山城 天 4
『今日、美紀さんに会いました。』
トーク履歴から恵一さんのアカウントを探して、それだけのメッセージを送っておいた。意味なんてない。よろしく伝えてねと言われたから、元気そうだったという報告のつもりで送っただけだ。既読にはなったが返信はなく、もしかして余計なお世話だったかなと気付いたところでもう遅い。恵一さんが返信の代わりに店に来たのは、その日の夜のことだった。
「もう閉店なんですけど」
「美紀と会ったんだって?」
その話を聞くためにここまで車を走らせる、本当にマメな男だ。ただ、心なしか機嫌が悪いように見えるのは、
「もしかして美紀と続いてるのか」
どうやらそっちを聞きたかったらしい。
「続いてないよ。アレンジメント教室に花を届けたら偶然会ったんだよ。地元に引っ越すって言ってたぜ」
「なんだ」
恵一さんは溜息を放ち、ネクタイを緩めながらいつもの丸椅子に座った。
「このあいだ一緒に歩いてた女の子と並行して付き合ってるとしたら、また殴ろうかと思ってたよ」
本来俺はそういう付き合い方をするのだけど、というのは言わないでおく。
「なんだかんだ気になるんじゃないか。なんで別れちゃったの」
「結婚生活に疲れたから」
今は疲れているかもしれないけど、そのうち独りでいるのに寂しくなって離婚したことを後悔する日が来るんじゃないだろうか。嫌いで別れたわけじゃないのなら尚更。恵一さんは俺の考えを補足するかのように言った。
「別に嫉妬してるんじゃないんだよ。離婚したことも後悔してない。でも美紀は大事な人には変わりないから、適当な恋愛で傷付いて欲しくないだけだ」
「大丈夫でしょ。なんか雰囲気変わって明るくなってたよ。アンタのことなんか全然引き摺ってなさそうだったし」
今日の売上を計算しながら言ってやった。パソコンの影から苦笑する恵一さんを一瞥する。
「地元に帰るんだって。神奈川で仕事探すって。なんか、今まで頼りない印象だったけど、あの人けっこうしっかりしてるのかもね」
「……そうか。元気そうだったんなら良かったよ」
恵一さんは膝に頬杖をついて屈託なく笑った。昼間の美紀さんといい恵一さんといい、まるで憑き物が落ちたかのような二人の笑顔を見ると、やはりこれが二人にとって最適だったのかもしれない。
「話ってそれだけ?」
「いや、街で呼び止められた理由をまだ聞いてない」
そんなもの俺の方が忘れていた。今となってはどうでもいいので、俺は適当に「カフェの窓から見かけたから」と、あしらった。けれども恵一さんはなかなかしつこい。
「『たいした話じゃないんだけど』の続きが気になって仕方ないんだよ」
最後の会話まで覚えているなんて面倒臭い。観念して正直に話すことにした。
「冬に三人で会ったあと、恵一さんは俺に『きみは色んな女の子に元気を上げることで自分の中の何かを紛らわそうとしている』って言ったでしょ。なんでそう思ったのかなと思って」
「『俺には一人だけを愛するなんて、たぶん無理』っていう言葉に理由がありそうだったから」
「それ俺が言った?」
「自分の言葉に責任持て」
「普段あんまりモノ考えて喋らないんだよね」
自分でも覚えていないのだから、その言葉にそんなに深い意味はない。でも何か理由を付けなければ申し訳ないような気がして、俺は計算に集中するふりをして考えていた。
そしてふと頭の中に浮かんだ顔に、腑に落ちた。
「母親のせいなんだと思う」
「お母さん?」
「俺の母親は恋多き女でさ。たぶん昔から色んな男と付き合ってたんだと思う。父親が誰か分からないまま俺は生まれて、家族は母親だけだった。赤んぼの頃は覚えてないけど、物心ついた時には家にしょっちゅう男が出入りしてたし、ずっと誰かと恋愛してないと気が済まないタチだったんだと思う」
計算の途中でエクセルの動きが悪くなって作業が滞った。
「でも小さい頃からそれが普通なんだと思ってた。別に嫌じゃなかったし。小学生の頃にウチが他の家とは何か違うと気付いたけど、それでグレたり反抗することはなかった。恋愛をしている時の母親はいつも綺麗で明るくて機嫌がよかったから、そんな母親が好きだったんだ」
恵一さんは何も言わずに話を聞いている。
「でも失恋すると機嫌が悪くなって酒を飲んで一晩中泣くんだ。そういう時は話しかけたら怒鳴られる。ほんと鬼の形相でさ。ああいう時の母親は嫌いだった。そしてまた新しい男ができると綺麗になる。そんな母親の傍にいたから、『誰か一人だけのために生きる』っていう概念がないんだ。一人に尽くそうと思ったこともない。こういう話をすると恵一さんを含め大抵引かれるんだけど、俺にとってはこれが恋愛の常識なんだよ」
エクセルの計算と現金が合わないので、もう一度現金を数えることにする。
「……俺みたいな考えの奴は探せばけっこういるもんでね。関係を持つなら同じ価値観の人とだけって決めてる」
美紀さんのことを思い出して「例外を除いて」と加えたら、冷ややかな目で睨まれた。
「……今、お母さんは?」
「さあ。高校生の時に突然いなくなったから、どこにいるのか知らない」
「えっ」
「新しい男と新しい人生歩んでるのかなぁ。それならそれでいいよ」
「恨んだりとかはないのか」
「ないよ。母親のことは好きだから。今となっては若いのに一人で子ども産んで育ててすごいなって感謝してるよ。恋愛くらい好きにしてくれたらいい。それにうちの母親ほんとに美人なんだよね。授業参観に来る度『お前の母ちゃんキレイだな』って言われるのが誇らしかった。女の人って傍にいる人に『綺麗だね』って言われると本当に綺麗になるんだなって子どもながらに思ってたよ。そして綺麗な人は心にもゆとりがあって一緒にいて心地が良い。俺が今、女の人には綺麗でいてもらいたいと思うのはそういうことなんだと思う」
あー、だめだ。計算が合わない、と投げやりになってペンを放り投げる。俺は従業員を雇っていないので準備も片付けも経理もすべて一人でやらなければならない。今日は寝られないかもしれない。
恵一さんは俺の話には深く触れず、何か考えている様子で店の中を見渡していた。ふらふらと心許ない足取りで花を冷やかしていく。
「花屋はいつから?」
「もともと母親の店なんだ。高校途中で辞めて俺が継いだ。……ってかさー、恵一さんエクセル詳しい? 数式が壊れてるみたいなんだよね」
やる気がなくなってエンターキーをパシパシ叩く。部外者に集計表を見せるのは危険極まりないが、この作業が終わるならもうなんでもいい。恵一さんならおかしな真似はしないだろう。恵一さんはおもむろに俺の背後に立った。さりげない手つきでマウスを動かすと、
「このセルだな。でも科目内訳するなら違う式を入れた方が良い」
「どうすればいい?」
内訳の仕方を簡単に説明するだけで恵一さんはすらすらと暗号のような数式を入れていった。エクセルの編集が終わると自動的に計算される。さっきまで合わないと苛々した集計もスムーズに進んだ。
「スゲー、ありがとう! さすがサラリーマン」
聞きたいことを聞いて気が済んだのか、恵一さんは荷物を取り、出口へ向かった。
「話してくれてありがとう。きみは全然態度に出さないけど、これまで大変だったと思う。きみの恋愛観の理由も分かってスッキリした。でも悪いが俺は理解できないし、きみのためにも相手はひとりに絞ったほうがいいんじゃないかとは思う」
「余計なお世話だよ」
「そうだろうね。せいぜい恨みを買わないように気を付けろよ」
それじゃあ、と言って恵一さんは立ち去った。……かと思いきや、もう一度戻ってきてひと言言い残す。
「先日作ってくれたブーケ、すごく喜んでくれたよ。改めてありがとう」
本当に律儀な人だ。あれで恋愛スキルが高ければ引く手あまただろうに。
恵一さんの姿が消えて数十秒後に、車のエンジンがかかる音がした。その音が遠のくと途端に静寂が訪れる。今度こそ、もう会うことはないだろう。
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トーク履歴から恵一さんのアカウントを探して、それだけのメッセージを送っておいた。意味なんてない。よろしく伝えてねと言われたから、元気そうだったという報告のつもりで送っただけだ。既読にはなったが返信はなく、もしかして余計なお世話だったかなと気付いたところでもう遅い。恵一さんが返信の代わりに店に来たのは、その日の夜のことだった。
「もう閉店なんですけど」
「美紀と会ったんだって?」
その話を聞くためにここまで車を走らせる、本当にマメな男だ。ただ、心なしか機嫌が悪いように見えるのは、
「もしかして美紀と続いてるのか」
どうやらそっちを聞きたかったらしい。
「続いてないよ。アレンジメント教室に花を届けたら偶然会ったんだよ。地元に引っ越すって言ってたぜ」
「なんだ」
恵一さんは溜息を放ち、ネクタイを緩めながらいつもの丸椅子に座った。
「このあいだ一緒に歩いてた女の子と並行して付き合ってるとしたら、また殴ろうかと思ってたよ」
本来俺はそういう付き合い方をするのだけど、というのは言わないでおく。
「なんだかんだ気になるんじゃないか。なんで別れちゃったの」
「結婚生活に疲れたから」
今は疲れているかもしれないけど、そのうち独りでいるのに寂しくなって離婚したことを後悔する日が来るんじゃないだろうか。嫌いで別れたわけじゃないのなら尚更。恵一さんは俺の考えを補足するかのように言った。
「別に嫉妬してるんじゃないんだよ。離婚したことも後悔してない。でも美紀は大事な人には変わりないから、適当な恋愛で傷付いて欲しくないだけだ」
「大丈夫でしょ。なんか雰囲気変わって明るくなってたよ。アンタのことなんか全然引き摺ってなさそうだったし」
今日の売上を計算しながら言ってやった。パソコンの影から苦笑する恵一さんを一瞥する。
「地元に帰るんだって。神奈川で仕事探すって。なんか、今まで頼りない印象だったけど、あの人けっこうしっかりしてるのかもね」
「……そうか。元気そうだったんなら良かったよ」
恵一さんは膝に頬杖をついて屈託なく笑った。昼間の美紀さんといい恵一さんといい、まるで憑き物が落ちたかのような二人の笑顔を見ると、やはりこれが二人にとって最適だったのかもしれない。
「話ってそれだけ?」
「いや、街で呼び止められた理由をまだ聞いてない」
そんなもの俺の方が忘れていた。今となってはどうでもいいので、俺は適当に「カフェの窓から見かけたから」と、あしらった。けれども恵一さんはなかなかしつこい。
「『たいした話じゃないんだけど』の続きが気になって仕方ないんだよ」
最後の会話まで覚えているなんて面倒臭い。観念して正直に話すことにした。
「冬に三人で会ったあと、恵一さんは俺に『きみは色んな女の子に元気を上げることで自分の中の何かを紛らわそうとしている』って言ったでしょ。なんでそう思ったのかなと思って」
「『俺には一人だけを愛するなんて、たぶん無理』っていう言葉に理由がありそうだったから」
「それ俺が言った?」
「自分の言葉に責任持て」
「普段あんまりモノ考えて喋らないんだよね」
自分でも覚えていないのだから、その言葉にそんなに深い意味はない。でも何か理由を付けなければ申し訳ないような気がして、俺は計算に集中するふりをして考えていた。
そしてふと頭の中に浮かんだ顔に、腑に落ちた。
「母親のせいなんだと思う」
「お母さん?」
「俺の母親は恋多き女でさ。たぶん昔から色んな男と付き合ってたんだと思う。父親が誰か分からないまま俺は生まれて、家族は母親だけだった。赤んぼの頃は覚えてないけど、物心ついた時には家にしょっちゅう男が出入りしてたし、ずっと誰かと恋愛してないと気が済まないタチだったんだと思う」
計算の途中でエクセルの動きが悪くなって作業が滞った。
「でも小さい頃からそれが普通なんだと思ってた。別に嫌じゃなかったし。小学生の頃にウチが他の家とは何か違うと気付いたけど、それでグレたり反抗することはなかった。恋愛をしている時の母親はいつも綺麗で明るくて機嫌がよかったから、そんな母親が好きだったんだ」
恵一さんは何も言わずに話を聞いている。
「でも失恋すると機嫌が悪くなって酒を飲んで一晩中泣くんだ。そういう時は話しかけたら怒鳴られる。ほんと鬼の形相でさ。ああいう時の母親は嫌いだった。そしてまた新しい男ができると綺麗になる。そんな母親の傍にいたから、『誰か一人だけのために生きる』っていう概念がないんだ。一人に尽くそうと思ったこともない。こういう話をすると恵一さんを含め大抵引かれるんだけど、俺にとってはこれが恋愛の常識なんだよ」
エクセルの計算と現金が合わないので、もう一度現金を数えることにする。
「……俺みたいな考えの奴は探せばけっこういるもんでね。関係を持つなら同じ価値観の人とだけって決めてる」
美紀さんのことを思い出して「例外を除いて」と加えたら、冷ややかな目で睨まれた。
「……今、お母さんは?」
「さあ。高校生の時に突然いなくなったから、どこにいるのか知らない」
「えっ」
「新しい男と新しい人生歩んでるのかなぁ。それならそれでいいよ」
「恨んだりとかはないのか」
「ないよ。母親のことは好きだから。今となっては若いのに一人で子ども産んで育ててすごいなって感謝してるよ。恋愛くらい好きにしてくれたらいい。それにうちの母親ほんとに美人なんだよね。授業参観に来る度『お前の母ちゃんキレイだな』って言われるのが誇らしかった。女の人って傍にいる人に『綺麗だね』って言われると本当に綺麗になるんだなって子どもながらに思ってたよ。そして綺麗な人は心にもゆとりがあって一緒にいて心地が良い。俺が今、女の人には綺麗でいてもらいたいと思うのはそういうことなんだと思う」
あー、だめだ。計算が合わない、と投げやりになってペンを放り投げる。俺は従業員を雇っていないので準備も片付けも経理もすべて一人でやらなければならない。今日は寝られないかもしれない。
恵一さんは俺の話には深く触れず、何か考えている様子で店の中を見渡していた。ふらふらと心許ない足取りで花を冷やかしていく。
「花屋はいつから?」
「もともと母親の店なんだ。高校途中で辞めて俺が継いだ。……ってかさー、恵一さんエクセル詳しい? 数式が壊れてるみたいなんだよね」
やる気がなくなってエンターキーをパシパシ叩く。部外者に集計表を見せるのは危険極まりないが、この作業が終わるならもうなんでもいい。恵一さんならおかしな真似はしないだろう。恵一さんはおもむろに俺の背後に立った。さりげない手つきでマウスを動かすと、
「このセルだな。でも科目内訳するなら違う式を入れた方が良い」
「どうすればいい?」
内訳の仕方を簡単に説明するだけで恵一さんはすらすらと暗号のような数式を入れていった。エクセルの編集が終わると自動的に計算される。さっきまで合わないと苛々した集計もスムーズに進んだ。
「スゲー、ありがとう! さすがサラリーマン」
聞きたいことを聞いて気が済んだのか、恵一さんは荷物を取り、出口へ向かった。
「話してくれてありがとう。きみは全然態度に出さないけど、これまで大変だったと思う。きみの恋愛観の理由も分かってスッキリした。でも悪いが俺は理解できないし、きみのためにも相手はひとりに絞ったほうがいいんじゃないかとは思う」
「余計なお世話だよ」
「そうだろうね。せいぜい恨みを買わないように気を付けろよ」
それじゃあ、と言って恵一さんは立ち去った。……かと思いきや、もう一度戻ってきてひと言言い残す。
「先日作ってくれたブーケ、すごく喜んでくれたよ。改めてありがとう」
本当に律儀な人だ。あれで恋愛スキルが高ければ引く手あまただろうに。
恵一さんの姿が消えて数十秒後に、車のエンジンがかかる音がした。その音が遠のくと途端に静寂が訪れる。今度こそ、もう会うことはないだろう。
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