暗闇1
ベッドが軋む音って、こんなにイヤラシイものだったっけ、なんて朦朧とする意識の中で考えた。やたら熱のある息遣いは、もはやどちらのものか分からない。
「お前はサイレントセックスが好きなのか?」
視界に入る男の口元は微かに笑っている。余裕ぶっているのに額には汗を滲ませていて、フェイスラインを辿った水滴が一粒、俺の頬に落ちる。そんな些細なことにすら興奮した。
だけど、興奮している事実を悟られたくない。どんなに快楽に溺れていても絶対にそれを声にしてはいけない。出すもんか。この男だけには。
サイレントセックス。
そう言われるくらい、静かで、威圧的で、不気味で、獣欲的な情事だった。
「本当に生意気な奴だな」
そう言って腰を持ち上げられ、ギリギリまで引き抜いたと思えば一気に最奥まで押し込まれた。体が突き破られるかと思うほどの衝撃、それ以上の快感……。
なんで俺、こんなことになったんだ……。
***
給料から天引きしてくれてもいいから、誰か今から五万で当直を代わって欲しい。
寝不足には堪える、日差しの一番厳しい午後一時。車の中で人が死んでいると通報が入った。夜中に捕まえたコンビニ強盗の取り調べをゆっくりしても業務終了時刻ピッタリに帰れると思ったのに、どうやら今日も長引きそうだ。
現場に駆け付けると、おそらく五十代と思われる中年男性が運転席で冷たくなっていた。発見が早くて助かった。今日のような真夏日に、誰もこの遺体に気付かなかったら一日で腐敗するだろう。財布から身元を確認したあと、丁重に署に連れ帰った。
現場には直属の上司である菅野も一緒に行ったので、当然、検視には菅野が立ち会うはずだった。それなのに、どうも嫌な予感がする。電話を終えた菅野は迷うことなくこちらに向かってくる。俺は書類に没頭する振りをした。
――お願い、勘弁して。
そんな往生際の悪い心の叫びも虚しく、パソコンに向かう俺の背後に立つ菅野。フー、と吐いた煙草の煙が顔に纏わりつく。俺が煙草を嫌いなのを知っていてわざとしてくるこの感じがイヤラシイ。ならばこちらも、と大袈裟に咳込んでみせた。
「野田、さっきの遺体の検視、お前が立ち会え」
やっぱり、と反応が遅れてしまったのは言うまでもない。
「なんだ、その顔は」
「なんでもありません。いや、別に検視が嫌とかじゃなくてですね、業務溜まるなーって」
「んなもん、お前だけじゃねぇ。俺ぁ、これから検視官と入れ違いで本部に行かなきゃなんねんだよ」
「承知してます」
と言って、建前だけの敬礼をする。
「溜まってるって、何が溜まってんだ」
ちょうど近くを通りかかった署長が笑いながら「性欲―?」と冷やかして行った。それも否定はできないが、真剣な顔で言う内容じゃない。
「強盗の取り調べとか、調書とか報告書とか」
「まだ自供してないのか。さっさと落とせ」
「被疑者に奥さんと子どもがいるみたいで家庭環境にきっかけがあると思うんで、その辺りで揺さぶってみます」
「お前の取り調べはいつも生温いんだよ。小物に時間掛けるから業務が溜まるんだ」
「菅野さんみたいに脅せば早いでしょうね」
「脅すかどうかはケースバイケースってやつだ」
ニヒルな笑みを浮かべながら、菅野はまだ火のついている煙草の先を俺の顔に近付けた。
「それ、世間ではパワハラっていうんですよ」
「この程度でパワハラだのなんだの騒いでたら、てめぇ刑事やっていけねぇな。軟弱精神を鍛えてやってんだろ。……高校生みたいなカオしやがってよ」
今度は右手の甲で頬をペチンと叩いた。いちいち腹が立つ男だ。俺は立ち上がって菅野の胸ぐらを掴み、パンチを一発お見舞いした。
――と、言いたいところだが、いくら嫌いな相手でも菅野は警部である。さすがに手を上げたら始末書ものだ。そもそも実際立ち向かったとしても、あっさり返り討ちに遭うだけだ。菅野は俺よりはるかにガタイのいい柔道有段者なのだ。悔し紛れに「パワハラの次はセクハラっすか」と残して、俺は席を立った。
刑事課に配属されて今年で四年目になる。
俺は大学を卒業してから警察官になり、警察学校、交番勤務での功績が認められて二十五歳で刑事になった。別に刑事に憧れていたというわけではない。周りが就職活動で必死になっている頃、夢も目標もやる気もなく、のらりくらりと生きている俺に、当時県警本部の部長だった伯父に勧められただけだ。
――お前は短気だし喧嘩っ早い。その有り余った力を刑事になって生かせ。じゃないと、お前はいつか犯罪者になる。――
伯父のこの言葉で、軽い気持ちで警察官になったのだ。
――刑事ってあれだろ? パンと牛乳食いながら張り込みして、犯人追っかけて、拳銃で脅したり説得したりして、カッコ良く手錠掛けて「よくやった」とか言われちゃうヒーロー的存在だろ?――
完全に人情刑事ドラマからの印象だ。だけど、実際入るとそんないい世界じゃなかった。正直言って舐めていたのだ。
刑事になって初めて行った現場は、一人暮らしの老人が住む古荘アパートだった。連絡をしても音沙汰がないと市役所から知らせを受けて赴いた。老人は浴室で溺死していた。水分と腐敗ガスをたっぷり含んだ体は膨化し、目は飛び出て髪は抜け落ち、湯の中に汚物と一緒に浮かんでいた。想像をはるかに超える惨事に、俺は思わず顔を歪めて俯いた。何より、尋常じゃないニオイ。そしてその時一緒に現場に行った菅野が「俺に」命じた。
「引き揚げろ」
「……え……?」
「遺体を引き揚げろと言ってるんだ。さっさとしろ」
はっきり言って、めちゃくちゃ嫌だった。排泄物だらけの湯に手を突っ込んで、デロデロになった遺体の脇らしき部分を支える。勿論、他の警察官も手伝ってはくれたが、人生の中であれほど嫌だった瞬間はない。床に遺体を下ろした時、手首に重みを感じた。体から剥がれた皮膚が、べっとりと俺の腕に残っていたのだった。
署に戻ってから、俺は暫くトイレに籠もって吐き続けた。現場で吐かなかっただけまだマシだ、よく頑張った、と自分で自分を褒めながら、胃の中が空っぽになるまで吐いた。けれど個室から出た途端、ドアの前で待ち構えていた菅野が突然、俺の胸ぐらを掴んで、こう言った。
「んな弱っちぃ胃と肝っ玉で、やっていけると思ってんのか、え? 情けねぇな。交番時代にも死体は見たことあるだろ。現場であからさまに動揺すんじゃねぇ」
腹をぐっと押されて俺は再び戻しそうになったが、なんとか耐えた。まるで虫けらを見るような冷たい眼。他の先輩は「初めてにしちゃ頑張ったよ」と労ってくれたが、俺はあの時の菅野の眼がどうしても忘れられない。
――菅野康介。俺はあれから、あの男が苦手だ。粗暴で突き放した物言いはおそらく生まれ持ったものだろう。俺はあの男の眼が苦手なのだ。人を蔑む眼。しかも菅野があの眼差しを送るのは俺にだけ。
初めて行った現場での俺の態度によっぽど腹が立ったのか、俺がいちいち歯向かうのが気に入らないのか(誰だって気に入らないと思うけど)、とにかく菅野が俺を嫌っていることは確かだろう。
――なんで俺なんだよ。
そんな沸々と湧き上がる苛立ちで疲労を紛らわせながら、本部から到着した検視官とともに霊安室へ向かった。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。では、始めましょうか」
既に始まっている死後硬直を、筋肉をほぐして解かしてやる。死斑は出ているが、目立った外傷はなく、比較的まともな状態だ。初めて溺死体を見た時は暫く食事も喉を通らないほどショックを受けたけれど、頻繁に色んな遺体を見ていくうちに、良いのか悪いのか慣れてしまった。それでも中には思わずえづいてしまうほど惨い遺体や、泣きたくなるくらい切ない遺体に対面することがある。そして、そんな時、ふと考えてしまうのだ。
――もしこれが、自分の身内や知り合いだったら……。
業務を終えて日がすっかり沈んでから署を出た。ちょうど本部から戻った菅野とすれ違う。思えばこいつも不眠不休なのだ。言いたくはないが、「お疲れ様です」と声を掛けた。
「検視は」
「心臓発作による急死です。遺族のもとに帰しました」
「ホシは落ちたか」
「はい。リストラされて生活費に困ったからやったそうです」
「お前は本当に、のろまだな」
「……」
菅野は俺を通り過ぎ、数メートルほど歩いたところで振り返った。冷たい眼差しを向けられる。
「虎の威を借る狐、――って言われないようにするんだな」
――この野郎。
***
「ほんっと、ムカつくんだよ、あのハゲ!」
「ハゲてるの? その人」
「いや、ハゲてないけど。ソフトモヒカンなんてハゲみたいなもんだろ」
「全国のソフトモヒカンに失礼だよ」
仕事帰りの夜は、行きつけのバーでお洒落なカクテルには不似合いなほど口汚い愚痴をこぼしてしまう。警察官には守秘義務があるので仕事内容は話せないが、菅野の愚痴だけは止まらない。そしてそれを穏やかな口調で窘めるのは、中学時代からの友人だ。
「検視なんて、小心者の僕には想像もできないな。そんなことできるなんてすごいね」
「すごかねぇよ。慣れりゃ誰でもできる」
「その上司の人、みっちゃんに期待してるんだよ。だから、そうやってキツく当たるんじゃない?」
「それはないって」
みっちゃんとは俺のあだ名である。「瑞樹」の「みっちゃん」。このあだ名で呼ぶのはこいつだけだ。ちなみにこいつは「祐之介」という男らしい名前を持っているくせに、その辺の女より可愛らしい見た目で温和な雰囲気を醸し出す。大雑把で口の悪い俺とはタイプが真逆なのに付き合いが長いのは、俺が祐之介と一緒にいると癒されるから、というのが大きな理由だ。こいつもよく俺の愚痴に毎回付き合っていられるよな、と子犬の顔をした祐之介に感謝する。
マスターがグラスを拭きながら話を変えた。
「でも死体を見に行くなんて、僕も嫌だな。飛び込み自殺の現場とかも行くんでしょ?」
「飛び込み自殺なんて本人は一瞬で死ねるからいいかもしれないけど、それを片付ける周りのこと考えろってんだ、なぁ」
祐之介に同意を求めると、苦笑しながら首を傾げ、「そうだね」と呟いた。
「あーあ。ストレス発散したいな」
「野田さん、彼女はいないんですか?」
彼女なんていたことない。なぜなら俺はゲイだからだ。
自分の性的指向に気付いたのは高校生の頃だった。女に感じるものがないというのは中学生の時から気付いていたが、同級生にふざけて抱き締められた時に勃ってしまったのがきっかけだった。特に違和感も葛藤もなく、「あ、やっぱりそうなんだ」と、わりとあっさりした性の目覚めだったように思う。ただ、やはりそれを公言するのは勇気がいるもので、なるべくノーマルを装って知人は勿論、家族にも隠し通してきた。特定の恋人は作らない。というより、作れないとハナから諦めている。その場凌ぎや寝るだけの男なら何人かいたが、警察官になってからは職業柄、出会い系は気が引けるし世間体もある。そんなこんなで恋人はおろかセフレさえもおらずに、溜まる欲求不満を自らで処理するのみという色気のない生活が続いているのだ。
「みっちゃん、飲みすぎじゃない? 出ようか」
祐之介に連れられて、「まだ飲みたいのに」と駄々をこねながらバーをあとにした。
生温い湿った空気。夜中のうちに雨が降るかもしれない。酒は強いほうだが、火照った体にこの気温と湿気は気分が悪くなる。ふらつく足取りで時折膝が崩れ、その度に祐之介が腕を支えてくれた。
「大丈夫?」
「……祐は優しいよな」
「そんなことないよ」
「お前みたいなのが上司だったら、仕事も楽しいかもしれないのに」
「僕みたいな上司なんて頼りないだけさ。でもさ、その嫌いな上司って、前にみっちゃんが格好いいって言ってた人じゃないの?」
「いつの話してんだよ」
刑事課に配属された初日のことだ。当時、警部補だった菅野に挨拶をした時、素直に格好いいと思ってしまった。体格が良くて、やたら姿勢も良くて、前髪が持ち上がったすっきりとした短髪のせいか、男らしいわりには清潔感がある男だった。鋭い目で見下ろされると怖気付くが、その威圧感が若くして貫禄を手に入れたのだと思った。今すぐあの日へ戻れるなら「騙されるな」と自分に言いたい。
「……あれで性格が良けりゃ完璧なのになぁ……」
だけど、今更優しくされても気味が悪いだけだろう。祐之介がしんみりして言った。
「僕はみっちゃんが羨ましいけどね」
「なんで?」
「そんな怖い上司に立ち向かえるのが羨ましい」
「立ち向かえてないから。やられっぱなしだから」
「僕なんか、全然駄目だ。上司に叱られるとすぐ縮こまっちゃうし、自信が持てないし。せめて、みっちゃんみたいに期待されてたらな」
「期待なんかされてねぇよ。扱いは虫以下だ」
「期待してるから厳しくするんだよ。期待してない人には、なんにも言わない。放置だから」
まるで自分がその扱いを受けているとでもいうような言い方だった。
「なんかあったのか?」
「………なんにも。僕も疲れてるのかもしれない」
そうだ、こいつも疲れているのだ。職業は違うけど銀行で営業マンをしている祐之介はノルマにいつも悩まされている。きっと祐之介にも反りの合わない上司や同僚がいるだろう。俺は自分ばかり愚痴を言っていることを急に恥ずかしく思った。
「ごめんな、俺ばっかり」
「いいんだ。僕はみっちゃんといると楽しいよ。愚痴でもなんでもいいから、話してくれると嬉しい」
「……」
「みっちゃんはいつか、その上司のこと好きになってそうだなぁ」
「なんでだよ、大体、あいつ男だし」
「そういう意味じゃなくてさ」
「………だよな」
「だけど、恋愛でも尊敬でも友情でもいいんだ。人を好きになるのに理屈はいらない」
俺は付き合いの長い祐之介にさえも、自分の性質を打ち明けられずにいる。こいつならきっと何を言っても馬鹿にしないだろうし、引きもしないだろう。だけど万が一、引かれたら? そう考えると臆病になる。こんなに良くしてくれる親友を失いたくはない。
人を好きになるのに理屈はいらない、か。思えば俺は今まで本気で誰かを好きになったことがあっただろうか。好きになってもらえたことがあるのだろうか。そして今後、そんな相手は現れるのだろうか。
なんだか突然、虚しくなった。三架橋の上から、黒い川を眺める。水面は街の灯りが反射してキラキラ揺れているが、少し潜ればそこは暗黒の世界だ。沈めば沈むほど、暗くて冷たくて寂しい暗闇。俺はもしかしたら一生、そんな世界で生きていくのかもしれない。
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「お前はサイレントセックスが好きなのか?」
視界に入る男の口元は微かに笑っている。余裕ぶっているのに額には汗を滲ませていて、フェイスラインを辿った水滴が一粒、俺の頬に落ちる。そんな些細なことにすら興奮した。
だけど、興奮している事実を悟られたくない。どんなに快楽に溺れていても絶対にそれを声にしてはいけない。出すもんか。この男だけには。
サイレントセックス。
そう言われるくらい、静かで、威圧的で、不気味で、獣欲的な情事だった。
「本当に生意気な奴だな」
そう言って腰を持ち上げられ、ギリギリまで引き抜いたと思えば一気に最奥まで押し込まれた。体が突き破られるかと思うほどの衝撃、それ以上の快感……。
なんで俺、こんなことになったんだ……。
***
給料から天引きしてくれてもいいから、誰か今から五万で当直を代わって欲しい。
寝不足には堪える、日差しの一番厳しい午後一時。車の中で人が死んでいると通報が入った。夜中に捕まえたコンビニ強盗の取り調べをゆっくりしても業務終了時刻ピッタリに帰れると思ったのに、どうやら今日も長引きそうだ。
現場に駆け付けると、おそらく五十代と思われる中年男性が運転席で冷たくなっていた。発見が早くて助かった。今日のような真夏日に、誰もこの遺体に気付かなかったら一日で腐敗するだろう。財布から身元を確認したあと、丁重に署に連れ帰った。
現場には直属の上司である菅野も一緒に行ったので、当然、検視には菅野が立ち会うはずだった。それなのに、どうも嫌な予感がする。電話を終えた菅野は迷うことなくこちらに向かってくる。俺は書類に没頭する振りをした。
――お願い、勘弁して。
そんな往生際の悪い心の叫びも虚しく、パソコンに向かう俺の背後に立つ菅野。フー、と吐いた煙草の煙が顔に纏わりつく。俺が煙草を嫌いなのを知っていてわざとしてくるこの感じがイヤラシイ。ならばこちらも、と大袈裟に咳込んでみせた。
「野田、さっきの遺体の検視、お前が立ち会え」
やっぱり、と反応が遅れてしまったのは言うまでもない。
「なんだ、その顔は」
「なんでもありません。いや、別に検視が嫌とかじゃなくてですね、業務溜まるなーって」
「んなもん、お前だけじゃねぇ。俺ぁ、これから検視官と入れ違いで本部に行かなきゃなんねんだよ」
「承知してます」
と言って、建前だけの敬礼をする。
「溜まってるって、何が溜まってんだ」
ちょうど近くを通りかかった署長が笑いながら「性欲―?」と冷やかして行った。それも否定はできないが、真剣な顔で言う内容じゃない。
「強盗の取り調べとか、調書とか報告書とか」
「まだ自供してないのか。さっさと落とせ」
「被疑者に奥さんと子どもがいるみたいで家庭環境にきっかけがあると思うんで、その辺りで揺さぶってみます」
「お前の取り調べはいつも生温いんだよ。小物に時間掛けるから業務が溜まるんだ」
「菅野さんみたいに脅せば早いでしょうね」
「脅すかどうかはケースバイケースってやつだ」
ニヒルな笑みを浮かべながら、菅野はまだ火のついている煙草の先を俺の顔に近付けた。
「それ、世間ではパワハラっていうんですよ」
「この程度でパワハラだのなんだの騒いでたら、てめぇ刑事やっていけねぇな。軟弱精神を鍛えてやってんだろ。……高校生みたいなカオしやがってよ」
今度は右手の甲で頬をペチンと叩いた。いちいち腹が立つ男だ。俺は立ち上がって菅野の胸ぐらを掴み、パンチを一発お見舞いした。
――と、言いたいところだが、いくら嫌いな相手でも菅野は警部である。さすがに手を上げたら始末書ものだ。そもそも実際立ち向かったとしても、あっさり返り討ちに遭うだけだ。菅野は俺よりはるかにガタイのいい柔道有段者なのだ。悔し紛れに「パワハラの次はセクハラっすか」と残して、俺は席を立った。
刑事課に配属されて今年で四年目になる。
俺は大学を卒業してから警察官になり、警察学校、交番勤務での功績が認められて二十五歳で刑事になった。別に刑事に憧れていたというわけではない。周りが就職活動で必死になっている頃、夢も目標もやる気もなく、のらりくらりと生きている俺に、当時県警本部の部長だった伯父に勧められただけだ。
――お前は短気だし喧嘩っ早い。その有り余った力を刑事になって生かせ。じゃないと、お前はいつか犯罪者になる。――
伯父のこの言葉で、軽い気持ちで警察官になったのだ。
――刑事ってあれだろ? パンと牛乳食いながら張り込みして、犯人追っかけて、拳銃で脅したり説得したりして、カッコ良く手錠掛けて「よくやった」とか言われちゃうヒーロー的存在だろ?――
完全に人情刑事ドラマからの印象だ。だけど、実際入るとそんないい世界じゃなかった。正直言って舐めていたのだ。
刑事になって初めて行った現場は、一人暮らしの老人が住む古荘アパートだった。連絡をしても音沙汰がないと市役所から知らせを受けて赴いた。老人は浴室で溺死していた。水分と腐敗ガスをたっぷり含んだ体は膨化し、目は飛び出て髪は抜け落ち、湯の中に汚物と一緒に浮かんでいた。想像をはるかに超える惨事に、俺は思わず顔を歪めて俯いた。何より、尋常じゃないニオイ。そしてその時一緒に現場に行った菅野が「俺に」命じた。
「引き揚げろ」
「……え……?」
「遺体を引き揚げろと言ってるんだ。さっさとしろ」
はっきり言って、めちゃくちゃ嫌だった。排泄物だらけの湯に手を突っ込んで、デロデロになった遺体の脇らしき部分を支える。勿論、他の警察官も手伝ってはくれたが、人生の中であれほど嫌だった瞬間はない。床に遺体を下ろした時、手首に重みを感じた。体から剥がれた皮膚が、べっとりと俺の腕に残っていたのだった。
署に戻ってから、俺は暫くトイレに籠もって吐き続けた。現場で吐かなかっただけまだマシだ、よく頑張った、と自分で自分を褒めながら、胃の中が空っぽになるまで吐いた。けれど個室から出た途端、ドアの前で待ち構えていた菅野が突然、俺の胸ぐらを掴んで、こう言った。
「んな弱っちぃ胃と肝っ玉で、やっていけると思ってんのか、え? 情けねぇな。交番時代にも死体は見たことあるだろ。現場であからさまに動揺すんじゃねぇ」
腹をぐっと押されて俺は再び戻しそうになったが、なんとか耐えた。まるで虫けらを見るような冷たい眼。他の先輩は「初めてにしちゃ頑張ったよ」と労ってくれたが、俺はあの時の菅野の眼がどうしても忘れられない。
――菅野康介。俺はあれから、あの男が苦手だ。粗暴で突き放した物言いはおそらく生まれ持ったものだろう。俺はあの男の眼が苦手なのだ。人を蔑む眼。しかも菅野があの眼差しを送るのは俺にだけ。
初めて行った現場での俺の態度によっぽど腹が立ったのか、俺がいちいち歯向かうのが気に入らないのか(誰だって気に入らないと思うけど)、とにかく菅野が俺を嫌っていることは確かだろう。
――なんで俺なんだよ。
そんな沸々と湧き上がる苛立ちで疲労を紛らわせながら、本部から到着した検視官とともに霊安室へ向かった。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。では、始めましょうか」
既に始まっている死後硬直を、筋肉をほぐして解かしてやる。死斑は出ているが、目立った外傷はなく、比較的まともな状態だ。初めて溺死体を見た時は暫く食事も喉を通らないほどショックを受けたけれど、頻繁に色んな遺体を見ていくうちに、良いのか悪いのか慣れてしまった。それでも中には思わずえづいてしまうほど惨い遺体や、泣きたくなるくらい切ない遺体に対面することがある。そして、そんな時、ふと考えてしまうのだ。
――もしこれが、自分の身内や知り合いだったら……。
業務を終えて日がすっかり沈んでから署を出た。ちょうど本部から戻った菅野とすれ違う。思えばこいつも不眠不休なのだ。言いたくはないが、「お疲れ様です」と声を掛けた。
「検視は」
「心臓発作による急死です。遺族のもとに帰しました」
「ホシは落ちたか」
「はい。リストラされて生活費に困ったからやったそうです」
「お前は本当に、のろまだな」
「……」
菅野は俺を通り過ぎ、数メートルほど歩いたところで振り返った。冷たい眼差しを向けられる。
「虎の威を借る狐、――って言われないようにするんだな」
――この野郎。
***
「ほんっと、ムカつくんだよ、あのハゲ!」
「ハゲてるの? その人」
「いや、ハゲてないけど。ソフトモヒカンなんてハゲみたいなもんだろ」
「全国のソフトモヒカンに失礼だよ」
仕事帰りの夜は、行きつけのバーでお洒落なカクテルには不似合いなほど口汚い愚痴をこぼしてしまう。警察官には守秘義務があるので仕事内容は話せないが、菅野の愚痴だけは止まらない。そしてそれを穏やかな口調で窘めるのは、中学時代からの友人だ。
「検視なんて、小心者の僕には想像もできないな。そんなことできるなんてすごいね」
「すごかねぇよ。慣れりゃ誰でもできる」
「その上司の人、みっちゃんに期待してるんだよ。だから、そうやってキツく当たるんじゃない?」
「それはないって」
みっちゃんとは俺のあだ名である。「瑞樹」の「みっちゃん」。このあだ名で呼ぶのはこいつだけだ。ちなみにこいつは「祐之介」という男らしい名前を持っているくせに、その辺の女より可愛らしい見た目で温和な雰囲気を醸し出す。大雑把で口の悪い俺とはタイプが真逆なのに付き合いが長いのは、俺が祐之介と一緒にいると癒されるから、というのが大きな理由だ。こいつもよく俺の愚痴に毎回付き合っていられるよな、と子犬の顔をした祐之介に感謝する。
マスターがグラスを拭きながら話を変えた。
「でも死体を見に行くなんて、僕も嫌だな。飛び込み自殺の現場とかも行くんでしょ?」
「飛び込み自殺なんて本人は一瞬で死ねるからいいかもしれないけど、それを片付ける周りのこと考えろってんだ、なぁ」
祐之介に同意を求めると、苦笑しながら首を傾げ、「そうだね」と呟いた。
「あーあ。ストレス発散したいな」
「野田さん、彼女はいないんですか?」
彼女なんていたことない。なぜなら俺はゲイだからだ。
自分の性的指向に気付いたのは高校生の頃だった。女に感じるものがないというのは中学生の時から気付いていたが、同級生にふざけて抱き締められた時に勃ってしまったのがきっかけだった。特に違和感も葛藤もなく、「あ、やっぱりそうなんだ」と、わりとあっさりした性の目覚めだったように思う。ただ、やはりそれを公言するのは勇気がいるもので、なるべくノーマルを装って知人は勿論、家族にも隠し通してきた。特定の恋人は作らない。というより、作れないとハナから諦めている。その場凌ぎや寝るだけの男なら何人かいたが、警察官になってからは職業柄、出会い系は気が引けるし世間体もある。そんなこんなで恋人はおろかセフレさえもおらずに、溜まる欲求不満を自らで処理するのみという色気のない生活が続いているのだ。
「みっちゃん、飲みすぎじゃない? 出ようか」
祐之介に連れられて、「まだ飲みたいのに」と駄々をこねながらバーをあとにした。
生温い湿った空気。夜中のうちに雨が降るかもしれない。酒は強いほうだが、火照った体にこの気温と湿気は気分が悪くなる。ふらつく足取りで時折膝が崩れ、その度に祐之介が腕を支えてくれた。
「大丈夫?」
「……祐は優しいよな」
「そんなことないよ」
「お前みたいなのが上司だったら、仕事も楽しいかもしれないのに」
「僕みたいな上司なんて頼りないだけさ。でもさ、その嫌いな上司って、前にみっちゃんが格好いいって言ってた人じゃないの?」
「いつの話してんだよ」
刑事課に配属された初日のことだ。当時、警部補だった菅野に挨拶をした時、素直に格好いいと思ってしまった。体格が良くて、やたら姿勢も良くて、前髪が持ち上がったすっきりとした短髪のせいか、男らしいわりには清潔感がある男だった。鋭い目で見下ろされると怖気付くが、その威圧感が若くして貫禄を手に入れたのだと思った。今すぐあの日へ戻れるなら「騙されるな」と自分に言いたい。
「……あれで性格が良けりゃ完璧なのになぁ……」
だけど、今更優しくされても気味が悪いだけだろう。祐之介がしんみりして言った。
「僕はみっちゃんが羨ましいけどね」
「なんで?」
「そんな怖い上司に立ち向かえるのが羨ましい」
「立ち向かえてないから。やられっぱなしだから」
「僕なんか、全然駄目だ。上司に叱られるとすぐ縮こまっちゃうし、自信が持てないし。せめて、みっちゃんみたいに期待されてたらな」
「期待なんかされてねぇよ。扱いは虫以下だ」
「期待してるから厳しくするんだよ。期待してない人には、なんにも言わない。放置だから」
まるで自分がその扱いを受けているとでもいうような言い方だった。
「なんかあったのか?」
「………なんにも。僕も疲れてるのかもしれない」
そうだ、こいつも疲れているのだ。職業は違うけど銀行で営業マンをしている祐之介はノルマにいつも悩まされている。きっと祐之介にも反りの合わない上司や同僚がいるだろう。俺は自分ばかり愚痴を言っていることを急に恥ずかしく思った。
「ごめんな、俺ばっかり」
「いいんだ。僕はみっちゃんといると楽しいよ。愚痴でもなんでもいいから、話してくれると嬉しい」
「……」
「みっちゃんはいつか、その上司のこと好きになってそうだなぁ」
「なんでだよ、大体、あいつ男だし」
「そういう意味じゃなくてさ」
「………だよな」
「だけど、恋愛でも尊敬でも友情でもいいんだ。人を好きになるのに理屈はいらない」
俺は付き合いの長い祐之介にさえも、自分の性質を打ち明けられずにいる。こいつならきっと何を言っても馬鹿にしないだろうし、引きもしないだろう。だけど万が一、引かれたら? そう考えると臆病になる。こんなに良くしてくれる親友を失いたくはない。
人を好きになるのに理屈はいらない、か。思えば俺は今まで本気で誰かを好きになったことがあっただろうか。好きになってもらえたことがあるのだろうか。そして今後、そんな相手は現れるのだろうか。
なんだか突然、虚しくなった。三架橋の上から、黒い川を眺める。水面は街の灯りが反射してキラキラ揺れているが、少し潜ればそこは暗黒の世界だ。沈めば沈むほど、暗くて冷たくて寂しい暗闇。俺はもしかしたら一生、そんな世界で生きていくのかもしれない。
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- Posted in: ★GUILTY‐ギルティ‐
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