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第二部 2-8

***

 昼食の時間が終わった頃、俺と理沙は親父の病室を訪れた。昼食が運ばれてもう一時間は経つはずなのに親父はひと口も手を付けておらず、ぼんやりとした目でテレビを見ていた。鼻に繋がっている酸素ボンベのチューブが痛々しい。

「……食べないと治るものも治らないよ」

 そう声を掛けるとハッとしてこちらを見た。

「昇」

 俺の後から理沙が「わたしもいるよ!」と顔を出す。親父は嬉しそうに歯を出して笑った。親父のこんな顔を久々に見た。

「お父さん、昇と喧嘩しちゃったんだって? 喧嘩する元気があるくらいなんだからすぐ退院できるわね」

「はは……。理沙にそう言われたら敵わんな。二人とも忙しいのに来てくれたのか。ありがとうな」

「お父さん、今日はなんの日か覚えてる?」

「ああ、勿論だ。昇も理沙も、誕生日おめでとう。もう二十歳か、すっかり大人だな」

「ケーキ買って来たんだー。一緒に食べようね。わたし、売店でジュース買ってくるから」

 理沙はパタパタと忙しなく病室を出て行った。急に病室が静かになる。俺も親父も気まずさがあってか暫く沈黙が流れたが、先に親父がそれを破った。

「今朝、会社から電話があってな……。お前、父さんの部署を異動させてくれって頼んだんだって?」

「ああ……うん」

 余計なことをするなと言われるだろうか。俺はケーキを冷蔵庫に入れながら答えた。

「ありがとう」

 思いがけない言葉に、親父を見据える。

「父さんもな、言わなきゃいけないって分かっていたんだが、忙しそうな周りの状況を見ると言い出せなくてな。昇には心配をかけた。済まなかった。会社の人も『優しい息子さんですね』と言ってくれたよ」

 急にしおらしくなるもんだから力が抜けた。ベッドの横の丸椅子に腰を下ろす。

「俺も怒ってごめん。昨日も……起きるの待たずに帰っちゃったし」

「いいんだ。お前は何も悪くない。父さんが我儘だったんだ」

 俺はポケットに入れてあった葉書を、親父に渡した。

「これ、今日、届いたんだ」

 親父は母親からの葉書を表、裏と交互に見、黙読する。読み終わると静かに涙を流した。

「……そういえば、産院の企画で二十年後の子どもに向けて手紙を書いてくださいって言われてたな……」

「俺さ、母さんが死んでから今まで、無意識に母さんのことを思い出さないようにしてたんだ。一度懐かしんで泣いたら、なかなか立ち直れないと思ったから。でも今日、この葉書を読んだ瞬間、母さんのこと自然に思い出した。……たいした想い出じゃないけど、あんなことあったな、とか。……なんか嬉しかった」

「……亡くなった人は誰かの想い出の中でしか生きられないから、時々は思い出してあげないとな。母さんも、『忘れてんじゃないわよ』って言ってるのかもしれないぞ」

「そうかもね」

 はは、と親父は笑って目尻を拭った。

「ああ、父さんも思い出した。お前たちの名前を決める時、父さんも母さんもそれぞれに付けたい名前があったのに、お互いが譲らないから大喧嘩したっけな。それで結局、お互いの名前の一部を付けようってことになって」

「親父の『昇太』から『昇』、母さんの『沙和子』から『理沙』だろ。安易にもほどがある」

「そんなもんだよ」

 窓が開いているのか、吹き込んだ風にカーテンが靡いた。俺は普段、幽霊なんてものはまったく信じないけれど、この時はごく自然に母親が来ているのだと信じて疑わなかった。親父は病気の苦しさも痛みも感じさせないほど穏やかな表情で笑っている。
「母さんの願い通り、昇も理沙も優しい子に育ってくれたよ。昇、大変だったろう。本当にありがとう。息子がお前で良かった。じき母さんに会ったらお前たちのことを伝えておこう」

 食事をほとんど食べられなくなっていた親父だったが、理沙が選んだ苺のショートケーキだけは綺麗に食べた。それが最後の食事だった。そして三日後、親父は眠るように安らかに逝った。

 ***

 葬儀は親族だけでおこなった。喪主としての葬式は俺には荷が重すぎて、親父には申し訳ないがこじんまりと見送ろうと理沙と決めたのだ。それでも葬儀屋や寺の住職とのやりとり、盆と正月にしか会わないような親戚への対応に追われて別れを惜しむ暇などなかった。唯一時間を持てたのは火葬に入ってからだ。親父が火葬炉に入って骨になるまでの間、俺は空に上る煙をぼうっと眺めていただけ。
ある日突然死んでしまった母親と、年月をかけて見守られながら死んだ親父。逝き方は全然違ったけれど、一人の人間がこの世から完全に消え去ろうとしている中で改めて分かったことは、どんな最期でも人はあっけなくいなくなるのだということだった。
 そろそろ焼却が終わるかな、と視線を空から落とした時だ。遠くから誰かが走ってくるのが見えた。真っ黒のスーツを来た若い男。

「……大智……」

 慌てて来たのか、ジャケットのボタンはきちんと留まっていないし、ネクタイも歪んでいる。冬だというのに額に汗を滲ませて。大智はハアハアと白い息を纏わせてまっすぐ俺に向かってくる。

「ごめん、来ちゃ駄目なんだろうけど、居ても立っても居られなかったというか……」

 どうしてここに、と不思議に思うどころか、やっぱり来てくれたという安堵があった。世間体やルールを無視してでも来てくれる。そのことが何より嬉しかった。それなのに俺は何も言葉が出ない。怒りも驚きもしない、ただひたすら虚無の表情の俺を大智は心配そうに覗き込む。

「昇、大丈夫? ごめんな、会いたくなかったよな」

 違うんだ、本当は会いたかったんだ。けれどもその一言がどうしても言えない。
 俺が嫌がっているのだと思ったのか、大智は申し訳なさそうに頭を掻いて背を向けようとする。俺は無意識に動いて大智にすがりついた。

「帰るな」

 なんて勝手な。俺から突き放しておいて心細い時だけ助けを求めるなんて。だが、大智は俺の背中に腕を回して抱き返した。喪服は冷たいのに、大智の腕の中はやけに温かい。ああ、俺が欲しかったのはこの感触なんだと認めた瞬間、涙が溢れた。
 親父がいなくなって悲しい。こんなに早くに両親を亡くすと思わなかった。本当はもっと甘えたかった。色んな事を教えて欲しかった。初めて声を出して泣いた。寂しくて悲しいのに、ちゃんと泣けたことが今、何故か嬉しい。
 大智は子どもをあやすような手つきで背中を撫でてくれる。

「気が済むまで傍にいるよ」

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