第二部 2-2
あれだけ厳しかった残暑も、十月後半になるとようやく落ち着いた。朝と晩の空気がひんやり冷たく、じきに冬が来ると思えば不思議と夏の暑さが恋しくなった。
プログラミング教室は無事開校し、俺は小学校低学年のクラスを任されるようになった。子どもの相手はあまり得意ではないので不安もあったが、コミュニケーション面では子どもたちに助けられることが多かった。もともと学校と違って「学びたい」という意欲があって通う子が多い場所だ。こちらが訊ねる前に質問してくれるのはおおいに助かった。俺よりも飲み込みの早い生徒もいて、どんどん課題をこなしていく子を見ると焦りはするが、それもまた楽しい。追いつかれても困るので、勉強は自主的に続けている。そして週に一度は大智と一緒に飯を食う。外食に行く時もあれば大智の家で料理をふるまってもらう時もある。そして取り留めのない話で盛り上がるのだ。
充希のことは話題には上がらないが、時々スマートフォンをいじっていたり、会話の途中で電話が掛かってくることがあり、その時の大智の反応で「充希からなんだな」と察する。
上手くいっているようで良かったな、と微笑ましくはあるけれど、会話の途中で電話に出られるとテンションの行き場に困ることは多々ある。勢いで喋ってしまいたいことを一度遮られてしまうと続きを話すのが面倒になるのだ。別にそれが嫌なわけではない。ただ、そういう時に「俺が大智を独り占めしちゃいけないな」と自戒する。俺にも彼女ができれば対等になるのにと望んではいるけれど、出会いがないので叶わない。
そんな寂しくも穏やかな日々を送っていた時だった。
「転移、ですか」
軽く診察をしてもらおうという気持ちで受けた親父の定期健診で、癌が転移していると告げられた。腫瘍はそれほど大きくないが段階的には中期だと言われ、再手術も視野にいれて地道に治療していくとのことだった。
転移はあるかもしれないと思っていたので驚きはしない。ただ、早すぎた。親父が退院してからまだ一ヵ月と少ししか経っておらず、これから仕事に復帰して徐々に元の生活に戻していこうと話していたところだった。またあの長い闘病が始まるのかと思うと言葉が出ない。俺ですらそうなのだ。親父は尚更だろう。
担当医の話を聞きながら親父の横顔をチラリと見る。真顔で動じていないように見えるけれど、やはりどこか気落ちしているのはあきらかだった。
「これ以上仕事は休めないからなぁ~。会社に行きながら病院に通わないといけないな」
じゃがいもの皮を丁寧に剥きながら、親父は言った。笑ってはいるけど覇気がない。いつもより手際が悪いし、剥いている皮が厚すぎて実がなくなりそうだ。だから帰りに弁当を買おうと言ったのに。
「なあ、もっと楽な部署に異動させてもらえないの? 残業しなくてもいいような」
「でも、そうなると給料も減るからな」
「理沙の学費ならもう貯金はあるし、俺も働いてるから金の心配はしなくていいんじゃないかな。それより自分の身体のこと考えてよ。抗がん剤打ちながらバリバリ働くのは無理だよ」
「けど、昇にばかり負担は掛けられない」
「負担じゃないってば。だから部署異動させてもらえよ」
すべてのじゃがいもを剥き終わってボウルに入れる。なんとも歪な形だ。肉じゃがにしてしまえば形なんて崩れるからどっちでもいいけど。親父が剝き終えたじゃがいもを、今度は俺が鍋に移して肉と一緒に炒める。ふ、と親父が仏壇に目をやったのを見た。
「……親父。治療を諦めるとか言うなよ」
俺の言葉にハッとしたのか、親父は「そんなわけないだろう」と力なく笑った。こんな時、どういう言葉を掛けてやったらいいのか分からない。ずっと傍で親父を見てきた俺は、気長に治療をすることがどれだけ大変なのか知っている。だからこそ気休め程度の楽観的な言葉は言えない。きっと理沙なら、そんなこと構わず明るく元気づけようとするのだろうが。
「理沙には昇から話してくれないか」
「え?」
「父さんから話すと、どうも怒られそうな気がしてな」
弱気になっちゃ駄目だよ、と目くじらを立てる理沙を容易に想像できる。でも親父がその役を俺に任せたのはたぶん、俺がほんの少し理沙に会いたくなったのを察したからなんだろう。
電話で理沙に親父の転移のことを話したら、もっと落ち込むかと思っていたけど案外すんなり受け入れた。理沙も転移の心配はしていたらしく、やはりか、といった様子だった。一度様子を見に帰ると言っていたが、今すぐどうこうなる話ではないので授業を休んでまで来る必要はないと断った。
『昇にばっかり任せちゃってるね』
「俺はいいって。あー、その代わりと言っちゃなんだけど、もし時間あれば何か作り置きのおかず送ってくれないか。俺も毎日作れるわけじゃないからさ」
『任せといて! たくさん作って冷凍して送るから』
一緒にいると鬱陶しいと思うことばかりだった妹も、こういう時になると頼りになる。
『あんまり一人で背負いすぎないでよね。大ちゃんとも会ってるんでしょ? 何かあった時は助けてもらって』
大智ならきっと言えば助けてくれるのだろうが、それはあまりしたくない。自分の親のことなのに友達に助けてもらうなんてできないし、何より俺が大智を頼ると充希が嫌な思いをすることになるだろう。
実際、親父の治療が再開してから気ままに過ごす時間は減っていった。できるだけ親父には休んでもらいたいので家事全般は俺がやっている。一人ならやらなくてもよかったことも、二人なら毎日やらないと後で困ることになる。掃除、洗濯、炊事。仕事が終わってからやろうと思うとそもそも遊びたいという気分でもないし、そうなると自然に大智と会う日も少なくなった。時々「飯でも行く?」と誘われることはあったが、事情を説明すると大智も遠慮してか誘ってこない。多少寂しくあるが、仕方がない。大智には充希がいるのだから。
***
あれだけ部署異動をさせてもらえと言ったのに、親父は会社には何も話していないようだった。それどころか、これからも治療が必要だということすら、黙っている。休んでいた分を取り戻すかのように必死に働き、へとへとの身体に抗がん剤を打つ。抗がん剤は副作用が強い。前回の治療でも嘔吐しまくってグッタリしていた。抜けた毛髪はまだ生えていないので鬘を被っている。これじゃいくら俺がサポートを頑張っても、良くなるはずがない。労わらなきゃと思っていても、だんだん「どうして分かってくれないんだ」と苛々することが増えた。
苛々するのは親父も同じらしかった。抗がん剤を打った翌日はすこぶる体調が悪く、ベッドから起き上がれない。当然出勤などできないので会社を休む羽目になる。それが更に焦りになるのか、ちょっとした物言いがきつくなった。
「親父、会社にまだ言ってないんだろ。俺が電話しようか」
「余計なことをするな」
「だけど、今は週一休むだけで済んでるけど、もっと回数が増えたらどうするんだよ。それこそ迷惑になる……」
「いいから、お前は何もするなッ」
それなら勝手にしろ、と、こちらも突き放す。こんなやり取りが増えた。
せっかく今まで順調だったのに、ここにきて急に詰んだ。理沙に相談しようにも、試験が近いと知れば余計な心配は掛けられず、かといって甘えられる親戚もいない。それでも親父が苦しそうにすれば背中をさすり、食事を作り、早朝に仕事に出掛ける。いつまでこんな状態が続くんだと溜息ばかりついている。
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プログラミング教室は無事開校し、俺は小学校低学年のクラスを任されるようになった。子どもの相手はあまり得意ではないので不安もあったが、コミュニケーション面では子どもたちに助けられることが多かった。もともと学校と違って「学びたい」という意欲があって通う子が多い場所だ。こちらが訊ねる前に質問してくれるのはおおいに助かった。俺よりも飲み込みの早い生徒もいて、どんどん課題をこなしていく子を見ると焦りはするが、それもまた楽しい。追いつかれても困るので、勉強は自主的に続けている。そして週に一度は大智と一緒に飯を食う。外食に行く時もあれば大智の家で料理をふるまってもらう時もある。そして取り留めのない話で盛り上がるのだ。
充希のことは話題には上がらないが、時々スマートフォンをいじっていたり、会話の途中で電話が掛かってくることがあり、その時の大智の反応で「充希からなんだな」と察する。
上手くいっているようで良かったな、と微笑ましくはあるけれど、会話の途中で電話に出られるとテンションの行き場に困ることは多々ある。勢いで喋ってしまいたいことを一度遮られてしまうと続きを話すのが面倒になるのだ。別にそれが嫌なわけではない。ただ、そういう時に「俺が大智を独り占めしちゃいけないな」と自戒する。俺にも彼女ができれば対等になるのにと望んではいるけれど、出会いがないので叶わない。
そんな寂しくも穏やかな日々を送っていた時だった。
「転移、ですか」
軽く診察をしてもらおうという気持ちで受けた親父の定期健診で、癌が転移していると告げられた。腫瘍はそれほど大きくないが段階的には中期だと言われ、再手術も視野にいれて地道に治療していくとのことだった。
転移はあるかもしれないと思っていたので驚きはしない。ただ、早すぎた。親父が退院してからまだ一ヵ月と少ししか経っておらず、これから仕事に復帰して徐々に元の生活に戻していこうと話していたところだった。またあの長い闘病が始まるのかと思うと言葉が出ない。俺ですらそうなのだ。親父は尚更だろう。
担当医の話を聞きながら親父の横顔をチラリと見る。真顔で動じていないように見えるけれど、やはりどこか気落ちしているのはあきらかだった。
「これ以上仕事は休めないからなぁ~。会社に行きながら病院に通わないといけないな」
じゃがいもの皮を丁寧に剥きながら、親父は言った。笑ってはいるけど覇気がない。いつもより手際が悪いし、剥いている皮が厚すぎて実がなくなりそうだ。だから帰りに弁当を買おうと言ったのに。
「なあ、もっと楽な部署に異動させてもらえないの? 残業しなくてもいいような」
「でも、そうなると給料も減るからな」
「理沙の学費ならもう貯金はあるし、俺も働いてるから金の心配はしなくていいんじゃないかな。それより自分の身体のこと考えてよ。抗がん剤打ちながらバリバリ働くのは無理だよ」
「けど、昇にばかり負担は掛けられない」
「負担じゃないってば。だから部署異動させてもらえよ」
すべてのじゃがいもを剥き終わってボウルに入れる。なんとも歪な形だ。肉じゃがにしてしまえば形なんて崩れるからどっちでもいいけど。親父が剝き終えたじゃがいもを、今度は俺が鍋に移して肉と一緒に炒める。ふ、と親父が仏壇に目をやったのを見た。
「……親父。治療を諦めるとか言うなよ」
俺の言葉にハッとしたのか、親父は「そんなわけないだろう」と力なく笑った。こんな時、どういう言葉を掛けてやったらいいのか分からない。ずっと傍で親父を見てきた俺は、気長に治療をすることがどれだけ大変なのか知っている。だからこそ気休め程度の楽観的な言葉は言えない。きっと理沙なら、そんなこと構わず明るく元気づけようとするのだろうが。
「理沙には昇から話してくれないか」
「え?」
「父さんから話すと、どうも怒られそうな気がしてな」
弱気になっちゃ駄目だよ、と目くじらを立てる理沙を容易に想像できる。でも親父がその役を俺に任せたのはたぶん、俺がほんの少し理沙に会いたくなったのを察したからなんだろう。
電話で理沙に親父の転移のことを話したら、もっと落ち込むかと思っていたけど案外すんなり受け入れた。理沙も転移の心配はしていたらしく、やはりか、といった様子だった。一度様子を見に帰ると言っていたが、今すぐどうこうなる話ではないので授業を休んでまで来る必要はないと断った。
『昇にばっかり任せちゃってるね』
「俺はいいって。あー、その代わりと言っちゃなんだけど、もし時間あれば何か作り置きのおかず送ってくれないか。俺も毎日作れるわけじゃないからさ」
『任せといて! たくさん作って冷凍して送るから』
一緒にいると鬱陶しいと思うことばかりだった妹も、こういう時になると頼りになる。
『あんまり一人で背負いすぎないでよね。大ちゃんとも会ってるんでしょ? 何かあった時は助けてもらって』
大智ならきっと言えば助けてくれるのだろうが、それはあまりしたくない。自分の親のことなのに友達に助けてもらうなんてできないし、何より俺が大智を頼ると充希が嫌な思いをすることになるだろう。
実際、親父の治療が再開してから気ままに過ごす時間は減っていった。できるだけ親父には休んでもらいたいので家事全般は俺がやっている。一人ならやらなくてもよかったことも、二人なら毎日やらないと後で困ることになる。掃除、洗濯、炊事。仕事が終わってからやろうと思うとそもそも遊びたいという気分でもないし、そうなると自然に大智と会う日も少なくなった。時々「飯でも行く?」と誘われることはあったが、事情を説明すると大智も遠慮してか誘ってこない。多少寂しくあるが、仕方がない。大智には充希がいるのだから。
***
あれだけ部署異動をさせてもらえと言ったのに、親父は会社には何も話していないようだった。それどころか、これからも治療が必要だということすら、黙っている。休んでいた分を取り戻すかのように必死に働き、へとへとの身体に抗がん剤を打つ。抗がん剤は副作用が強い。前回の治療でも嘔吐しまくってグッタリしていた。抜けた毛髪はまだ生えていないので鬘を被っている。これじゃいくら俺がサポートを頑張っても、良くなるはずがない。労わらなきゃと思っていても、だんだん「どうして分かってくれないんだ」と苛々することが増えた。
苛々するのは親父も同じらしかった。抗がん剤を打った翌日はすこぶる体調が悪く、ベッドから起き上がれない。当然出勤などできないので会社を休む羽目になる。それが更に焦りになるのか、ちょっとした物言いがきつくなった。
「親父、会社にまだ言ってないんだろ。俺が電話しようか」
「余計なことをするな」
「だけど、今は週一休むだけで済んでるけど、もっと回数が増えたらどうするんだよ。それこそ迷惑になる……」
「いいから、お前は何もするなッ」
それなら勝手にしろ、と、こちらも突き放す。こんなやり取りが増えた。
せっかく今まで順調だったのに、ここにきて急に詰んだ。理沙に相談しようにも、試験が近いと知れば余計な心配は掛けられず、かといって甘えられる親戚もいない。それでも親父が苦しそうにすれば背中をさすり、食事を作り、早朝に仕事に出掛ける。いつまでこんな状態が続くんだと溜息ばかりついている。
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- Posted in: ★お前は幼なじみで、親友で
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