剛 5
田植えを終えてからは、毎日のように草刈りをする。少し雨が降ると、どんどん雑草が成長してしまって稲を脅かすのだ。特にヒエは稲と見分けがつきにくい上に、ちょっと油断するとすぐに種を飛ばして増えてしまう。俺は毎日、早朝と夕方に田んぼに入っては鎌で草を刈った。ただ、そんな草刈りも面倒なだけの作業ではない。
雑草が成長するように、稲もぐんぐん成長する。細くて小さかった苗は次々と分げつして、田んぼをびっしり埋め尽くす。田畑が密集した田園風景を離れたところから眺めると、それはもう鮮やかな緑の絨毯が広がっていて圧巻だ。今の田んぼの中の苗は、たぶん俺と同い年くらいなんじゃないかと思う。田んぼという名の学校。暖かい日差しをぬくぬくと浴びて、枯れないように水管理をしてもらい、たまには激しい雨風に耐えたり、水を抜かれて干されたり。褒められたり叱られたり、それでも社会に出るまで、稲刈りをするまで、周りの大人に大事に育てられる。子どもじゃないけど大人でもない。そして与えられた肥しをたくさん食べて大きくなる。まるで限界を知らない胃袋を持った俺のように。
そして七月下旬には最高分げつ、八月に入って出穂する二十日前くらいになると、茎の中で幼穂が育つ穂ぱらみという時期を迎える。俺は穂が出る直前になるとそわそわし出す。何故なら稲は出穂するとすぐに白い小さな花を咲かせて、しかもそれはほんの二時間程度で閉じてしまうからだ。よほど運が良くないとお目にかかれない。その花を見るのを心待ちにしているだけで、俺は哀しいことも辛いことも忘れられるのだ。
「そのわりに、あからさまにションボリしとるな」
容赦なく突っ込んでくれる姉貴。いくら夏で風呂上りでも、ショートパンツとタンクトップという薄着で腹を出したまま骨盤体操するのはどうなんだ。腹が冷えたらどうすんだ。
「……姉ちゃんも穂ぱらみやな」
「なんや、それ」
「茎ん中で穂が大きなるんと同じやなと思って」
「あんたもじいちゃんも、いちいち稲や米を擬人化するんやめて欲しいわ」
「姉ちゃんやってその恩恵に預かっとんやろ! いつも米送れって電話してくるん誰や!」
「米代かからんのは助かるわな」
「なんで姉ちゃんは田んぼ反対なん」
「別に田んぼを反対しとるわけちゃう。それでわたしら育ててもろたんやけん、感謝はしとるで。でも、じいちゃん見てみ。昔っから田んぼ命で、台風や大雨きたら危険顧みず田んぼの様子見に行こうとして目ぇ離せんし、草刈りや~やれ田植えや~って田んぼ優先してきたおかげで旅行も碌に行けん、つまらん子ども時代やったわ。剛の子どもやわたしの子どもに同じ思いさせるんは嫌やな」
「俺は楽しかったで」
「あんたは年がら年中半袖で外おったしな。まひるくんもおったし。まひるくんといえば、まひるくんとはどうなってんの?」
それを聞かれた途端に、俺は滝のような涙を流して姉ちゃんに泣きついた。そして先日あったことを包み隠さず話した(あんなことはさすがに言っていないが)。
「友達でおろう」なんて、ほんまは言うつもりなかったんや。
まひるの隣におる奴がなんか洒落た男前やったんが気に食わんかったんや。
しかも無防備に笑顔振り撒いとるまひるにも腹立ったんや。
ほんで追い打ちかけるように「東京戻る、帰ってこん」宣言やで。
やっぱまひるは俺みたいな田舎モンも、田舎も好きになれんかったんや。
俺みたいなダサいんより、一緒におったシャレオツイケメンのが釣り合うわ。
「あんた勉強はできるのに、そういうとこアホやんな。ほんで、なんでまひるくんは東京戻るん?」
「え……なんでやろ」
すると姉貴は俺の後頭部を目掛けてかかとを落とした。
「それを聞かんかい!!」
「田舎が好かんけん、東京戻るんちゃうの!?」
「まひるくんがそう言うたんか!」
「前はそやって言うたで」
「今はちゃうかもしれんやん!」
そういえば、まひるは何度も「人の話を聞け」と言っていた気がする。
「そ、そうか……! 俺、もっぺん、まひると話してみるわ!」
そして姉貴は耳をほじりながら、急に我関せずといった態度で俺の心をえぐった。
「好きにしたらええけど、もう手遅れちゃう? シャレオツイケメンと付き合っとったりしてな」
***
翌日、朝の草刈りを終えてひとっ風呂浴びてから、まひるの家に向かった。インターホンを鳴らしても誰も出ないので、今時高校生男子にしては珍しいガラパゴス携帯をパカッと開いて電話を掛ける。十回ほどコールしたところで、覇気のない声が「はい」と答えた。
「俺やけど、今、家の前おんねん。開けて」
すぐに通話が切れて、暫くするとタンクトップとハーフパンツという軽装でまひるが出迎えた。寝ていたのか、髪がボサボサで瞼も半分閉じかけだ。
「おそよう」
「うっさい。なんの用や。俺らもう幼馴染でもなんでもないんやろ」
そして俺は玄関先で、二度目の土下座をする。
「まひるの話、ちゃんと聞かんかった俺が悪かった! 許してくれ!」
「許すも何も、別れたんちゃうの、俺ら」
「……せめて、なんで東京に戻りたいか理由聞かせて下さい」
まひるは頭上で深く息を吐き、「入れば」と素っ気なく部屋の中に促された。「先に待ってて」と言われ、部屋の真ん中で正座して待つ。暫くして戻ってきたまひるは、麦茶をテーブルに置いて、俺の隣にあるベッドに腰を下ろして足を組んだ。本人はそのつもりはないだろうが、相変わらず美味そう……いや、触り心地の良さそうな白くて細い脚を俺の前に放り出す。ちょっとだけ抱いた不埒な感情を誤魔化すように、俺が先に口を開いた。
「まひるの友達に、ヤキモチ妬いただけなん。まひるが東京戻るっていうんも、やっぱり田舎が好きになれんかったけんかなって、勝手に思っとって。でも全部俺の早とちりやねん。すみませんでした」
「……」
「なんで東京戻るん?」
まひるは寝ぼけ眼をゴシゴシ指でこすり、麦茶を口に含んだ。
お。右向きで寝たな。布団のアトついとる。
……なんて軽口を言える雰囲気でもなさそうだ。
「東京の専門学校に行きたいん。美容の」
「それ以上可愛くなってどうするん」
「アホか。美容師や。美容師になりたいの」
「俺の頭も綺麗に切ってくれたもんな」
暫く間を置いてから、まひるは頷いた。
「東京行ってすぐの頃、俺も剛のこと言えんくらいダサい奴やった。髪の毛伸び放題で服装も変わり映えせんし。東京の友達に美容院連れてってもらってな、髪切ってもろたら自分のイメージ変わるんと同時に世界が明るくなった気がしてん。俺もこんな風に誰かの世界変えられたらええなと思ったん。でもこっちの専門学校は不満やねん。お洒落とか流行に敏感な都心でちゃんと勉強して腕磨きたい。だけん、東京に戻りたい」
俺が何を言われてもここを出たくないと思うのと同じように、俺がいつか無農薬で育てた米や野菜を使って店を開きたいという夢を持っているのと同じように、まひるにも夢がある。まひるの気持ちが分かるだけに「行かないで欲しい」とは言えなかった。
俺の「でも」と、まひるの「だから」という出だしが重なって、俺が退いた。
「友達でおろうって言われたんは、逆に良かったんかもしれん」
と、まひるは続けた。
――俺はそれを撤回しに来たのに。
「俺らさぁ、まだ高三やん。小さい頃から知っとるけん、当たり前のようにずっと一緒におるもんやと思っとったけど、もっと広いとこ出たら、お互い色んな人と知り合うやん。そしたらさぁ、」
「……もっと違う人好きになるかもしれん、ってこと?」
まひるは含み笑いをして、躊躇いながら頷いた。急に頭の中が冷えて、目の前が真っ暗になった。自分がまひる以外の人間を好きになることも考えられないし、まひるが違う奴を好きになるって考えただけで泣きそうだ。なのに嫌だと言えないのは、全部自分が蒔いた種のせいだからだ。
「もし地元に帰って来んとしても、離れとっても続けられるかもしれんやん」
それでもまひるは首を横に振った。
「だって付き合っとったら、どうしても『今頃何しよんやろ』とか気になってしまうやん。友達やったら、お互い誰かと付き合ったとしても諦めきれるやろ」
「でも俺はまひるが好きやねん」
「俺みたいな捻くれモンより、もっとええ奴おるよ。剛やって大学は行くんやろ? 勉強せぇよ。……勉強せんでも行けるかもしれんけど」
「まひる」
「そういうことやけん。……あ、でもいつまでもしつこく怒っとってごめん。ほんまはあの時のそんなに怒ってない。びっくりしただけなん。東京の友達のことも、気ィ悪さして悪かった」
言いたいことはいっぱいあるのに、結局俺は何も言えなくて、最後に「熱中症になって田んぼで倒れんようにしろよ」と労われて、ふがいなくまひるの家をあとにした。
うるさすぎる蝉の合唱。真上の空は真っ青なのに、西の山の向こうから雨雲が迫ってきているのが見えた。あと二、三時間もすればひと雨降るかもしれない。家に着いて居間に入ると、アイスを食べている姉貴が、開口一番「どうやったん」と訊ねた。ただ、何も言わなくてもあきらかに沈んでいる俺を見れば、結果が良いか悪いかくらいは察しがつくだろう。姉貴はワイドショーの点いているテレビに顔を向け、「いかんかったんやな」とアイスをかじった。
「かえってフラれてしもた」
「なんで東京戻るって?」
「美容師になりたいんやって。東京の専門学校行きたいって。こっち戻るつもりもないし、どうせ離れ離れになるんやけん、友達のままおったほうがええやろ、やって」
「そら、そうやわな。遠距離で続いたカップル、わたし見たことない」
「姉ちゃんヒドイ」
「弟やけん、ほんまのこと言うんやん」
「まひるが違う奴と付き合うとか考えたら嫌や」
「誰でもな、失恋したてはそう思うもんやで。これ以上の人と出会えるんやろかって、みんな思うんよ。ほんでも気ィついたら、違う人好きになって、前の人忘れられるんや。あんたらが六年間離れ離れでも両想いやったんは、恋愛関係に至る前の子どもやったけんや。もっと広い視野持つチャンスやと思いな」
姉貴の言葉はいち大人としてのまっとうな意見だというのは理解できるけれど、それをすんなり受け入れられるほど俺は自我ができていない。とぼとぼと部屋に戻り、布団の上に転がった。田んぼに行かないと、と思いながらも体が動かなかった。そのうちに雨が降り出して、スコールのように激しく窓を叩きつける雨音を聞きながら、眠りに落ちた。
―――
翌朝、珍しく早起きした姉貴に叩き起こされた。
「剛! 田んぼ来てみ!」
昨日の豪雨で何かあったのかと思い、飛び起きた。寝起きのままサンダルを履いて慌てて田んぼに行ってみると、姉貴が何やら嬉しそうに「見てみ」と手招きをした。
「花が咲いたで」
青々と育った稲を覗くと、葉のサヤを割って穂が出ていた。さらにもっとよく見ると、籾が割れて、そこから白い小さな花が覗いていた。
「雨で倒れてなくてよかったわ」
「雷すごかったん知っとる? 剛は爆睡しとったけど」
「知らん」
「稲光がすごかったで。そいや、なんで稲妻って言うか、知っとる?」
「……知らん」
「穂が出る時期に雷が多いけん、雷の光は稲を妊娠させるって言われとんやって。稲が実ることや。稲の夫」
「オットやのに、ツマなん?」
「昔は夫も『つま』て読んでたんよ。やけん、稲妻」
「……姉ちゃん、ほんまは田んぼ好きなんやろ」
「嫌いじゃないで。やりたくはないけど」
花はこれからニ、三時間で花粉を飛ばして、飛ばし終わったら閉じる。稲は強いけど、花はなんだか儚い。俺とまひるの関係も、結局こんなものなんだろう。
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雑草が成長するように、稲もぐんぐん成長する。細くて小さかった苗は次々と分げつして、田んぼをびっしり埋め尽くす。田畑が密集した田園風景を離れたところから眺めると、それはもう鮮やかな緑の絨毯が広がっていて圧巻だ。今の田んぼの中の苗は、たぶん俺と同い年くらいなんじゃないかと思う。田んぼという名の学校。暖かい日差しをぬくぬくと浴びて、枯れないように水管理をしてもらい、たまには激しい雨風に耐えたり、水を抜かれて干されたり。褒められたり叱られたり、それでも社会に出るまで、稲刈りをするまで、周りの大人に大事に育てられる。子どもじゃないけど大人でもない。そして与えられた肥しをたくさん食べて大きくなる。まるで限界を知らない胃袋を持った俺のように。
そして七月下旬には最高分げつ、八月に入って出穂する二十日前くらいになると、茎の中で幼穂が育つ穂ぱらみという時期を迎える。俺は穂が出る直前になるとそわそわし出す。何故なら稲は出穂するとすぐに白い小さな花を咲かせて、しかもそれはほんの二時間程度で閉じてしまうからだ。よほど運が良くないとお目にかかれない。その花を見るのを心待ちにしているだけで、俺は哀しいことも辛いことも忘れられるのだ。
「そのわりに、あからさまにションボリしとるな」
容赦なく突っ込んでくれる姉貴。いくら夏で風呂上りでも、ショートパンツとタンクトップという薄着で腹を出したまま骨盤体操するのはどうなんだ。腹が冷えたらどうすんだ。
「……姉ちゃんも穂ぱらみやな」
「なんや、それ」
「茎ん中で穂が大きなるんと同じやなと思って」
「あんたもじいちゃんも、いちいち稲や米を擬人化するんやめて欲しいわ」
「姉ちゃんやってその恩恵に預かっとんやろ! いつも米送れって電話してくるん誰や!」
「米代かからんのは助かるわな」
「なんで姉ちゃんは田んぼ反対なん」
「別に田んぼを反対しとるわけちゃう。それでわたしら育ててもろたんやけん、感謝はしとるで。でも、じいちゃん見てみ。昔っから田んぼ命で、台風や大雨きたら危険顧みず田んぼの様子見に行こうとして目ぇ離せんし、草刈りや~やれ田植えや~って田んぼ優先してきたおかげで旅行も碌に行けん、つまらん子ども時代やったわ。剛の子どもやわたしの子どもに同じ思いさせるんは嫌やな」
「俺は楽しかったで」
「あんたは年がら年中半袖で外おったしな。まひるくんもおったし。まひるくんといえば、まひるくんとはどうなってんの?」
それを聞かれた途端に、俺は滝のような涙を流して姉ちゃんに泣きついた。そして先日あったことを包み隠さず話した(あんなことはさすがに言っていないが)。
「友達でおろう」なんて、ほんまは言うつもりなかったんや。
まひるの隣におる奴がなんか洒落た男前やったんが気に食わんかったんや。
しかも無防備に笑顔振り撒いとるまひるにも腹立ったんや。
ほんで追い打ちかけるように「東京戻る、帰ってこん」宣言やで。
やっぱまひるは俺みたいな田舎モンも、田舎も好きになれんかったんや。
俺みたいなダサいんより、一緒におったシャレオツイケメンのが釣り合うわ。
「あんた勉強はできるのに、そういうとこアホやんな。ほんで、なんでまひるくんは東京戻るん?」
「え……なんでやろ」
すると姉貴は俺の後頭部を目掛けてかかとを落とした。
「それを聞かんかい!!」
「田舎が好かんけん、東京戻るんちゃうの!?」
「まひるくんがそう言うたんか!」
「前はそやって言うたで」
「今はちゃうかもしれんやん!」
そういえば、まひるは何度も「人の話を聞け」と言っていた気がする。
「そ、そうか……! 俺、もっぺん、まひると話してみるわ!」
そして姉貴は耳をほじりながら、急に我関せずといった態度で俺の心をえぐった。
「好きにしたらええけど、もう手遅れちゃう? シャレオツイケメンと付き合っとったりしてな」
***
翌日、朝の草刈りを終えてひとっ風呂浴びてから、まひるの家に向かった。インターホンを鳴らしても誰も出ないので、今時高校生男子にしては珍しいガラパゴス携帯をパカッと開いて電話を掛ける。十回ほどコールしたところで、覇気のない声が「はい」と答えた。
「俺やけど、今、家の前おんねん。開けて」
すぐに通話が切れて、暫くするとタンクトップとハーフパンツという軽装でまひるが出迎えた。寝ていたのか、髪がボサボサで瞼も半分閉じかけだ。
「おそよう」
「うっさい。なんの用や。俺らもう幼馴染でもなんでもないんやろ」
そして俺は玄関先で、二度目の土下座をする。
「まひるの話、ちゃんと聞かんかった俺が悪かった! 許してくれ!」
「許すも何も、別れたんちゃうの、俺ら」
「……せめて、なんで東京に戻りたいか理由聞かせて下さい」
まひるは頭上で深く息を吐き、「入れば」と素っ気なく部屋の中に促された。「先に待ってて」と言われ、部屋の真ん中で正座して待つ。暫くして戻ってきたまひるは、麦茶をテーブルに置いて、俺の隣にあるベッドに腰を下ろして足を組んだ。本人はそのつもりはないだろうが、相変わらず美味そう……いや、触り心地の良さそうな白くて細い脚を俺の前に放り出す。ちょっとだけ抱いた不埒な感情を誤魔化すように、俺が先に口を開いた。
「まひるの友達に、ヤキモチ妬いただけなん。まひるが東京戻るっていうんも、やっぱり田舎が好きになれんかったけんかなって、勝手に思っとって。でも全部俺の早とちりやねん。すみませんでした」
「……」
「なんで東京戻るん?」
まひるは寝ぼけ眼をゴシゴシ指でこすり、麦茶を口に含んだ。
お。右向きで寝たな。布団のアトついとる。
……なんて軽口を言える雰囲気でもなさそうだ。
「東京の専門学校に行きたいん。美容の」
「それ以上可愛くなってどうするん」
「アホか。美容師や。美容師になりたいの」
「俺の頭も綺麗に切ってくれたもんな」
暫く間を置いてから、まひるは頷いた。
「東京行ってすぐの頃、俺も剛のこと言えんくらいダサい奴やった。髪の毛伸び放題で服装も変わり映えせんし。東京の友達に美容院連れてってもらってな、髪切ってもろたら自分のイメージ変わるんと同時に世界が明るくなった気がしてん。俺もこんな風に誰かの世界変えられたらええなと思ったん。でもこっちの専門学校は不満やねん。お洒落とか流行に敏感な都心でちゃんと勉強して腕磨きたい。だけん、東京に戻りたい」
俺が何を言われてもここを出たくないと思うのと同じように、俺がいつか無農薬で育てた米や野菜を使って店を開きたいという夢を持っているのと同じように、まひるにも夢がある。まひるの気持ちが分かるだけに「行かないで欲しい」とは言えなかった。
俺の「でも」と、まひるの「だから」という出だしが重なって、俺が退いた。
「友達でおろうって言われたんは、逆に良かったんかもしれん」
と、まひるは続けた。
――俺はそれを撤回しに来たのに。
「俺らさぁ、まだ高三やん。小さい頃から知っとるけん、当たり前のようにずっと一緒におるもんやと思っとったけど、もっと広いとこ出たら、お互い色んな人と知り合うやん。そしたらさぁ、」
「……もっと違う人好きになるかもしれん、ってこと?」
まひるは含み笑いをして、躊躇いながら頷いた。急に頭の中が冷えて、目の前が真っ暗になった。自分がまひる以外の人間を好きになることも考えられないし、まひるが違う奴を好きになるって考えただけで泣きそうだ。なのに嫌だと言えないのは、全部自分が蒔いた種のせいだからだ。
「もし地元に帰って来んとしても、離れとっても続けられるかもしれんやん」
それでもまひるは首を横に振った。
「だって付き合っとったら、どうしても『今頃何しよんやろ』とか気になってしまうやん。友達やったら、お互い誰かと付き合ったとしても諦めきれるやろ」
「でも俺はまひるが好きやねん」
「俺みたいな捻くれモンより、もっとええ奴おるよ。剛やって大学は行くんやろ? 勉強せぇよ。……勉強せんでも行けるかもしれんけど」
「まひる」
「そういうことやけん。……あ、でもいつまでもしつこく怒っとってごめん。ほんまはあの時のそんなに怒ってない。びっくりしただけなん。東京の友達のことも、気ィ悪さして悪かった」
言いたいことはいっぱいあるのに、結局俺は何も言えなくて、最後に「熱中症になって田んぼで倒れんようにしろよ」と労われて、ふがいなくまひるの家をあとにした。
うるさすぎる蝉の合唱。真上の空は真っ青なのに、西の山の向こうから雨雲が迫ってきているのが見えた。あと二、三時間もすればひと雨降るかもしれない。家に着いて居間に入ると、アイスを食べている姉貴が、開口一番「どうやったん」と訊ねた。ただ、何も言わなくてもあきらかに沈んでいる俺を見れば、結果が良いか悪いかくらいは察しがつくだろう。姉貴はワイドショーの点いているテレビに顔を向け、「いかんかったんやな」とアイスをかじった。
「かえってフラれてしもた」
「なんで東京戻るって?」
「美容師になりたいんやって。東京の専門学校行きたいって。こっち戻るつもりもないし、どうせ離れ離れになるんやけん、友達のままおったほうがええやろ、やって」
「そら、そうやわな。遠距離で続いたカップル、わたし見たことない」
「姉ちゃんヒドイ」
「弟やけん、ほんまのこと言うんやん」
「まひるが違う奴と付き合うとか考えたら嫌や」
「誰でもな、失恋したてはそう思うもんやで。これ以上の人と出会えるんやろかって、みんな思うんよ。ほんでも気ィついたら、違う人好きになって、前の人忘れられるんや。あんたらが六年間離れ離れでも両想いやったんは、恋愛関係に至る前の子どもやったけんや。もっと広い視野持つチャンスやと思いな」
姉貴の言葉はいち大人としてのまっとうな意見だというのは理解できるけれど、それをすんなり受け入れられるほど俺は自我ができていない。とぼとぼと部屋に戻り、布団の上に転がった。田んぼに行かないと、と思いながらも体が動かなかった。そのうちに雨が降り出して、スコールのように激しく窓を叩きつける雨音を聞きながら、眠りに落ちた。
―――
翌朝、珍しく早起きした姉貴に叩き起こされた。
「剛! 田んぼ来てみ!」
昨日の豪雨で何かあったのかと思い、飛び起きた。寝起きのままサンダルを履いて慌てて田んぼに行ってみると、姉貴が何やら嬉しそうに「見てみ」と手招きをした。
「花が咲いたで」
青々と育った稲を覗くと、葉のサヤを割って穂が出ていた。さらにもっとよく見ると、籾が割れて、そこから白い小さな花が覗いていた。
「雨で倒れてなくてよかったわ」
「雷すごかったん知っとる? 剛は爆睡しとったけど」
「知らん」
「稲光がすごかったで。そいや、なんで稲妻って言うか、知っとる?」
「……知らん」
「穂が出る時期に雷が多いけん、雷の光は稲を妊娠させるって言われとんやって。稲が実ることや。稲の夫」
「オットやのに、ツマなん?」
「昔は夫も『つま』て読んでたんよ。やけん、稲妻」
「……姉ちゃん、ほんまは田んぼ好きなんやろ」
「嫌いじゃないで。やりたくはないけど」
花はこれからニ、三時間で花粉を飛ばして、飛ばし終わったら閉じる。稲は強いけど、花はなんだか儚い。俺とまひるの関係も、結局こんなものなんだろう。
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