高橋 恵一 7
最後に会ったあの冬の日から二度と会うことはないと思ったし、会いたくもなかった。
離婚して暫くは独りの夜に慣れずに山城を憎らしく思ったこともあったが、日にちが経つにつれて彼のことは忘れていった。そろそろ趣味でも見つけて前に進もうかという頃に、再会したのだった。
一度目は喫茶アネモネの近く。出張先から会社に戻る途中でいきなり腕を掴まれて引き留められた。俺が彼に会いたくなかったように、彼も俺に会いたくないだろうと思っていたので声を掛けられて驚いた。走って来たのか息を切らせていて、そんなに慌てて引き留めるくらいなのだから、何か用があるのだろうと考えた。けれども彼を追ってきた女の子を見て、相変わらず奔放な恋愛をしているのだと垣間見ると何故だか苛ついてしまい、冷たくあしらった。
二度目は自ら彼の花屋へ行った。自分から冷たくしておいて、やっぱり引き留められたのには何か用があったからじゃないかとどうしても気になったからだ。後輩への手土産に花を買う、というのは実は口実だった。食べ物以外での手土産を、とは考えていたが、具体的には決まっておらず、花屋に着いてから咄嗟にひらめいただけだ。山城は「ナチュラルモダンな家」という情報だけで見事なブーケを作ってくれた。けれども結局肝心な話は最後まで聞けなかった。
三度目は向こうから連絡が来た。と言っても、美紀と会ったという報告だけ。何故そんな報告を俺にするのかという疑問と、まだ街で声を掛けられた理由を聞いていないという心残りもあってまた花屋を訪ねた。俺を引き留めた理由はたいしたものではなかったが、語られた彼の生い立ちから、それなりに苦労してそれなりの理由があっての今なのだ、というのを知ると、少しだけ彼を見る目が変わった。
今度こそもう終わりだろうと思っていたら、街のど真ん中で四度目の再会をした。会社の同僚と食事に行く途中で、横断歩道の中ですれ違った。向こうはこちらに気付いていなかったのだから無視をすればよかったのに、無意識に名前を呼んでいたのだ。振り向いた彼は頬を腫らしてガラにもなく泣きそうにも見えた。放っておくこともできたが、やはり気になってしまう自分がいて、同僚との約束をキャンセルしてまで引き返したのだった。自業自得とはいえ散々な目に遭って落ち込んでいたと思う。それでも彼はそんな素振りを見せない。バス停で珍しく他愛ない会話をして、山城といて初めて少し楽しいと思った。
そして五度目。フラワーコーディネーターを探している後輩を紹介したついでに、実家の母へ贈るアレンジメントを依頼した。その支払いをしに行った時のことだった。車から降りるなり店から異様な雰囲気を感じた。まず店の前に停まっている黒光りしたセダンがどうも不自然だった。少し離れたところからでも充分に聞こえる口論。
「わたしだってもっと早く妊娠に気付いていれば、アンタなんか産まなかった」という台詞で、母親が来ているのだと気付いた。と、同時に親として一番言ってはいけない言葉をいとも簡単に言ってしまえる神経に引いた。彼は母に置き去りにされても母が好きだと言っていた。そんな母親に「産みたくなかった」と言われて、どれほど傷付いたのだろう。あれほど花を大事にしている彼が叫びながら花を母親に投げつける姿は痛々しかった。親に拒絶されるのはいくつになっても悲しいことだ。俺が何をしても無力なのは承知している。けれども幼子のように泣く山城に、その日ばかりは寄り添ってやりたいと思った。
―――
さっきから同じ書類ばかり眺めては溜息をつく。集中しなければと思うほど気は散ってしまい、なかなか頭に入らない。木下が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「た、高橋さん……やり直しですか……?」
「え?」
「株主総会のシナリオ……さっきから難しい顔で溜息ばっかりついてるんで、駄目なのかな~って……」
「あ、ああ。いや。ごめん、いいと思う。この赤で印入れているところだけ直しておいて」
木下はあからさまにホッと胸を撫でおろした。
「そういえば、HANASHIROさんはまだお休みされてるんですか? 急な体調不良でしたっけ」
「んん……そうだね、今度電話してみるよ。せっかく店に行く予定だったのに申し訳ないね」
「や、大丈夫ッス! 一人でお店されてるんですもんね、そりゃ体壊すことだってありますよね」
あの母の日の数日後に、木下は奥さんと一緒に山城の店に行く予定だった。だが、山城はすっかり憔悴していて、とてもじゃないが接客などできそうになかった。木下には適当に誤魔化しておくから暫く店を休んだらどうだ、と提案したら、山城は気のない声で「そうします」と答えた。それからは俺も仕事が忙しかったのもあって山城とは連絡を取っていない。気にはなっていたが、頭の片隅で自分で立ち直ってなんとかするだろうと考えていたのだ。あれから三週間。一度店に寄って様子を見てこようと、仕事が落ち着いた金曜日の夜に山城の店に足を運ぶことにした。
閉店時間は午後六時。定休日は火曜日。普段ならまだ開いているはずだが、山城の店はシャッターが降りている。まだ店を休んでいるのだろうか。周囲にひと気もなかったので仕方なく引き返した。電話をしてみようか、メッセージだけでも送っておこうか、そんなことを考えながら車を赤信号で停止させた時、横断歩道を渡る雑踏の中に山城の姿を見つけた。明るい茶髪はよく目立つ。咄嗟にクラクションを鳴らしかけて思い止まった。誰かと一緒にいたからだ。珍しく男性の連れだ。
それはそうか。同性の友人の一人や二人いるだろう。何故俺は、山城には同性の友達がいないと思い込んでいたのだろう。たぶん友人といるイメージがないからだ。彼はいつも女の子といたから。
友人と一緒なら俺が心配するまでもないか。けれども、ホッとすると同時に若干の腹立たしさがあった。こっちは心配してやっていたのに、なんの連絡もせず店も開けず友人と遊び歩いているなんてどういうことだと。木下のこともあるのに、ひと言何か言ってきてもいいはずだ。
……ああ、まただ。俺は息を吐きながら額に手を当てた。「してやったのに」。そんな押しつけがましいことを言っているから離婚したんだっけ。偽善者と言われても仕方がない。
信号が青になり、車を発進させる。今度こそもう放っておく。もともと親しい間柄じゃないし、むしろ関わりたくない相手だ。放っておく……つもりだったのに、俺は舌打ちをして車をUターンさせた。
取り急ぎコンビニに車を置いて山城が向かったほうへ走った。どこか店にでも入っていなければそのうち追いつくはずだ。行き交う通行人の中から山城の後姿を見つけた。角を曲がろうとするので急いで駆け寄って肩を掴む。振り向いた山城は目を見開いた。
「お……追いついた……」
久しぶりに走ったせいでなかなか息が整わない。
「恵一さ……ん」
「……み、店は……」
「え?」
「店は、開けてないのか」
山城は口を閉ざして俯いた。俺は山城の隣にいた男に二人にさせて欲しいと願い出た。
「いや、そちらが日を改めるべきでしょ」
「急ぎの用事があるので。申し訳ない」
そして山城は隣の男と腕を組み、
「恵一さん、今度にしてよ。俺らデートしてるからさ」
と、悪戯な微笑を浮かべて言うのである。
「デートって……」
「もうさぁ、女の子と付き合うのやめたんだ。店もやめる。というわけでサヨナラ」
「尚更帰れないだろ。ちゃんと説明しろよ。お前はまだ木下との仕事を終えてないだろう。そんな不誠実な態度で信用をなくすのか」
「だから店はやめるって言ってんだろ」
気分が萎えたのか、男は盛大に溜息を放ったあと、「もういいや」と山城の腕を振り払ってあっさり立ち去った。あの薄情さから見るに友人や知り合いといった間柄ではなさそうだ。
「せっかく遊んでくれる人見つけたのにどうしてくれんのさ」
「そういう意味で、か」
「そうだよ。けっこう好みの顔だったんだけど」
「……男だぞ……」
「今時『男同士で恋愛なんてありえない』って言うタイプ? 別にいいじゃないか。男同士でもセックスはできる」
隣を通りかかった通行人がチラ、と一瞥して行った。
「……だからって見ず知らずの奴と……」
「じゃあ、恵一さんが相手になってよ」
山城は小馬鹿にしたように言う。笑っているけど、目が冷ややかだ。俺がうろたえる姿を見たいのだ。まるで思春期の子のような挑発には苛々する。俺は軽く、目を覚まさせるくらいのつもりで彼の頬をパチン、と叩いた。
「下らない冗談に付き合ってる暇はないんだよ。きみがそこまで馬鹿な男だとは思わなかった」
「……」
「………悪い、やりすぎた」
ぶはっ、と山城が噴き出した。今度は声を出して笑っている。目尻の涙を指で拭った。
「追い掛けて来てくれてありがとう。でも、もう気にかけてくれなくていいから。店も辞めるし、色んな女の子と遊ぶのもやめる」
「本気で店を辞めるのか」
「続ける意味がない」
「きみは花が好きなんだろう」
「さあ、どうだろう。とにかく心配しなくても俺は今から帰るから、恵一さんも帰って。さようなら」
そう言って背中を向けた山城を、今度は追い掛けなかった。追い掛けたところで今は山城の考えは変わらないだろうから。ただ、彼の言う「さようなら」が、まるで永遠に会わないと言っているように聞こえてならなかった。
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離婚して暫くは独りの夜に慣れずに山城を憎らしく思ったこともあったが、日にちが経つにつれて彼のことは忘れていった。そろそろ趣味でも見つけて前に進もうかという頃に、再会したのだった。
一度目は喫茶アネモネの近く。出張先から会社に戻る途中でいきなり腕を掴まれて引き留められた。俺が彼に会いたくなかったように、彼も俺に会いたくないだろうと思っていたので声を掛けられて驚いた。走って来たのか息を切らせていて、そんなに慌てて引き留めるくらいなのだから、何か用があるのだろうと考えた。けれども彼を追ってきた女の子を見て、相変わらず奔放な恋愛をしているのだと垣間見ると何故だか苛ついてしまい、冷たくあしらった。
二度目は自ら彼の花屋へ行った。自分から冷たくしておいて、やっぱり引き留められたのには何か用があったからじゃないかとどうしても気になったからだ。後輩への手土産に花を買う、というのは実は口実だった。食べ物以外での手土産を、とは考えていたが、具体的には決まっておらず、花屋に着いてから咄嗟にひらめいただけだ。山城は「ナチュラルモダンな家」という情報だけで見事なブーケを作ってくれた。けれども結局肝心な話は最後まで聞けなかった。
三度目は向こうから連絡が来た。と言っても、美紀と会ったという報告だけ。何故そんな報告を俺にするのかという疑問と、まだ街で声を掛けられた理由を聞いていないという心残りもあってまた花屋を訪ねた。俺を引き留めた理由はたいしたものではなかったが、語られた彼の生い立ちから、それなりに苦労してそれなりの理由があっての今なのだ、というのを知ると、少しだけ彼を見る目が変わった。
今度こそもう終わりだろうと思っていたら、街のど真ん中で四度目の再会をした。会社の同僚と食事に行く途中で、横断歩道の中ですれ違った。向こうはこちらに気付いていなかったのだから無視をすればよかったのに、無意識に名前を呼んでいたのだ。振り向いた彼は頬を腫らしてガラにもなく泣きそうにも見えた。放っておくこともできたが、やはり気になってしまう自分がいて、同僚との約束をキャンセルしてまで引き返したのだった。自業自得とはいえ散々な目に遭って落ち込んでいたと思う。それでも彼はそんな素振りを見せない。バス停で珍しく他愛ない会話をして、山城といて初めて少し楽しいと思った。
そして五度目。フラワーコーディネーターを探している後輩を紹介したついでに、実家の母へ贈るアレンジメントを依頼した。その支払いをしに行った時のことだった。車から降りるなり店から異様な雰囲気を感じた。まず店の前に停まっている黒光りしたセダンがどうも不自然だった。少し離れたところからでも充分に聞こえる口論。
「わたしだってもっと早く妊娠に気付いていれば、アンタなんか産まなかった」という台詞で、母親が来ているのだと気付いた。と、同時に親として一番言ってはいけない言葉をいとも簡単に言ってしまえる神経に引いた。彼は母に置き去りにされても母が好きだと言っていた。そんな母親に「産みたくなかった」と言われて、どれほど傷付いたのだろう。あれほど花を大事にしている彼が叫びながら花を母親に投げつける姿は痛々しかった。親に拒絶されるのはいくつになっても悲しいことだ。俺が何をしても無力なのは承知している。けれども幼子のように泣く山城に、その日ばかりは寄り添ってやりたいと思った。
―――
さっきから同じ書類ばかり眺めては溜息をつく。集中しなければと思うほど気は散ってしまい、なかなか頭に入らない。木下が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「た、高橋さん……やり直しですか……?」
「え?」
「株主総会のシナリオ……さっきから難しい顔で溜息ばっかりついてるんで、駄目なのかな~って……」
「あ、ああ。いや。ごめん、いいと思う。この赤で印入れているところだけ直しておいて」
木下はあからさまにホッと胸を撫でおろした。
「そういえば、HANASHIROさんはまだお休みされてるんですか? 急な体調不良でしたっけ」
「んん……そうだね、今度電話してみるよ。せっかく店に行く予定だったのに申し訳ないね」
「や、大丈夫ッス! 一人でお店されてるんですもんね、そりゃ体壊すことだってありますよね」
あの母の日の数日後に、木下は奥さんと一緒に山城の店に行く予定だった。だが、山城はすっかり憔悴していて、とてもじゃないが接客などできそうになかった。木下には適当に誤魔化しておくから暫く店を休んだらどうだ、と提案したら、山城は気のない声で「そうします」と答えた。それからは俺も仕事が忙しかったのもあって山城とは連絡を取っていない。気にはなっていたが、頭の片隅で自分で立ち直ってなんとかするだろうと考えていたのだ。あれから三週間。一度店に寄って様子を見てこようと、仕事が落ち着いた金曜日の夜に山城の店に足を運ぶことにした。
閉店時間は午後六時。定休日は火曜日。普段ならまだ開いているはずだが、山城の店はシャッターが降りている。まだ店を休んでいるのだろうか。周囲にひと気もなかったので仕方なく引き返した。電話をしてみようか、メッセージだけでも送っておこうか、そんなことを考えながら車を赤信号で停止させた時、横断歩道を渡る雑踏の中に山城の姿を見つけた。明るい茶髪はよく目立つ。咄嗟にクラクションを鳴らしかけて思い止まった。誰かと一緒にいたからだ。珍しく男性の連れだ。
それはそうか。同性の友人の一人や二人いるだろう。何故俺は、山城には同性の友達がいないと思い込んでいたのだろう。たぶん友人といるイメージがないからだ。彼はいつも女の子といたから。
友人と一緒なら俺が心配するまでもないか。けれども、ホッとすると同時に若干の腹立たしさがあった。こっちは心配してやっていたのに、なんの連絡もせず店も開けず友人と遊び歩いているなんてどういうことだと。木下のこともあるのに、ひと言何か言ってきてもいいはずだ。
……ああ、まただ。俺は息を吐きながら額に手を当てた。「してやったのに」。そんな押しつけがましいことを言っているから離婚したんだっけ。偽善者と言われても仕方がない。
信号が青になり、車を発進させる。今度こそもう放っておく。もともと親しい間柄じゃないし、むしろ関わりたくない相手だ。放っておく……つもりだったのに、俺は舌打ちをして車をUターンさせた。
取り急ぎコンビニに車を置いて山城が向かったほうへ走った。どこか店にでも入っていなければそのうち追いつくはずだ。行き交う通行人の中から山城の後姿を見つけた。角を曲がろうとするので急いで駆け寄って肩を掴む。振り向いた山城は目を見開いた。
「お……追いついた……」
久しぶりに走ったせいでなかなか息が整わない。
「恵一さ……ん」
「……み、店は……」
「え?」
「店は、開けてないのか」
山城は口を閉ざして俯いた。俺は山城の隣にいた男に二人にさせて欲しいと願い出た。
「いや、そちらが日を改めるべきでしょ」
「急ぎの用事があるので。申し訳ない」
そして山城は隣の男と腕を組み、
「恵一さん、今度にしてよ。俺らデートしてるからさ」
と、悪戯な微笑を浮かべて言うのである。
「デートって……」
「もうさぁ、女の子と付き合うのやめたんだ。店もやめる。というわけでサヨナラ」
「尚更帰れないだろ。ちゃんと説明しろよ。お前はまだ木下との仕事を終えてないだろう。そんな不誠実な態度で信用をなくすのか」
「だから店はやめるって言ってんだろ」
気分が萎えたのか、男は盛大に溜息を放ったあと、「もういいや」と山城の腕を振り払ってあっさり立ち去った。あの薄情さから見るに友人や知り合いといった間柄ではなさそうだ。
「せっかく遊んでくれる人見つけたのにどうしてくれんのさ」
「そういう意味で、か」
「そうだよ。けっこう好みの顔だったんだけど」
「……男だぞ……」
「今時『男同士で恋愛なんてありえない』って言うタイプ? 別にいいじゃないか。男同士でもセックスはできる」
隣を通りかかった通行人がチラ、と一瞥して行った。
「……だからって見ず知らずの奴と……」
「じゃあ、恵一さんが相手になってよ」
山城は小馬鹿にしたように言う。笑っているけど、目が冷ややかだ。俺がうろたえる姿を見たいのだ。まるで思春期の子のような挑発には苛々する。俺は軽く、目を覚まさせるくらいのつもりで彼の頬をパチン、と叩いた。
「下らない冗談に付き合ってる暇はないんだよ。きみがそこまで馬鹿な男だとは思わなかった」
「……」
「………悪い、やりすぎた」
ぶはっ、と山城が噴き出した。今度は声を出して笑っている。目尻の涙を指で拭った。
「追い掛けて来てくれてありがとう。でも、もう気にかけてくれなくていいから。店も辞めるし、色んな女の子と遊ぶのもやめる」
「本気で店を辞めるのか」
「続ける意味がない」
「きみは花が好きなんだろう」
「さあ、どうだろう。とにかく心配しなくても俺は今から帰るから、恵一さんも帰って。さようなら」
そう言って背中を向けた山城を、今度は追い掛けなかった。追い掛けたところで今は山城の考えは変わらないだろうから。ただ、彼の言う「さようなら」が、まるで永遠に会わないと言っているように聞こえてならなかった。
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