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飯島 敬吾 2

「38度以上の熱があって、喉が痛いみたいなんです」 

あきらかに子離れできていなさそうな母親が、わりと体格のいい高校生の男の子を連れて来た。

「いつからかな?」

「きの……」

「昨日の昼からです!」

 息子を遮って、母親がズイッとしゃしゃり出る。
 あまりの気迫に思わず上半身を引いてしまった。

「熱と喉の痛み以外に何か症状はある?」

「鼻づまりと、とにかくダルいし、あと……リンパ……? が痛いです」

 色々考えられる中で一番可能性の高い病気を思い付いたが、この母親の前では問診しにくかった。
 検査をして数分後、僕は男の子にだけ手招きをして母親は待合で残るよう促した。
 かなり不満そうではあったが、これも患者のプライバシーのためだ。
 向き合って、僕は小声で質問する。

「最近、彼女とチュッチュした?」

「え!?」

 耳を真っ赤にして焦った。

「あ、ごめんね。これ病気を特定するのに大事な質問なんだ。お母さんには言わないから安心して」

「……はい、しました」と、俯いて小さく頷いた。

「じゃあ、原因はそれかもしれないね。検査結果なんだけど、伝染性単核球症っていう口から口へ感染する病気なんだ。別名、キス病って言ってね、原因はその可能性が高いかな。明日、もう一度来てね」

「母さんにはなんて……」

「病名と、原因は……んー、友達と回し飲みしたって言いな」

「そうします。ありがとうございました」

 原因を知ったら、怒り狂いそうな母親だなぁ、と、立ち去る彼の背中をこっそり激励した。

***

「―――って、いうことがあった」

 梓の作った、焼き魚、高野豆腐の卵とじ、酢の物、具沢山の味噌汁といった健康的な料理を前に手を合わせた。

「ってか、その問診の仕方」

「え? チュッチュ?」

「それ。恥ずかしくない?」

「キスした?って聞くと生々しいかなと思って。俺は問診に恥とかないけど」

「聞かれるほうは恥ずかしいと思うよ」

「俺たちだって、いつもチュッチュしてるじゃないか」

「言ったそばからやめろよ、オヤジくささに磨きがかかったね」

「中身はいつまでも二十代なんだけどなぁ。でも最近、疲れ中々取れないかも」

「体調悪いときはどうしてんの」

「適当に薬飲む」

「……」

 若干、眉間に皺を寄せて難しい顔でこちらを見るのは、心配してくれているのだろうか。

「大丈夫、大丈夫。俺の場合は恋煩いだから」

「恋煩いって……誰に」

「野暮を聞くなよ、分かってるくせに」

 腰をぐいっと引き寄せると、勢いで梓が僕に被さるようにして床に倒れた。
 柔らかい茶色の髪が頬をくすぐる。
 この感触も、この重みも、温もりも全部、僕がずっと待っていた愛しくてたまらないものだ。
 未だに一緒にいることが信じられない。
 幸せだと思う。
 だけど、その幸せがなくなるかもしれないと思うと怖くもある。
 僕が仕事に行っているあいだに、ちょっとどこかに出掛けているあいだに、寝ているあいだに、またいきなり姿を消すんじゃないだろうか。
 あんなに寂しい想いをするのは嫌だ。
 僕は梓の体にしっかり両腕を回したまま、気付けば眠りに落ちていた。

 翌朝、梓が身支度をしている物音で目が覚めた。

「あ、ごめん、起こした?」

「いや、起きた。もう行くの?」

「もうちょっとしたらね。敬吾さんは今日は休みだろ?」

「そう……」

僕のスマートフォンが鳴った。転送電話だ。

「はい、飯島です」

『休日にすみません……。子どもが昨夜から嘔吐が止まらなくて……』

「いいですよ。10分後に来られますか? 診察券番号を教えてください。……はい、お待ちしてます」

 電話を切ると、梓が少し心配した顔つきでいた。

「急患? 休日の意味ないね」

「でも、ほっとけないしね。また電話するよ。仕事頑張って」

 軽く顔を洗って、部屋を出ようとした時、

「……ねぇ。……夢乃って、医院に来たことある?」

 何年ぶりかに聞くその名前に体が固まった。

「母親や親父のことはなんとも思ってないんだけど、あいつのことだけはずっと気になってて……」

「……そうか。でも、俺もあれから一度も会ってないんだ。医院に来たこともない」

「それならいいんだ。ごめん、急いでるのに。気を付けて」

 僕も夢乃のことは忘れていないし、ひそかに気にかかっている。
 順調に成長していれば10歳……11歳……。
 幼児の頃にたった数ヵ月会ったことがある僕ですら気になるのだから、兄である梓は尚更だろう。
 特に彼にとって夢乃はたったひとりの妹であり、恩人でもある。

 ――せめてひと目だけでも成長した姿を見られたらいいのだけど。―—

 そんな小さな願望を抱き始めて、たった数日後のことだった。

***

 その日はやたら混んでいて、予約制である当医院もまったく予約の意味がないくらい忙しかった。
 診察室で泣き叫ぶ乳児、待合室で洗面器を持ってうなだれている小学生、中には鼻水を垂らしながら元気に走り回っている子もいるが、具合の悪い人間が所狭しと並んでいる様子は中々悲惨である。   
 予約だけでもオーバーなのに、飛び込みの患児が次々に来る。

「次に急患が来たら他へ行ってもらおう、電話が掛かってきたらもう無理だと断ろう」

そう決心をした矢先、看護婦が「急患です」と告げに来た。

「さくた小学校の女の子が遊具から落ちて額を切ったそうで、」

「怪我の度合いは? 緊急性があるなら総合病院へ回ってもらって」

「緊急性はないそうで、待つのでお願いしたいと……」

「……分かった」

 その子が来たのは電話があった僅か5分後のことだった。
 僕は怪我の具合を見るのに診察室を出た。
 付き添いの教師に連れられて到着した少女は、額にガーゼを宛てがったまま落ち着いた様子でソファに座っていた。
 ひと目見て、「見たことがある」と思った。

 ――が、新患だ。保険証と受給者証を見る。

「―—夢乃」

「はい」

 無意識に出た呼びかけに、はっきりした声で返事をした。
 白い肌と大きな目、梓と同じ色をした細くて長い髪の毛。

 ―—あの子だ。


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