第二部 2-1
研修と自宅での勉強に追われてずっとできなかった掃除を、日曜日にやっと終わらせた。大量のごみ袋と雑誌をまとめ、掃除機をかけたあとは買い物に出掛ける。ストックの切れた日用品や一週間分の食材を買っておくのだ。外に出ると快晴の空から太陽が照り付けた。十月だというのに気温はまだまだ真夏のようだ。
親父が入院して一人の時間が増えてから自炊をすることが増えた。凝った料理はできないが、レシピ本を見ながらであれば大抵作れるし、冷蔵庫の中の食材だけで簡単に何かを作れるくらいの技術は身についた。スーパーの野菜売り場で何を作ろうかと献立に悩んでいると、母親も毎日こういうことをしていたんだろうかと、ふと考える。
レジで順番を待っている時だった。背後から肩をポン、と叩かれた。振り返るとそこには懐かしい人が立っていた。
「やっぱり渡辺くんだ」
大川さんだった。卒業以来、初めて見る。黒髪のセミロングだったのが、茶髪のショートカットになっていて、雰囲気がガラリと変わっている。
「え、大川さん? 久しぶり、ってか、すごい変わった……」
そこでレジが俺の番になったので話が途切れた。会計を済ませてエコバッグに食材を詰めていたら後を追うように大川さんが隣にやってきた。
「渡辺くん、久しぶりだね。買い物?」
「うん、色々切らしちゃって買いすぎた」
「一人暮らししてるの?」
「親父と住んでるけど、親父は今入院してるから。大川さん、こっちに住んでんだ」
「そ。実家から通える大学にしたんだぁ」
それぞれに食材を詰め終わって、大川さんはあの頃と変わらないノリで俺を誘った。
「ね、時間ある? ドーナツ食べに行かない?」
そもそも大川さんとは告白してフラれた日から話していなかったので、正直対応に困った。けれども大川さんは一番楽しかった頃と同じように明るく喋っていた。俺が告白したことなんて忘れているみたいに。それならそれでいいかとさえ思った。ショートカットとTシャツとデニムパンツというボーイッシュなスタイルはあまりイメージじゃなかったけど、元気な彼女にはよく似合っていたし、ふさふさした睫毛と笑顔は変わらず可愛かった。大学生活は楽しいらしく、サークルや旅行とキャンパスライフを謳歌しているようだ。俺自身のことを聞かれて、親父の病気をきっかけに進学をやめたこと、バイトをしながらなんとか生活をしていたがクビになったこと、大智の紹介で仕事をもらったことを掻い摘んで話した。そしてやはり大川さんは同情など一切せず、
「プログラミングかぁ、かっこいいじゃん!」
と、言ってくれた。大川さんと一緒にいると自分も明るくなれるような、元気をもらえるような、そんな高校時代を思い出して懐かしくなった。
ドーナツ屋では昔はなかったテラス席を選んだ。お洒落なパラソルの下でSNS映えするドーナツを向かい合って一緒に食べる男女が、実は付き合っていなくて、先ほど再会したばかりのスーパー帰りの同級生だというのが、なんだかおかしい。
「昔さー、一緒に来たよね。ここ」
大川さんの皿にはシナモンドーナツが一つだけ。昔はチョコ系のものを少なくとも二個は食べていたのに。そんなところで月日の流れと変化を知る。
「で? まだ研修してるの? どう?」
「今のとこ楽しいかな。学校みたいに強制的に勉強するんじゃなくて、自分で学びたくて勉強してるっていうのが、なんかいいなって」
「へー。わたし、学びたくて大学に行ったはずなのに講義がダルくって仕方ないわ」
大口でシナモンドーナツに噛り付く。
「……川島くんに紹介してもらったってことは、今でも川島くんと仲良いの?」
「うん……」
大川さんはドーナツを皿に置くと、周囲を警戒しながら机に身を乗り出した。
「川島くんって、渡辺くんのことが好きなんだよね? 付き合ってるの?」
直球で聞いてくるので、清々しいあまり苦笑した。大智が大川さんにしたことは覚えている。だから大川さんの質問は否定しない。ただ、詳しくも言わない。長引かせる話題でもないので「付き合ってねーよ」と笑いながら受け流した。大川さんも、
「えー。わたしたちの仲を引き裂いておいて付き合ってないの?」
と、冗談交じりに言う。多少の恨めしさが込められた言葉だが、未練は更々感じなかった。
「大川さんは? 彼氏とかいるの?」
「いないよー。男友達はすぐできるんだけど、恋愛ってなるとなかなか発展しないよねぇ。わたし、昔からそうなんだよね。いいなって思う人がいても恋愛的な意味で好きになってもらえないの。良い人止まりっていうの?」
「分かる」
つくづく俺と大川さんは似ているらしい。大川さんの言うことに、いちいち共感していた。俺は頷きながらストローでコーラを吸い上げた。
「でもそれって、たぶん自分も相手のことそんなに好きじゃないんだよね」
続けて言った大川さんの言葉に、意味が分からなくて顔を上げる。
「ほんとはね、ずっと川島くんのせいにしてた。川島くんがあんな風に責めてこなければ渡辺くんと付き合ってたのにって。でもさ、今思えば本当に渡辺くんのこと好きだったら川島くんに脅されようが嫌われようが付き合えたんだよ。それをしなかったってことは、そこまでして付き合いたいと思ってなかったのかなって」
「つまり、俺のことはそんなに好きじゃなかったってこと?」
「渡辺くんのことは好きだったよ。一緒にいると楽しいし、気が合うし、付き合えたらいいなって思ってた。でも今、大学で男友達といるとさ、渡辺くんと一緒にいた時と同じなんだよね。友達として好き、っていう」
「……明るく心抉ってくんなよ……」
けれども、そう言われたら俺もそうだったのかもしれない。大川さんと一緒にいると楽しかったけれど、ドキドキして胸が苦しいとかは、なかった気がする。高揚感はあったが、「彼女が欲しい」とか「俺も恋愛がしたい」とか、そういう願望があったから錯覚していただけかもしれない。大川さんが言うように、俺も大川さんが好きでどうしても付き合いたかったのなら、あんなに簡単に引き下がらなかったんじゃないだろうか。それでも、あの頃の俺は紛れもなく大川さんに恋をしていたと思う。
「今ね、好きな人がいるの」
今まで見たこともないような柔らかい笑顔で大川さんが告白した。
「サークルの先輩なんだけど、一緒にいると楽しいっていうか、幸せなんだよね。ドキドキするし、嬉しいし、彼女になりたいって思ってる。もし川島くんみたいに邪魔してくる奴がいても、今回は絶対諦めたくないの」
そう決意する大川さんは誰よりも逞しくて、初めて見る「女の子」だった。
「卒業式の時、川島くんに謝られて許したのはいいけど、本当は心の中で自分勝手すぎるでしょって毒づいてた。でも今、好きな人ができて川島くんの『好きな人を取られたくない』っていう気持ちが分かった。今になってやっと、心から許せるようになったかな」
俺は少しだけ、大川さんに腹が立った。密かに大事にしていた「あの頃は両想いの好きな子がいた」という俺の甘酸っぱい想い出を、大川さんは簡単に壊してくれた。新しい環境で恋愛を楽しんで、俺のことは勘違いだったのだと自分だけスッキリした顔で。なんて勝手な。そう、大川さんも大智も勝手だ。人を振り回しておいて知らないところで知らない誰かと前に進んで、俺だけ想い出の中で取り残されている。
俺は無理やり笑顔を作って、顔を上げた。
「その先輩と、うまくいくといいね」
精一杯絞り出した、俺の苦し紛れの本心だった。
大川さんはまだ寄るところがあるからと、ドーナツ屋の前で別れることになった。あれからどのくらい喋ったろう。エコバッグの中の食材はすっかり常温だ。冷凍ものを買っていなくて良かった。真上にあった太陽はいつのまにか西に傾いて、空が橙に色付いていた。暑さは和らいだが、秋の夜はまだ遠そうだ。
「それじゃ、またね。地元にいるならまたどこかで会いそうだけど」
「久しぶりに話せてよかった。好きな人とうまくいったら教えてよ」
「渡辺くんもね!」
「俺はそういうのないから……」
「川島くんがいるじゃん」
「だからぁ……」
本気で言っているのか冗談で言っているのか図りかねる。適当に流しておくのもいいけど、大川さんにはちゃんと話しておく。
「あいつ、今、付き合ってる人がいるんだよ。だからあいつは俺のこと、もう好きでもなんでもないの」
「えー! そうなんだ」
「同じ大学の人で、俺もチラッと会ったことあるけど、仲良さそうだった」
「……なんか複雑だわ。渡辺くんは複雑じゃないの?」
複雑だった。だけど何が複雑なのか自分でも分からない。だからそこは同調しない。
「別に。なんだかんだで大智とは小学校からの付き合いだからさ、あいつが幸せになってくれるんならそれでいいよ。いい人見つかって良かったなって安心した」
「とか言って、なんか寂しそうだけどね」
ふいに図星を突かれて返す言葉が見つからなかった。腕時計を確認した大川さんは買い物バッグを肩に掛け直した。
「もう行くね。また会ったらお茶しようね」
「うん、今日はありがとう」
次の約束なんてせず、大川さんは大きく手を振りながら反対方向へと歩いて行った。同じ場所に住んでいても、偶然会うことなんてそうそうない。次に会うことがあったら、大川さんの隣には「誰か」がいるかもしれない。そう想像すると少しだけ、切なくなるのだった。
→
親父が入院して一人の時間が増えてから自炊をすることが増えた。凝った料理はできないが、レシピ本を見ながらであれば大抵作れるし、冷蔵庫の中の食材だけで簡単に何かを作れるくらいの技術は身についた。スーパーの野菜売り場で何を作ろうかと献立に悩んでいると、母親も毎日こういうことをしていたんだろうかと、ふと考える。
レジで順番を待っている時だった。背後から肩をポン、と叩かれた。振り返るとそこには懐かしい人が立っていた。
「やっぱり渡辺くんだ」
大川さんだった。卒業以来、初めて見る。黒髪のセミロングだったのが、茶髪のショートカットになっていて、雰囲気がガラリと変わっている。
「え、大川さん? 久しぶり、ってか、すごい変わった……」
そこでレジが俺の番になったので話が途切れた。会計を済ませてエコバッグに食材を詰めていたら後を追うように大川さんが隣にやってきた。
「渡辺くん、久しぶりだね。買い物?」
「うん、色々切らしちゃって買いすぎた」
「一人暮らししてるの?」
「親父と住んでるけど、親父は今入院してるから。大川さん、こっちに住んでんだ」
「そ。実家から通える大学にしたんだぁ」
それぞれに食材を詰め終わって、大川さんはあの頃と変わらないノリで俺を誘った。
「ね、時間ある? ドーナツ食べに行かない?」
そもそも大川さんとは告白してフラれた日から話していなかったので、正直対応に困った。けれども大川さんは一番楽しかった頃と同じように明るく喋っていた。俺が告白したことなんて忘れているみたいに。それならそれでいいかとさえ思った。ショートカットとTシャツとデニムパンツというボーイッシュなスタイルはあまりイメージじゃなかったけど、元気な彼女にはよく似合っていたし、ふさふさした睫毛と笑顔は変わらず可愛かった。大学生活は楽しいらしく、サークルや旅行とキャンパスライフを謳歌しているようだ。俺自身のことを聞かれて、親父の病気をきっかけに進学をやめたこと、バイトをしながらなんとか生活をしていたがクビになったこと、大智の紹介で仕事をもらったことを掻い摘んで話した。そしてやはり大川さんは同情など一切せず、
「プログラミングかぁ、かっこいいじゃん!」
と、言ってくれた。大川さんと一緒にいると自分も明るくなれるような、元気をもらえるような、そんな高校時代を思い出して懐かしくなった。
ドーナツ屋では昔はなかったテラス席を選んだ。お洒落なパラソルの下でSNS映えするドーナツを向かい合って一緒に食べる男女が、実は付き合っていなくて、先ほど再会したばかりのスーパー帰りの同級生だというのが、なんだかおかしい。
「昔さー、一緒に来たよね。ここ」
大川さんの皿にはシナモンドーナツが一つだけ。昔はチョコ系のものを少なくとも二個は食べていたのに。そんなところで月日の流れと変化を知る。
「で? まだ研修してるの? どう?」
「今のとこ楽しいかな。学校みたいに強制的に勉強するんじゃなくて、自分で学びたくて勉強してるっていうのが、なんかいいなって」
「へー。わたし、学びたくて大学に行ったはずなのに講義がダルくって仕方ないわ」
大口でシナモンドーナツに噛り付く。
「……川島くんに紹介してもらったってことは、今でも川島くんと仲良いの?」
「うん……」
大川さんはドーナツを皿に置くと、周囲を警戒しながら机に身を乗り出した。
「川島くんって、渡辺くんのことが好きなんだよね? 付き合ってるの?」
直球で聞いてくるので、清々しいあまり苦笑した。大智が大川さんにしたことは覚えている。だから大川さんの質問は否定しない。ただ、詳しくも言わない。長引かせる話題でもないので「付き合ってねーよ」と笑いながら受け流した。大川さんも、
「えー。わたしたちの仲を引き裂いておいて付き合ってないの?」
と、冗談交じりに言う。多少の恨めしさが込められた言葉だが、未練は更々感じなかった。
「大川さんは? 彼氏とかいるの?」
「いないよー。男友達はすぐできるんだけど、恋愛ってなるとなかなか発展しないよねぇ。わたし、昔からそうなんだよね。いいなって思う人がいても恋愛的な意味で好きになってもらえないの。良い人止まりっていうの?」
「分かる」
つくづく俺と大川さんは似ているらしい。大川さんの言うことに、いちいち共感していた。俺は頷きながらストローでコーラを吸い上げた。
「でもそれって、たぶん自分も相手のことそんなに好きじゃないんだよね」
続けて言った大川さんの言葉に、意味が分からなくて顔を上げる。
「ほんとはね、ずっと川島くんのせいにしてた。川島くんがあんな風に責めてこなければ渡辺くんと付き合ってたのにって。でもさ、今思えば本当に渡辺くんのこと好きだったら川島くんに脅されようが嫌われようが付き合えたんだよ。それをしなかったってことは、そこまでして付き合いたいと思ってなかったのかなって」
「つまり、俺のことはそんなに好きじゃなかったってこと?」
「渡辺くんのことは好きだったよ。一緒にいると楽しいし、気が合うし、付き合えたらいいなって思ってた。でも今、大学で男友達といるとさ、渡辺くんと一緒にいた時と同じなんだよね。友達として好き、っていう」
「……明るく心抉ってくんなよ……」
けれども、そう言われたら俺もそうだったのかもしれない。大川さんと一緒にいると楽しかったけれど、ドキドキして胸が苦しいとかは、なかった気がする。高揚感はあったが、「彼女が欲しい」とか「俺も恋愛がしたい」とか、そういう願望があったから錯覚していただけかもしれない。大川さんが言うように、俺も大川さんが好きでどうしても付き合いたかったのなら、あんなに簡単に引き下がらなかったんじゃないだろうか。それでも、あの頃の俺は紛れもなく大川さんに恋をしていたと思う。
「今ね、好きな人がいるの」
今まで見たこともないような柔らかい笑顔で大川さんが告白した。
「サークルの先輩なんだけど、一緒にいると楽しいっていうか、幸せなんだよね。ドキドキするし、嬉しいし、彼女になりたいって思ってる。もし川島くんみたいに邪魔してくる奴がいても、今回は絶対諦めたくないの」
そう決意する大川さんは誰よりも逞しくて、初めて見る「女の子」だった。
「卒業式の時、川島くんに謝られて許したのはいいけど、本当は心の中で自分勝手すぎるでしょって毒づいてた。でも今、好きな人ができて川島くんの『好きな人を取られたくない』っていう気持ちが分かった。今になってやっと、心から許せるようになったかな」
俺は少しだけ、大川さんに腹が立った。密かに大事にしていた「あの頃は両想いの好きな子がいた」という俺の甘酸っぱい想い出を、大川さんは簡単に壊してくれた。新しい環境で恋愛を楽しんで、俺のことは勘違いだったのだと自分だけスッキリした顔で。なんて勝手な。そう、大川さんも大智も勝手だ。人を振り回しておいて知らないところで知らない誰かと前に進んで、俺だけ想い出の中で取り残されている。
俺は無理やり笑顔を作って、顔を上げた。
「その先輩と、うまくいくといいね」
精一杯絞り出した、俺の苦し紛れの本心だった。
大川さんはまだ寄るところがあるからと、ドーナツ屋の前で別れることになった。あれからどのくらい喋ったろう。エコバッグの中の食材はすっかり常温だ。冷凍ものを買っていなくて良かった。真上にあった太陽はいつのまにか西に傾いて、空が橙に色付いていた。暑さは和らいだが、秋の夜はまだ遠そうだ。
「それじゃ、またね。地元にいるならまたどこかで会いそうだけど」
「久しぶりに話せてよかった。好きな人とうまくいったら教えてよ」
「渡辺くんもね!」
「俺はそういうのないから……」
「川島くんがいるじゃん」
「だからぁ……」
本気で言っているのか冗談で言っているのか図りかねる。適当に流しておくのもいいけど、大川さんにはちゃんと話しておく。
「あいつ、今、付き合ってる人がいるんだよ。だからあいつは俺のこと、もう好きでもなんでもないの」
「えー! そうなんだ」
「同じ大学の人で、俺もチラッと会ったことあるけど、仲良さそうだった」
「……なんか複雑だわ。渡辺くんは複雑じゃないの?」
複雑だった。だけど何が複雑なのか自分でも分からない。だからそこは同調しない。
「別に。なんだかんだで大智とは小学校からの付き合いだからさ、あいつが幸せになってくれるんならそれでいいよ。いい人見つかって良かったなって安心した」
「とか言って、なんか寂しそうだけどね」
ふいに図星を突かれて返す言葉が見つからなかった。腕時計を確認した大川さんは買い物バッグを肩に掛け直した。
「もう行くね。また会ったらお茶しようね」
「うん、今日はありがとう」
次の約束なんてせず、大川さんは大きく手を振りながら反対方向へと歩いて行った。同じ場所に住んでいても、偶然会うことなんてそうそうない。次に会うことがあったら、大川さんの隣には「誰か」がいるかもしれない。そう想像すると少しだけ、切なくなるのだった。
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- Posted in: ★お前は幼なじみで、親友で
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