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第二部 2-9

 親父は自分の死期を知っていたかのように身辺整理をきちんとして旅立った。死後、なんの手続きがあってどのくらいの保険が下りるのか、どこの銀行に連絡するのか、なんの株を持っていたのか、すべての情報を一冊のファイルにまとめて書斎の机の上に置いていたのだ。私物はほとんど処分されていて、クローゼットには数枚の部屋着とスーツだけ、机の引き出しの中はほとんどカラッポだった。ただ、高価な腕時計やネクタイだけは、俺宛に「好きに使え」と書かれたメモと一緒に綺麗な箱にしまわれていた。一体、親父はいつ片付けていたのだろう。俺の知らない時に一人で自分がいなくなったあとのことを考えながら片付けていたのだと想像したら、また涙が出た。

 理沙は広い実家で一人になる俺を心配して暫く残りたいと言っていたが、授業の単位が取れなくなったら本末転倒だからと早々に大学に戻らせた。俺もすぐに仕事に復帰する。あとは焦らずやればいい。
そして大智は「もう会わない」と言ったことを忘れたかのように、しょっちゅう来てくれた。

「今年はほとんど授業が入ってなくて、課題を提出すれば単位が取れる授業ばかりだから年始まで実家にいるつもりなんだ。うちの母さん、おかず作り過ぎちゃうから貰ってくれると助かる」

 と言って、毎日のように夕飯を持ってくるのだ。それが嘘か本当かは分からないが、おかげで喪失感と孤独を紛らわせることができた。やっぱり俺は大智がいるから安定していられるのだと痛感した。

 すっかり冬が深まったある朝、妙に早い時間に目が覚めた。四時半。カーテンをめくると外はまだ暗い。二度寝をしようと思えばできるけれど、完全に目が冴えてしまったのでベッドから下りた。ジャージの上からウィンドブレーカーを羽織って外に出る。朝に散歩に出かけるのは初めてかもしれなかった。ほとんどの民家はまだ眠っているようだが、たまに灯かりが点いている家もあって、夜更かしなのか早起きなのかと誰かも知らない人間のことを想像していた。大智の実家の前を通った。大智の部屋には小さい頃に何度か遊びに行ったことがある。確か二階だった。電気は消えているのでまだ寝ているのだろう。門の前で止めていた足を、再び動かした。
 気付けば九年間、毎日登下校で通った土手を歩いていた。河川敷に下りてサラサラと微かに聞こえるせせらぎに耳を傾ける。足元の雑草は霜が降りているせいか湿っている。地面に座ったら濡れるだろうからずっと立っていた。何をするでもなく、いつもなら目を向けない、耳も傾けないような何気ない自然をボーッと眺めるだけ。こんな時間が持てたのは本当に何年ぶりかで、自分が疲れていることをしみじみ実感した。
 朝食のパンでも買いにコンビニに行こうかと踵を返したら、目の前に人影があった。薄暗いので認識するのに時間がかかったが、

「昇、おはよう」

 大智だった。

「え、あ、おはよ……。なんでここにいるの?」

「さっき、うちの前通ったろ。たまたま早く起きてカーテン開けたら昇が歩いていくの見えたから、追い掛けて来た。珍しいな、お前が朝に散歩するの」

「なんか目が覚めて……」

 大智は俺の隣に立って、深呼吸をする。また背が伸びたらしい。目線の位置が高くなった。相変わらずなんて整った顔立ちだろう。横から見るとよく分かる。鼻は高いし、首は長い。でも喉仏はしっかり出ている。姿勢も良くて。同じ人間なのにどうしてこうも違うのかと羨ましくなる。

「気持ちいいな。早朝の川って」

「まーね。俺も初めて来たけど、久々にのんびりできたよ。……ありがとうな。また色々助けてもらった」

「いいんだ。俺がしたくてしてるだけだし。それにもう会わないって言われたのにしつこく来ちゃってごめん。いい加減鬱陶しいよな」

 考えないようにしていたけど、充希はどうなったんだろう。大智が帰省しておよそ二週間は経つが、充希は何も言わないのだろうか。俺の考えを読んだかのように大智が言う。

「充希とは、もう別れたんだ」

 大智の顔を見上げる。清々しい横顔だった。

「充希はいい友達だったけど、やっぱちょっと……重くて。いつまでも俺に依存しててもあいつのためにならないし、はっきり終わりにしようって言ったんだ」

「大変だったろ」

 俺は充希のことはよく知らないが、性格がしつこそうなのはなんとなく想像できる。

「さんざん喚かれたけどな。昇に電話で会わないって言われた時、すごくショックだった。高校の時に拒まれた時よりも、無理やりキスして拒まれた時よりも。それで俺がどれだけ矛盾してたか思い知ったんだ。俺は昇にも充希にも不誠実でしかなかった。だから充希と別れた。俺はやっぱり昇しか好きになれないから」

 恥ずかしさを誤魔化すように、俺はポケットに手を突っ込んでそっぽを向いた。そしてずっと疑問に思っていたことを聞いた。

「大智ってさ、俺のどこがいいの? 俺、そんなに一途に想って貰えるほどスゴイ人間じゃないんだけど」

 隣でフッと鼻で笑うのが聞こえた。

「顔」

「は!? 顔!?」

「……も、あるけど、頑張り屋なところ。口や態度には出さないけど、昇は地道に頑張るタイプだよな。表に出さないからみんな気付かないけど、本当はすごい真面目なの知ってる。そういうとこ尊敬してるんだ。でも、ストレス溜め込むところも知ってるから、心配になる。なんかほっとけないんだよね」

「……」

「あと、俺を怖がらないところ」

 そして大智は、今までずっと語らなかった自身のことを話し出した。

「俺、生まれつき力が強くて小さい頃から周りを困らせてきたみたいでさ。子どもの頃は加減なんて知らないから悪気はないのに怪我をさせることも多かった。引っ越す前の学校でもみんなから怖がられてたんだ。だから本当の友達っていうのがいなかった」

 小学生の頃、夏の公園で初めて大智に会った時、大智はずっとだんまりで自分から輪に入ろうとしなかった。一緒にいた大智のお母さんが大智の代わりに挨拶をしてきて、当時は甘やかされてるなあ、なんて思った気がする。

「でも昇は普通に話しかけてくれたよな。俺が田口を突き飛ばして怪我させたの覚えてる? あの時も、昇だけは田口がカブトムシを落としたの気付いて、一緒に片付けてくれたよな。恥ずかしくて素っ気ない態度しか取れなかったけど、本当は嬉しかった。そのあともよく遊んでくれた。俺にとってお前は初めてちゃんと出来た友達なんだ」

 俺は大智が初めてできた友達というわけではないけど、俺も大智と一緒にいる時が一番楽しかった。だから大智も同じように思ってくれていたことが嬉しかった。それなのに俺は「大袈裟だな」なんて捻くれたことを言ってしまう。

「全然大袈裟じゃない。両親でさえ、俺とは壁があるから」

「えっ」

 大智は薄暗い空気の中で寂しげに含み笑いをした。足元に落ちている小石を拾って川に投げ入れる。せせらぎに交じってトポン、と心地いい音がした。

「東京に住んでる時、近所に仲良くしてくれたお兄ちゃんがいた。当時中学生だったかな。もう顔も覚えてないけど、よく遊んでくれたのは覚えてる。ある日、両親がいない時にその兄ちゃんが遊びに来たんだ。最初はゲームしてたんだけど、だんだん妙な空気になって。……体を触られたりした」

 そんな話を俺が聞いてもいいのかと少し戸惑う。大智はかまわず続ける。

「上半身だけ裸になれって言われてさ。そこで買い物から帰って来た母さんに見られた。よほどおかしな光景だったんだろうな。悲鳴を上げて兄ちゃんを追い出してたよ。でも俺は純粋に兄ちゃんが好きだったから、懲りずに遊んでもらってた。それで心底嫌悪した母親が無理やり引き離すために引っ越したってわけ」

 てっきり親の仕事の都合か何かで引っ越して来たのだと思っていた。驚きと戸惑いでなんて言えばいいのか分からなかった。

「その兄ちゃんの影響なのか生まれつきなのかは分からないけど、高学年あたりから俺は女子より男子に興味を持ち始めた」

「……あ、でも五年生くらいの時さ、黒髪の女子のこと可愛いって言ってたじゃん。あの時は女の子が好きだったってこと?」

「いや、……あのくらいの歳って好きな女の子の話したがる奴いるだろ。適当に合わせただけだよ。たぶんその黒髪の女子って、昇のことじゃないかな」

「勝手に女子にすんな」

 だが、自我が完全にできていない小学生男子が男が好きだとは言えないだろう。不安の中でなんとか周りに合わせるために苦し紛れについたささやかな嘘なのだと、当時の大智の心境を想像すると切ない。

「いつだったか、親のパソコンをいじってる時にたまたまゲイビのサイトに辿り着いたんだ。その履歴を見た母さんがまた怒り狂ってさ。気持ち悪いとか、頭がおかしいとか言われた。……すごく傷付いた」

「前に、誰かにカムアウトしたことあるかって聞いた時、『バレた』って言ってたけど、もしかしてそれ……?」

 大智は頷いた。

「大学決まった時も母さんは監視するために実家から通えって言ったんだけど、俺はもう息苦しい家が嫌だったから無理言って一人暮らしした。……母さんはあんなだけど、父さんは多少理解があるのか『大智の好きなようにさせろ』って言ってくれて」

「お父さんが味方になってくれてよかったじゃん」

「味方っていうか、放任主義というか。仕事でほとんど家にいなかったから、父さんとはあんまり話したことないんだよね。だから家にも居場所らしい居場所ってなくて。昇と理沙といる時は本当に楽しかった」

 お母さんに嫌悪されて大智が傷付いていた頃、俺は毎日一緒にいたのに何も知らなかった。聞かされなかったとはいえ、元気がないとか落ち込んでいるとか何かしらサインはあったはずだ。親に自分を理解されないことは相当キツいだろうに。それなのに俺は全然気付かなくて。こんなに自分が情けないと思ったことはない。奥歯を噛みしめて俯いた拍子に涙がひと粒落ちた。

「……俺はいつも大智に助けられるばっかりで、お前が辛い時はなんの力にもなってなかったんだな」

「違うよ。家の中が息苦しかったからこそ、昇と毎日下らない話をしてしょうもないことで笑う時間が癒しだったんだよ。逆に敏感に察知されて変な心配されたり気を遣われたりするほうが困ったし、何も聞かないでいてくれたから安心した。昇がいるだけで救われたんだ」

「……」

「けど、これ以上しつこくしたらさすがに嫌われるだろうから、もうこうやって追い掛けるのもやめるよ。……今まで振り回してごめんな。それをちゃんと伝えたくて付いてきたんだ」

 東の空が白み、雀もようやく目を覚ましたのかチュンチュンと囀りだした。空気が明るくなったら泣いたのがバレてしまう。俺は素早く腕で顔を拭った。
 さっきまでひと気のなかった土手に自転車が何台か通った。不気味なほど静かだったのに、どこからともなく生活音が聞こえてくる。遊歩道を散歩していた犬がフンフンと草を嗅ぎながら近寄ってきて、暫く俺たちの足元をウロウロしていたが、やがて飼い主に呼ばれて走り去った。邪魔がいなくなって、俺は大きく息を吐いた。

「……お前を嫌だと思ったことは一度もないよ。強引なやり方に腹は立ったけどな」

「ごめん……」

「高校卒業して大智と疎遠になってたあいだ、本当はずっと会いたかった。ふとした時にお前のこと思い出して、なんでもっと色んなこと聞かなかったのか後悔してた」

「それはでも、仲の良いダチがいなくなったからだろ」

「最初はそうだと思ったよ。でもさ、お前が充希と付き合ってるって知った時、ショックだったんだよね。一緒にいる時に充希からの電話を取ったり、ラインのやりとりしてるのも嫌だった。嫉妬、だと思うんだ。……俺のこと好きだって言ったくせにって」

 大智はどこか期待を含んだ眼で、でも疑いの眼差しで俺を見下ろした。急に心臓がばくばくと音を立てる。

「だから、その、ただの友達だったら、そんな風にならないだろ。お前に電話でもう会わないって言ったけど、それも本当は言いたくなかった。お前と会えないのは辛かった」

「……そう言われると期待しちゃうじゃん」

「していいよ。俺はやっぱり大智がいないと生きていけないみたいだし」

 すると大智は急に顔を背けて、俺から少し離れた。人がせっかく素直になっているのに距離を取られてムッとする。聞いてんのか、と肩を掴んで振り向かせると、大智は涙を流して泣いていた。

「えっ、なんで泣いてんの」

「だって、嘘だろ、お前、俺のこと友達としか見られないって」

「人の話聞いてたか? 言いたくなかったって言ってるだろ。実はあの電話の数日前、お前の家まで行った。でも出てきたのは充希で、大智に特別な気持ちがないならもう会いに来るなって言われた。その時は俺も自分で大智のことをどう思ってるのか自覚がなかったから了承したんだ。だからお前にも会わないって言った」

「あいつ、そんなこと」

「でも、大智は人のこと言えないよな? 大川さんに似たようなことやったんだから」

 と、からかったら、極まりの悪そうに苦笑した。

「別に恨んでるとかじゃないからな。本当に誰かを好きになったらこんなふうになるんだなって思ったら、俺にはできないなと思った。だから俺は大智のことは好きなわけじゃないんだって思い込もうとしたんだ。でもお前と会えないのは寂しくて……。親父の葬式の時、お前が走って来てくれたの、めちゃくちゃ嬉しかった。で、気付いた」

「なにを……」

「俺、お前がいないと無理だわ。大智のことが好きなんだ」

 言葉にしたら自分でも驚くほど心がスッと軽くなった。大智は子どもみたいに泣いている。傍から見れば俺が泣かせているみたいで居心地が悪い。まあ、俺が泣かせているのだけど。大智は泣きながらずっと「うそだ」と言ってなかなか信じなかった。

「こんな嘘つく奴がどこにいるんだよ」

「俺の好きと、お前の好きは違うんだ」

「だから、それをずっと考えてやっと分かったんじゃないか。俺とお前の好きは一緒だよ」

 それでも頑なに信じようとしない。俺も大概短気なので、だんだんイライラしてきた。そして大智の胸ぐらを掴んで無理やり引き寄せて、唇を奪ってやった。涙のしょっぱい味がする。大智はようやく目を開けて俺を凝視した。

「信じるか?」

 また大智の目にぶわっと涙が浮かぶ。こいつ、こんなに泣き虫だったのかとおかしくなって笑ってしまった。

「うん、うん……、うれしすぎて死にそう」

「俺に何度も葬式出させんな」

「昇、すきだ、大好きだ」

「おー」

 袖で大智の顔をゴシゴシと拭いてやる。涙が止まったと思えば今度は歯を出してあどけなく笑った。俺が一番好きな顔だ。
そういえば文房具屋で大智に助けられた日も冬だったっけ。「いつも傍にいてやるよ」と言ってくれた時の大智の笑顔がだぶる。きっと俺はあの頃から、大智のことが好きだったんだろう。
朝日はどんどん昇っていき、白い光が大智の輪郭を縁取った。金色に光る大智の背中を羨望していた少年時代。今は同じ気持ちで、同じ目線で向かい合っている。もう卑屈になったりしない。
 大智は俺の幼馴染で親友で、好きな奴だから。


 了

番外編→


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