山城 天 6
***
恵一さんから正式に依頼が来たのは翌日のことだった。紹介されたのは木下さんという俺とそう歳の変わらない若い夫婦だ。挙式をするのはまだ先なので本格的な打ち合わせは未定だが、花屋を見てみたいからと一週間後に店に来ることになっている。恵一さんはその日は来ないけれど、「母の日のアレンジメントはまだ間に合うか」と電話で聞かれた。
「間に合いますよ。予算はありますか?」
『なるべく華やかにしてほしい。金額は問わない』
最後に「うちの後輩をよろしく」と付け足されたので、この依頼は恵一さんなりの「御礼」なのだろう。どちらかと言えば礼をするのは仕事を貰った俺なのに、恵一さんの人の好さはどこまで本気なのかと不思議になってくる。
「受け取りはいつですか?」
『できれば東京の実家に送ってもらいたいんだけど、かまわないかな。当日の日曜日に直接支払いに行くよ』
少なくともあと一回は恵一さんに会えることに、俺はひそかに楽しみにしているのだった。
母の日当日は、午前中を中心に子どもから大人までがカーネーションを求めて店にやってきた。混雑はしないが、少人数がパラパラとやってくるのでひと息つく暇もない。夕方頃になるとカーネーションもほぼほぼ捌けて客足も落ち着いた。西の空が赤く色付き始めて恵一さんがまだ来てないことに気付く。けれども、あの人のことだからどうせ忙しい時間は避けようとか考えていたに違いない。あの律儀な人が支払いを約束を忘れるなんてことはないはずなので、じきに現れるだろう。
俺は日中とは打って変わって静かになった店内をほうきで掃除しながら、恵一さんが来るのを待った。しばらくして黒のセダンが店の前で停まった。恵一さんかと思ったが、あの人の車は確か白のインプレッサだ。お客かな、と車内から人が出て来るのを待っていたが、なかなか出てこない。こちらから近付くとようやく助手席から人が降りた。その人物は、
「……天」
内巻きのセミロング、襟ぐりの開いたニットにひざ下のタイトスカート……。歩くと地面に穴が空きそうなほど細いピンヒール。あの真っ赤な口紅を覚えている。
「か……かあさん……?」
少しふくよかになったものの、それでもくびれを維持した完璧なスタイルだ。とても五十が近いとは思えないほど若々しく、かつて美人で羨ましいと言われて誇らしかった、俺の母親が、そこにいた。母親は俺の顔を見るなり涙を流し、「ごめんね、ごめんね」と声を震わせた。
俺は呆然と立ち尽くしていた。心の中では様々な感情があふれ出す。
どうしていきなり出て行ったのか、どうして俺を置いて行ったのか、今までどこにいて何をしていたのか、なぜ何も連絡をくれなかったのか。俺がどういう想いで店を継いだか、どういう気持ちで過ごしていたか、考えたことはあるのか。
真っ先に湧いたのは怒りと憎しみの感情。けれどもそのあとに「会いたかった」という気持ちがすべてを飲み込んでしまい、俺は無言で駆け寄ると、自分より小さくなった母に抱き付いた。
「……ど、どうして」
「ごめんね、天……お母さんを許してくれる……?」
母は事情の説明を一切せずに、ただ俺に許しを求めた。本当は罵ってやりたい。わけを聞きたい。だけど今はとにかく帰ってきてくれたという喜びのほうが大きくて、俺も何も訊ねなかった。
「わたしのお店、まさか継いでくれてるなんて思わなかったわ」
「……大変だったけど、店は楽しいよ。だけど、どうして急に戻って来たの」
「ネットでね……偶然見つけたの。誰かの花屋のレビューを書いた記事を見つけて、タグにウチの花屋の名前があったから、もしかしてと思って。写真を見て、いてもたってもいられなくて戻って来たのよ」
「思い出してくれて嬉しい。あ、喉乾いてない? 今日はもう早めに店を閉めるから家に帰ってゆっくり話そう」
「ええ、ありがとう。……でも」
母はチラ、と外にいる車に目を向けた。
「誰かいるの? 一緒に入ってもらう?」
「いいの。あなたに会いたくて急いで来たけど、ちょっと行くところがあるから……」
車を見ると運転席に男が乗っていて、ちらちらとこちらを見ていた。今の恋人だろうか。母は椅子にかけることもせず話を続けた。
「天、お店は上手くやれてるのね。しかも一人で……」
「正直、大変だったよ。まだ高校生だったし店も閉めようかと思ったけど、閉めたところで生活に困るし、高校辞めて手探りのまま経営始めた。まあ、小さい頃から母さんの手伝いしてたから花の扱いには慣れてたし、色んな人に助けてもらいながらナントカやってる」
「オンラインもしてるのね。色々やってて本当にすごいわ」
「まあ……、俺の話より母さんは今までどこにいたの」
「……お付き合いしてる人がね、その……病気で療養に行ってて。……付いて行ったの」
母は俺とは目を合わせず、視線も定まらない。親指をくるくると回すのは都合が悪いことがある証拠だ。その話が嘘か本当かは知らないし、それにしたって連絡くらい寄越せよとも思うが、母が戻って来たことのほうが俺には重要だったのだ。また一緒に暮らせる、いつ母が帰ってきてもいいように店を続けて来た甲斐があった。そう思ったのだ、この時は。
そして母は俺の両手を包みながら言った。
「天、お願いがあるの」
「なに」
「お金を貸してくれない?」
「……は?」
「さっき言ったでしょ。付き合っている人が病気なの。お金が必要なの。少しでいいから貸してくれないかしら」
「いくら」
「わたし名義の通帳と印鑑がまだあったでしょ。それを返して欲しいの」
胸がざわつく。はっきりと訴えてくるその声で、最初からそれが目的だったのだと悟った。ただ、俺の心はまだそれを信じたくない。
「……あの通帳は店の通帳だよ。『母さん個人』の通帳は既に持ってるはずだよ。悪いけど、あれは渡せない」
「ちょっと借りるだけよ。ねっ?」
「なに言ってんだよ。仕事用の通帳から勝手に引き出したらあとでまずいことになるのは母さんが一番分かってるんじゃないのか。経費にするにしても領収書がないと認めてもらえないんだよ。いくら必要なんだよ」
「五百……いえ、三百でいいわ」
「そんな大金、一体何に使うつもり。まさかあの車の男とヤバイことでもやってるんじゃないだろうな」
と言って、顎で車を指した。母は下唇を噛んだ。
「言っとくけど今、店の名義は俺だからね。金の使い道をちゃんと教えてくれないと渡せないし、証拠がないと信じられないよ」
ぐっ、と言葉を詰まらせた母は歯を食いしばって俯いた。なんでもいいからそれらしい理由を言って欲しい。幻滅させないで欲しい。だが、母から出て来た言葉は俺を更に絶望させるものだった。
「随分えらそうな口を叩くわね! わたしが店を残してやったから今、アンタがやっていけてるんでしょう!」
目が飛び出る勢いで見開いてそう叫ぶ母に驚いてしまった。
「わたしはねぇ! 嫌だったのよ、何もかも! こんな冴えない街で父の花屋を継いで! たいした稼ぎになりもしない、肌は荒れるし、体力は削られるし、早朝から深夜まで花、花、花! 枯れれば臭いし役にも立たない。花なんか売って何になるのよ!」
「お……れは、花が好きだから、この店を潰したくないから継いだだけだ」
「っそ。でもわたしは花なんか嫌いだわ。店の通帳も、もともとはわたしのお金でしょ。返してちょうだい。こんな店、潰せばいいのよ。あんたももう成人してるんだから、どこでだって働けるでしょう」
厚かましく差し出してきた母の手の平を、俺は思いきりはたいた。
「ここはもう俺の店なんだよ! それ以上言うな!」
腹の底からそう叫んでいた。今まで生きてきて怒鳴ったことなんかなかった。自分でも信じられないくらいの罵声が次々と溢れた。
「何が残してやった、だ! いい年して男にうつつ抜かして、息子を置いて黙って消えたかと思えば今度は金かよ! 最低な女だな! てめーの尻拭いをしてやったのは俺なんだよ!」
「わたしだってもっと早く妊娠に気付いていれば、アンタなんか産まなかったわよ! 産んで育ててやっただけでも感謝しなさいよねェ!」
本当は小さい頃から気付いていたのだ。母親は、俺を好きで産んだんじゃないのだろうと。そして邪魔で仕方がないのだと。だから少ない時間でも無理やり余所で男を作って俺との時間を減らしたのだ。出て行ったのだって、おそらくずっと考えていたことだったに違いない。せめて自分でギリギリ生活できる歳になるまでは……と我慢していたのだろう。今更戻ってきても一緒に暮らせるわけがないのは分かっている。分かっているけど、少しは俺を想っていたと言って欲しかった。
俺はこれ以上ない怒りと憎しみに、我を忘れて母親に当たり散らした。体を押して出口に追いやる。
「てめーなんかに貸す金はねぇよ! さっさと出て行け! 二度と帰って来んな!」
「なんて子……! ちょっと、まだ終わってないわよ!」
「話すことなんかない! お前の顔も見たくないし声も聞きたくない! お前なんか母親でもなんでもない! 失せろ!!」
俺は近くにあった切り花を手当たり次第に母親に投げつけた。最後は水の入ったバケツを思い切り蹴り飛ばす。母親は何か言い返していたが、頭に血が昇り過ぎて何を言ったのか聞こえなかった。逃げるように車に乗り込み、そして急発進して走り去った。車はあっという間に小さくなった。
足元に茎がポッキリと折れたカーネーションが落ちている。そういえば今日は母の日だっけ。客には「お母さんに感謝を伝えよう」なんて謳い文句とともに花を売りながら、当の自分は罵声を浴びせて追い出した。
俺は花が好きだ。甘い香りも鮮やかな色に癒されて、大事にすればするだけ応えてくれる。店がなかったら俺はとっくに死んでいた。花があったから今まで生きてこられた。花のように美しい母が好きだった。そして花があるから、いつか母親が戻ってくるんじゃないかと待っていたのに。
――ああ、今、分かった。
俺が何故、恵一さんに美紀さんを愛していると証明して欲しかったか。
裏切られても終わらない愛が本当にあるのか知りたかったのだ。愛は修復できるのか見せて欲しかったのだ。愛され方が分からないから。
ゆっくりと近付いてくるローファーの音。店の前で立ち尽くす俺の横で、足が止まった。
「……きみは……花屋だろう」
「………だから、なんだよ」
「そんな風にしたら、花が可哀想なんじゃないのか」
可哀想。可哀想だ。蹴散らされ、手折られ、放置されて。でも、どうでもいい。
恵一さんは足元に落ちているカーネーションを拾って俺に差し出したが、俺は顔を背けて拒否した。
「今日は帰ってもらっていいかな」
「きみが帰れというなら帰るけど、何か手伝えることがあるなら言ってくれ」
「ないよ。あんたも本当は関わりたくないだろ。偽善はいらない」
「俺は偽善者かもしれないけど……」
「……」
「きみが花を乱暴に扱うのを見るのは悲しい」
もう一度カーネーションを差し出された。瞬間、今度は涙が溢れて止まらない。そこが外であるにも関わらず、俺は声を上げて子どものように泣いた。恵一さんに頭を抱えられ、胸に寄りかかる。どうせ慰めたいなんて思ってないんだろ。目の前で泣いてるから、どうしたらいいか分からないからとりあえず傍にいるんだろ。腕がぎこちないんだ。戸惑ってることくらい丸分かりなんだよ。
だけどそのぎこちなさが嬉しくて、俺は泣き止むまで恵一さんの腕に甘えた。
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恵一さんから正式に依頼が来たのは翌日のことだった。紹介されたのは木下さんという俺とそう歳の変わらない若い夫婦だ。挙式をするのはまだ先なので本格的な打ち合わせは未定だが、花屋を見てみたいからと一週間後に店に来ることになっている。恵一さんはその日は来ないけれど、「母の日のアレンジメントはまだ間に合うか」と電話で聞かれた。
「間に合いますよ。予算はありますか?」
『なるべく華やかにしてほしい。金額は問わない』
最後に「うちの後輩をよろしく」と付け足されたので、この依頼は恵一さんなりの「御礼」なのだろう。どちらかと言えば礼をするのは仕事を貰った俺なのに、恵一さんの人の好さはどこまで本気なのかと不思議になってくる。
「受け取りはいつですか?」
『できれば東京の実家に送ってもらいたいんだけど、かまわないかな。当日の日曜日に直接支払いに行くよ』
少なくともあと一回は恵一さんに会えることに、俺はひそかに楽しみにしているのだった。
母の日当日は、午前中を中心に子どもから大人までがカーネーションを求めて店にやってきた。混雑はしないが、少人数がパラパラとやってくるのでひと息つく暇もない。夕方頃になるとカーネーションもほぼほぼ捌けて客足も落ち着いた。西の空が赤く色付き始めて恵一さんがまだ来てないことに気付く。けれども、あの人のことだからどうせ忙しい時間は避けようとか考えていたに違いない。あの律儀な人が支払いを約束を忘れるなんてことはないはずなので、じきに現れるだろう。
俺は日中とは打って変わって静かになった店内をほうきで掃除しながら、恵一さんが来るのを待った。しばらくして黒のセダンが店の前で停まった。恵一さんかと思ったが、あの人の車は確か白のインプレッサだ。お客かな、と車内から人が出て来るのを待っていたが、なかなか出てこない。こちらから近付くとようやく助手席から人が降りた。その人物は、
「……天」
内巻きのセミロング、襟ぐりの開いたニットにひざ下のタイトスカート……。歩くと地面に穴が空きそうなほど細いピンヒール。あの真っ赤な口紅を覚えている。
「か……かあさん……?」
少しふくよかになったものの、それでもくびれを維持した完璧なスタイルだ。とても五十が近いとは思えないほど若々しく、かつて美人で羨ましいと言われて誇らしかった、俺の母親が、そこにいた。母親は俺の顔を見るなり涙を流し、「ごめんね、ごめんね」と声を震わせた。
俺は呆然と立ち尽くしていた。心の中では様々な感情があふれ出す。
どうしていきなり出て行ったのか、どうして俺を置いて行ったのか、今までどこにいて何をしていたのか、なぜ何も連絡をくれなかったのか。俺がどういう想いで店を継いだか、どういう気持ちで過ごしていたか、考えたことはあるのか。
真っ先に湧いたのは怒りと憎しみの感情。けれどもそのあとに「会いたかった」という気持ちがすべてを飲み込んでしまい、俺は無言で駆け寄ると、自分より小さくなった母に抱き付いた。
「……ど、どうして」
「ごめんね、天……お母さんを許してくれる……?」
母は事情の説明を一切せずに、ただ俺に許しを求めた。本当は罵ってやりたい。わけを聞きたい。だけど今はとにかく帰ってきてくれたという喜びのほうが大きくて、俺も何も訊ねなかった。
「わたしのお店、まさか継いでくれてるなんて思わなかったわ」
「……大変だったけど、店は楽しいよ。だけど、どうして急に戻って来たの」
「ネットでね……偶然見つけたの。誰かの花屋のレビューを書いた記事を見つけて、タグにウチの花屋の名前があったから、もしかしてと思って。写真を見て、いてもたってもいられなくて戻って来たのよ」
「思い出してくれて嬉しい。あ、喉乾いてない? 今日はもう早めに店を閉めるから家に帰ってゆっくり話そう」
「ええ、ありがとう。……でも」
母はチラ、と外にいる車に目を向けた。
「誰かいるの? 一緒に入ってもらう?」
「いいの。あなたに会いたくて急いで来たけど、ちょっと行くところがあるから……」
車を見ると運転席に男が乗っていて、ちらちらとこちらを見ていた。今の恋人だろうか。母は椅子にかけることもせず話を続けた。
「天、お店は上手くやれてるのね。しかも一人で……」
「正直、大変だったよ。まだ高校生だったし店も閉めようかと思ったけど、閉めたところで生活に困るし、高校辞めて手探りのまま経営始めた。まあ、小さい頃から母さんの手伝いしてたから花の扱いには慣れてたし、色んな人に助けてもらいながらナントカやってる」
「オンラインもしてるのね。色々やってて本当にすごいわ」
「まあ……、俺の話より母さんは今までどこにいたの」
「……お付き合いしてる人がね、その……病気で療養に行ってて。……付いて行ったの」
母は俺とは目を合わせず、視線も定まらない。親指をくるくると回すのは都合が悪いことがある証拠だ。その話が嘘か本当かは知らないし、それにしたって連絡くらい寄越せよとも思うが、母が戻って来たことのほうが俺には重要だったのだ。また一緒に暮らせる、いつ母が帰ってきてもいいように店を続けて来た甲斐があった。そう思ったのだ、この時は。
そして母は俺の両手を包みながら言った。
「天、お願いがあるの」
「なに」
「お金を貸してくれない?」
「……は?」
「さっき言ったでしょ。付き合っている人が病気なの。お金が必要なの。少しでいいから貸してくれないかしら」
「いくら」
「わたし名義の通帳と印鑑がまだあったでしょ。それを返して欲しいの」
胸がざわつく。はっきりと訴えてくるその声で、最初からそれが目的だったのだと悟った。ただ、俺の心はまだそれを信じたくない。
「……あの通帳は店の通帳だよ。『母さん個人』の通帳は既に持ってるはずだよ。悪いけど、あれは渡せない」
「ちょっと借りるだけよ。ねっ?」
「なに言ってんだよ。仕事用の通帳から勝手に引き出したらあとでまずいことになるのは母さんが一番分かってるんじゃないのか。経費にするにしても領収書がないと認めてもらえないんだよ。いくら必要なんだよ」
「五百……いえ、三百でいいわ」
「そんな大金、一体何に使うつもり。まさかあの車の男とヤバイことでもやってるんじゃないだろうな」
と言って、顎で車を指した。母は下唇を噛んだ。
「言っとくけど今、店の名義は俺だからね。金の使い道をちゃんと教えてくれないと渡せないし、証拠がないと信じられないよ」
ぐっ、と言葉を詰まらせた母は歯を食いしばって俯いた。なんでもいいからそれらしい理由を言って欲しい。幻滅させないで欲しい。だが、母から出て来た言葉は俺を更に絶望させるものだった。
「随分えらそうな口を叩くわね! わたしが店を残してやったから今、アンタがやっていけてるんでしょう!」
目が飛び出る勢いで見開いてそう叫ぶ母に驚いてしまった。
「わたしはねぇ! 嫌だったのよ、何もかも! こんな冴えない街で父の花屋を継いで! たいした稼ぎになりもしない、肌は荒れるし、体力は削られるし、早朝から深夜まで花、花、花! 枯れれば臭いし役にも立たない。花なんか売って何になるのよ!」
「お……れは、花が好きだから、この店を潰したくないから継いだだけだ」
「っそ。でもわたしは花なんか嫌いだわ。店の通帳も、もともとはわたしのお金でしょ。返してちょうだい。こんな店、潰せばいいのよ。あんたももう成人してるんだから、どこでだって働けるでしょう」
厚かましく差し出してきた母の手の平を、俺は思いきりはたいた。
「ここはもう俺の店なんだよ! それ以上言うな!」
腹の底からそう叫んでいた。今まで生きてきて怒鳴ったことなんかなかった。自分でも信じられないくらいの罵声が次々と溢れた。
「何が残してやった、だ! いい年して男にうつつ抜かして、息子を置いて黙って消えたかと思えば今度は金かよ! 最低な女だな! てめーの尻拭いをしてやったのは俺なんだよ!」
「わたしだってもっと早く妊娠に気付いていれば、アンタなんか産まなかったわよ! 産んで育ててやっただけでも感謝しなさいよねェ!」
本当は小さい頃から気付いていたのだ。母親は、俺を好きで産んだんじゃないのだろうと。そして邪魔で仕方がないのだと。だから少ない時間でも無理やり余所で男を作って俺との時間を減らしたのだ。出て行ったのだって、おそらくずっと考えていたことだったに違いない。せめて自分でギリギリ生活できる歳になるまでは……と我慢していたのだろう。今更戻ってきても一緒に暮らせるわけがないのは分かっている。分かっているけど、少しは俺を想っていたと言って欲しかった。
俺はこれ以上ない怒りと憎しみに、我を忘れて母親に当たり散らした。体を押して出口に追いやる。
「てめーなんかに貸す金はねぇよ! さっさと出て行け! 二度と帰って来んな!」
「なんて子……! ちょっと、まだ終わってないわよ!」
「話すことなんかない! お前の顔も見たくないし声も聞きたくない! お前なんか母親でもなんでもない! 失せろ!!」
俺は近くにあった切り花を手当たり次第に母親に投げつけた。最後は水の入ったバケツを思い切り蹴り飛ばす。母親は何か言い返していたが、頭に血が昇り過ぎて何を言ったのか聞こえなかった。逃げるように車に乗り込み、そして急発進して走り去った。車はあっという間に小さくなった。
足元に茎がポッキリと折れたカーネーションが落ちている。そういえば今日は母の日だっけ。客には「お母さんに感謝を伝えよう」なんて謳い文句とともに花を売りながら、当の自分は罵声を浴びせて追い出した。
俺は花が好きだ。甘い香りも鮮やかな色に癒されて、大事にすればするだけ応えてくれる。店がなかったら俺はとっくに死んでいた。花があったから今まで生きてこられた。花のように美しい母が好きだった。そして花があるから、いつか母親が戻ってくるんじゃないかと待っていたのに。
――ああ、今、分かった。
俺が何故、恵一さんに美紀さんを愛していると証明して欲しかったか。
裏切られても終わらない愛が本当にあるのか知りたかったのだ。愛は修復できるのか見せて欲しかったのだ。愛され方が分からないから。
ゆっくりと近付いてくるローファーの音。店の前で立ち尽くす俺の横で、足が止まった。
「……きみは……花屋だろう」
「………だから、なんだよ」
「そんな風にしたら、花が可哀想なんじゃないのか」
可哀想。可哀想だ。蹴散らされ、手折られ、放置されて。でも、どうでもいい。
恵一さんは足元に落ちているカーネーションを拾って俺に差し出したが、俺は顔を背けて拒否した。
「今日は帰ってもらっていいかな」
「きみが帰れというなら帰るけど、何か手伝えることがあるなら言ってくれ」
「ないよ。あんたも本当は関わりたくないだろ。偽善はいらない」
「俺は偽善者かもしれないけど……」
「……」
「きみが花を乱暴に扱うのを見るのは悲しい」
もう一度カーネーションを差し出された。瞬間、今度は涙が溢れて止まらない。そこが外であるにも関わらず、俺は声を上げて子どものように泣いた。恵一さんに頭を抱えられ、胸に寄りかかる。どうせ慰めたいなんて思ってないんだろ。目の前で泣いてるから、どうしたらいいか分からないからとりあえず傍にいるんだろ。腕がぎこちないんだ。戸惑ってることくらい丸分かりなんだよ。
だけどそのぎこちなさが嬉しくて、俺は泣き止むまで恵一さんの腕に甘えた。
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