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第一部 2-7

 大智が近所に越してきたのは、小学校三年の夏休みだった。学校の友達と公園で遊んでいるところに、大智が母親とやってきたのだ。大智はおろしたてみたいなポロシャツと濃紺のデニムを着ていて、その隣にいた大智のお母さんも真っ白のワンピースに真っ白の日傘を差していた。Tシャツと短パンで泥だらけで遊んでいる俺たちとは不釣り合いなほど綺麗な格好だった。日傘の影から大智のお母さんの赤い唇が動いた。

「最近、近くに引っ越して来たの。二学期からきっと同じ学校になると思うから、仲良くしてやってくれる?」

 『親』に頼まれたんじゃ断れない、というような戸惑いの中で「はい」と返事をしながら、俺は自分より頭一つ分ほど背の高い大智を見上げていた。

 大智は昔からなんでもできた。俺も大抵のことは卒なくこなすタイプだが、勉強もスポーツも大智には敵わなかった。小三にしては高い身長、顔も良いのでよく目立つ。中学、高校ではそれだけで男女から持て囃されていたが、小学生の頃はむしろ敬遠されていた。というのも、

「いってぇええ!」

「せんせー! 川島くんが田口くんを突き飛ばしましたぁ!」

 休み時間に起こったちょっとした騒動。大智に突き飛ばされた田口は勢いで床に転んだあと、運悪く机の角で頭を打ったらしかった。痛い、痛いと大袈裟に騒ぐ田口に、それを心配そうに見守るクラスメイト。大智はそれをボーッと見ていて、大智の足元には逆さまになった虫かごが落ちていた。

「川島くん! どうして突き飛ばしたの!? 他の子は何があったか見てなかった!?」

「川島くんがいきなり田口くんの肩を押しましたー」

「田口くんは何もしていないのね?」

 俺も一部始終を見ていたわけじゃないけれど、先生と生徒が寄ってたかって大智を責める光景は、さすがに大智が可哀想だった。それに田口は普段からよくイタズラをしては先生に注意されている。先に手を出したのが大智だったとしても、田口も何かしら問題があったに違いない。

「とりあえず田口くんは保健室に行きましょう。川島くん、あとで話を聞くからね」

大智は何も言い訳をせず、だけど謝ることもせず、黙ってひっくり返った虫かごを元に戻した。床に撒かれた土を手で集めていて、そこで初めてカブトムシが落ちていたことに気付いた。誰も手を貸そうとしない異様な空気の中、俺は無意識に動いて一緒に土を集めた。

「なんでちゃんと言わないの?」

「……」

「田口が虫かごを落としたんじゃないの?」

「……でも、あいつもわざとじゃないから」

「あいつがカブトムシに気付かないで踏みそうになったから、押したんだろ?」

 大智は黙って頷いた。田口はわざと虫かごを落としたんじゃない。わざとカブトムシを踏もうとしたんじゃない。田口が悪いわけじゃないから、大智は本当の理由を言わないのだ。俺はそんな大智を優しいと思う反面、理解不能でムカついた。

「お前が言いたくないなら、俺が先生に言ってやるよ。お前も悪くないのにそんなの狡いじゃん」

「渡辺には関係ないし、別にいい」

 大智はとにかく不器用だった。加えて体が大きいから力があり余っていた。田口を押した時も、たぶん本人は軽く突いただけのつもりだったんだと思う。でも思いの外力が強くて突き飛ばした形になってしまったのだ。
 ちょっと手を掴んだだけで、ちょっと肩を叩いただけで「痛い」と叫ばれ、普通に物を置いただけなのに音が大きくて驚かれたり、大智に悪気はないのに「怖い」と言ってとりわけ女子から避けられていた。男子からも「お前の投げるボール、当たったらめっちゃ痛いんだもん」と言われてドッジボールに入れてもらえない姿をよく見た。

 大智はあまり感情を顔に出さない。だからみんなから避けられても平気そうに見えた。それがかえってみんなを遠ざけた。だけど俺は知っていた。教室の窓から一人で寂しそうに運動場を見ていることを。

「なあ、縄跳びしない?」

「渡辺はドッジしないの?」

「お前が入らないなら、しない」

「……別に俺に気を遣わなくてもいいよ」

「違うよ」

 大智は疑いの目で俺を見る。

「川島が入らないと人数が合わないから」

 最初は同情だったかもしれない。仲間外れにされている奴に優しくしている自分に酔っていただけかもしれない。だけど大智と一緒にいるうちに理由なんかどうでもよくなった。他の誰といるより、大智と遊ぶのは楽しかったのだ。縄跳び、追いかけっこ、キャッチボールは確かに体に当たると痛いが、ちゃんと伝えれば加減してくれる。一緒に図書室で本を読むこともあった。そのうちにお互いの家に行き来するほど仲良くなり、理沙が加わり、一緒に登下校をするようになったのだ。
 思えば大智に野球を勧めたのは俺と理沙だった。内向的な大智は俺と理沙以外に友達がおらず、五年、六年になると更に体格は大きく力も強くなったので、相変わらずみんなからは恐れられていた。大智がもっとクラスに馴染めるような良い案はないかと考えていたところに、理沙が「だいちゃん、スポーツすればいいのに」と言い出したのである。

「そうだ! 野球ならピッタリじゃね!? 大智なら絶対合うよ!」

 予想通り、スポーツ少年団に入った大智は瞬く間にスターになった。足は速いし、打球は強い。有り余っていた力を野球で発散することで日常生活でも力加減ができるようになったし、何より大智がいい奴だと周りが気付き始めてからはあっという間に友達が増えた。大智に友達ができて良かったと安心しつつも、少しだけ寂しかったのを覚えている。

「大智ぃ、理沙が最近、大智が他の奴らとばっかり遊んでるって拗ねてたぞ」

「そんなことないよ。俺、お前らの誘いは絶対断らないもん。もしかして昇も拗ねてる?」

「拗ねてねーよ。俺は大智に友達ができてホッとしてんの」

 本当はちょっと拗ねていたと思う。いつも金魚のフンみたいに俺にくっついていた大智が、他の奴に取られたような気になって。理沙の名前を使ったが、たぶん大智は気付いていただろう。

「俺が昇から離れることはないから大丈夫だよ」

 俺はいつも大智に助けられていたと思っていたけど、昔は俺のほうが大智を助けていたかもしれない。そうじゃないと、なんでもできる大智がなんの取柄もない俺をここまで慕ってくれるはずがなかった。
 俺が大智に助けられるようになったのは、いつからだったっけ――。

 ―――

「昇。大丈夫?」

 雨が降る中、火葬場の裏で一人でぼんやり立っていた。もう秋なのに、傘も差さずに。だけど不思議と寒くなかった。冷たくもなかった。もう感覚がないのだ。いつから雨に打たれていたか分からないから。大智は俺に傘を持って来てくれたが、受け取らなかった。それより親族しか来ていないはずの火葬場になぜ大智がいるのだろうと考えた。

「ごめん、本当は俺は来ちゃ駄目なんだろうけど、理沙がどうしても来て欲しいって」

 昨夜の通夜から理沙は泣き通しだ。喪主の親父は悲しむ暇もなく動き回っている。本当なら俺が理沙の傍にいてやらないといけないのに。

 でも俺だって悲しいんだ。母親が死んだなんて信じたくないんだ。それなのに涙が出なかった。泣けない自分にショックだった。

「もうすぐ終わるって。俺はこれ以上ここにいられないから帰るけど、何か手伝えることがあったら遠慮なく言って」

 大智は制服のポケットを漁り、白いハンカチを取り出した。

「タオルがあれば良かったんだけど……ごめん、こんなのしかなくて」

「大智」

「なに?」

「……まだ帰らないで欲しいって言ったら、困る?」

 困るに決まってるだろう。いくら友達の親だからって、火葬場なんて居たいはずがない。わざと断れないような言い方をした俺は狡い。けれども大智は困った顔一つせず頷いた。

「気が済むまでいるよ」

 葬儀がすべて終わってからも、大智はよく手伝ってくれた。暫くは家事に慣れないだろうからと、大智のお母さんが作ったおかずをしょっちゅう届けてくれたし、なかなか家で勉強が捗らない俺に授業の要点を分かりやすくノートにまとめてくれたりもした。
 その頃、理沙はなかなか立ち直れずに学校を休みがちになっていたが、そんな理沙にも大智は親身だった。勉強を教えたり、理沙の好きなスイーツや果物を持って来たり。「元気出して」とか「辛いよな」なんて言葉は言わない。ただ多くを語らず、いつも通りに傍にいた。きっと俺だったら「甘えるな」なんて言って理沙を冷たく突き放しただろう。休みたいのは俺も一緒なんだと。でも俺がそうやって理沙を責める前に大智があいだに入ってくれたから、俺はなんとか踏ん張れたし、理沙も少しずつ元気を取り戻していったのだ。

「大ちゃんがいなかったら、わたしも昇もきっとこんなに早く立ち直れてなかった。ね、昇もそう思うでしょ?」

 そうだな、と言いつつ、俺はたぶん、立ち直れていなかった。
 母親の亡骸なんて見ていないから、四十九日が過ぎても母親がいなくなった実感がなかった。実感がないままバタバタと時間だけが過ぎていき、悲しいとかショックとかそういった感情をどこかに漏らす機会を失って、平気なふりをすることに慣れていた。だからあの日、あんなことをしたんだと思う。

 ――昇はさ、あの時、万引きしたくてしたんじゃないんだよな。あの頃のお前はお母さんがいなくなった喪失感とか家のことでストレスが溜まってる時だった。親父さんや理沙の前では絶対に弱音を吐かなかった。勿論、俺にも。だけどお前も苦しかったんだろ。無意識にストレスから解放されたくて魔が差したんだよな。――

 俺は親父にも理沙にも、もちろん大智にも、寂しいとか辛いとか弱音を吐いたことがなかった。格好つけているわけでも強がっているわけでもなく、弱音を吐くタイミングがなかったし、吐いたところでどうしようもないと分かっていたからだ。そして親戚も親父も理沙でさえも、俺は動じない人間なのだと思っている。

 確かに「言わなくても気付いて欲しい」とか「優しくして欲しい」などと求めたことはないけれど、どうしようもなく寂しくなることだってあった。きっと大智は、そんな俺のことを見抜いていたのだ。俺が自ら言わなくても全部分かってくれていた。いつから大智は俺のことをそんな風に見ていたのだろう。俺は大智が何を考えていたのか知らない。
 俺のことを分かってくれていたのは、大智だけだったのに。


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