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 昭和十六年、大東亜戦争が始まっても楽観的な義市は「ああ、始まったんだな」と思う程度で、さほど戦争に関して過敏にならなかった。現に世間が騒いだところで義市の生活にたいした変化はなかった。祐太と変わらずつるんでいられるだけで満足していたのだ。
 思春期になると義市は祐太に対して違和感を覚えるようになった。

 一緒に川に行った時のことだ。服を脱いで下着一枚だけで水の中に飛び込んだ。成長期であるにも関わらず線の細い義市は、目の前にさらけ出された祐太の精悍な肉体に驚いた。いつのまにそんなに成長したのか、程よい筋肉に恵まれた細身の体は、もはや「少年」ではなかった。聞けば、学校へ行っている時間以外は農家の手伝いなどの力仕事をして生活を賄っていると言う。ただ毎日空腹を我慢しているだけの義市とは生に対する必死さが違った。見た目に表れたその差を見せつけられると、嫉妬のような、尊敬のような、羨望のような胸の締め付けがあった。水から上がった祐太は、刈りあげた短い髪を掻きながら義市に近付く。

「泳がないのかよ」

「……風邪引くかもしれない」

「お前から泳ごうって誘ったんだろ。……ちょっと目、」

 閉じろ、と言われて目を窄めた。祐太の呼吸が顔のすぐそばで聞こえて、心臓が不自然に騒いだ。祐太の指が目の下に触れる。

「取れた」

 目を開けると指先に潰れた蚊がいた。

「刺されてなくて良かったな」

「うん」

「帰る? 俺、水汲みしないと」

「うん、付き合ってくれてありがとう」

 陽が暮れかけた田舎道を祐太の背中を追って歩いた。ふいに振り返った祐太が「また来ような」と笑いかける。

 祐太が一緒にいてくれるなら、空腹も耐えられる、一緒に野良仕事をしても頑張れると思った。祐太は義市にとって、誰よりも特別な親友だった。

 昭和十七年のミッドウェー海戦で大きな損害を被った日本軍は、みるみる劣勢に追い込まれ、戦局は国民にも影響を及ぼした。学徒動員や配給不足、さすがに義市の生活も厳しくなり、我慢に我慢を重ねる苦しい青春時代だった。十六の頃である。義市と祐太は軍需工場で働いていたが、祐太の家は貧しくなるばかりなのを義市は知っていた。せっかくの凛々しい体が日増しに痩せて、顔色も悪くなる。祐太はなけなしの食料を妹に分けるのだと言っていた。自分も食べ盛りなのだから自分の分くらいは食べればいいのに、と言っても祐太は聞き入れない。義市が自分の芋を譲ると申し出ると、祐太は𠮟りつけるように拒んだ。

「お前に迷惑かけてまで食いたいと思わない。二度と言うんじゃない」

 祐太の決して人前で弱音や愚痴を吐かない姿勢は尊敬にも値するが、時に人を苛立たせるほどの正義感の強さと慈悲深さはいつか身を滅ぼすのではないかと心配だった。そして、義市の懸念は的中してしまうのである。
 ある日の明け方のことだった。妙に早くに目が覚めた義市は疲労の残った体で家を出た。静かで薄暗い早朝の田舎道は物騒だが、気分転換に歩くには良かった。二軒隣の農家の前を通った時だ。突然野太い男の罵声が響き、ただならぬ事態を察した義市は声の出処である畑へ急いだ。

「この泥棒! お前か、毎日うちの野菜を盗むのは!」

 顔を真っ赤にして憤慨している農家の主人が、畑から土まみれの男を引き連れて道端に打ち倒すと、男の腹を踏み付けた。そのうずくまって踏まれている男が祐太であることに気付くと、義市はすぐさま駆け寄って庇った。

「祐太、どうしたんだよ!」

 祐太は土で黒く汚れた顔に絶望の色を見せて義市を見据えた。祐太が答えるより先に農家の主人が続ける。

「うちの畑の野菜を盗んだんだ! 一度や二度じゃねえ、毎朝掘られたあとがあるから怪しいと思って監視したんだ。そしたら、こいつが現れたんだ!」

 義市は小さくなって震えている祐太に問う。

「……祐太、そうなのか?」

「……」

「お前が盗んだのか?」

「ごめ、ごめんなさい……」

「山上さんの畑からカボチャを盗んだのもお前の仕業だろう!」

 頭ごなしに決め付ける主人の言葉には祐太も否定した。

「それは違います! 僕じゃない! けど……僕が、ここから野菜を盗んだのは事実です……。ごめんなさい……」

「こいつめ!」

 拳を振り上げた主人を、義市が止めた。

「祐太は僕の友達なんです! 僕が彼からきちんと話を聞きますから、許してやってくれませんか! お願いします!」

 主人はまだ怒りを抑え切れていなかったが、ゆっくり拳を下ろし「今度見つけたらタダじゃおかねぇからな!」と吐き捨てて、立ち去った。その場に義市と祐太だけが取り残されると重い沈黙が彼らを包む。東の空が白みだし、雲のあいだから僅かに洩れた朝日が祐太の手元を照らした。まだ未熟なサツマイモが虚しく転がっている。

「祐太、なんで……盗んだ?」

「……治郎が……腹を空かせてるのが、可哀想で……、つい」

「何回した?」

「……三回」

 震える声で絞り出すように言った。祐太の弟がまだ四つばかりの辛抱が難しい歳であることは理解できるが、何も治郎に限った話じゃない。十三になった義市の妹でも、無理を言って困らせることはなくても、いつも腹を空かせながら家の手伝いをしている。義市だってせめて妹には腹いっぱい食わせてやりたい。義市は自分だけは絶対に責めるまいと決めていたのに、祐太の心情が分かるだけに看過できなかった。

「……だから俺のを分けてやるって言ったのに」

「義市だって充分に食べられないことくらい知ってるのに、そんなことできるわけがない」

「だからって、盗んでいいわけないだろッ! そのくらい分かるだろ!?」

 声を張り上げてから「しまった」と口を押さえた。もともと正義感の強い祐太のことだ。自分のしたことが許されるものでないことくらい、指摘されるまでもないはずだ。過ちを反省している人間を責めるのは不用意に傷付けるだけだ。祐太は嗚咽した。義市に言われたからなのか、自分の行動を悔いてのことなのか、どちらにせよ誰よりも祐太を責めているのは祐太自身なのだ。義市は窘めることも宥めることもできずに、背中を丸めてヨロヨロと去る祐太を見送った。膝元に転がっている芋を見て、こんな小さなもののために必死になった祐太を想うと、義市は涙が止まらなかった。

 ―――

 昌平に出した緑茶はすっかり冷めていて、淹れ直そうかと申し出たら丁重に断られた。

「それから、なんとなく口を利けなくてね。随分長いこと祐太とは話もできなかったよ」

「その頃はまだ、祐太は入隊してなかったんですね」

「祐太が志願したのは、その直後だ」

 ―――

 しばらく見かけない日があった。ついに体調でも崩したのかと心配になって工場の帰りに祐太の家に向かった。出迎えたのは治郎だった。大きな目をぱちくりさせて義市を見上げている。片手に焼いた蛙を持っていた。「お兄ちゃんいる?」と訊ねると、治郎は義市の背後に視線を送った。振り返ると祐太が立っていた。

「祐太、最近見ないから、心配したじゃないか……!」

「今日、ちょうどお前の家に行こうと思ってた」

「俺の家に?」

「話があるんだ」

 裏の楠の下に連れられ、陽が沈んだあとの暗闇の中に立たされた。この時代、家の中でも明々とした灯りはつけられないので、家の裏ともなると顔も見えない。目の前に立っている大きな影と息遣いと声だけが、祐太の存在を主張した。

「話って何?」

 やや躊躇いがちの祐太から固唾を飲み込む音が聞こえた。言いにくいことなのだと思うと、胸騒ぎを覚えた。

「俺、予科練に行くから」

 全身から血の気が引いた。
 予科練は帝国海軍の航空兵を養成するところだ。戦局が悪化してから採用は増えているが、それでも難関試験に合格しなければ入れない。予科練の制服の七つボタンは少年たちの憧れでもある。けれども実態は過酷なものだという話も聞いている。非人道的な訓練で亡くなる者も多いし、祐太が志願した時点で予科練出身の多くの若者が率先して戦地へ赴き、命を落としていた。祐太も行けばほぼ確実に同じ道を辿ることになるだろう。

「なんで……!?」

「いつかは戦争に行くんだから早いか遅いかの話だよ」

「それでも、まだ俺たちには猶予があるじゃないか! なんで予科練なんだよ!」

「パイロットになりたくて」

「……嘘だ。祐太は画家になりたいんじゃないのか」

「画家になりたいなんて、一言も言った覚えはないけど」

 もう描いてないしな、と付け足した。

「俺の絵をまだ描いてない」

「ああ、そうだ。だから、行く前に描いておこうと思って」

 暗がりのせいで表情が分からない。けれども声色で祐太が本気で言っていることは分かった。義市がどんなに訴えたところで考えを変えないことも知っている。それでも快く送り出す気にはなれなかった。

「なあ、嘘だよな? お袋さんは知ってるのか? 治郎はどうするんだよ。お前を頼り切っているのに可哀想じゃないか。……そうだ、誰かに志願しろって言われたんだろ」

「いや、俺の意志だよ。お袋は知ってる。……まあ、お前と同じこと言ってたけどさ。それで少しでも家計が助かるなら行ったほうがいい。治郎だっていつまでも俺に頼るわけにいかないから」

「行くなよ。祐太がわざわざ行くことない」

「滅多なことを言うな。聞かれたらお前が危ない」

「危なくてもいいよ! 嫌だ、行かないでくれよ!」

「もうお前にみっともないところを見せたくないんだよッ!」

 それが祐太の本心なのだと悟った。

 ――俺が責めたから……?

 そして祐太は義市の丸い頭を撫で、首に腕を回すと自身の胸に引き寄せた。シャツを通して祐太の鼓動が義市に伝わる。

「もう受かったんだ。何を言われても俺は行くよ」

「なら、俺も行く」

「義市は……小さいよな」

「だから?」

「身長が足りない。頭も悪いから、検査で引っ掛かる。お前が馬鹿で良かった」

「酷い。だから頑固者は嫌いだ」

「俺は好きだよ」

 そんな優しくて残酷な言葉を今になって言うのである。

「小学校の頃からずっと好きだった。義市の前では格好つけたかった。……でも一番見られたくないところを見られた。もう情けない姿は見せたくない。どうせなら万歳して見送ってくれよ。そうしたら、頑張れる」

「……いやだ」

 祐太の胸にしがみついたまま「嫌だ」と泣きじゃくった。とめどなく頬に流れる涙を祐太が拭ってくれたのは覚えているが、その後どうやって家に帰ったのかも、どうやって見送ったのかも覚えていない。ただ、義市の隣で涙を堪えていた祐太の母が「なんでこんなに早く兵隊に行かなきゃいけないのかね」と呟いたのは、九十になった今でも忘れることができない。

 ―――

「祐太は、義市さんの絵を描いてくれたんですか?」

「ああ、出征する前日にね、描いてくれたよ。スケッチブックと鉛筆だけ持って家に来て、居間で、無言で、描いてくれたよ」

「その絵は……?」

「見せてはくれたけど、譲ってはくれなかった。これを持って行くんだと言ってね」

 ――よく描けてるだろう? 目が丸いところとか、唇が薄いところなんかそっくりだ。お前の顔だけは下手に描きたくなくて、ずっと描きたいと思いながら描けなかったんだ。でも、満足いくのが描けた。こいつをいつも胸のポケットに入れておく。――

 義市もせめて祐太の代わりになるようなものが欲しかった。自画像をくれと言ったら、そんな昔の絵はとっくに捨てたと言われて、結局義市の手元には何も残らなかった。

「それからはもう、祐太とは会わなかったんですか?」

「いや……、一度だけ、会った」

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