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 陽が傾き、西の空が茜色に燃える。橙の夕日が差し込み、義市の横顔を彩った。丸いと言われた目も、薄くなって垂れた瞼に隠れてしまい、思うような視野は持てない。薄い唇は、もう色が失われた。こんな老いぼれた姿でも、祐太は見ていてくれるのだろうか。
 色褪せた日記は、そこだけ時間が止まっている。義市はそれを胸に抱いて目を閉じた。辛くて悲しい青春。それでもあの夜の記憶と想いだけは色褪せない。

「……祐太、もう見ていないのか」

 返ってくるのはどこからともなく聞こえる虫の音。声にするだけ虚しくなった。
 義市は気が付いたらよく眠っていることが多い。一度目を閉じるとそのつもりがなくても深い眠りについている。ただ起きるのも早い。呼び鈴であったり、自分のいびきであったり。夕日が落ちて影が差す。静かに夜を迎えようとしている中、彼を起こすのは――、

『義市』

 瞼を閉じたまま眼球を左右に動かした。空耳だろう。

『……義市』

 今度ははっきり届いて、義市は目を開けた。薄暗くなった部屋の中に特に変化はないようだ。やはり気のせいかと小さく溜息をついた時、左手に温かさを感じた。大きくて武骨な、瑞々しい手が義市の年老いた手を包んでいる。その手の持ち主……。

「祐太」

 美しくて凛々しい青年がいる。瞼に焼き付けて離れなかったあの青年である。彼は二重瞼の切れ長の目を細めて、義市を見つめていた。

『歳を取ったな』

「……もうすっかり……老いぼれだ……。来てくれたのか、遅かったじゃないか」

『ありがとう、墓に行ってくれて。ずっと傍にいたよ。お前をずっと見てきたよ。……馬鹿だな、町内一の美人を振って。せっかくの良い縁談だったのに』

「二心は持てない性分だ。……いつの話をしてるんだ』

『良いところにも勤めていたじゃないか。さすが親父さんが商店を営んでただけある。商才があるんだな』

「……本当に商才があったら、親父の店を潰さずに済んださ」

『小さい頃は、あんなに出来が悪かったのにな』

「それを言うんじゃないよ」

 義市は咳込みながら笑った。もう声も出ない。祐太は若々しい姿でいるというのに、薄い白髪の、皺の目立つ姿を見られたくない。

「……醜いだろう。そんなに見るな」

『醜くない。お前はどんな姿でも可愛いよ』

「……なあ、祐太。もういいだろう。俺は充分生きたよ。情けないことに兵隊に志願もできず、徴兵される前に終戦して結局、何も貢献できずに終わった。祐太だけに辛い思いをさせてしまった。許してくれ」

『何を許すって言うんだ。義市が無事に生きていてくれて嬉しいよ。戦果がどうであれ、お前に恥じない最期だったと思う。……ただ、そろそろ俺も寂しいな』

「ああ、一緒に行こう。深くて冷たい海の底でも、二人一緒なら寒くも寂しくもないだろう」

 逞しい祐太の腕が、じきに力尽きようとしている義市を抱き締める。

 なんて懐かしい感触だろう。
 この瞬間をどんなに夢見ていただろう。

 指ひとつ動かすのも億劫だった義市に、不思議と力がみなぎる。祐太の背中に回した腕が若返っているように思うのは、気のせいだろうか。重なっている唇に厚みがあるように思うのは、願望だろうか。蘇るのは思い焦がれる慈しみだけ。

 日記を抱いた義市の両腕は、堅く結ばれたまま解かれることはなかった。


(了)



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