遺留品の日記見ただろう」
「見ました」
「母子家庭で娘とは仲良く暮らしてたのに、娘は結婚した途端に母親に寄り付かなくなった。訪ねても疎ましがられたと書いてあった。特に大きな諍いがあったともない」
「……はい」
「寂しさのあまり死んだ。むしろ俺はそんなに悲しむならなぜ生前に大事にしなかったんだと問いたいね。電話の一本かけるだけでも違うのによ」
「言ってることは分かりますけど、」
「気の毒なのは、残された方だけじゃないぜ」
「……」
「ところで、島村はまだ吐いてんのか」
そういえば署に戻ってから姿を見ていない。
「トイレに籠もってるんじゃないですか」
「まるで野田だな」
「俺はもう慣れましたよ」
「どうだかね。今度はお前が島村に喝入れてこい」
と、菅野はあざ笑った。俺はあんな人でなしなことはしたくない。島村のところに行って背中でもさすってやるか、と一旦背を向けたが、去る前に質問してみた。
「菅野さん、もし自分の身内が変死体で発見されたらどうします」
「刑事たるもの現場で動揺するべからず」
「冷静でいられますか?」
「……刑事たるもの、」
「もういいです。失礼します」
トイレに近付くと、個室から島村の呻き声が聞こえた。この蒸し暑い個室に籠もって吐き続けたら脱水になるんじゃないだろうか。ドア越しに島村に声を掛けた。
「島村、大丈夫か?」
「うっ、野田さん……」
「お前、ちょっと出てこい。脱水になるぞ」
「だ、だめです……来ないでください……」
「吐いてたって気にしないから」
「じゃなくて」
「入るぞ」
ドアを蹴破ったら、島村がなんとも情けない面で便器を抱えている。
「大丈夫、死体に慣れない奴はいるから、初めてだったんだから、しょうがないよ」
「じゃなくて……うっ……野田さん……臭う……」
そして島村は再び吐きだした。
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その日、早朝から向かったのは、とある一軒家だった。しばらく住人の姿を見かけないことと、数日前から届く匂いがただ事でないと感じた隣人から通報が入った。
一歩足を踏み入れた途端に独特の「あの」異臭が漂った。腐敗ガスが充満した部屋の中をゆっくり見て回り、ニオイのもとを探す。何度嗅いでもきつい。
「いたぞ」
菅野の視線を追うと、仏間の隅で首を吊っている老婆の姿があった。かろうじて頭と胴体は繋がっているが、あと少し発見が遅ければ分裂していただろう。とにかく腐敗がすさまじく、体中を蛆に食われてしまった悲惨な姿に、今年の四月に刑事課に来たばかりの島村が噴水のように吐いていた。菅野は島村に舌打ちを放ったが、俺の時のように胸ぐらを掴んだりはしなかった。遺体を運ぶ際、ボロボロになった写真が落ちていることに気付いた。そこには、生前の老婆とおそらく娘であろう中年女性の姿が写っていた。
「くっせー!! オエッ!!」
刑事課に戻ると、すれ違う人間は口々にそう言った。それはそうだろう。俺たちには腐敗臭がついているのだ。死体を見慣れている人間ならともかく、当直以外で死体に直面しない奴らには地獄かもしれない。
扇子を扇ぎながら、署長がけだるそうに言った。
「なにー? 腐乱死体だったのー?」
「ええ、まさに」
菅野はしれっと答える。
「検視済んでから、ちゃんと着替えたー?」
「着替えましたがね、ニオイっていうのは髪や皮膚にも付くんで、完全に除去するのは無理ですよ」
「そうなんだけどさー、あれじゃ仕事にならないよ」
パン、と閉じた扇子でフロア全体を指した。大袈裟にえづいたりトイレに駆け込んだりする職員たちで騒然としている。
「死因はなんだったの?」
「ほぼ自殺で決定です。娘が松山にいるらしいので、呼び寄せてます」
「あらそぉ~。この歳にまでなって自殺なんてねェ」
と、言う署長からは弔っている様子など微塵も感じられなかった。
昼休憩に入った頃、松山から老婆の娘だという女性が署に現れた。写真に写っていた人だ。菅野が簡単な事情聴取をしたあとに遺体を引き渡す。棺に納められている遺体を霊柩車に乗せる際、その女性は声を上げて泣き出した。
「ああぁ……おかあさぁあん……」
菅野は泣いている女性を暫く見下ろしたあと、ビニールに入れた写真を差し出した。遺体が握っていたものだ。
「この写真を握ったまま亡くなられたんですよ」
「……これ……わたし……」
「あなた方の関係がどうだったか、わたしが口を出すことじゃありませんがね、お母さんがどういう想いでこの写真を握っていたか、考えてあげて下さい」
女性はもう声の掛けようがないほど泣き崩れ、巡査に支えられながら車に乗り、署を去った。菅野はデスクには戻らずに屋上に向かった。俺は思うところがあり、菅野のあとを追う。
「菅野さん」
俺が追っていることに気付いているくせに、一度も振り返らないし、返事もしない。呼んでいるのに無視しやがって、と苛々してくる。
屋上に着き、菅野はベンチに腰掛けると持参していたコンビニ弁当を広げ、豪快にかき込み出した。慣れているとはいえ、腐乱死体を見た直後によく肉なんか食えるなと、ある意味感心する。
「なんだ」
視線は肉にあるまま、ようやく菅野が口を開いた。
「さっきの人なんですけど、なんでわざわざ、あんなこと言ったんです」
「あんなことって」
「説教するようなことです。娘さんだって、好きで死に目に逢えなかったわけじゃないのに」
「じゃあ、なんであの仏さんは自殺したと思うんだ」
「……」
「松山なんてここからさほど離れてない。高速ぶっとばせばたいした時間もかからない。それなのに娘は長年、実家に帰っていない。遺留品の日記見ただろう」
「見ました」
「母子家庭で娘とは仲良く暮らしてたのに、娘は結婚した途端に母親に寄り付かなくなった。訪ねても疎ましがられたと書いてあった。特に大きな諍いがあったともない」
「……はい」
「寂しさのあまり死んだ。むしろ俺はそんなに悲しむならなぜ生前に大事にしなかったんだと問いたいね。電話の一本かけるだけでも違うのによ」
「言ってることは分かりますけど、」
「気の毒なのは、残された方だけじゃないぜ」
「……」
「ところで、島村はまだ吐いてんのか」
そういえば署に戻ってから姿を見ていない。
「トイレに籠もってるんじゃないですか」
「まるで野田だな」
「俺はもう慣れましたよ」
「どうだかね。今度はお前が島村に喝入れてこい」
と、菅野はあざ笑った。俺はあんな人でなしなことはしたくない。島村のところに行って背中でもさすってやるか、と一旦背を向けたが、去る前に質問してみた。
「菅野さん、もし自分の身内が変死体で発見されたらどうします」
「刑事たるもの現場で動揺するべからず」
「冷静でいられますか?」
「……刑事たるもの、」
「もういいです。失礼します」
トイレに近付くと、個室から島村の呻き声が聞こえた。この蒸し暑い個室に籠もって吐き続けたら脱水になるんじゃないだろうか。ドア越しに島村に声を掛けた。
「島村、大丈夫か?」
「うっ、野田さん……」
「お前、ちょっと出てこい。脱水になるぞ」
「だ、だめです……来ないでください……」
「吐いてたって気にしないから」
「じゃなくて」
「入るぞ」
ドアを蹴破ったら、島村がなんとも情けない面で便器を抱えている。
「大丈夫、死体に慣れない奴はいるから、初めてだったんだから、しょうがないよ」
「じゃなくて……うっ……野田さん……臭う……」
そして島村は再び吐きだした。
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