一
今年で齢九十を迎える谷口義市(ぎいち)には、もう思い残すことなどなかった。
誰も娶らず、自身の子もいなければ孫もいない。とうの昔に両親を亡くし、三つ離れた妹でさえも二年前に肝臓を患ってこの世を去った。天涯孤独で生きがいもない。とりわけ体に気を遣っているわけでもないのに、歳の割に頑丈なほうだった。とはいえ、日に日に体は重くなる。先はそう長くはなさそうだ。ならばいっそ早く迎えに来て欲しい。
義市は縁側で籐椅子に腰かけ、晴れ渡る青い空に向かって呼び掛ける。
それが彼の唯一の日課だった。
義市の呼びかけが天に届いたのだろうか。家に籠もるだけのなんの変哲もない日常に、ひとつの出来事が起こった。
とある日曜の正午、義市の自宅に来訪者があったのだ。配達を頼んだ覚えもヘルパーを依頼した記憶もない。義市は訝しみながら無防備に玄関の戸を開けた。若いスーツ姿の男だった。セールスか、と眉を顰めたところ、男は「突然訪ねてきて申し訳ございません」と深々と頭を下げた。顔を上げた男は、緊張した面持ちで名乗った。
「僕、杉村昌平と申します。あの、失礼ですが、谷口義市さんでしょうか」
義市はまったく面識のない男に名前を言い当てられたことよりも、彼の苗字と眼鏡の奥の面影に驚いていた。目鼻立ちのはっきりした整ったこの顔を遠い昔に見た。
「そうですが」
男は「ああ、よかった……!」と胸に手を当て、心底安心したように溜息を放った。
「実は谷口さんに折り入ってお話とお願いがあって、参りました」
「話とお願い、とは」
「杉村祐太、――を、ご存知ですか」
――やはりそうか……!
たった今、初めて会ったこの男に不思議と親近感が湧いたのは、この男が杉村祐太と血縁関係にあるからだと確信した。義市は男の素性をよく確かめもせず、詳しく話を聞くつもりで家の中に通した。それほど彼の胸は当時の記憶と想いに埋め尽くされていたのだ。老人の独り暮らしにしてはこまごまとした小物の多い部屋で、本や菓子箱をよけながら中央の座卓を勧めた。真夏であるにも関わらず熱い緑茶を出し、義市は籐椅子に腰を下ろす。
「悪いね。汚いところで」
「いえ、おかまいなく」
「で、祐太……は、君の……?」
「はい、杉村祐太は僕の祖父の兄です」
そうだった、祐太には弟がいた。確か治郎と言った。彼はその治郎の孫ということだろう。七十年以上の時を経て、祐太の血縁者とこうして向かい合っていることに不思議な繋がりを感じた。杉村昌平は、ことの詳細を話し始めた。
「なぜ今になって谷口さんを訪ねることになったのか……。話は去年の春に遡ります。僕は今、呉の実家で両親と祖父母と五人で暮らしています。みんな大きな病気もなく、元気に過ごしていました。ですが去年の春から、立て続けに家族の体調が悪くなりました。母は足を、祖父は腎臓を、父と僕は目を悪くしました」
「目?」
「はい。突然視力が落ちたんです。父は網膜剥離にまでなりましたが、手術をして治りました。あまりに相次いで悪くなるので、気味悪く思った祖父が、近くのお寺にお祓いを頼んだんです。僕はそういうのを当てにしないので、馬鹿げた話だと思っていたのですが……。お祓いに来たお坊さんがこう言ったんです。『ご先祖様の中に戦没者の方がいらっしゃいますね。その方が深い海の底で寒い、寒いと言って泣いておられます。墓前に温かいお茶をお供えして温めてあげてください』と」
「海の底……」
「そこで祖父から、祐太のことを聞いたんです。祐太は十八歳の時、特攻隊として戦死した」
「そう、……そうだ」
「確かにその頃、墓参りに行くことが減って祐太が眠っている墓は砂埃で汚れていました。慌てて掃除をしてお坊さんに言われた通りにお茶を供えました。すると不思議なことに、母の足と祖父の腎臓の具合が良くなったんです。勿論、父も」
「……君は?」
「そうなんです……僕だけが視力が戻らず、どんどん悪くなるんです。もともと視力は良かったのに、今では眼鏡を手放せません」
と言って、昌平は黒縁眼鏡をくい、と上げた。
「僕はもう一度、祐太の写真や遺品が入っている箱を見ました。祖父が大事に取ってあったんです。そしてその中に、祐太の日記があった。特攻隊に志願して訓練に行っている数ヵ月間のことと、出撃前に書いたと思われる遺言が書かれてありました。遺言は、谷口さん宛にも、書かれてあったんです」
「わたしに……?」
「僕はそれを読んで直感しました。祐太は、谷口さんに来てもらいたいのではないかと。そしてそれを僕に伝えようとしているのではと」
「……」
昌平はそこで義市に向き直り、ピンと張った背筋を綺麗に折り曲げて再び頭を下げた。
「お願いします! 祐太の墓に……行ってやってくれませんか!」
「わ、たしが?」
「僕が責任を持って車で送迎します。ここからさほど離れていませんし、谷口さんのお体に支障のないように致しますので……!」
随分長いあいだ、緊張というものから離れてすっかり鈍くなった心臓が、若さを取り戻したかのように跳ねている。
蘇る記憶、祐太への想いと祐太の想い。義市は目を閉じ、一筋の涙を流した。
――目を瞑れば今でも鮮明にお前を思い出せる。 愛しい友。
***
祐太は尋常小学校に入学したての頃からの古い友人だ。端正な顔立ちに加えて頭も良く、周囲からの評価は高い、誰もが認める将来有望な少年だった。一方で義市は幼い頃から落ち着きがなく、勉強嫌いでお調子者でもあり、よく周囲の手を煩わせる少年だった。長所といえば、小柄な故に恵まれた俊敏さと、どんな悪さをしても許されてしまう愛嬌があるところだ。そんな一見正反対の彼らが毎日のように山や川で遊ぶほど仲が良かったのは、おそらく苦しい生活を余儀なくされた家庭環境に通じるものがあったからだろう。
義市の家は当時商店を営んでいたが、経営が上手く立ち行かず、碌な蓄えがなかった。祐太の家は父が帝国陸軍の下級兵士であったが、日中戦争で戦地に赴いた際に負傷して命からがら帰還した。障害を負った父と、まだ幼い弟の面倒を見ながら、祐太は母と助け合ってやり繰りしていたのだ。子どもの身で我慢と節約を覚えて懸命に生きている境遇は、皮肉ながらも彼らの絆を深めた。また、祐太は人一倍面倒見がよく、義市によく勉強を教えてくれたものだ。勉学に励まずに教師からいつも叱責されている義市を憐れんでのことだろう。国語や算術は勿論、武術や美術。祐太は絵が上手かった。いつもスケッチブックと鉛筆を片手に持ち、花や草木の風景画、家族やクラスメイトの肖像画、自画像、目に入るものすべてを描き残した。けれども義市の顔だけはいくら頼んでも描いてくれなかった。
「お前の絵は、俺がもっと自分に自信を持てるようになったら、描いてやる」
プロ並みのデッサン力があることは大人も承知しているのに、描いても描いても祐太は自分に満足しない。祐太は画家になりたいのだろうと、義市は思っていた。そんな親友であり兄弟のような二人の関係は、小学校を卒業しても変わらなかった。
―――
「中学校も一緒だったんですか?」
と、杉村昌平は訊ねた。
「当時の中学校はね、義務教育じゃなかったから学力は勿論、資産がないと入れなかった。大抵は高等小学校という学校へ通ったんだ。小学校の授業に毛が生えたようなもんさ」
義市も祐太も高等小学校への進学はできたものの、その先の進路は未定だった。漠然と家を継ぐか、働きに出るのだと考えていた。義市はそれで良かったが、優秀な祐太が進学できないのは勿体ないとよく思ったものだ。いつだったかそれを口にしたことがある。祐太は「いくら勉強ができても、義市と一緒じゃないとつまらない」と笑った。義市はそれを聞いてひそかに嬉しく思った記憶がある。昌平は、義市と祐太のことをもっと聞きたいと願い出た。
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誰も娶らず、自身の子もいなければ孫もいない。とうの昔に両親を亡くし、三つ離れた妹でさえも二年前に肝臓を患ってこの世を去った。天涯孤独で生きがいもない。とりわけ体に気を遣っているわけでもないのに、歳の割に頑丈なほうだった。とはいえ、日に日に体は重くなる。先はそう長くはなさそうだ。ならばいっそ早く迎えに来て欲しい。
義市は縁側で籐椅子に腰かけ、晴れ渡る青い空に向かって呼び掛ける。
それが彼の唯一の日課だった。
義市の呼びかけが天に届いたのだろうか。家に籠もるだけのなんの変哲もない日常に、ひとつの出来事が起こった。
とある日曜の正午、義市の自宅に来訪者があったのだ。配達を頼んだ覚えもヘルパーを依頼した記憶もない。義市は訝しみながら無防備に玄関の戸を開けた。若いスーツ姿の男だった。セールスか、と眉を顰めたところ、男は「突然訪ねてきて申し訳ございません」と深々と頭を下げた。顔を上げた男は、緊張した面持ちで名乗った。
「僕、杉村昌平と申します。あの、失礼ですが、谷口義市さんでしょうか」
義市はまったく面識のない男に名前を言い当てられたことよりも、彼の苗字と眼鏡の奥の面影に驚いていた。目鼻立ちのはっきりした整ったこの顔を遠い昔に見た。
「そうですが」
男は「ああ、よかった……!」と胸に手を当て、心底安心したように溜息を放った。
「実は谷口さんに折り入ってお話とお願いがあって、参りました」
「話とお願い、とは」
「杉村祐太、――を、ご存知ですか」
――やはりそうか……!
たった今、初めて会ったこの男に不思議と親近感が湧いたのは、この男が杉村祐太と血縁関係にあるからだと確信した。義市は男の素性をよく確かめもせず、詳しく話を聞くつもりで家の中に通した。それほど彼の胸は当時の記憶と想いに埋め尽くされていたのだ。老人の独り暮らしにしてはこまごまとした小物の多い部屋で、本や菓子箱をよけながら中央の座卓を勧めた。真夏であるにも関わらず熱い緑茶を出し、義市は籐椅子に腰を下ろす。
「悪いね。汚いところで」
「いえ、おかまいなく」
「で、祐太……は、君の……?」
「はい、杉村祐太は僕の祖父の兄です」
そうだった、祐太には弟がいた。確か治郎と言った。彼はその治郎の孫ということだろう。七十年以上の時を経て、祐太の血縁者とこうして向かい合っていることに不思議な繋がりを感じた。杉村昌平は、ことの詳細を話し始めた。
「なぜ今になって谷口さんを訪ねることになったのか……。話は去年の春に遡ります。僕は今、呉の実家で両親と祖父母と五人で暮らしています。みんな大きな病気もなく、元気に過ごしていました。ですが去年の春から、立て続けに家族の体調が悪くなりました。母は足を、祖父は腎臓を、父と僕は目を悪くしました」
「目?」
「はい。突然視力が落ちたんです。父は網膜剥離にまでなりましたが、手術をして治りました。あまりに相次いで悪くなるので、気味悪く思った祖父が、近くのお寺にお祓いを頼んだんです。僕はそういうのを当てにしないので、馬鹿げた話だと思っていたのですが……。お祓いに来たお坊さんがこう言ったんです。『ご先祖様の中に戦没者の方がいらっしゃいますね。その方が深い海の底で寒い、寒いと言って泣いておられます。墓前に温かいお茶をお供えして温めてあげてください』と」
「海の底……」
「そこで祖父から、祐太のことを聞いたんです。祐太は十八歳の時、特攻隊として戦死した」
「そう、……そうだ」
「確かにその頃、墓参りに行くことが減って祐太が眠っている墓は砂埃で汚れていました。慌てて掃除をしてお坊さんに言われた通りにお茶を供えました。すると不思議なことに、母の足と祖父の腎臓の具合が良くなったんです。勿論、父も」
「……君は?」
「そうなんです……僕だけが視力が戻らず、どんどん悪くなるんです。もともと視力は良かったのに、今では眼鏡を手放せません」
と言って、昌平は黒縁眼鏡をくい、と上げた。
「僕はもう一度、祐太の写真や遺品が入っている箱を見ました。祖父が大事に取ってあったんです。そしてその中に、祐太の日記があった。特攻隊に志願して訓練に行っている数ヵ月間のことと、出撃前に書いたと思われる遺言が書かれてありました。遺言は、谷口さん宛にも、書かれてあったんです」
「わたしに……?」
「僕はそれを読んで直感しました。祐太は、谷口さんに来てもらいたいのではないかと。そしてそれを僕に伝えようとしているのではと」
「……」
昌平はそこで義市に向き直り、ピンと張った背筋を綺麗に折り曲げて再び頭を下げた。
「お願いします! 祐太の墓に……行ってやってくれませんか!」
「わ、たしが?」
「僕が責任を持って車で送迎します。ここからさほど離れていませんし、谷口さんのお体に支障のないように致しますので……!」
随分長いあいだ、緊張というものから離れてすっかり鈍くなった心臓が、若さを取り戻したかのように跳ねている。
蘇る記憶、祐太への想いと祐太の想い。義市は目を閉じ、一筋の涙を流した。
――目を瞑れば今でも鮮明にお前を思い出せる。 愛しい友。
***
祐太は尋常小学校に入学したての頃からの古い友人だ。端正な顔立ちに加えて頭も良く、周囲からの評価は高い、誰もが認める将来有望な少年だった。一方で義市は幼い頃から落ち着きがなく、勉強嫌いでお調子者でもあり、よく周囲の手を煩わせる少年だった。長所といえば、小柄な故に恵まれた俊敏さと、どんな悪さをしても許されてしまう愛嬌があるところだ。そんな一見正反対の彼らが毎日のように山や川で遊ぶほど仲が良かったのは、おそらく苦しい生活を余儀なくされた家庭環境に通じるものがあったからだろう。
義市の家は当時商店を営んでいたが、経営が上手く立ち行かず、碌な蓄えがなかった。祐太の家は父が帝国陸軍の下級兵士であったが、日中戦争で戦地に赴いた際に負傷して命からがら帰還した。障害を負った父と、まだ幼い弟の面倒を見ながら、祐太は母と助け合ってやり繰りしていたのだ。子どもの身で我慢と節約を覚えて懸命に生きている境遇は、皮肉ながらも彼らの絆を深めた。また、祐太は人一倍面倒見がよく、義市によく勉強を教えてくれたものだ。勉学に励まずに教師からいつも叱責されている義市を憐れんでのことだろう。国語や算術は勿論、武術や美術。祐太は絵が上手かった。いつもスケッチブックと鉛筆を片手に持ち、花や草木の風景画、家族やクラスメイトの肖像画、自画像、目に入るものすべてを描き残した。けれども義市の顔だけはいくら頼んでも描いてくれなかった。
「お前の絵は、俺がもっと自分に自信を持てるようになったら、描いてやる」
プロ並みのデッサン力があることは大人も承知しているのに、描いても描いても祐太は自分に満足しない。祐太は画家になりたいのだろうと、義市は思っていた。そんな親友であり兄弟のような二人の関係は、小学校を卒業しても変わらなかった。
―――
「中学校も一緒だったんですか?」
と、杉村昌平は訊ねた。
「当時の中学校はね、義務教育じゃなかったから学力は勿論、資産がないと入れなかった。大抵は高等小学校という学校へ通ったんだ。小学校の授業に毛が生えたようなもんさ」
義市も祐太も高等小学校への進学はできたものの、その先の進路は未定だった。漠然と家を継ぐか、働きに出るのだと考えていた。義市はそれで良かったが、優秀な祐太が進学できないのは勿体ないとよく思ったものだ。いつだったかそれを口にしたことがある。祐太は「いくら勉強ができても、義市と一緒じゃないとつまらない」と笑った。義市はそれを聞いてひそかに嬉しく思った記憶がある。昌平は、義市と祐太のことをもっと聞きたいと願い出た。
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