三
祐太が予科練に行ってからは一切、音沙汰がなかった。手紙を出してみても届いたのか届いていないのか分からない。祐太の家族に聞いても便はなく、無事を祈るばかりだと言っていた。訃報がないのが唯一の希望だ。便りがなくてもいいから少しでも長く生きていて欲しい。あわよくば無事に帰って来て欲しかった。
およそ二年ぶりに祐太が地元に帰って来たのは、義市の願いを束の間叶えてくれたのかもしれなかった。
なんの前触れもなく帰省した祐太に喜んだ祐太の母は、いの一番に義市に知らせてくれた。急いで会いに走ったが、暫く見ないうちにすっかり青年になってしまった祐太が別人のように思えて、胸に光る制服の七つボタンがやたら眩しくて声を掛けられなかった。鼻梁の通った横顔。ますます鋭くなった目付きは笑うと柔らかい。少しだけ頼もしくなった弟の治郎と仲睦まじく話している笑顔が寂しく見えた。玄関先で家族や親戚に囲まれている祐太を遠巻きに見つめていた義市は、邪魔をすまいと背を向けた。無事を確認できただけで満足だ。必要以上に懐かしんだら、また別れが辛くなる。そもそも祐太が予科練に行ったのは自分が祐太を責めたせいだと考えている。義市が彼に激励の言葉を掛けるのはおこがましい気がした。いっそ自分も兵隊に行って早く戦地に赴こうかと何度も思った。けれども結局それも怖くてできない。情けないのはあきらかに自分のほうなのだ。祐太だけに苦労を背負わせておいて、のうのうと生きている姿を見せたくなかった。
その夜はじっと横になっていても落ち着かなかった。どうしても眠れなくて義市は夜中に家を抜け出した。無意識のうちに足は祐太の家へ向かっていたが、まさかこんな夜更けに訊ねるわけにいかない。静まり返った家の前をゆっくり通り過ぎて、辿り着いたのはかつて二人でよく並んで歩いた土手だった。暗闇の中でサラサラ流れるせせらぎに耳を傾けながら地べたに座り込む。辛抱を強いられる息苦しい日常も、夜中ならすべての苦痛から解放される。膝を抱え、体を丸めて目を閉じた。瞼に焼き付けた制服姿の祐太をありありと映し出しては届きそうで届かない残像に腕を伸ばしたくなる。直後に全身に突然感じた熱に、頭が混乱した。背後から抱き締められている。耳にかかる切れ切れの息は追いかけて来たからなのか、高ぶった感情のせいなのか。
顔も見えないし声もないが、服の上からでも分かる筋肉の有り様で、その正体が誰なのか察しがついた。胸に回されている腕は少し硬くなったかもしれない。背中をすっぽり包んでいる体は大きくなったかもしれない。けれども体温だけは、二年前と変わらない。義市がゆっくり振り向き、口を開いたところを塞がれた。押し当てられている唇の温かさと柔らかさに、驚きや戸惑いよりも言い知れぬ幸福感に襲われた。本当はずっとこうしたかったのかもしれない。二年前、別れを告げられた時から、野菜を盗んだ彼を哀れに思った時から、一緒に川で泳いだ時から、それとももっと昔から。
義市は身を翻して向き合い、逞しい首に両腕を回した。しっかりと抱き合って深く唇を奪い合う。土手と川表との境目にいた二人は、バランスを崩して雑草の生い茂る河川敷に向かって一緒に滑り落ちた。草が絡まり、土に汚れても、それを払い落とす暇さえ惜しんで抱き合った。戦時中という非情な時代と、同性であるという背徳感と、離れたくないという執着が互いの感情と欲望を高みに昇らせた。ただ、一般的な性の知識はあっても、こういう場合には皆無に等しい。正しい方法も分からずに闇雲に傷付けたくはない。けれども抱擁して口付けるだけではとても満足できないほど興奮しきっていた。大きな手が義市の服をめくり、直に腹を這った。あばらが浮き出た貧相な体を愛でられる。自分も触れたい。撫でたい。もっとくっつきたい。義市が手を伸ばすより先に目の前でボタンが解かれ、シャツのあいだから厚みのある胸板が覗いた。同じ生態であるはずなのに、まるで別の人種かと思うほどの肉体美に眩暈がする。夢中で肌を寄せ合って胸や腹に直接体温を感じた。どれだけ押し付け合っても足りない。ほとんど理性を失った状態で互いの膨らんだ下半身を露わにして擦り合わせる。これがどんなに淫靡で後ろめたい行為なんだろうと思うほど快楽に溺れた。何より生きていることを実感できる。
自分は生きている。こいつも生きている。
できればそのまま夜が明けずにずっと生の悦びを感じていたかった。ただ気持ちが良くて、わけも分からないうちに頂に達し、熱が引いたあとに残ったのはひたすら悲しみだけだった。息ができないほどの虚無感に涙が溢れたのは義市だけではない。暗闇の中で聞こえた鼻をすする音。一言も発さず、再会の挨拶も激励も餞別の言葉はおろか、名前を呼ぶこともできず、また呼ばれることもなく。
最後に力強く抱き締められて、唯一「お前は生きろ」と残されただけだった。
―――
昌平は言葉通り、こまめに休憩を取りながら義市を呉まで車で運んだ。
義市は祐太の最期を知らない。土浦でパイロットとしての訓練を受けていたが、終戦間際に回天に乗って沖縄で戦死したと祐太の家族から報告を受けただけだ。
「当然ですけど、祐太の遺骨はありません。祐太のものとして却ってきたのは、本当に本人のものかどうかも分からない帽子と、出撃前の写真。遺書はなく、日記がその代わりだったんだと思います」
普段あまり出歩かない義市にとって、この猛暑はかなり堪える。恨めしいほどの快晴の下、蝉時雨の中で緑の眩しい山々を一望できる小高い丘の霊園場に着いた。祐太の墓は杉村家累代の墓とは別に戦死者の墓として構えてあり、それは刃のように頭が尖った、少し変わった形をしている。納骨室のないこの墓に祐太が眠っているという。
「不思議ですよね。何もないのに、お墓を放置したら放っておくなと訴えて、お茶を供えたら病気を治してくれて。……今日は谷口さんが来て下さったから、祐太はきっと今、一番喜んでると思います」
改めて向き直った昌平は、「ありがとうございます」と頭を下げた。義市はすっかり曲がった腰を精一杯伸ばし、シミと皺だらけの老いた手で祐太の墓を撫でた。黒ずんだザラザラした感触がとてつもなく愛おしい。河川敷で抱き合った夜以来の、再会だった。あの夜に感じた悶えるほどの性欲と愛情を思い出し、義市は墓にしがみついてむせび泣いた。
昌平の自宅にも招かれ、そこで義市と同じく、過去の面影を感じられないほど歳を取った治郎に会った。治郎とはあまり親しくはなかった。幼い頃に何度か会ったことがある程度なので、七十年以上の時を経ての再会は初対面とほぼ同じだ。それでも治郎は足労をかけたと詫びて、義市との対面を喜んだ。祐太の遺品は、治郎から渡された。
「わたしが持っているより、義市さんに持っていていただきたいのです」
「……しかし、わたしには家族はおりませんし、長い命でもありません。そんな大切なものは預かれません」
「それでも義市さんに持っていてもらえることが、兄の供養になります。ご迷惑でなければ」
どうしても、と言われて、義市は戸惑いながら、祐太の日記を受け取った。
「日記の最後のページが、義市さん宛てに書かれた遺言と思われます」
「思われる?」
「宛名が分からなかったので。けれども目を凝らして見ると、義市さんの名前が書かれてありました。ちょうど涙が落ちたのでしょうか。文字が滲んで擦れていました。今まで一度もご連絡できず、申し訳ございませんでした」
***
あれからまた、義市は籐椅子に腰かけて空を仰いでいる。膝の上に祐太の日記を載せて。
***
戦局ハ急激ニ緊迫。真ニ皇国興廃ヲ決スルノ秋至レリト言フベシ。
諸子ノ如キ元気溌剌、且攻撃精神特ニ旺盛ナルモノタルヲ要ス。
十九― 七
特殊兵器の搭乗員が募集される。兵器名、不明。
挺身肉弾一撃必殺を期するもの、生還はできない。
「死にたくない」とこぼした木下が、兵舎の裏で横たわっていた。
集団で殴られたのか全身が腫れていた。
「死にたくない」と言ったら死んでしまった。
この募集をあいつが知ったら泣くのだろう。
予科練に行くと告げた日のように。
そう思うと、何故だか少し笑える。
十九― 九 ― 一
国のためでもない、名誉のためでもない。
大事なものを守りたいだけ。それが後に国家のためになるといい。
搭乗員に選ばれ、徳山の大津島へゆく。
これまで不明だった兵器の全貌を知る。
落胆と絶望の声が聞こえる。俺は何も云えず。
***
最高速度は時速五十五キロメートル、二十三キロメートルの航続力。
全長十四・七メートル、直径一メートル、九三式三型魚雷を転用した特攻兵器。搭乗員は一名。一・五五トンの爆薬を積み、一基の体当たりで空母を轟沈する威力。
『天を回らし戦局を逆転させる』
――人間魚雷「回天」。
―――
十九― 十一 ― 二十
米軍給油艦ミシシネワに菊水隊の的が命中。
ウルシー泊地にあがった火柱と轟音に、みな万歳したのだろうか。
体当たりした隊員は還らない。
十九― 二 ―二
仲間がひとりふたりと居なくなる。訓練中の殉職も多い。
明日は我が身。もはや誰も何も言わない。
基地に迷い込んだ子犬がみなの癒し。名は『回天』。あいつに似ている。
二十 ― 七
死ニ方用意。
一時帰省を許されるが、任務は極秘。
久しぶりに家族に会える。お父さん、お母さん、治郎。
早くあいつに会いたい。なんと言おう。きっと何も言えまい。
***
日記はそこで終わっている。数ページの空白……。
***
お父さん、お母さん、
先日はお会いできて本当に嬉しく、楽しい一日でした。
僕は回天特別攻撃隊として出撃することとなりました。
黙って行くことをお許しください。
お母さんの作る味噌汁は、最高でした。
お父さんのような立派な男になりたいです。
治郎、お前が特に心配だ。すくすく逞しく伸びろ。
それでは、元気に行って参ります。
***
出征前夜に描いたお前の絵を、いつも身につけている。
不思議と近くにいる気がして、それを想うと恐ろしさも紛れる。
あんなに幸せだった夜はない。純真で無邪気なお前の笑顔だけが、これまで一番の支えだった。
本当はチョット寂しい。
けれども、これからは共にいられると思うと、嬉しい。
泣いてくれるな。姿は見えなくても、いつもお前の傍にいる。
できれば平和な世で会いたかった。
いと……市、幸あれかし。
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- Posted in: ★糸しと糸しと云ふ心
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