平野 梓 2
休業日だったので、家でのんびり過ごしていた。
夕方になって、そろそろ夕飯の拵えをしようかと思った時、スマートフォンが鳴った。
敬吾さんである。
今の時間、まだ仕事のはずだ。
不思議に思いながら応えた。
「……どうしたの」
電話の向こうから、ざわざわと子どもの泣き声や看護婦の声が聞こえた。
この雑音だけでもかなり忙しいのが分かる。
『今、医院に夢乃が来てる』
ドキン、と心臓が痛んだ。
『額に怪我をして来院した。付き添いは小学校の先生。たいした怪我じゃないけど、裂けてるから今から処置するんだ。15分以内には終わる。どうする、来る?』
俺はすぐに行くと言って、敬吾さんの医院まで走った。
―—夢乃に会える。
ものすごい速さで心臓が波を打っている。
どんな顔をして、背はどのくらい伸びて、どんな声でどんな風にしゃべるのだろう。
俺のことを覚えているだろうか。顔を見たら、思い出すだろうか……。
待合室に入って見渡すが、それらしい人物はいない。
処置中かもしれない……。
「先生、ありがとうー!」
診察室から元気な声とともに、女の子が出て来た。
……額の怪我。細くて、手足が長くて、サラサラした長い髪。
「………夢乃」
周りの雑音にかき消されて届かない。
「杉浦さん、お母さんにちゃんと怪我した原因も話さなきゃいけないわよ」
「分かってまーす」
「ほんと、怪我した子と思えないくらい元気ね」
俺は二人の会話がかろうじて聞こえる距離に移動した。
「ね、先生、さっきのお医者さん、かっこよかったね」
「そうねぇ。ここ、いつも混んでるのよ。いいお医者さんなのかしらねぇ」
「んー、わたし、あの先生どっかで見たことある気がするんだよね」
「この病院は初めて来たんでしょ?」
「そうなの。でも、なんか懐かしい感じがするというか……。あ、きっとそんな感じがするから混んでるんだよ、ここ」
「ええ~?」
「だって、嫌いなお医者さんのところにはみんな行きたくないでしょ?」
「そうね。人柄も才能ね」
あれだけ懐いていたのに、敬吾さんのことは覚えていないようだ。
だとすれば、俺のことも忘れているかもしれない。
会計に呼ばれて、夢乃は席を立った。
俺の前を横切ろうとする。
―—―こっちを見てくれ、と心の中で呼び掛けた。
視線を感じたのか、夢乃は俺を見た。
目が合ったのはほんの数秒。
けど、夢乃は顔色ひとつ変えずに目を逸らし、それから俺に振り返ることなく医院を出て行った。
―――気付かなかった。確かに、目は合ったのに。
……それはそうだろう。たった3、4歳の頃の記憶なんかなくて当然だ。
分かっていたことじゃないか。
緊張が解けて手の平に乗った汗に気付くと、安心と寂しさに息を吐いた。
その夜、俺を心配してか、敬吾さんは仕事終わりに部屋に来てくれた。
「うどんならあるけど、食べる?」
「ありがとう」
支度をしているあいだ、敬吾さんは座卓の前に腰を下ろし、米神や目頭を押さえたり首を回したり、指の骨をポキポキ鳴らしたりしながら自分なりに疲れを取ろうとしていた。
敬吾さんは普段、自分がしんどくてもあまり口にしないし、態度に出さない人だ。
「疲れが中々取れない」と冗談のように言っていたが、笑いながらでも口に出すほど辛いのかもしれない。
「はい」
「ありがとう。……なんか、牛肉多くない?」
「ちゃんと食えよ。顔色悪い。俺の心配する暇があったら寝ろ」
「なんか怖いな。お説教ですか」
「あんたにさっさと死なれちゃ困るよ」
「看取ってくれる?」
じろりと睨んだら「すみません」と苦笑した。
「本当に大丈夫なの。だいぶしんどそうだけど」
「いや、実はね、こないだ風邪こじらせちゃって。それが完全に治りきってないんだと思う。心配するようなことじゃない」
「ほんとに」
「本当。それより梓は? 夢乃に会えた?」
「会えたというか……見た」
夢乃が俺のことを覚えていなかったのが、それで伝わったらしい。
「俺のことも覚えてなかったよ」
「でも、付き添いの教師とかっこいいとかなんとか言ってたぜ」
敬吾さんは少しうどんを噴き出して笑った。
「懐かしい感じがするって」
「……」
「俺とは目は合ったけど、普通にスルーしていった。少しでも何かしらの記憶があれば、違和感を覚えたりするんじゃないかと思ったけど、そんな様子もなかった。そもそも自分にきょうだいがいることも知らないだろうなと思った」
敬吾さんの背後のベッドに座る。
「覚えてなくて残念だけど、ちょっとホッとしたかな。再会を喜び合えたところで、俺にはどうしてやることもできないし」
「あの子、年頃になったらモテるんだろうなぁ……」
敬吾さんが突拍子もないことを呟くので、背中を軽く小突いた。
だけどおかげで暗い気分になりかけたのを阻止できた。
元気そうでよかった。ひと目見られてよかった。もうそれでいい。
だけど欲を言えば……、もう一度「あーちゃん」と呼んで欲しかった。
いったん涙が滲むと、そこから止まらなかった。
1本、涙の筋が通り、その上を滴が何度も流れた。
ふいに敬吾さんが俺を覗き込んだ。
「……泣くなよ。俺がいるじゃないか」
そしたら涙のわけが敬吾さんに向き、俺はまるで駄々っ子みたいに本心を曝け出した。
「敬吾さんだっていつまでも俺の隣にいるって限らないじゃないか」
「いきなり、どうしたんだよ」
「敬吾さんに再会できたのは本当に偶然で、今は当然のように一緒にいるけど、俺と違ってあんたは医院や家を継いでそれを残していかなきゃいけない。人に見られる仕事だし、俺がそうしたいと思ってても、世間はそれを許してくれないかもしれない。死ぬまで一緒にいたいなんて、結局は俺の勝手な願望に過ぎない」
「俺だってそうしたいと思ってる」
「……敬吾さんが昔と何も変わってなくて安心してた。でも、医院で忙しそうにしてるところとかを見ると、やっぱり知らないこといっぱいあるんだなって思った」
「仕事面では色々あったけど、俺自身は何も変わってないよ」
「……見合いしたって言った」
敬吾さんは一瞬、目を見開いたあと、「ぷっ」と笑う。
「笑うな」
「ごめん、それ気にすると思わなかった。俺はお見合いをしても、誰と出会っても、梓を忘れられなかったってことが言いたかっただけで」
「………でも、いつかは結婚して子どもに仕事を継がせなきゃいけないだろ」
「俺はね、そもそも自分の子どもに医師になって欲しいと思わない。だからどっちにしろ俺の代で終わりにするつもりだ。それをお前が気にする必要はまったくない。大体、誰と結婚するんだよ、梓がいるのに」
「……」
「俺だって、梓のこと知らない部分ばっかりで不安になる時あるよ。それこそ、色んな人と出会って色々あったんだろうなとか」
「……でも俺は、敬吾さん以外の人を好きになれる気がしない」
敬吾さんは俺の髪をゆっくり搔き上げ、キスをする。
息苦しいくらいに舌が絡んでくるので離れようとしたら、腰に腕を回されて動けなくされた。
「くるしっ……、んぅ…っ」
唇を離したと思ったら、また深く押し付けられる。
理性を失いかける直前で離れ、ゆっくり目を開けると、敬吾さんはどこか泣きそうなくらい切ない目で俺を見た。
――この人、もしかしたらけっこう子どもっぽいのかもしれない。
すべてにおいて達観していて、足元にも及ばないくらい大人だと思っていたけれど、実は単純で、誰よりも純粋なんじゃないだろうか。
そう思うと、急に胸が詰まるような、何かがムズムズと込み上げてくるような、くすぐったい気持ちになった。
たぶん、これが「愛しい」ってことなんだろう。
俺は敬吾さんの首に両腕を絡ませ、頬や首や胸に口付けた。
自分の体が熱くなるのを感じながら、じっくりと敬吾さんに尽くす。
敬吾さんは俺の髪を撫で、時々耐えるようにして、俺のすることを受け入れた。
そして膝の上に促され、今度は笑みを浮かべて頬を撫でられた。
何度されても身震いするほどの快感は新鮮なままだ。
今、この人に抱かれているのは自分なのだと思うと、いとも簡単に理性がなくなって抑制がきかなくなる。
気持ちいい、もっとしてほしい、普段の自分なら到底口にしないようなことも、平気で言えてしまう。
だけど敬吾さんは、そんなみっともない姿も全部受け止めてくれる。
「好きだよ」と言われて、俺は何が理由とも言えない涙をまた流しながら、ただひたすら「うん、うん」と頷いた。
限界に達して意識が朦朧としている中で、「死ぬまで一緒にいてよ」と言われたような気がするが、それが現実なのか願望が作り 出した夢なのかがはっきりせずに、ちゃんと答えられずに気を失った。
⇒
夕方になって、そろそろ夕飯の拵えをしようかと思った時、スマートフォンが鳴った。
敬吾さんである。
今の時間、まだ仕事のはずだ。
不思議に思いながら応えた。
「……どうしたの」
電話の向こうから、ざわざわと子どもの泣き声や看護婦の声が聞こえた。
この雑音だけでもかなり忙しいのが分かる。
『今、医院に夢乃が来てる』
ドキン、と心臓が痛んだ。
『額に怪我をして来院した。付き添いは小学校の先生。たいした怪我じゃないけど、裂けてるから今から処置するんだ。15分以内には終わる。どうする、来る?』
俺はすぐに行くと言って、敬吾さんの医院まで走った。
―—夢乃に会える。
ものすごい速さで心臓が波を打っている。
どんな顔をして、背はどのくらい伸びて、どんな声でどんな風にしゃべるのだろう。
俺のことを覚えているだろうか。顔を見たら、思い出すだろうか……。
待合室に入って見渡すが、それらしい人物はいない。
処置中かもしれない……。
「先生、ありがとうー!」
診察室から元気な声とともに、女の子が出て来た。
……額の怪我。細くて、手足が長くて、サラサラした長い髪。
「………夢乃」
周りの雑音にかき消されて届かない。
「杉浦さん、お母さんにちゃんと怪我した原因も話さなきゃいけないわよ」
「分かってまーす」
「ほんと、怪我した子と思えないくらい元気ね」
俺は二人の会話がかろうじて聞こえる距離に移動した。
「ね、先生、さっきのお医者さん、かっこよかったね」
「そうねぇ。ここ、いつも混んでるのよ。いいお医者さんなのかしらねぇ」
「んー、わたし、あの先生どっかで見たことある気がするんだよね」
「この病院は初めて来たんでしょ?」
「そうなの。でも、なんか懐かしい感じがするというか……。あ、きっとそんな感じがするから混んでるんだよ、ここ」
「ええ~?」
「だって、嫌いなお医者さんのところにはみんな行きたくないでしょ?」
「そうね。人柄も才能ね」
あれだけ懐いていたのに、敬吾さんのことは覚えていないようだ。
だとすれば、俺のことも忘れているかもしれない。
会計に呼ばれて、夢乃は席を立った。
俺の前を横切ろうとする。
―—―こっちを見てくれ、と心の中で呼び掛けた。
視線を感じたのか、夢乃は俺を見た。
目が合ったのはほんの数秒。
けど、夢乃は顔色ひとつ変えずに目を逸らし、それから俺に振り返ることなく医院を出て行った。
―――気付かなかった。確かに、目は合ったのに。
……それはそうだろう。たった3、4歳の頃の記憶なんかなくて当然だ。
分かっていたことじゃないか。
緊張が解けて手の平に乗った汗に気付くと、安心と寂しさに息を吐いた。
その夜、俺を心配してか、敬吾さんは仕事終わりに部屋に来てくれた。
「うどんならあるけど、食べる?」
「ありがとう」
支度をしているあいだ、敬吾さんは座卓の前に腰を下ろし、米神や目頭を押さえたり首を回したり、指の骨をポキポキ鳴らしたりしながら自分なりに疲れを取ろうとしていた。
敬吾さんは普段、自分がしんどくてもあまり口にしないし、態度に出さない人だ。
「疲れが中々取れない」と冗談のように言っていたが、笑いながらでも口に出すほど辛いのかもしれない。
「はい」
「ありがとう。……なんか、牛肉多くない?」
「ちゃんと食えよ。顔色悪い。俺の心配する暇があったら寝ろ」
「なんか怖いな。お説教ですか」
「あんたにさっさと死なれちゃ困るよ」
「看取ってくれる?」
じろりと睨んだら「すみません」と苦笑した。
「本当に大丈夫なの。だいぶしんどそうだけど」
「いや、実はね、こないだ風邪こじらせちゃって。それが完全に治りきってないんだと思う。心配するようなことじゃない」
「ほんとに」
「本当。それより梓は? 夢乃に会えた?」
「会えたというか……見た」
夢乃が俺のことを覚えていなかったのが、それで伝わったらしい。
「俺のことも覚えてなかったよ」
「でも、付き添いの教師とかっこいいとかなんとか言ってたぜ」
敬吾さんは少しうどんを噴き出して笑った。
「懐かしい感じがするって」
「……」
「俺とは目は合ったけど、普通にスルーしていった。少しでも何かしらの記憶があれば、違和感を覚えたりするんじゃないかと思ったけど、そんな様子もなかった。そもそも自分にきょうだいがいることも知らないだろうなと思った」
敬吾さんの背後のベッドに座る。
「覚えてなくて残念だけど、ちょっとホッとしたかな。再会を喜び合えたところで、俺にはどうしてやることもできないし」
「あの子、年頃になったらモテるんだろうなぁ……」
敬吾さんが突拍子もないことを呟くので、背中を軽く小突いた。
だけどおかげで暗い気分になりかけたのを阻止できた。
元気そうでよかった。ひと目見られてよかった。もうそれでいい。
だけど欲を言えば……、もう一度「あーちゃん」と呼んで欲しかった。
いったん涙が滲むと、そこから止まらなかった。
1本、涙の筋が通り、その上を滴が何度も流れた。
ふいに敬吾さんが俺を覗き込んだ。
「……泣くなよ。俺がいるじゃないか」
そしたら涙のわけが敬吾さんに向き、俺はまるで駄々っ子みたいに本心を曝け出した。
「敬吾さんだっていつまでも俺の隣にいるって限らないじゃないか」
「いきなり、どうしたんだよ」
「敬吾さんに再会できたのは本当に偶然で、今は当然のように一緒にいるけど、俺と違ってあんたは医院や家を継いでそれを残していかなきゃいけない。人に見られる仕事だし、俺がそうしたいと思ってても、世間はそれを許してくれないかもしれない。死ぬまで一緒にいたいなんて、結局は俺の勝手な願望に過ぎない」
「俺だってそうしたいと思ってる」
「……敬吾さんが昔と何も変わってなくて安心してた。でも、医院で忙しそうにしてるところとかを見ると、やっぱり知らないこといっぱいあるんだなって思った」
「仕事面では色々あったけど、俺自身は何も変わってないよ」
「……見合いしたって言った」
敬吾さんは一瞬、目を見開いたあと、「ぷっ」と笑う。
「笑うな」
「ごめん、それ気にすると思わなかった。俺はお見合いをしても、誰と出会っても、梓を忘れられなかったってことが言いたかっただけで」
「………でも、いつかは結婚して子どもに仕事を継がせなきゃいけないだろ」
「俺はね、そもそも自分の子どもに医師になって欲しいと思わない。だからどっちにしろ俺の代で終わりにするつもりだ。それをお前が気にする必要はまったくない。大体、誰と結婚するんだよ、梓がいるのに」
「……」
「俺だって、梓のこと知らない部分ばっかりで不安になる時あるよ。それこそ、色んな人と出会って色々あったんだろうなとか」
「……でも俺は、敬吾さん以外の人を好きになれる気がしない」
敬吾さんは俺の髪をゆっくり搔き上げ、キスをする。
息苦しいくらいに舌が絡んでくるので離れようとしたら、腰に腕を回されて動けなくされた。
「くるしっ……、んぅ…っ」
唇を離したと思ったら、また深く押し付けられる。
理性を失いかける直前で離れ、ゆっくり目を開けると、敬吾さんはどこか泣きそうなくらい切ない目で俺を見た。
――この人、もしかしたらけっこう子どもっぽいのかもしれない。
すべてにおいて達観していて、足元にも及ばないくらい大人だと思っていたけれど、実は単純で、誰よりも純粋なんじゃないだろうか。
そう思うと、急に胸が詰まるような、何かがムズムズと込み上げてくるような、くすぐったい気持ちになった。
たぶん、これが「愛しい」ってことなんだろう。
俺は敬吾さんの首に両腕を絡ませ、頬や首や胸に口付けた。
自分の体が熱くなるのを感じながら、じっくりと敬吾さんに尽くす。
敬吾さんは俺の髪を撫で、時々耐えるようにして、俺のすることを受け入れた。
そして膝の上に促され、今度は笑みを浮かべて頬を撫でられた。
何度されても身震いするほどの快感は新鮮なままだ。
今、この人に抱かれているのは自分なのだと思うと、いとも簡単に理性がなくなって抑制がきかなくなる。
気持ちいい、もっとしてほしい、普段の自分なら到底口にしないようなことも、平気で言えてしまう。
だけど敬吾さんは、そんなみっともない姿も全部受け止めてくれる。
「好きだよ」と言われて、俺は何が理由とも言えない涙をまた流しながら、ただひたすら「うん、うん」と頷いた。
限界に達して意識が朦朧としている中で、「死ぬまで一緒にいてよ」と言われたような気がするが、それが現実なのか願望が作り 出した夢なのかがはっきりせずに、ちゃんと答えられずに気を失った。
⇒
スポンサーサイト
- Posted in: ★Frozen eye
- Comment: 0Trackback: -