第二部 2-7
ぐっすり寝ている親父を起こしたくなくて、暫く寝顔を見たあと会話をせずに病室を出た。看護師に親父が起きたら俺が来ていたことだけ伝えてくれと残して。
病院の外はもう真っ暗で、冷たい風が枯葉を巻き込みながら吹いている。いつの間に冬になったんだっけ。夏が終わった辺りからの記憶が曖昧だ。遠くの空で星が小さく光っている。それをボーッと見ているうちに山木さんに連絡しなければと思い出し、スマートフォンを開いた。画面に表示されている日付を見て思い出した。明日は十一月三十日。俺と理沙の誕生日である。こんなに気分が盛り上がらない誕生日は初めてかもしれない。親父は入院、理沙は県外、大智は……。
――昇の誕生日には一緒に酒、飲もう。――
それももう叶わないことだ。もとよりこんな状態では酒など飲んでも楽しくないけれど。
開いたスマートフォンを、電話をかけずにポケットにしまった。電話も面倒、口を開くのも面倒だ。全部投げ出してどこか遠くに行けたらいいのに。せめて誰か話を聞いて欲しい。「自分で選んだ道だから」と自分を納得させてきたけど、この二年間ずっと心はどこか晴れない。俺はこれからどうすればいいんだろう。
足は自分の意思とは関係なく歩いて行く。家の方向ではなく、駅のほうへ進んでいる。駅に向かったところでどこにも行く当てはない。いっそ理沙のところに行ってみるか。だけど手持ちの金じゃ到底足りない。
コンビニの前で、見知らぬ誰かとぶつかった。すみません、と頭を下げたつもりだったが、声が届いていなかったようだ。チッ、と大きく舌打ちをされた。あまりガラの良くない輩だ。こういう時に限って絡まれる。
「テメェ、前見ろや」
「……はあ」
俯いていた顔をやっと上げる。いかにもタチの悪そうな不良である。
「はあ、じゃねぇよ。謝れよ」
「謝っただろ。お前が聞いてなかっただけだろう」
直後に左頬に拳が飛んできた。力はそれほど強くなかったが、不意打ちだったので下唇を切った。不良がちょっとイキがっているだけだ。頭ではそう分かっていても、こちらもムシャクシャしている。そして買うつもりもなかった安い喧嘩を、買ってしまったのだ。一発殴ってせいせいしている不良を、わざわざ肩を掴んでまで振り向かせて殴り付けた。まさか反撃されると思わなかっただろう。不良は地べたに倒れ込み、そんな俺たちを周囲の通行人たちは足早に避けていく。立ち上がった不良にもう一発殴られたのは言うまでもない。こちらも退くに退けず、暫く意味のない殴り合いをした。
殴り合いなんていつぶりだろう。むしろ初めてかもしれない。調子に乗った学生でもない、成人した大人になってからの喧嘩。体中が痛いのに馬鹿らしくて少し笑えた。
「なに笑ってやがる!」
足に力が入らなくなった頃、みぞおちに渾身の一発を食らって自転車置き場に倒れた。並んでいた自転車がドミノのように倒れていく。その無様な姿を見て気が済んだのか、不良は唾を吐いて去った。
痛くて起き上がれない。白い目で見ていく通行人。誰も助けてくれない。誰も助けてくれないならいっそここでひと眠りしてもいいかな。そんなことを考えていたら、
「なにやってんのよ」
重い瞼をゆっくり開ける。ぼやけた視界の中に、理沙に似たシルエットが見えた。何度かまばたきをするうちにクリアになる。
「……え? 理沙……?」
「昨日の電話で心配になって、今日の授業終わってすぐに戻って来たのよ。バス停下りたら誰かが殴り合いの喧嘩してるから、やだなーって思ってたら、昇なんだもん。ビックリさせないでよ。誰と喧嘩してたの?」
「知らない奴」
「ええ?」
「知らないどっかの不良とぶつかった」
「チンピラじゃないんだから、物騒なことやめてよ」
差し出された理沙の手を掴み、やっと立ち上がった。理沙が倒れた自転車を起こすのを手伝ってくれて助かった。この作業を一人でしていたら惨めすぎて泣けてくる。
「何かあったの?」
「……今日、親父が会社で倒れた」
「えっ!?」
「昼頃、病院から電話があって、会社で喀血したって。今は落ち着いて病室で寝てる。理沙に電話しようと思ったんだけど、今病院出たとこでさ」
「じゃあ、わたし今日帰ってきてよかった。虫の知らせってやつかしら。一人で大変だったでしょ。ありがと」
礼を言われると心苦しい。俺はただ病院に行っただけで、親父が落ち着いたと分かったら起きるのを待たずに出てきたのだから。起こさなかったのは眠っていたから、というのもあるけれど……、
「違うんだ。俺、本当は昨日親父と喧嘩したのまだムカついてて。病院には行ったけど、親父が起きる前に出てきたんだ。……顔を合わせたくなかったから。口を開いたらまた喧嘩しそうだから。ひどいだろ。病気の親父をほっといて出てきたんだぜ」
すると理沙は背後から俺の手を取った。冷たい氷のような手。理沙は冷え性だっけ。
「そうやって自分を追い詰めるようなこと言うのやめなって。それでも仕事切り上げて病院行ってくれたんだから。わたしは感謝してるよ」
帰ろ、と俺の手を引っ張る。さすがにこの歳で妹と手を繋ぐのは躊躇うものがあるが、誰かと触れているのは安心する。理沙の冷たい手が少しずつ温かくなるのを感じながら、本当は誰の体温が欲しかったのかに気付いてしまった。
「明日、誕生日だよねー。なにくれるのか楽しみだな~」
「……お前、貰うことしか頭にないだろ」
***
翌日は早く起きて病院に行こうと言っていたのに、目が覚めたら昼前だった。まずいなと危機感を覚えながらも動けずにいると、一階から理沙の騒々しい足音が近付いてきて、ノックもなしにドアを開けた。
「昇! 見てコレ!」
「なんだよ」
理沙はえらく興奮しているようで、早く早くと俺に一通の葉書を手渡した。俺はそのどこか古びた葉書を訝しみながら見た。宛名は俺と理沙、そして差出人は、
「お母さんよ!」
行書体のような流れる字で、渡辺沙和子と書いてある。母親の名である。まさか、と半信半疑ながら、俺はその葉書を読んだ。どうやら俺たちを産んだ二十年前の今日、書いたものらしい。我が子が二十歳になったら届くように、と。
「郵便局とかでもたまに見るよね、こういうの。まさかお母さんがわたしたちに書いてくれるなんて思いもしなかった」
俺の記憶の中の母親は、明るくてサバサバしていて、少女というより少年のような人だった。小さい頃は一緒に公園で走り回り、キャッチボールの相手もしてくれた。父親が運動音痴だったから余計に逞しく感じた。母親のことを一つ思い出すと、まるで蓋をしていた箱から溢れ出るように、次々と蘇ってくる。
料理は上手かったけど、裁縫は苦手で、ボタン一つ付けることさえ碌にできなかった。紺色のシャツに赤の糸で縫われた時は泣いて怒った気がする。
勉強に関してはあまりうるさく言われなかったように思う。一度だけ社会のテストでニ十点を取ったことがあり、さすがに怒られるかとビクビクしていたけど、母親は大笑いしていたっけ。その代わり忘れ物にはうるさくて、鉛筆一本忘れただけでネチネチと説教されたものだ。
ドラマはメロドラマよりコメディドラマをよく見ていた。「メロドラマなんて恥ずかしくって見ていられない」なんて言って、恋愛ものが好きな理沙を茶化しては理沙に怒られていた。子どもですら呆れるほど、子どものような母親だった。そんな人が子どもを産んだ直後に二十年後の我が子を想像しながら手紙を書くなんて、そんなロマンチックなことができるのかと新鮮に驚いた。
「なんか、変な感じだよね。とっくに死んじゃったお母さんから手紙が来るなんて。また会えたみたいで嬉しいよね」
――二十歳になった昇と理沙へ
本当に二十年後に届くのかしら? と思いながら、書いています。
昇、理沙、お誕生日おめでとう。つい数時間前にお腹を痛めて苦しみながら産んだのに、
目の前で寝ているまだ赤ちゃんのあなたたちを見ながら、二十年後なんてとてもじゃないけど想像できません。我が子が生まれた喜びを噛みしめることで精一杯です。
これからどんな風に育つのか、どんな少年少女になって、どんな大人に成長したのか分からないけれど、確信を持って言えることが一つだけあります。
昇はお父さんに似てかっこよく、理沙はわたしに似て美人になっているはず!
勉強はどうかな。二人ともお父さんに似れば賢いだろうし、わたしに似ればちょっと先行き不安ね。スポーツに関してはお母さんに似て欲しいけど。
どんな子と友達になるのかしら? たくさん作らなくていいから、心の置ける友人を一人は作りなさいね。
こんな大人になって欲しいな、なんて勝手な願望は上げたらきりがないけれど、やっぱり
元気でいてくれることがお父さんとお母さんの一番の願いです。
勉強ができなくても運動音痴でもいい。ただ人を思いやることができる優しい心を持って、どうか健やかに育って下さい。
お母さんより――
→
病院の外はもう真っ暗で、冷たい風が枯葉を巻き込みながら吹いている。いつの間に冬になったんだっけ。夏が終わった辺りからの記憶が曖昧だ。遠くの空で星が小さく光っている。それをボーッと見ているうちに山木さんに連絡しなければと思い出し、スマートフォンを開いた。画面に表示されている日付を見て思い出した。明日は十一月三十日。俺と理沙の誕生日である。こんなに気分が盛り上がらない誕生日は初めてかもしれない。親父は入院、理沙は県外、大智は……。
――昇の誕生日には一緒に酒、飲もう。――
それももう叶わないことだ。もとよりこんな状態では酒など飲んでも楽しくないけれど。
開いたスマートフォンを、電話をかけずにポケットにしまった。電話も面倒、口を開くのも面倒だ。全部投げ出してどこか遠くに行けたらいいのに。せめて誰か話を聞いて欲しい。「自分で選んだ道だから」と自分を納得させてきたけど、この二年間ずっと心はどこか晴れない。俺はこれからどうすればいいんだろう。
足は自分の意思とは関係なく歩いて行く。家の方向ではなく、駅のほうへ進んでいる。駅に向かったところでどこにも行く当てはない。いっそ理沙のところに行ってみるか。だけど手持ちの金じゃ到底足りない。
コンビニの前で、見知らぬ誰かとぶつかった。すみません、と頭を下げたつもりだったが、声が届いていなかったようだ。チッ、と大きく舌打ちをされた。あまりガラの良くない輩だ。こういう時に限って絡まれる。
「テメェ、前見ろや」
「……はあ」
俯いていた顔をやっと上げる。いかにもタチの悪そうな不良である。
「はあ、じゃねぇよ。謝れよ」
「謝っただろ。お前が聞いてなかっただけだろう」
直後に左頬に拳が飛んできた。力はそれほど強くなかったが、不意打ちだったので下唇を切った。不良がちょっとイキがっているだけだ。頭ではそう分かっていても、こちらもムシャクシャしている。そして買うつもりもなかった安い喧嘩を、買ってしまったのだ。一発殴ってせいせいしている不良を、わざわざ肩を掴んでまで振り向かせて殴り付けた。まさか反撃されると思わなかっただろう。不良は地べたに倒れ込み、そんな俺たちを周囲の通行人たちは足早に避けていく。立ち上がった不良にもう一発殴られたのは言うまでもない。こちらも退くに退けず、暫く意味のない殴り合いをした。
殴り合いなんていつぶりだろう。むしろ初めてかもしれない。調子に乗った学生でもない、成人した大人になってからの喧嘩。体中が痛いのに馬鹿らしくて少し笑えた。
「なに笑ってやがる!」
足に力が入らなくなった頃、みぞおちに渾身の一発を食らって自転車置き場に倒れた。並んでいた自転車がドミノのように倒れていく。その無様な姿を見て気が済んだのか、不良は唾を吐いて去った。
痛くて起き上がれない。白い目で見ていく通行人。誰も助けてくれない。誰も助けてくれないならいっそここでひと眠りしてもいいかな。そんなことを考えていたら、
「なにやってんのよ」
重い瞼をゆっくり開ける。ぼやけた視界の中に、理沙に似たシルエットが見えた。何度かまばたきをするうちにクリアになる。
「……え? 理沙……?」
「昨日の電話で心配になって、今日の授業終わってすぐに戻って来たのよ。バス停下りたら誰かが殴り合いの喧嘩してるから、やだなーって思ってたら、昇なんだもん。ビックリさせないでよ。誰と喧嘩してたの?」
「知らない奴」
「ええ?」
「知らないどっかの不良とぶつかった」
「チンピラじゃないんだから、物騒なことやめてよ」
差し出された理沙の手を掴み、やっと立ち上がった。理沙が倒れた自転車を起こすのを手伝ってくれて助かった。この作業を一人でしていたら惨めすぎて泣けてくる。
「何かあったの?」
「……今日、親父が会社で倒れた」
「えっ!?」
「昼頃、病院から電話があって、会社で喀血したって。今は落ち着いて病室で寝てる。理沙に電話しようと思ったんだけど、今病院出たとこでさ」
「じゃあ、わたし今日帰ってきてよかった。虫の知らせってやつかしら。一人で大変だったでしょ。ありがと」
礼を言われると心苦しい。俺はただ病院に行っただけで、親父が落ち着いたと分かったら起きるのを待たずに出てきたのだから。起こさなかったのは眠っていたから、というのもあるけれど……、
「違うんだ。俺、本当は昨日親父と喧嘩したのまだムカついてて。病院には行ったけど、親父が起きる前に出てきたんだ。……顔を合わせたくなかったから。口を開いたらまた喧嘩しそうだから。ひどいだろ。病気の親父をほっといて出てきたんだぜ」
すると理沙は背後から俺の手を取った。冷たい氷のような手。理沙は冷え性だっけ。
「そうやって自分を追い詰めるようなこと言うのやめなって。それでも仕事切り上げて病院行ってくれたんだから。わたしは感謝してるよ」
帰ろ、と俺の手を引っ張る。さすがにこの歳で妹と手を繋ぐのは躊躇うものがあるが、誰かと触れているのは安心する。理沙の冷たい手が少しずつ温かくなるのを感じながら、本当は誰の体温が欲しかったのかに気付いてしまった。
「明日、誕生日だよねー。なにくれるのか楽しみだな~」
「……お前、貰うことしか頭にないだろ」
***
翌日は早く起きて病院に行こうと言っていたのに、目が覚めたら昼前だった。まずいなと危機感を覚えながらも動けずにいると、一階から理沙の騒々しい足音が近付いてきて、ノックもなしにドアを開けた。
「昇! 見てコレ!」
「なんだよ」
理沙はえらく興奮しているようで、早く早くと俺に一通の葉書を手渡した。俺はそのどこか古びた葉書を訝しみながら見た。宛名は俺と理沙、そして差出人は、
「お母さんよ!」
行書体のような流れる字で、渡辺沙和子と書いてある。母親の名である。まさか、と半信半疑ながら、俺はその葉書を読んだ。どうやら俺たちを産んだ二十年前の今日、書いたものらしい。我が子が二十歳になったら届くように、と。
「郵便局とかでもたまに見るよね、こういうの。まさかお母さんがわたしたちに書いてくれるなんて思いもしなかった」
俺の記憶の中の母親は、明るくてサバサバしていて、少女というより少年のような人だった。小さい頃は一緒に公園で走り回り、キャッチボールの相手もしてくれた。父親が運動音痴だったから余計に逞しく感じた。母親のことを一つ思い出すと、まるで蓋をしていた箱から溢れ出るように、次々と蘇ってくる。
料理は上手かったけど、裁縫は苦手で、ボタン一つ付けることさえ碌にできなかった。紺色のシャツに赤の糸で縫われた時は泣いて怒った気がする。
勉強に関してはあまりうるさく言われなかったように思う。一度だけ社会のテストでニ十点を取ったことがあり、さすがに怒られるかとビクビクしていたけど、母親は大笑いしていたっけ。その代わり忘れ物にはうるさくて、鉛筆一本忘れただけでネチネチと説教されたものだ。
ドラマはメロドラマよりコメディドラマをよく見ていた。「メロドラマなんて恥ずかしくって見ていられない」なんて言って、恋愛ものが好きな理沙を茶化しては理沙に怒られていた。子どもですら呆れるほど、子どものような母親だった。そんな人が子どもを産んだ直後に二十年後の我が子を想像しながら手紙を書くなんて、そんなロマンチックなことができるのかと新鮮に驚いた。
「なんか、変な感じだよね。とっくに死んじゃったお母さんから手紙が来るなんて。また会えたみたいで嬉しいよね」
――二十歳になった昇と理沙へ
本当に二十年後に届くのかしら? と思いながら、書いています。
昇、理沙、お誕生日おめでとう。つい数時間前にお腹を痛めて苦しみながら産んだのに、
目の前で寝ているまだ赤ちゃんのあなたたちを見ながら、二十年後なんてとてもじゃないけど想像できません。我が子が生まれた喜びを噛みしめることで精一杯です。
これからどんな風に育つのか、どんな少年少女になって、どんな大人に成長したのか分からないけれど、確信を持って言えることが一つだけあります。
昇はお父さんに似てかっこよく、理沙はわたしに似て美人になっているはず!
勉強はどうかな。二人ともお父さんに似れば賢いだろうし、わたしに似ればちょっと先行き不安ね。スポーツに関してはお母さんに似て欲しいけど。
どんな子と友達になるのかしら? たくさん作らなくていいから、心の置ける友人を一人は作りなさいね。
こんな大人になって欲しいな、なんて勝手な願望は上げたらきりがないけれど、やっぱり
元気でいてくれることがお父さんとお母さんの一番の願いです。
勉強ができなくても運動音痴でもいい。ただ人を思いやることができる優しい心を持って、どうか健やかに育って下さい。
お母さんより――
→
スポンサーサイト
- Posted in: ★お前は幼なじみで、親友で
- Comment: 0Trackback: -