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第一部 2-6

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 翌々朝は大智が来る頃を見計らって家を出た。理沙が「あいだに入って取り持ってあげる」と張り切っていたが、時間になっても大智は現れず、おかしいと思い始めた頃に理沙にメッセージが入った。

「大ちゃん、これから朝は図書室に行くから当分一緒に行けないって」

 勿論、俺には何も言ってこない。図書室に行くなんてわざとらしいにも程がある。避けたいのはこっちなのに、なんでお前が俺を避けるんだとまたムカついた。
 二日ぶりの学校はなんだか急に色褪せてしまった。
 大川さんとの関係に心を躍らせていた時は何をしてもどこか楽しくて、廊下で目が合えばお互いにしか分からない程度に笑い合ったりしていたのに、今はもう存在に気付いていても目も合わせない。まるで赤の他人に戻ってしまった。つい数日前までのドキドキ感は夢だったのかとさえ思う。
 周りも受験一色。休み時間になれば大声でふざけ合っていたクラスメイトも、おとなしく参考書を広げている。口を開けば愚痴と悩み事ばかり。教室にいるのが息苦しくて一人で校内をふらつくことが増えた。気を紛らわせるようにして今後の予定を思い返してみる。来週の模試が終わったら終業式があって、冬休みに入る。冬休みが明けたら共通テスト。……入試は一月の末だったかな。もう考えただけで憂鬱だ。

 先生に頼まれて集めた数学のノートを職員室へ運んでいる途中、渡り廊下で前方から大智が向かってくるのに気付いた。お互い連れはいないので、声を掛けようと思えば掛けられる。だが、俺から声を掛けるのは癪だ。どっちかというと当分口も聞きたくなければ顔も見たくないくらいだ。それでもいつかは元に戻りたいという気持ちはある。だから大智のほうから声を掛けてきて、ひと言謝ってくれば許してやる。もう大地が目の前まで迫ってきている。

 ――謝れ、ホラ。そうしたら俺だって……。

「俺、謝らないから」

 すれ違いざまに、大智が低い声でそう言った。完全に俺の考えを見透かした答えだった。
 大智に振り返った時にはもうあいつは離れていて、俺はそのでかい背中を睨み付けながら唇を噛んだ。

 ―――

 俺は昔から調子に浮き沈みがなく、スランプというものと無縁だ。だからいつも通りに勉強していれば普通に平均点は取れる。今回の模試は、ここ数日のメンタルが自分でもボロボロだと自覚があったのでさすがに不安だったが、ここでも唯一の長所が発揮されてか悩むことなく問題を解けた。よほどのミスがなければ判定も変わりないだろう。先日まで成績が思うように上がらないと言っていた理沙も、なんとか期末テストで持ち直したようだった。
気付けばクリスマスが迫っている。女の子にフラれたばかりの俺には憎いだけのクリスマスも、今だけは受験生でよかったと心底思う。大智からも何も言われることなく、俺たちは冬休みを迎えた。

 今年は例年より寒いこともあって、休み中は極端に外出が減った。勉強してはテレビや動画を観たりといった引きこもりの毎日。食べるだけ食べて寝るだけ寝る。このままじゃまずいと危機感はあるけど出掛ける用事もないので、そのままダラダラと正月を越した。三が日は親父も仕事が休みでずっと家にいたが、大晦日の夜と元旦の朝を一緒に過ごしただけで、あとは書斎にこもっていた。持ち帰った仕事をしているのだろうと特に気に留めていなかったけれど、ある晩、理沙が部屋にやってきて神妙な顔つきで言った。

「ねえ、最近、お父さん元気ないと思わない?」

「そう? あー、でも確かに最近書斎にこもってるなとは思ったけど」

「お父さんの部屋とわたしの部屋って隣でしょ? だから物音とかけっこう聞こえるんだけど、どうも夜中にしょっちゅう起きてるみたいなの」

「眠れないとか?」

「だと思うんだけど、眠れないほど体調が悪いとか……ないかな」

 一緒にいる時間が短いとはいえ、俺は毎日親父と顔を合わせている。この間だって一緒に昼飯を食べた。別に元気がないとは思わなかった。

「体調が悪くて眠れないというより、眠れないから体調が悪いのかもしれないな。俺らはまだ若いから徹夜しても大丈夫だけど、親父くらいになるとちょっと寝不足だと風邪ひきやすくなるんだと思うよ。もともと親父って持ち帰った仕事をよく夜中までやってるだろ。疲れてるだけだよ」

「でもこのあいだ台所に胃薬があったのよ」

 母親が突然亡くなったから、父親までいなくなったら、と想像すると怖いのはよく分かる。人はあっけなく死ぬのだと知っているから尚更。でもここで俺まで一緒になって心配したって仕方がないのだ。

「俺も気を付けて見とくから。今は自分の受験の心配しろよ」

「……昇もね!」

胃薬なんて誰だって飲む。針のように胸に刺さった一抹の不安は気のせいであるよう願った。

 翌朝、目は覚めているが起きるのが面倒でベッドでまどろんでいた時だった。リビングから理沙の悲鳴が聞こえた。慌てて一階に下りると、キッチンでうろたえる理沙と、その隣でうずくまっている親父がいた。俺はすぐさま駆け寄り、親父の体を起こした。血を吐いている。

「理沙、救急車呼べ」

 理沙は動揺して固まっている。「早く!」と叫ぶとハッとして電話機へ走った。親父は意識はあるが、ずっと呻っている。親父の肩を支える俺の手は震えていて、きっとそれは親父にも伝わっているだろう。これじゃかえって不安にさせてしまう。自分が情けなかった。
 救急車で病院に運ばれた親父は問答無用で入院になった。医師からは胃潰瘍だと告げられた。深刻な病気じゃなかったのは不幸中の幸いだが、入院の手続きをしたり着替えの準備をしていると「これがずっと続いたらどうしよう」という不安ばかりが募った。
病院からの帰り道、俺と理沙はバスにも乗らず、ただ放心状態でとぼとぼ歩いた。

「昇、お父さん、大丈夫だよね?」

 不安なのは俺だけじゃない。こういう時こそ、俺がしっかりしないといけないのだ。綺麗ごとでも強がりでもない。生活するために必要な心持ちだ。

「先生も二週間で退院できるって言ってただろ。大丈夫だよ。たいしたことなくてよかった」

「うん……」

「一つ相談なんだけど」

 理沙は眉を顰めたまま首を傾げた。

「今後、またこういうことがないとも言い切れないだろ。俺も理沙も大学は県外志望だし、俺たちが家を出たあと親父に何かあったら、今日みたいにすぐ対応できない。だから俺はやっぱり進学せずに家に残ろうと思う」

「何、言ってんの!? お父さんがそんなの許すわけないじゃない。自分のせいで昇が進学を諦めたって自分を責めるよ!?」

「前にも言ったけど、俺は本当に大学に行きたいと思わないんだ。むしろこんな目的のない状態で進学なんてしたくない。俺にとっても都合がいいんだ。親父は俺が説得する」

「それならわたしが……」

「お前は管理栄養士になるっていう夢があるんだろ」

「でも」

「年は同じだけどさ、俺は兄貴のくせに家の中でいつも役に立ってないよな。こういう時くらい、いいカッコさせろよ」

 理沙は足を止めて、しくしくと泣きだした。道のど真ん中で泣いてちゃ迷惑だろう、と手を引っ張ってやる。兄妹で手を繋いだのはいつぶりだろう。

「昇、ごめんね……ありがとう……」

 理沙の手は汗ばんでいるのに氷のように冷たい。理沙を安心させてやるつもりで手を引いているのに、いつの間にか俺の方が理沙の存在に救われている。今、死んだ母親に双子に産んでくれたことを初めて感謝した。

 急な進路変更は学校側もかなり困惑していた。「もったいない」とか「もっとよく考えて」とか色々言われたけれど、俺の決心は揺るがなかった。学校への報告が済んだらすぐに就職先を探す。親父にはまだ言っていない。療養中に心配をかけたくないのもあるが、反対の余地を与えないためにある程度決めておきたかったからだ。こうして冬休み前とは一転して、俺の生活はめまぐるしく変わったのだった。

「……昇」

 迷ったような声で大智に名前を呼ばれた。考え事をしていたせいか、廊下ですれ違ったことに全然気が付かなかった。大智は何やら心配そうに眉を寄せていて、おそらく俺のことや親父のことを人づてに聞いたのだろう。何か言いたそうだったが、俺はまだ大智のことを許していなかった。ただ、大智にかまっている場合ではなくなった今では、こうして顔を向けていても、冷静に目を見ることができる。

「俺、別にお前がいなくても生きていけるし」

 大智の目が見開いて、僅かに揺れた。あの日の大智への、俺なりの答えだった。
 その瞬間から俺は大智と言葉を交わすことがなくなった。一緒に過ごした九年間が夢だったかのように、俺たちの下らなくも楽しかった日々はいとも簡単に消え去ったのである。

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