平野 梓 1
身支度や料理で、真横であれだけ物音を立てていたにも関わらず、家を出るまで敬吾さんは熟睡していた。
敬吾さんは眠りに落ちるのが早いし、一度寝ると深いので、ちょっとやそっとじゃ起きない。
相変わらず仕事が忙しくて疲れが溜まっているのだろう。
あの様子だと目を覚ますのは昼過ぎになるかもしれない。
敬吾さんは7年前とあまり変わらない。
しいて言えば、髪が少し伸びたところだ。
にこにこして落ち着いていて、からかわれると少し腹も立つけれど。
一緒に住もうと言ってくれたのは嬉しかったが、敬吾さんの優しさに頼って自分が駄目人間になるのだけは避けたかった。
俺だって一人前の大人なんだから、いつまでも甘えたくない。
10時半ごろ、新しい職場であるステーキハウスに着いた。
バイクを停めると、店の隣の精肉店から店長らしき男性が近寄って来る。
「平野くん、おはよう」
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
この店は家族経営で、精肉店の店長は父親、ステーキハウスの店長は長男、ホールは長女と数名の従業員で成り立っている。
調理場を任されている従業員が来月退職するらしいので、その後任が俺というわけだ。
従業員に自己紹介をしたあと精肉店に案内されて、そのあと調理場へ連れて行かれた。
「平野くん、調理師免許持ってるんだっけ。じゃあ、大体分かるよね。ステーキは必ず焼く前にお客様に焼き加減を聞いて、すきやきの場合は白米か、シメのうどんすきにするか希望を聞いて。あ、あと、メニューにシャトーブリアンコースがあるけど、シャトーブリアンは仕入れの関係である時とない時があるから、一応、毎日何が入ってるか把握しといてね」
「分かりました」
「とりあえず、今日は初日だし、食器洗ったりしてくれる?」
「はい」
横浜に住んでいる時、専門学校を卒業して暫く飲食店で働いていたので、そんなに慌てることもなかった。
「平野くん、地元はこっちなんでしょ?」
「そうです」
「横浜の学校出て、Uターンした感じ? 家族と住んでるの?」
「いえ、ひとり暮らしです。両親は横浜にいます」
「ひとり暮らしだったら、彼女連れ込み放題じゃん!」
と、冷やかされる。
「付き合ってる人はいますけど」
間違ってはない、はず。そして「彼女」ではないが。
「でも横浜に住んでたんだよね? 相手は横浜の人?」
「こっちの人です。……離れてたんで」
「そうなんだ。じゃあ近くにいられて嬉しいねぇ」
店長の言葉に、思わず目を丸くする。
改めて他人から言われると恥ずかしい気もした。
「……そうですね、嬉しいです」
***
夜の11時に仕事を終えてスマートフォンを見たら、横浜の友達から不在着信があったので折り返した。
ワンコールで応答があった。
『おい、お前、ちょっと薄情じゃないのか』
詞に反して声は笑っていたので、俺は「悪かった」と笑いながら返した。
電話の相手は横浜の高校で仲良くなった奴で、唯一、敬吾さんの存在を知っている。
『そっちの暮らしは落ち着いたのか?』
「うん、今日が初出勤だった。ステーキハウスの調理場」
『ああ、仕事今日からだったのね。で、最愛の人には会えたわけ』
「最愛って……」
『最愛だろうよ。それで俺がお前にフラれたの忘れたと言わせないからな』
「ああ、うん、忘れてないよ」
『くっそ、お前、切り返しが上手くなったな』
久しぶりの友人との会話なのですぐに切る気にもなれず、そのまま話をしながら駐車場から反対方向の橋に向かって歩いた。
「あっちは忙しい人だから毎日会えるわけじゃないけど、休みの日は会ってる」
『なんか、上手くいってるみたいで良かったな。でもその相手って、だいぶ年上だろ? しかも医者。よく結婚もしないでいたよな』
「……」
『愛だよなぁ』
「……そうだといいけどね」
その後、まっすぐ帰宅してアパートに着いたのは0時前。
駐輪場で声を掛けられた。
「おかえり」
敬吾さんだった。
「た……だいま……。何してるの」
「夕方、急患の連絡があってさ。ウチではちょっと手に負えない重病だったんで、子ども病院に送ったんだ。で、今の時間に。もう遅いかなーと思ったけど、やっぱり顔が見たくてね。丁度よかった」
「上がる?」
「いや、帰るよ。初出勤で疲れただろう。もう遅いから、話は次に会った時に聞かせて」
「もう寝るだけなら、泊まってけば」
「そうしたいけど、レセプトしなきゃいけないんだ」
敬吾さんはポケットに入れていた左手を出して、俺の頬に触れた。
「冷たいな。まだ寒いし、風邪ひくなよ」
そう言って、キスをして「おやすみ」と残して帰って行った。
声とか、しぐさとか、大きな手が優しく触れるところとか、昔と変わらない。
だけど、たぶん、知らないことのほうが多いんだろう。
―—例えば7年間。
敬吾さんは大学病院で勤めて、ボランティアにも行って、専門外のこともそれなりに処置できるようになったと言っていた。
敬吾さんが小児心身医学が専門だということも最近知ったし、そもそも小児科の中で専門がいくつも分かれていること自体知らなかった。
仕事だけじゃない。
今はこうして何事もなかったかのように会っているけれど、他の誰かと付き合っていたり結婚を考えた相手がいるんじゃないだろうかとか、違う誰かにもああいう風に触れたのだろうかとか、考えてしまう。
先に突き放したのは自分なのに。
「……贅沢になったな、俺も」
⇒
敬吾さんは眠りに落ちるのが早いし、一度寝ると深いので、ちょっとやそっとじゃ起きない。
相変わらず仕事が忙しくて疲れが溜まっているのだろう。
あの様子だと目を覚ますのは昼過ぎになるかもしれない。
敬吾さんは7年前とあまり変わらない。
しいて言えば、髪が少し伸びたところだ。
にこにこして落ち着いていて、からかわれると少し腹も立つけれど。
一緒に住もうと言ってくれたのは嬉しかったが、敬吾さんの優しさに頼って自分が駄目人間になるのだけは避けたかった。
俺だって一人前の大人なんだから、いつまでも甘えたくない。
10時半ごろ、新しい職場であるステーキハウスに着いた。
バイクを停めると、店の隣の精肉店から店長らしき男性が近寄って来る。
「平野くん、おはよう」
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
この店は家族経営で、精肉店の店長は父親、ステーキハウスの店長は長男、ホールは長女と数名の従業員で成り立っている。
調理場を任されている従業員が来月退職するらしいので、その後任が俺というわけだ。
従業員に自己紹介をしたあと精肉店に案内されて、そのあと調理場へ連れて行かれた。
「平野くん、調理師免許持ってるんだっけ。じゃあ、大体分かるよね。ステーキは必ず焼く前にお客様に焼き加減を聞いて、すきやきの場合は白米か、シメのうどんすきにするか希望を聞いて。あ、あと、メニューにシャトーブリアンコースがあるけど、シャトーブリアンは仕入れの関係である時とない時があるから、一応、毎日何が入ってるか把握しといてね」
「分かりました」
「とりあえず、今日は初日だし、食器洗ったりしてくれる?」
「はい」
横浜に住んでいる時、専門学校を卒業して暫く飲食店で働いていたので、そんなに慌てることもなかった。
「平野くん、地元はこっちなんでしょ?」
「そうです」
「横浜の学校出て、Uターンした感じ? 家族と住んでるの?」
「いえ、ひとり暮らしです。両親は横浜にいます」
「ひとり暮らしだったら、彼女連れ込み放題じゃん!」
と、冷やかされる。
「付き合ってる人はいますけど」
間違ってはない、はず。そして「彼女」ではないが。
「でも横浜に住んでたんだよね? 相手は横浜の人?」
「こっちの人です。……離れてたんで」
「そうなんだ。じゃあ近くにいられて嬉しいねぇ」
店長の言葉に、思わず目を丸くする。
改めて他人から言われると恥ずかしい気もした。
「……そうですね、嬉しいです」
***
夜の11時に仕事を終えてスマートフォンを見たら、横浜の友達から不在着信があったので折り返した。
ワンコールで応答があった。
『おい、お前、ちょっと薄情じゃないのか』
詞に反して声は笑っていたので、俺は「悪かった」と笑いながら返した。
電話の相手は横浜の高校で仲良くなった奴で、唯一、敬吾さんの存在を知っている。
『そっちの暮らしは落ち着いたのか?』
「うん、今日が初出勤だった。ステーキハウスの調理場」
『ああ、仕事今日からだったのね。で、最愛の人には会えたわけ』
「最愛って……」
『最愛だろうよ。それで俺がお前にフラれたの忘れたと言わせないからな』
「ああ、うん、忘れてないよ」
『くっそ、お前、切り返しが上手くなったな』
久しぶりの友人との会話なのですぐに切る気にもなれず、そのまま話をしながら駐車場から反対方向の橋に向かって歩いた。
「あっちは忙しい人だから毎日会えるわけじゃないけど、休みの日は会ってる」
『なんか、上手くいってるみたいで良かったな。でもその相手って、だいぶ年上だろ? しかも医者。よく結婚もしないでいたよな』
「……」
『愛だよなぁ』
「……そうだといいけどね」
その後、まっすぐ帰宅してアパートに着いたのは0時前。
駐輪場で声を掛けられた。
「おかえり」
敬吾さんだった。
「た……だいま……。何してるの」
「夕方、急患の連絡があってさ。ウチではちょっと手に負えない重病だったんで、子ども病院に送ったんだ。で、今の時間に。もう遅いかなーと思ったけど、やっぱり顔が見たくてね。丁度よかった」
「上がる?」
「いや、帰るよ。初出勤で疲れただろう。もう遅いから、話は次に会った時に聞かせて」
「もう寝るだけなら、泊まってけば」
「そうしたいけど、レセプトしなきゃいけないんだ」
敬吾さんはポケットに入れていた左手を出して、俺の頬に触れた。
「冷たいな。まだ寒いし、風邪ひくなよ」
そう言って、キスをして「おやすみ」と残して帰って行った。
声とか、しぐさとか、大きな手が優しく触れるところとか、昔と変わらない。
だけど、たぶん、知らないことのほうが多いんだろう。
―—例えば7年間。
敬吾さんは大学病院で勤めて、ボランティアにも行って、専門外のこともそれなりに処置できるようになったと言っていた。
敬吾さんが小児心身医学が専門だということも最近知ったし、そもそも小児科の中で専門がいくつも分かれていること自体知らなかった。
仕事だけじゃない。
今はこうして何事もなかったかのように会っているけれど、他の誰かと付き合っていたり結婚を考えた相手がいるんじゃないだろうかとか、違う誰かにもああいう風に触れたのだろうかとか、考えてしまう。
先に突き放したのは自分なのに。
「……贅沢になったな、俺も」
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