BREAK OUT-LOW 1-1
しょせん自分は碌な死に方をしないと覚悟はしていたが、さすがに身売りをさせられて終わるような人生は嫌だ。しかもその原因が濡れ衣だなんて、たまったものじゃない。
「だから俺は違う! あいつが勝手に逃げたんだ!」
「うるせぇ! なめくさりやがって! 逃げた奴は連れ戻して漁船に放り込んでやるから、てめぇは飢えたオヤジにたっぷり可愛がってもらいなァ!」
強烈な拳が左頬を直撃した。踏ん張りがきかずに背後のごみ捨て場に倒れ込む。大量のごみ袋がクッションになったおかげで衝撃は緩和されたが、とにかく臭い。
確かに振り込め詐欺なんて下等な犯罪に手を出したのが馬鹿だった。だが、単純に金が欲しいとか誰かを騙したいから加担したわけじゃない。祥平には別の目的があって、それを果たすための通過点に過ぎなかったのだ。それなのに目的を果たすどころか、一緒に組んだ仲間が大金に目が眩んで逃走した。そのせいで責任を取らされそうになっている。
自分よりひと回りもでかくて喧嘩慣れしている男相手にまともに応戦しても敵わない。こんなひと気のない路地裏では誰も助けになんか来ないだろう。が、祥平はすばしこさだけは自信がある。男が祥平を組み敷こうと近寄ったところで砂利を掛けて目を潰した。男が悶えているあいだに逃走を図る。
「こ……んの、クソがァ!!」
――こんなところで諦めてたまるか!
俺はまだ死ねない。
絶対に正体を暴いて殺してやる!
***
血って生臭いよな、と真鍋恭一は考えていた。
裏の世界で生きていれば人の生死を目の当たりにすることなんて珍しくない。血なんか見慣れている。だが、血の匂いだけは慣れない。意識が朦朧としている人間から流れる血は異様に生臭い。
「テメェ二千万も持ち逃げされたっつーのはどういうことだゴラァ!!」
さんざん殴られて蹴られて顔面はうっ血で真っ青だし、ワイシャツには血が滲んでいるのに、組長はまだ足りんと言わんばかりにゴルフクラブを振り下ろした。気の毒に、と思う。気の毒なのは痛めつけられていることじゃない。部下が何人も見ている中でのこの仕打ちはさぞかし屈辱だろうだからだ。
「一週間以内になんとしてでも金を持ってこい!」
そう吐き捨てた組長の秋元は、血のついたゴルフクラブを放り投げて会議室から出て行った。男は血まみれだがなんとか意識を保っている。あまり気を遣わないほうが相手のためだ。恭一は秋元に続いて会議室をあとにした。
『――カシラ、医者に診てもらいましょう』
『……それより……さっさと逃がした小僧を捕まえて金を集めろ……』
ドア越しに聞こえた会話から、どうやら今月の会費が用意できなかったのは素人の一般人にしてやられたからなのだと分かった。同情も協力する気も更々ないが、馬鹿げた失敗をされて巻き添えを食らうのはごめんだ。恭一は気配を隠しながら会議室から離れた。
事務所を出ると待機していた付き人の牛田が「お疲れ様です!」と深々と頭を下げる。
「牛田、カシラがなんのミスしたか知ってるか?」
「どうも弟分が振り込め詐欺をしようとして、出し子に金持って逃げられたうえに、逃げた出し子の責任を取らせるためにかけ子を風俗に沈めようとしたものの、かけ子にも逃げられたそうです」
「振り込めぇ? そんなんに手出したのか。逃げた奴らはどっちもまだ捕まえられてないのか?」
「出し子のほうは捕まえたようですが、かけ子はまだのようですね。金髪の小僧ってのは分かってるらしいですが」
「ま、関係ないけど振り込め詐欺でパクられんのはダサいな」
恭一はそう嘲笑いながらベンツの後部座席に乗り込んだ。
二代目野村組。構成員百人ほどの決して大きくはない組織だが、指定暴力団・松竹会の二次団体である。恭一はそこの本部長を任されており、補佐の牛田とともに組のほとんどの事務を回している。そして先ほど組長の秋元に痛めつけられていた男は、青木宗久という若頭だ。無能そうに見えるがああ見えて時期組長なのである。恭一は現時点では青木とは同格の立場にあるが、あれがいずれ自分のボスになると思うと、いささか不快なのだった。自分のほうが有能であるとか、組を継ぎたかったという話じゃない。特殊詐欺に手を出しておいてまともに金も集められないような奴が自分のボスになるのが嫌なだけだ。せいぜいこちらにとばっちりが来ないよう祈るばかりである。
「真鍋さん、例の中国人から依頼が来てます。明日の朝、午前五時に指定の待ち合わせ場所に来て欲しいと」
「現金いっぱい渡されても困るんだよなぁ。最近、海外送金しにくいんだよ」
「カシラが聞いたら羨ましがりますね」
「あいつもアホだな。俺に百万渡してくれりゃ何倍にも増やして返してやれるのに」
ははは、と車内に低い笑い声が広がる。
「なあ、牛田。一生にかかる金っていくらあれば足りるんだろうな」
「どんな生活するかで変わるんじゃないですか」
どんな生活。そんなこと想像すらできない。
恭一が裏社会に入ったのは十四の時だった。当時友人だった不良にそそのかされるままに少しずつ染まっていった。恭一には両親がいなかった。気が付いたら施設にいたし、施設では周りと馴染めず、いつも独りだった。だから悪の道に進む恭一を止めてくれる存在がおらず、あっという間に落ちぶれた。本格的に暴力団の組員になったのは十八の時。あてもなく夜の街をふらふら歩いていたら、当時野村組の組長だった男に拾われたのだ。
「兄ちゃん、行くとこねぇなら、ウチに来るか?」
どうせ家族もいなければ、まっとうな人生を送ることもできないのだ。恭一は悩むことなく誘いを受けた。
ここではとにかく金がなければ生きていけない。無知で若さしか取り柄がなかった恭一は金をもらえるならなんでもやる、というスタンスでどんなに危険な仕事も我武者羅にやってきた。薬の運び屋も、用心棒も、他の組員が殺した人間の後始末も。
そもそも暴対法の締め付けによりヤクザ者が生きづらくなったこの時世、組に金を納めるために、自分が生きるためになりふり構っていられないのだ。青木が特殊詐欺で失敗したことを鼻で笑ったが、実際組のプライドをかなぐり捨てても一般人を騙さなければやっていけないのが現実だ。麻薬や覚せい剤の取引、闇金を始め、SNSをシノギにする者、ラーメン屋を合法的に経営する者、昔ながらの詐欺や恐喝を貫く者。それぞれが一日一日をやっと生きている。
捕まるか捕まらないかの微妙なラインを潜り抜けることを覚えた今ではシノギが安定している恭一だが、明日は我が身だ。うまく金を集められずに下等犯罪に手を染める若い組員や、組長からのほんの少しの小遣いを頼りにしている組員を見ていると、自分も数日後にはこうなるかもしれないと身震いする。そうするとだんだん「このままこの世界にいていいのだろうか」と考えるようになった。
暴力団は抜けようと思えば抜けられる。だが、抜けたからといってまともに生きられる保証はない。黙って去れたとしても組員であるという事実は消えないので堂々と仕事はできないし、正式に抜けても結局何年かは口座を作ることも家を借りることもできない。できたとしても、元暴力団だと知られれば冷ややかな扱いを受けることになるだろう。
何年か前に「家族と普通に暮らしたいから」と組を抜けた人間がいたが、結局子どもを保育園に入れることも仕事を見つけることもできずに離婚した。その後の消息は不明だ。
それなら多くを望まなければ裏社会にいたほうがいいのかもしれない。カタギになって孤独に飢え死にするくらいなら、シノギで稼いでそれなりの生活をしていたほうがマシかもしれない。仮に刑務所に入ったとしても金さえあれば出所後も困らない。
そんな風に逡巡しながら、恭一は先日、四十一を迎えた。例年より蒸し暑い初夏のころ、数えで本厄だと気付いたのは梅雨入りしてからのことだった。
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「だから俺は違う! あいつが勝手に逃げたんだ!」
「うるせぇ! なめくさりやがって! 逃げた奴は連れ戻して漁船に放り込んでやるから、てめぇは飢えたオヤジにたっぷり可愛がってもらいなァ!」
強烈な拳が左頬を直撃した。踏ん張りがきかずに背後のごみ捨て場に倒れ込む。大量のごみ袋がクッションになったおかげで衝撃は緩和されたが、とにかく臭い。
確かに振り込め詐欺なんて下等な犯罪に手を出したのが馬鹿だった。だが、単純に金が欲しいとか誰かを騙したいから加担したわけじゃない。祥平には別の目的があって、それを果たすための通過点に過ぎなかったのだ。それなのに目的を果たすどころか、一緒に組んだ仲間が大金に目が眩んで逃走した。そのせいで責任を取らされそうになっている。
自分よりひと回りもでかくて喧嘩慣れしている男相手にまともに応戦しても敵わない。こんなひと気のない路地裏では誰も助けになんか来ないだろう。が、祥平はすばしこさだけは自信がある。男が祥平を組み敷こうと近寄ったところで砂利を掛けて目を潰した。男が悶えているあいだに逃走を図る。
「こ……んの、クソがァ!!」
――こんなところで諦めてたまるか!
俺はまだ死ねない。
絶対に正体を暴いて殺してやる!
***
血って生臭いよな、と真鍋恭一は考えていた。
裏の世界で生きていれば人の生死を目の当たりにすることなんて珍しくない。血なんか見慣れている。だが、血の匂いだけは慣れない。意識が朦朧としている人間から流れる血は異様に生臭い。
「テメェ二千万も持ち逃げされたっつーのはどういうことだゴラァ!!」
さんざん殴られて蹴られて顔面はうっ血で真っ青だし、ワイシャツには血が滲んでいるのに、組長はまだ足りんと言わんばかりにゴルフクラブを振り下ろした。気の毒に、と思う。気の毒なのは痛めつけられていることじゃない。部下が何人も見ている中でのこの仕打ちはさぞかし屈辱だろうだからだ。
「一週間以内になんとしてでも金を持ってこい!」
そう吐き捨てた組長の秋元は、血のついたゴルフクラブを放り投げて会議室から出て行った。男は血まみれだがなんとか意識を保っている。あまり気を遣わないほうが相手のためだ。恭一は秋元に続いて会議室をあとにした。
『――カシラ、医者に診てもらいましょう』
『……それより……さっさと逃がした小僧を捕まえて金を集めろ……』
ドア越しに聞こえた会話から、どうやら今月の会費が用意できなかったのは素人の一般人にしてやられたからなのだと分かった。同情も協力する気も更々ないが、馬鹿げた失敗をされて巻き添えを食らうのはごめんだ。恭一は気配を隠しながら会議室から離れた。
事務所を出ると待機していた付き人の牛田が「お疲れ様です!」と深々と頭を下げる。
「牛田、カシラがなんのミスしたか知ってるか?」
「どうも弟分が振り込め詐欺をしようとして、出し子に金持って逃げられたうえに、逃げた出し子の責任を取らせるためにかけ子を風俗に沈めようとしたものの、かけ子にも逃げられたそうです」
「振り込めぇ? そんなんに手出したのか。逃げた奴らはどっちもまだ捕まえられてないのか?」
「出し子のほうは捕まえたようですが、かけ子はまだのようですね。金髪の小僧ってのは分かってるらしいですが」
「ま、関係ないけど振り込め詐欺でパクられんのはダサいな」
恭一はそう嘲笑いながらベンツの後部座席に乗り込んだ。
二代目野村組。構成員百人ほどの決して大きくはない組織だが、指定暴力団・松竹会の二次団体である。恭一はそこの本部長を任されており、補佐の牛田とともに組のほとんどの事務を回している。そして先ほど組長の秋元に痛めつけられていた男は、青木宗久という若頭だ。無能そうに見えるがああ見えて時期組長なのである。恭一は現時点では青木とは同格の立場にあるが、あれがいずれ自分のボスになると思うと、いささか不快なのだった。自分のほうが有能であるとか、組を継ぎたかったという話じゃない。特殊詐欺に手を出しておいてまともに金も集められないような奴が自分のボスになるのが嫌なだけだ。せいぜいこちらにとばっちりが来ないよう祈るばかりである。
「真鍋さん、例の中国人から依頼が来てます。明日の朝、午前五時に指定の待ち合わせ場所に来て欲しいと」
「現金いっぱい渡されても困るんだよなぁ。最近、海外送金しにくいんだよ」
「カシラが聞いたら羨ましがりますね」
「あいつもアホだな。俺に百万渡してくれりゃ何倍にも増やして返してやれるのに」
ははは、と車内に低い笑い声が広がる。
「なあ、牛田。一生にかかる金っていくらあれば足りるんだろうな」
「どんな生活するかで変わるんじゃないですか」
どんな生活。そんなこと想像すらできない。
恭一が裏社会に入ったのは十四の時だった。当時友人だった不良にそそのかされるままに少しずつ染まっていった。恭一には両親がいなかった。気が付いたら施設にいたし、施設では周りと馴染めず、いつも独りだった。だから悪の道に進む恭一を止めてくれる存在がおらず、あっという間に落ちぶれた。本格的に暴力団の組員になったのは十八の時。あてもなく夜の街をふらふら歩いていたら、当時野村組の組長だった男に拾われたのだ。
「兄ちゃん、行くとこねぇなら、ウチに来るか?」
どうせ家族もいなければ、まっとうな人生を送ることもできないのだ。恭一は悩むことなく誘いを受けた。
ここではとにかく金がなければ生きていけない。無知で若さしか取り柄がなかった恭一は金をもらえるならなんでもやる、というスタンスでどんなに危険な仕事も我武者羅にやってきた。薬の運び屋も、用心棒も、他の組員が殺した人間の後始末も。
そもそも暴対法の締め付けによりヤクザ者が生きづらくなったこの時世、組に金を納めるために、自分が生きるためになりふり構っていられないのだ。青木が特殊詐欺で失敗したことを鼻で笑ったが、実際組のプライドをかなぐり捨てても一般人を騙さなければやっていけないのが現実だ。麻薬や覚せい剤の取引、闇金を始め、SNSをシノギにする者、ラーメン屋を合法的に経営する者、昔ながらの詐欺や恐喝を貫く者。それぞれが一日一日をやっと生きている。
捕まるか捕まらないかの微妙なラインを潜り抜けることを覚えた今ではシノギが安定している恭一だが、明日は我が身だ。うまく金を集められずに下等犯罪に手を染める若い組員や、組長からのほんの少しの小遣いを頼りにしている組員を見ていると、自分も数日後にはこうなるかもしれないと身震いする。そうするとだんだん「このままこの世界にいていいのだろうか」と考えるようになった。
暴力団は抜けようと思えば抜けられる。だが、抜けたからといってまともに生きられる保証はない。黙って去れたとしても組員であるという事実は消えないので堂々と仕事はできないし、正式に抜けても結局何年かは口座を作ることも家を借りることもできない。できたとしても、元暴力団だと知られれば冷ややかな扱いを受けることになるだろう。
何年か前に「家族と普通に暮らしたいから」と組を抜けた人間がいたが、結局子どもを保育園に入れることも仕事を見つけることもできずに離婚した。その後の消息は不明だ。
それなら多くを望まなければ裏社会にいたほうがいいのかもしれない。カタギになって孤独に飢え死にするくらいなら、シノギで稼いでそれなりの生活をしていたほうがマシかもしれない。仮に刑務所に入ったとしても金さえあれば出所後も困らない。
そんな風に逡巡しながら、恭一は先日、四十一を迎えた。例年より蒸し暑い初夏のころ、数えで本厄だと気付いたのは梅雨入りしてからのことだった。
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