槙田 慎二 4
***
平野はもともと「三波」という苗字で、本当の両親はバラバラに暮らしていると言う。
小さい頃はばあちゃんに育てられて、両親との思い出は何ひとつない、と言い切った。
年の離れた妹だけが、唯一の家族だったと。
母親は服とか化粧ばっかりに気を遣って、夫と子どもを放って平気で浮気をする最低女、
父親は寂しさを紛らわせるためか酒に溺れて暴力を振るう、どうしようもなく哀れな男だったと、平野は吐き捨てるように言った。
話をしている平野は、普段からは想像もできないくらい、とても冷ややかな目をしていた。
隣にいるだけで背中に汗が流れるような、そんなピリピリした空気が俺たちだけを包んだ。
「いつ死ぬだろう、明日死ぬかもしれない、いや今日、家に帰ったら殺されるかもしれない」。
手加減なく力任せに殴られ、蹴られ、首を絞められ、刃物で脅されることもあったらしい。
誰にも気付かれることなく、母親にも見向きもされず、孤独と恐怖で気が狂いそうな日々だったと、平野は話してくれた。
「……ぎ、虐待って、やつ? ほんとに……?」
ニュースでよく聞く「アレ」?
だってそんなのドラマみたい、という心の声は平野に聞こえていたのだろう。
平野はおもむろに袖をまくった。
前腕に残る、ケロイドのように盛り上がった傷痕。
赤くはないし、もっと日にちが経てば目立たなくなりそうな、そのくらいの傷ではある。
「……お茶を沸かしてて、沸騰したやかんを親父が投げつけた時に火傷した」
「む、むしろ、この程度で済んで良かったな……」
「だんだん『あ、くる』って分かってくるから、防御とか避けるのは上手くなった」
「お前、レシーブ上手いもんな……」
平野は「ふっ、」と噴き出した。
「いい鍛え方じゃないけどね」
そして続きを話す。
「もうそろそろ駄目かなって思った頃に、ある人に……出会って、」
最初は母親の恋人だったらしい。
その時点で「ん?」となったが、まあ、暫く聞いてみる。
小児科医で、いつも自信を持ってそうな、あきらかに自分とは生まれも育ちも違う、嫌味で馴れ馴れしくて、鬱陶しくて、だけどすごく優しい人――らしい。
誰も気付かなかった傷や痣に気付いて手当をしてくれたり、寝床を貸してくれたり、かくまってくれたり……、
「馬鹿なんじゃないかと思うくらいの、お人好し」
「助けてもらっておいて、それはないだろ」
平野は恥ずかしそうに微笑する。
「あの人はあの人で悩み事とかあったと思う。実際、仕事で落ち込んで帰ってきた時もあったし、その時は本当に憔悴してて、だけどそんな時でも俺のことを気遣ってくれた」
すぐに心を開くことはなかったけど、その人には最初から随分救われたと、
まるで恋する乙女のように、今度は表情を和らげた。
「敬吾さんには本当に甘え切ってた。一緒にいると楽しかったし、嬉しいこともいっぱいあった。だけど、いつまでも一緒にいられる関係じゃないし、このままだと依存してどんどん駄目な人間になりそうな気がして……」
母親の恋人を略奪しときながら、自ら逃げるようにして別れたんだ、と、泣きそうな声。
「はい、質問」
「なに」
「母親の恋人ってことは、男の人?だよね?」
「そうだけど」
平野の顔には「それが何か」と書かれている。
「……常識的には、ありえないかもしれないけど、敬吾さんは俺にとって、親であり、兄であり、友人であり、……好きな人…だから、敬吾さんを好きな気持ちは否定したくないんだ」
思いっきり胸が痛んだ。
昨夜、男を好きになるなんてありえないと否定しようとした自分が恥ずかしいくらいに、とてつもないショックを受けた。
けいごさんが、けいごさんに、けいごさんを、……無意識に名前を連呼するくらい、性別なんて関係ないくらい、平野はその人ばっかりなんだろう。
「今の両親は、従伯父夫婦なんだけど、そんな俺の環境を気に掛けて、養子にしてくれたんだ」
「そうなんだ……」
「前はもっと荒んでた。不良と一緒に夜中に出歩いたり、わりとすぐ突っかかるほうだった。今は……両親を裏切りたくないから、ちょっと変わろうかなと思って」
だから毎日、予習復習を怠らないのか。
俺の中の平野は、大事に育てられて、ちょっと世間知らずっぽい感じの、穏やかで大人しい、可愛いイメージだったけど、話を聞く限り、それとは程遠い人生を歩んできたらしい。
「その、けいごさん?とは、今も連絡取ってるの?」
「ううん、こっち来る時にスマホ解約したし、住所も教えてないから」
「……会いたくならないの?」
平野はそれには答えなかった。だけど聞かなくても、いつも見るあの寂しそうな顔を思い出せば分かる。
「……こんな感じなんだけど、聞きたいことあったら聞いていいよ」
気軽に「お前のことが知りたい」と言っておきながら、思いがけず壮絶な話を聞いてしまい、
ますます混乱していた。これ以上聞いたら、きっと俺の脳みそは爆発するに違いない。
「話してくれて、ありがとな」
やっぱりどこか寂しげに笑う平野。
話してしまったことで、けいごさんとやらをますます恋しく思ったはずだ。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
平野に影響されてか、「男だから」って理由で好きな気持ちを否定するのはやめようと前向きになれた。
俺は平野が好きだ。
思えば転入してきたときから、あいつの一挙一動を観察してたんだ。
初めて話し掛けられた時、正直言ってめちゃくちゃ嬉しかったし、笑顔を見てキュンともした。
もはや、ひと目惚れレベルで最初から好きだったんだろう。
…親であり、兄であり、友人であり、……好きな人か。
俺は興味本位でネット検索をかけてみた。
『小児科医 けいご』
有名人じゃあるまいし、出るわけねぇか、と思っていたのだけど、
「うわっ、出た」
『豊浜総合病院|小児科……(…けいご)』
このキーワードで一人しか出てこないってことは、この人でたぶん合ってるだろう。
とりあえず上から二番目あたりをクリック。病院のスタッフ紹介のページだった。
『飯島 敬吾(いいじま けいご) 平成23年卒 小児科一般』
「医学部って六年制で、23年卒ってことは……、30か!マジでか!」(※平成28年設定)
写真の敬吾さんは、年齢より若く見えて、真面目そうな、優しそうな、悔しいけど、
――格好いい。
こんな人が、人生諦めた時に現れて救ってくれたんじゃあ、そりゃ惚れるわ。
俺だって惚れるわ。
いくら離れてても、連絡がつかなくても、この人が平野の親であり兄であり友人であり、
……恋人か。
勝ち目ゼロじゃん。
「……何やってんだ、俺」
これ、平野も見たのかなぁ……なんて、考えながら、俺は眠りに落ちた。
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平野はもともと「三波」という苗字で、本当の両親はバラバラに暮らしていると言う。
小さい頃はばあちゃんに育てられて、両親との思い出は何ひとつない、と言い切った。
年の離れた妹だけが、唯一の家族だったと。
母親は服とか化粧ばっかりに気を遣って、夫と子どもを放って平気で浮気をする最低女、
父親は寂しさを紛らわせるためか酒に溺れて暴力を振るう、どうしようもなく哀れな男だったと、平野は吐き捨てるように言った。
話をしている平野は、普段からは想像もできないくらい、とても冷ややかな目をしていた。
隣にいるだけで背中に汗が流れるような、そんなピリピリした空気が俺たちだけを包んだ。
「いつ死ぬだろう、明日死ぬかもしれない、いや今日、家に帰ったら殺されるかもしれない」。
手加減なく力任せに殴られ、蹴られ、首を絞められ、刃物で脅されることもあったらしい。
誰にも気付かれることなく、母親にも見向きもされず、孤独と恐怖で気が狂いそうな日々だったと、平野は話してくれた。
「……ぎ、虐待って、やつ? ほんとに……?」
ニュースでよく聞く「アレ」?
だってそんなのドラマみたい、という心の声は平野に聞こえていたのだろう。
平野はおもむろに袖をまくった。
前腕に残る、ケロイドのように盛り上がった傷痕。
赤くはないし、もっと日にちが経てば目立たなくなりそうな、そのくらいの傷ではある。
「……お茶を沸かしてて、沸騰したやかんを親父が投げつけた時に火傷した」
「む、むしろ、この程度で済んで良かったな……」
「だんだん『あ、くる』って分かってくるから、防御とか避けるのは上手くなった」
「お前、レシーブ上手いもんな……」
平野は「ふっ、」と噴き出した。
「いい鍛え方じゃないけどね」
そして続きを話す。
「もうそろそろ駄目かなって思った頃に、ある人に……出会って、」
最初は母親の恋人だったらしい。
その時点で「ん?」となったが、まあ、暫く聞いてみる。
小児科医で、いつも自信を持ってそうな、あきらかに自分とは生まれも育ちも違う、嫌味で馴れ馴れしくて、鬱陶しくて、だけどすごく優しい人――らしい。
誰も気付かなかった傷や痣に気付いて手当をしてくれたり、寝床を貸してくれたり、かくまってくれたり……、
「馬鹿なんじゃないかと思うくらいの、お人好し」
「助けてもらっておいて、それはないだろ」
平野は恥ずかしそうに微笑する。
「あの人はあの人で悩み事とかあったと思う。実際、仕事で落ち込んで帰ってきた時もあったし、その時は本当に憔悴してて、だけどそんな時でも俺のことを気遣ってくれた」
すぐに心を開くことはなかったけど、その人には最初から随分救われたと、
まるで恋する乙女のように、今度は表情を和らげた。
「敬吾さんには本当に甘え切ってた。一緒にいると楽しかったし、嬉しいこともいっぱいあった。だけど、いつまでも一緒にいられる関係じゃないし、このままだと依存してどんどん駄目な人間になりそうな気がして……」
母親の恋人を略奪しときながら、自ら逃げるようにして別れたんだ、と、泣きそうな声。
「はい、質問」
「なに」
「母親の恋人ってことは、男の人?だよね?」
「そうだけど」
平野の顔には「それが何か」と書かれている。
「……常識的には、ありえないかもしれないけど、敬吾さんは俺にとって、親であり、兄であり、友人であり、……好きな人…だから、敬吾さんを好きな気持ちは否定したくないんだ」
思いっきり胸が痛んだ。
昨夜、男を好きになるなんてありえないと否定しようとした自分が恥ずかしいくらいに、とてつもないショックを受けた。
けいごさんが、けいごさんに、けいごさんを、……無意識に名前を連呼するくらい、性別なんて関係ないくらい、平野はその人ばっかりなんだろう。
「今の両親は、従伯父夫婦なんだけど、そんな俺の環境を気に掛けて、養子にしてくれたんだ」
「そうなんだ……」
「前はもっと荒んでた。不良と一緒に夜中に出歩いたり、わりとすぐ突っかかるほうだった。今は……両親を裏切りたくないから、ちょっと変わろうかなと思って」
だから毎日、予習復習を怠らないのか。
俺の中の平野は、大事に育てられて、ちょっと世間知らずっぽい感じの、穏やかで大人しい、可愛いイメージだったけど、話を聞く限り、それとは程遠い人生を歩んできたらしい。
「その、けいごさん?とは、今も連絡取ってるの?」
「ううん、こっち来る時にスマホ解約したし、住所も教えてないから」
「……会いたくならないの?」
平野はそれには答えなかった。だけど聞かなくても、いつも見るあの寂しそうな顔を思い出せば分かる。
「……こんな感じなんだけど、聞きたいことあったら聞いていいよ」
気軽に「お前のことが知りたい」と言っておきながら、思いがけず壮絶な話を聞いてしまい、
ますます混乱していた。これ以上聞いたら、きっと俺の脳みそは爆発するに違いない。
「話してくれて、ありがとな」
やっぱりどこか寂しげに笑う平野。
話してしまったことで、けいごさんとやらをますます恋しく思ったはずだ。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
平野に影響されてか、「男だから」って理由で好きな気持ちを否定するのはやめようと前向きになれた。
俺は平野が好きだ。
思えば転入してきたときから、あいつの一挙一動を観察してたんだ。
初めて話し掛けられた時、正直言ってめちゃくちゃ嬉しかったし、笑顔を見てキュンともした。
もはや、ひと目惚れレベルで最初から好きだったんだろう。
…親であり、兄であり、友人であり、……好きな人か。
俺は興味本位でネット検索をかけてみた。
『小児科医 けいご』
有名人じゃあるまいし、出るわけねぇか、と思っていたのだけど、
「うわっ、出た」
『豊浜総合病院|小児科……(…けいご)』
このキーワードで一人しか出てこないってことは、この人でたぶん合ってるだろう。
とりあえず上から二番目あたりをクリック。病院のスタッフ紹介のページだった。
『飯島 敬吾(いいじま けいご) 平成23年卒 小児科一般』
「医学部って六年制で、23年卒ってことは……、30か!マジでか!」(※平成28年設定)
写真の敬吾さんは、年齢より若く見えて、真面目そうな、優しそうな、悔しいけど、
――格好いい。
こんな人が、人生諦めた時に現れて救ってくれたんじゃあ、そりゃ惚れるわ。
俺だって惚れるわ。
いくら離れてても、連絡がつかなくても、この人が平野の親であり兄であり友人であり、
……恋人か。
勝ち目ゼロじゃん。
「……何やってんだ、俺」
これ、平野も見たのかなぁ……なんて、考えながら、俺は眠りに落ちた。
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