山城 天 5
***
恵一さんから受けた忠告など忘れて、俺は相変わらず仕事と気ままな恋愛に明け暮れていた。
「聞いてよ、天。わたし浮気なんかしてないのに、彼氏ってば信じてくれないのよ」
こちらが仕事中であるにも関わらず、店に来た女友達に愚痴を聞かされる。友達、といっても一応、客だ。店に通ってくれるうちに親しくなった。正直、接客中は控えてもらいたいが、常連を無碍にもできない。接客の合間に「そうか、そうか」と彼女の愚痴に耳を傾けていた。
仏花を買いに来たおばあさんが躓いたので、身体を支える。
「ありがとうねぇ、思うように足が上がらなくてね」
「コケた拍子に綺麗な手が骨折でもしたら大変だよ」
「こんな皺くちゃでシミだらけの手なんて綺麗でもなんでもないよ」
「月命日に必ず旦那さんのお墓に花を生ける手でしょ。その手が怪我したら旦那さんも悲しむよ」
「そう言ってくれるからお墓参りも行きがいがあるよ」
おばあさんを見送ったかと思えば、再び女友達の愚痴を聞かされる。この日は少し疲れていたのもあって、時折上の空だったのを指摘された。
「天、わたしの話聞いてないんでしょ。おばあちゃんが躓くところは見てたのに、わたしが泣いてても何も言ってくれないんだね」
「ちゃんと聞いてるよ。はい、ガーベラ。俺は愚痴よりも果歩ちゃんの明るい話が聞きたいんだけどね」
「……でも今は愚痴を言いたいの」
「彼女の話を信じない馬鹿な彼氏なんか、今は放っておけばいいよ」
彼女は不貞腐れた面持ちで俺とガーベラを交互に見、口角を上げたかと思えば今度はパッと笑ってガーベラを俺の指から抜き取った。
「そうね、ちょっと気分転換しようかな! ね、明日の夜空いてる? ご飯行こうよ」
「九時くらいからなら空いてるよ」
約束通り、翌日の夜九時には仕事を終えられたので予約してくれたイタリアンレストランに行った。彼女は俺と同い年でどこかの会社で事務をしている。先週給料が入ったらしく、どうしてもご馳走したいというのでお言葉に甘えることにした。
席につくなり始まるのは仕事の愚痴。給料はいいらしいけど、職場の堅苦しい雰囲気と社員とウマが合わなくて会う度に辞めたいとぼやいている。ひとしきり上司や同僚の悪口を聞いたあとは男の話だ。
「結婚はまだいいかなって思うのよ。でもいつかはしたいじゃん? そのためにはそろそろちゃんとした人を見つけないとって思うの」
ちゃんとした人、ってどんな人だろう。優良企業に勤めているとか、家庭的とか。
「とりあえず年収はあんまり気にしないかなー。少なすぎても困るけど。料理はバリバリできなくてもいいけど、ある程度は作れる人がいいな。あと子ども好きな人で~、優しくて~」
このご時世、たぶんそんな人はなかなかいない。「平均、または平均より少し上」の人間が一番稀少なのだ。まあ、俺には縁のない話だ。結婚願望なんて更々ないから。
それにしても俺はやっぱり疲れているかもしれない。卒業、入学シーズンから今まで、毎年この時期は目が回るほど忙しい。来週は母の日だからあと一週間はバタつくだろう。明日も市場に行かないといけないし、このところあまり寝ていないから早く帰りたい。
いつもならどんなに疲れていても女の子と一緒なら全力で楽しむのだけど、この日はどういうわけか会話に集中できなかった。時々俯いてあくびを堪える。
「天、どうしたの?」
「えっ、どうもしないよ」
「なんか今日は元気ないわね。もう出る? どこかで休もうか」
つまり朝帰りを所望のようだ。でも俺はそんなつもりはないし、今日は家に帰ってひとりで休みたい。
「また彼氏と喧嘩させちゃうからさ」
「それが昨日別れたのよ、電話で! だから全然大丈夫」
「うーん、でも」
と、そこで俺の背後に目をやった彼女が、みるみる顔を青くして引きつらせた。不審に思って振り返ると、お洒落なレストランには似つかわしくない、筋肉質のいかつい男が立っていた。ああ、やってしまったなと悟った瞬間だった。
「なんでここにいるのよ!」
「お前がここに入ってくのが見えたからつけたんだよ。どういうことだよ! 一方的に別れるだのなんだの喚いたかと思えば、こんな弱そうな男と! しかもどこに行くつもりだったって!?」
「ど、どこにも行かないわよ!」
「おいコラお前!」
「ハイ」
巻き込まれておきながら、こんな漫画のような修羅場が本当にあるんだなと俺は極めて冷静だった。
「お前はコイツのなんなんだよ」
「友達の花屋です」
「何ソレェ!? 友達なの!?」
「本当のことをハッキリ言え!」
男にテーブルに拳を打ち付けたら、ガラス瓶に生けてあったラナンキュラスが落下した。
「静かにしてもらえませんか。花が落ちましたけど」
床に目をやった男は、盛大な舌打ちをしながら落ちたラナンキュラスを踏み躙った。
「花を踏むな!」
「花がなんだ! 今、コイツと花とどっちが大事なんだ!」
「花だよ!」
「花なのォ!?」
信じられない! と彼女は怒りだして、ぷりぷりと去っていく。後を追おうとした男は思い出したように俺の襟ぐりを掴んで、殴っていった。ざわつく店内の視線がすべて俺に集中する。床に尻をついた俺は、手元にある潰れたラナンキュラスを拾うとガラス瓶に戻した。駆け寄って来た店員に「せっかく綺麗に咲いてたのにすみません」という言葉とともにラナンキュラスを渡して店をあとにした。
何が全然大丈夫、だ。別れたと思っているのは自分だけだったというパターンか。きっとこれまでも同じようなことを繰り返してきたんだろう。そりゃ彼氏に信じてもらえなくても仕方がない。こちとら食事に誘われただけなのに誤解されて殴られるわ、結局支払いは俺がするわで最悪だ。最悪だけど、苛々してもどうしようもない。あのまま彼氏と仲直りしてくれるなら良しとしよう。思わせぶりな態度を取っていた俺も悪い。むしろ今まで修羅場に出くわさなかったのが幸運だったのだ。こうなったのは仕方がないことだ。
……仕方がない、とは分かっているのに、この虚しさと疲労感はなんなんだろう。広く浅く、常に相手が笑ってくれることを考えるのが俺の生きがいであり、愛し方だ。誰かの一番にならなくていい、自分の一番も作らなくていい。俺がこの人の幸せを手助けした、という実感さえあればそれで満足だった。これまでだってそんな付き合いに虚しさを抱いたことなんかなかったのに。
――たくさんの女の子に元気をあげることで、自分の中の何かを紛らわそうとしているんじゃないかと俺は思うんだけど。――
恵一さんがあんなことを言うからだ。
不器用なくせに人の恋愛観に口を出してきて、過去のことを語る羽目になったから、情緒がおかしくなったんだ。
――そういえばあの人にも殴られたっけ。
今頃頬が痛みだして、俺は左頬に手を当てた。熱をもってじんじんしている。きっと真っ赤に腫れているに違いない。いくら夜でもこんな顔で街中を歩くのは恥ずかしい。もっとも、誰も俺のことなんか見てないだろうけど。……そうだよ。
誰モ俺ナンカ見テナイ。
「……山城くん」
聞き覚えのある男の声を、雑音の中からはっきりと聞いた。思わず顔を上げてきょろきょろと声の主を探すと、横断歩道の真ん中で反対側へ歩いていく恵一さんを見た。目は合ったが信号が点滅しだしたので、それぞれ横断歩道を渡り切った。信号はすぐに赤に変わり、車が四車線を行き交う。横断歩道の向こう側は見えない。
まあいいか。わざわざ戻って挨拶をするほどでもないし、向こうは会社の人らしきスーツの男と一緒だったから話をする暇なんかないだろう。気を取りなして帰路に着いて、その辺でタクシーを拾おうかとバス停で立ち止まった時だ。カツカツと誰かが走って来るローファーの音がして、ほどなくして「やっぱり」と声を掛けられた。息を切らせた恵一さんだった。
「な、なんで」
「さっきすれ違った時、変な感じだったから。どうしたんだ、その顔」
レストランでの出来事を簡単に話したら笑われた。てっきり軽蔑されると思っていたのに。
「ちゃんと歯は食いしばったんだな」
恵一さんは「ちょっと待ってて」と残すと、商店街のほうへ向かっていった。十五分ほど経って戻ってきたと思えば冷却シートを渡される。
「いや、いいのに」
「早く冷やさないと治りが悪くなるぞ。きみは接客業なんだから殴られた顔なんか見られたくないだろ?」
横断歩道ですれ違っただけで、用もないのに追い掛けて来て、無様な理由で殴られた男のためにわざわざドラッグストアまで行って。一緒にいた人はどうしたんだよ。俺なんかにかまう暇があるのか。知ってるんだよ、アンタの優しさは偽善だって。それでも俺の手は素直にそれを受け取ってしまう。
帰りの交通手段を聞かれてタクシーを拾うと言うと、車で送ってやると申し入れがあった。
「アンタにそこまでしてもらう理由がないよ。俺はテキトーに帰れるから。コレありがとう」
親切にしてもらっておきながら、なかば強引に追い払う形で恵一さんと別れた。恵一さんは元来た道を歩き出したが、チラチラと振り返ってはこちらの様子を窺っている。しっしっ、と手を振り払うと、もう振り向かなくなった。再び一人になったが帰る気になれず、バス停のベンチに腰を下ろした。さっき別れたばかりだからまだその辺にいるはずだ。あと十分くらいしたら帰ろう。そう考えながら貰った冷却シートを開封するかしないかで迷っていたら、
「さっさと貼れよ」
いや、なんで戻って来るんだよ。お人好しなのかお節介なのか馬鹿なのか分からない。
「たかが女に振られて男に殴られたくらいで落ち込むなんて、らしくないんじゃないのか」
恵一さんは俺の隣に座る。
「落ち込んではないけど、ただ疲れた。そして振られたわけじゃない」
「だからほどほどにしろと言っただろ。色んな人間にいい顔するから誤解されるんだよ」
「でもそれをやめたら俺はこれからどうすればいいのかな。恵一さんは相手を一人に絞れと言うけど、誰に絞ればいいのさ。絞ったところで幸せになれるとも限らないだろ」
「……きみは独りになるのが怖いんだな」
見当違いなことを言われてムッとした。「はあ?」と声を上げたが、恵一さんは表情を変えない。
「そうやってたくさん繋がりを持っておかないと不安なんだろう」
「ふん、結婚しても浮気されて離婚して結局独りでいる恵一さんは、さぞかし逞しいんでしょうね」
またやってしまった。言ってから気付いても遅い。案の定恵一さんは顔をしかめたまま沈黙していた。
「……すみません、今のは俺が悪かったです」
「もういいよ。きみの所為じゃない。それに俺は逞しくないし、孤独が嫌で結婚に逃げたところもあるから、人のことは言えないな」
「独りは嫌なの?」
「そりゃあ、誰かと喜怒哀楽を共有できたらいいなと思うよ」
今までさんざん恵一さんのことを馬鹿にしてきたけど、きっと俺も誰かを本気で愛したことなんかないし、愛が何かなんて分からないんだろう。分からないから闇雲に手を出した。この急な虚無感と疲労感は、そういう関係を改めよということなのかもしれない。
「明日、ラナンキュラス持って行こうかな」
「どこに」
「さっきのレストランに。男のほうがテーブルに飾ってたのを踏みつぶしちゃってね。綺麗に咲いてたのに可哀想なことした」
「花のことは気にするんだな」
「花は好きだよ。大事にするだけ綺麗に咲くから。花は裏切らない」
「……きみに頼みがあるんだけど」
「なに?」
「フラワーコーディネート? っていうのはできるのかな。このあいだブーケをあげた後輩、まだ挙式をしてなくて秋に式をするらしいんだけど、ブーケと披露宴会場のフラワーコーディネートしてくれる人を探してるんだって。式場の花屋は好みじゃないらしくて。それで、きみのブーケをとても気に入ってたから、できればきみに……ってことなんだけど、お願いできるのかな」
まさか恵一さんに仕事の依頼をされるとは思わず、目を丸くした。いくら俺が花屋だからと言っても、元妻の浮気相手に何度も関わるなんてこの人は本当に馬鹿なのかもしれない。
「できるけど、俺でいいのかな」
「俺もはっきり紹介できるとは言ってないんだ。正直迷ってた。でも見る限りきみは仕事はきちんとしているし、何より花を大事にしてるようだから仕事に関しては信頼できそうだ」
あくまで仕事相手としての関係らしい。それなら俺も幾分気が楽だ。
「いいですよ。打ち合せ日時など希望を聞いておいていただけますか」
「明日にでも聞いておく。ありがとう」
それから俺たちはタクシーが捕まるまでベンチに座ったまま他愛ない話をした。仕事のこと、趣味のこと、日常のこと。あんな出会い方でなければいい友達になれたのに、なんて思う俺はおかしいだろうか。
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恵一さんから受けた忠告など忘れて、俺は相変わらず仕事と気ままな恋愛に明け暮れていた。
「聞いてよ、天。わたし浮気なんかしてないのに、彼氏ってば信じてくれないのよ」
こちらが仕事中であるにも関わらず、店に来た女友達に愚痴を聞かされる。友達、といっても一応、客だ。店に通ってくれるうちに親しくなった。正直、接客中は控えてもらいたいが、常連を無碍にもできない。接客の合間に「そうか、そうか」と彼女の愚痴に耳を傾けていた。
仏花を買いに来たおばあさんが躓いたので、身体を支える。
「ありがとうねぇ、思うように足が上がらなくてね」
「コケた拍子に綺麗な手が骨折でもしたら大変だよ」
「こんな皺くちゃでシミだらけの手なんて綺麗でもなんでもないよ」
「月命日に必ず旦那さんのお墓に花を生ける手でしょ。その手が怪我したら旦那さんも悲しむよ」
「そう言ってくれるからお墓参りも行きがいがあるよ」
おばあさんを見送ったかと思えば、再び女友達の愚痴を聞かされる。この日は少し疲れていたのもあって、時折上の空だったのを指摘された。
「天、わたしの話聞いてないんでしょ。おばあちゃんが躓くところは見てたのに、わたしが泣いてても何も言ってくれないんだね」
「ちゃんと聞いてるよ。はい、ガーベラ。俺は愚痴よりも果歩ちゃんの明るい話が聞きたいんだけどね」
「……でも今は愚痴を言いたいの」
「彼女の話を信じない馬鹿な彼氏なんか、今は放っておけばいいよ」
彼女は不貞腐れた面持ちで俺とガーベラを交互に見、口角を上げたかと思えば今度はパッと笑ってガーベラを俺の指から抜き取った。
「そうね、ちょっと気分転換しようかな! ね、明日の夜空いてる? ご飯行こうよ」
「九時くらいからなら空いてるよ」
約束通り、翌日の夜九時には仕事を終えられたので予約してくれたイタリアンレストランに行った。彼女は俺と同い年でどこかの会社で事務をしている。先週給料が入ったらしく、どうしてもご馳走したいというのでお言葉に甘えることにした。
席につくなり始まるのは仕事の愚痴。給料はいいらしいけど、職場の堅苦しい雰囲気と社員とウマが合わなくて会う度に辞めたいとぼやいている。ひとしきり上司や同僚の悪口を聞いたあとは男の話だ。
「結婚はまだいいかなって思うのよ。でもいつかはしたいじゃん? そのためにはそろそろちゃんとした人を見つけないとって思うの」
ちゃんとした人、ってどんな人だろう。優良企業に勤めているとか、家庭的とか。
「とりあえず年収はあんまり気にしないかなー。少なすぎても困るけど。料理はバリバリできなくてもいいけど、ある程度は作れる人がいいな。あと子ども好きな人で~、優しくて~」
このご時世、たぶんそんな人はなかなかいない。「平均、または平均より少し上」の人間が一番稀少なのだ。まあ、俺には縁のない話だ。結婚願望なんて更々ないから。
それにしても俺はやっぱり疲れているかもしれない。卒業、入学シーズンから今まで、毎年この時期は目が回るほど忙しい。来週は母の日だからあと一週間はバタつくだろう。明日も市場に行かないといけないし、このところあまり寝ていないから早く帰りたい。
いつもならどんなに疲れていても女の子と一緒なら全力で楽しむのだけど、この日はどういうわけか会話に集中できなかった。時々俯いてあくびを堪える。
「天、どうしたの?」
「えっ、どうもしないよ」
「なんか今日は元気ないわね。もう出る? どこかで休もうか」
つまり朝帰りを所望のようだ。でも俺はそんなつもりはないし、今日は家に帰ってひとりで休みたい。
「また彼氏と喧嘩させちゃうからさ」
「それが昨日別れたのよ、電話で! だから全然大丈夫」
「うーん、でも」
と、そこで俺の背後に目をやった彼女が、みるみる顔を青くして引きつらせた。不審に思って振り返ると、お洒落なレストランには似つかわしくない、筋肉質のいかつい男が立っていた。ああ、やってしまったなと悟った瞬間だった。
「なんでここにいるのよ!」
「お前がここに入ってくのが見えたからつけたんだよ。どういうことだよ! 一方的に別れるだのなんだの喚いたかと思えば、こんな弱そうな男と! しかもどこに行くつもりだったって!?」
「ど、どこにも行かないわよ!」
「おいコラお前!」
「ハイ」
巻き込まれておきながら、こんな漫画のような修羅場が本当にあるんだなと俺は極めて冷静だった。
「お前はコイツのなんなんだよ」
「友達の花屋です」
「何ソレェ!? 友達なの!?」
「本当のことをハッキリ言え!」
男にテーブルに拳を打ち付けたら、ガラス瓶に生けてあったラナンキュラスが落下した。
「静かにしてもらえませんか。花が落ちましたけど」
床に目をやった男は、盛大な舌打ちをしながら落ちたラナンキュラスを踏み躙った。
「花を踏むな!」
「花がなんだ! 今、コイツと花とどっちが大事なんだ!」
「花だよ!」
「花なのォ!?」
信じられない! と彼女は怒りだして、ぷりぷりと去っていく。後を追おうとした男は思い出したように俺の襟ぐりを掴んで、殴っていった。ざわつく店内の視線がすべて俺に集中する。床に尻をついた俺は、手元にある潰れたラナンキュラスを拾うとガラス瓶に戻した。駆け寄って来た店員に「せっかく綺麗に咲いてたのにすみません」という言葉とともにラナンキュラスを渡して店をあとにした。
何が全然大丈夫、だ。別れたと思っているのは自分だけだったというパターンか。きっとこれまでも同じようなことを繰り返してきたんだろう。そりゃ彼氏に信じてもらえなくても仕方がない。こちとら食事に誘われただけなのに誤解されて殴られるわ、結局支払いは俺がするわで最悪だ。最悪だけど、苛々してもどうしようもない。あのまま彼氏と仲直りしてくれるなら良しとしよう。思わせぶりな態度を取っていた俺も悪い。むしろ今まで修羅場に出くわさなかったのが幸運だったのだ。こうなったのは仕方がないことだ。
……仕方がない、とは分かっているのに、この虚しさと疲労感はなんなんだろう。広く浅く、常に相手が笑ってくれることを考えるのが俺の生きがいであり、愛し方だ。誰かの一番にならなくていい、自分の一番も作らなくていい。俺がこの人の幸せを手助けした、という実感さえあればそれで満足だった。これまでだってそんな付き合いに虚しさを抱いたことなんかなかったのに。
――たくさんの女の子に元気をあげることで、自分の中の何かを紛らわそうとしているんじゃないかと俺は思うんだけど。――
恵一さんがあんなことを言うからだ。
不器用なくせに人の恋愛観に口を出してきて、過去のことを語る羽目になったから、情緒がおかしくなったんだ。
――そういえばあの人にも殴られたっけ。
今頃頬が痛みだして、俺は左頬に手を当てた。熱をもってじんじんしている。きっと真っ赤に腫れているに違いない。いくら夜でもこんな顔で街中を歩くのは恥ずかしい。もっとも、誰も俺のことなんか見てないだろうけど。……そうだよ。
誰モ俺ナンカ見テナイ。
「……山城くん」
聞き覚えのある男の声を、雑音の中からはっきりと聞いた。思わず顔を上げてきょろきょろと声の主を探すと、横断歩道の真ん中で反対側へ歩いていく恵一さんを見た。目は合ったが信号が点滅しだしたので、それぞれ横断歩道を渡り切った。信号はすぐに赤に変わり、車が四車線を行き交う。横断歩道の向こう側は見えない。
まあいいか。わざわざ戻って挨拶をするほどでもないし、向こうは会社の人らしきスーツの男と一緒だったから話をする暇なんかないだろう。気を取りなして帰路に着いて、その辺でタクシーを拾おうかとバス停で立ち止まった時だ。カツカツと誰かが走って来るローファーの音がして、ほどなくして「やっぱり」と声を掛けられた。息を切らせた恵一さんだった。
「な、なんで」
「さっきすれ違った時、変な感じだったから。どうしたんだ、その顔」
レストランでの出来事を簡単に話したら笑われた。てっきり軽蔑されると思っていたのに。
「ちゃんと歯は食いしばったんだな」
恵一さんは「ちょっと待ってて」と残すと、商店街のほうへ向かっていった。十五分ほど経って戻ってきたと思えば冷却シートを渡される。
「いや、いいのに」
「早く冷やさないと治りが悪くなるぞ。きみは接客業なんだから殴られた顔なんか見られたくないだろ?」
横断歩道ですれ違っただけで、用もないのに追い掛けて来て、無様な理由で殴られた男のためにわざわざドラッグストアまで行って。一緒にいた人はどうしたんだよ。俺なんかにかまう暇があるのか。知ってるんだよ、アンタの優しさは偽善だって。それでも俺の手は素直にそれを受け取ってしまう。
帰りの交通手段を聞かれてタクシーを拾うと言うと、車で送ってやると申し入れがあった。
「アンタにそこまでしてもらう理由がないよ。俺はテキトーに帰れるから。コレありがとう」
親切にしてもらっておきながら、なかば強引に追い払う形で恵一さんと別れた。恵一さんは元来た道を歩き出したが、チラチラと振り返ってはこちらの様子を窺っている。しっしっ、と手を振り払うと、もう振り向かなくなった。再び一人になったが帰る気になれず、バス停のベンチに腰を下ろした。さっき別れたばかりだからまだその辺にいるはずだ。あと十分くらいしたら帰ろう。そう考えながら貰った冷却シートを開封するかしないかで迷っていたら、
「さっさと貼れよ」
いや、なんで戻って来るんだよ。お人好しなのかお節介なのか馬鹿なのか分からない。
「たかが女に振られて男に殴られたくらいで落ち込むなんて、らしくないんじゃないのか」
恵一さんは俺の隣に座る。
「落ち込んではないけど、ただ疲れた。そして振られたわけじゃない」
「だからほどほどにしろと言っただろ。色んな人間にいい顔するから誤解されるんだよ」
「でもそれをやめたら俺はこれからどうすればいいのかな。恵一さんは相手を一人に絞れと言うけど、誰に絞ればいいのさ。絞ったところで幸せになれるとも限らないだろ」
「……きみは独りになるのが怖いんだな」
見当違いなことを言われてムッとした。「はあ?」と声を上げたが、恵一さんは表情を変えない。
「そうやってたくさん繋がりを持っておかないと不安なんだろう」
「ふん、結婚しても浮気されて離婚して結局独りでいる恵一さんは、さぞかし逞しいんでしょうね」
またやってしまった。言ってから気付いても遅い。案の定恵一さんは顔をしかめたまま沈黙していた。
「……すみません、今のは俺が悪かったです」
「もういいよ。きみの所為じゃない。それに俺は逞しくないし、孤独が嫌で結婚に逃げたところもあるから、人のことは言えないな」
「独りは嫌なの?」
「そりゃあ、誰かと喜怒哀楽を共有できたらいいなと思うよ」
今までさんざん恵一さんのことを馬鹿にしてきたけど、きっと俺も誰かを本気で愛したことなんかないし、愛が何かなんて分からないんだろう。分からないから闇雲に手を出した。この急な虚無感と疲労感は、そういう関係を改めよということなのかもしれない。
「明日、ラナンキュラス持って行こうかな」
「どこに」
「さっきのレストランに。男のほうがテーブルに飾ってたのを踏みつぶしちゃってね。綺麗に咲いてたのに可哀想なことした」
「花のことは気にするんだな」
「花は好きだよ。大事にするだけ綺麗に咲くから。花は裏切らない」
「……きみに頼みがあるんだけど」
「なに?」
「フラワーコーディネート? っていうのはできるのかな。このあいだブーケをあげた後輩、まだ挙式をしてなくて秋に式をするらしいんだけど、ブーケと披露宴会場のフラワーコーディネートしてくれる人を探してるんだって。式場の花屋は好みじゃないらしくて。それで、きみのブーケをとても気に入ってたから、できればきみに……ってことなんだけど、お願いできるのかな」
まさか恵一さんに仕事の依頼をされるとは思わず、目を丸くした。いくら俺が花屋だからと言っても、元妻の浮気相手に何度も関わるなんてこの人は本当に馬鹿なのかもしれない。
「できるけど、俺でいいのかな」
「俺もはっきり紹介できるとは言ってないんだ。正直迷ってた。でも見る限りきみは仕事はきちんとしているし、何より花を大事にしてるようだから仕事に関しては信頼できそうだ」
あくまで仕事相手としての関係らしい。それなら俺も幾分気が楽だ。
「いいですよ。打ち合せ日時など希望を聞いておいていただけますか」
「明日にでも聞いておく。ありがとう」
それから俺たちはタクシーが捕まるまでベンチに座ったまま他愛ない話をした。仕事のこと、趣味のこと、日常のこと。あんな出会い方でなければいい友達になれたのに、なんて思う俺はおかしいだろうか。
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