山城 天 1
綺麗な女の人が好きだ。と言っても、見た目の話じゃない。
性格は顔に出るとは言うけれど、本当にその通りだと思う。いつも溌剌として自信があって、ちゃんと自分のことを好きでいられる人は顔色も姿勢も良くて綺麗に見える。逆に覇気がなくて自信もなくて自分のことを嫌いだという卑屈な人は、暗くて怖い。
それは子どもの頃からずっと思っていて、「この子はいつも明るくて可愛いな」「どうしてこの子はいつも暗いんだろう」、なんてことを考えていた。俺にとって女性の「可愛い、綺麗」は、見た目のことではなく、その人の持つオーラのことだ。そしてそのオーラは周りがポジティブな言葉をかけてあげると変わることも知っている。だから暗くて卑屈な女の人を見るとお節介を焼きたくなるのだ。
今は職業柄、女性の喜ぶ花を選んであげるのが得意だが、子どもの頃は髪を結ってあげたり、美味しいお菓子をあげて喜ばせていたものだ。俺はいつからそんな奉仕癖がついたのだろう。きっかけはなんだっけ。
『天、見てみて。お母さん、新しい服を買ったの。綺麗でしょ?』
――ああ、そうだ。……母親だ。
―――
「天! 危ない!」
そう叫ばれると同時に、いきなり強く腕を引っ張られた。体が傾いて引っ張られたほうへよろけた直後に、自転車が猛スピードで通り過ぎた。俺の腕を引っ張った彼女が「こわーっ」と、過ぎ去った自転車を見送りながら言った。引っ張ってくれなかったら俺は直撃していただろう。
「ちょっと大丈夫? あんなすごい勢いで向かってくるのにボーッとしてるんだもん」
「びっくりしたァ。全然気付かなかった、ありがとう」
「考え事でもしてたの?」
「ううん、余所見してただけだよ」
気を付けてよね、と軽く注意を受けたあと、彼女はお喋りを再開した。
女の話はあっちにいったりこっちにいったりするから苦手だという男もいるらしいけど、俺はそんな軽快なノリが好きだ。楽しそうに話しているのを聞いているだけでこっちも楽しい。真面目な子や物静かな子とももちろん会話はするけれど、付き合うなら断然明るい子がいい。
そういえば「あの人」は明るくも暗くもない、「地味」という言葉がピッタリだったな、とふと数ヵ月前を思い出す。フラワーアレンジメント教室の帰りだと言ってうちの花屋に寄った一人の女の人。俺が花を届けたアレンジメント教室に通っていて、うちの花を気に入ってくれたそうだ。礼儀正しい清潔そうな人だった。ただ少し違和感があったのは、綺麗な身なりをしているのにそれが妙に似合っていなかったことだ。全体的に淡いパステルカラーで、胸元がすっきりしたカーディガンやロングのフリルスカート。「頑張って着ている」感があった。あと、笑顔に覇気がない。俺は持ち前の奉仕願望を発揮して、彼女と仲良くなろうと試みた。恋愛関係になりたかったわけじゃない。覇気のない笑顔の理由が知りたかっただけだ。
美紀と名乗ったその人は、よほど私生活が満たされないのか俺が少し聞いただけで鬱憤を晴らすように色々話してくれた。転勤を機に学生時代から付き合っている彼と結婚したこと、パートに出たいけど、家事が疎かになりそうでなかなか動けないこと、子どもができないこと。贅沢だとは思うんだけど、と必ず付け加えて寂しそうに笑う。愛する人と幸せになるために一緒になったのに、蓋を開ければ愚痴ばかり。結婚ってなんて不毛なんだろうと、美紀さんの薬指に光る指輪を見ながら思っていた。
美紀さんが俺のことを好きなのは気付いていた。俺も「人として」美紀さんを好きだったが、恋愛感情じゃなかった。でも距離は置かなかった。俺が花を選んであげると笑うのが可愛かったし、喜んでくれるのが嬉しかったから。素直に「幸せになって欲しい」と思ったから、家庭の愚痴も聞いたし、励ました。
「一度だけでいいから抱いて欲しい」と言われたのは知り合って二ヵ月経った頃。いくらなんでも人妻に手を出すのはまずいと自覚はあった。けれども本音を言える相手がおらず、子どもができないかもしれないという絶望、旦那に愛されていないかもしれない不安の中にいる彼女を放っておけずに了承した。寝たのは一度だけだったが、そのあともメッセージのやりとりは続いた。美紀さんの旦那から連絡が来たのはその一ヵ月後。まさか直接メッセージが来るとは思っていなかったからかなりビビッたし、やってしまった後で事の重大さに気付いた。だが、恵一というその男は拍子抜けするほど冷静で、意気地がなかった。こっちはどんな罵詈雑言も受け入れる覚悟だったのに、あの人は俺の話を静かに聞くだけだった。
自分の妻が他の男と寝たのに? その男が目の前にいるのに? 本当に妻を愛しているなら力づくでも取り戻すんじゃないのか。恵一さんからはなんの嫉妬も憎悪も感じられなかった。だからあえて挑発した。奮い立たせて美紀さんを愛しているという確信を得たかったのだ。
――今思えば、なんであんなに必死だったんだろう。
一組の夫婦の危機の原因が自分だという罪悪感から逃れたかった、というのもあるけれど、もっと他の理由で、俺は恵一さんには美紀さんを愛していると証明して欲しかった。その理由がなんなのかは自分でも分からないけれど。
「ねー、天。喉乾いちゃった。ちょっとコーヒー飲んでいかない?」
「いいよー」
彼女に連れられて入ったのは、喫茶【アネモネ】。初めて恵一さんに呼び出されたのも、恵一さんと美紀さんの三人で話し合った時もこの店だった。一体どんな縁があるのかと苦笑いするしかない。
「うっそ、なんか美味しそうなケーキいっぱいあるんだけど」
「好きなの頼んで。ゆっくり選んでいいから」
真剣にケーキを選ぶ彼女に口元を綻ばせながら、窓の外に目を向ける。あの時は風が強くて冷たい冬の夜だった。あの日を境に恵一さんとも美紀さんとも会っていない。そして気付けば春になっている。枝が剥き出しだった街路樹に新緑が芽吹いていた。
――きみはたくさんの女の子に元気をあげることで、自分の中の何かを紛らわそうとしているんじゃないかと俺は思うんだけど。――
最後に言われた恵一さんの言葉が、あの日からずっと頭の中にある。「自分の中の何か」ってなんだ? 俺はただ純粋に好きな女の子が綺麗で元気でいてくれたらいいと思っているだけだ。「愛が何か分からない」なんてふざけた理由であっさり離婚した恵一さんに知ったような口を聞かれるのは心外だ。でも真っ向から否定もできなかった。だから気持ち悪いのだ。いつか恵一さんに会ったら、なんでそう感じたのか聞いてみたい。まあ、そうそう会うこともないけれど……。
と、その瞬間、視界の隅に見覚えのある男が映った。筋の通った鼻、きりりとした眉とやや下がり気味の目尻。接客をしている俺は人の顔を覚えるのは得意だ。髪は切ったのか以前より短くなってツーブロックに整えられているが、恵一さんで間違いない。あの人は歩く時の姿勢がやたらいいので雑踏の中でも目立つのだ。俺は衝動的に駆け出して店を出た。そして横断歩道を渡ろうとしている恵一さんの腕を、掴んだ。ぎょっとした眼が俺を振り返る。
「け、恵一さん、だよね」
「……山城くん?」
初めて名前を呼ばれた気がする。思わず引き留めてしまったものの、その先を考えていなかった。聞きたいことはあるが、数ヵ月ぶりに会っていきなり訊ねることじゃない。「お久しぶりですね」なんてつまらない挨拶をした。
「あ、ああ。そうだな。まさかこんなところで会うとは思わなかったから驚いたよ。今日は花屋は休みなのか」
「あ、うん、火曜日は定休日で……」
恵一さんはワイシャツにネクタイだ。スーツのジャケットを腕に抱えている。どうやら仕事中らしい。俺が止めてしまったせいで青信号が赤に変わってしまった。そして今更ながら元妻の浮気相手なんかに声を掛けられても嫌なだけだろうなと後悔した。変な遠慮をしてしまって、ぎくしゃくした空気が流れた。
俺を追い掛けて店から出て来た彼女が呼ぶ。
「天―! 急にどうしたのよ!」
「あ、ごめん、でも今……」
「彼女?」と聞かれて「はい」と答えた。恵一さんが静かに鼻で笑ったのを、俺は聞き逃さなかった。
「相変わらずなんだな」
どこか含みのある言い方にムッとした。確かに彼女と言ってもお互いの時間が合う時に気が向いたら呼び出しあってデートをするくらいの関係だ。そしてそんな相手は何人もいる。恵一さんからすれば理解不能なのだろう。信号が青に変わると恵一さんは「悪いけど、仕事中だから」と言って横断歩道を渡ってしまった。背後から追いついた彼女が言う。
「誰? 知り合い? 男の人の知り合いなんて珍しいね」
「知り合いというかなんというか」
わざわざ引き留めたのに、なんの話もできなかった。むしろ若干軽蔑すらされた気がする。話したくもないだろう。もし今度どこかで見かけても、もう声は掛けないことにする。
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性格は顔に出るとは言うけれど、本当にその通りだと思う。いつも溌剌として自信があって、ちゃんと自分のことを好きでいられる人は顔色も姿勢も良くて綺麗に見える。逆に覇気がなくて自信もなくて自分のことを嫌いだという卑屈な人は、暗くて怖い。
それは子どもの頃からずっと思っていて、「この子はいつも明るくて可愛いな」「どうしてこの子はいつも暗いんだろう」、なんてことを考えていた。俺にとって女性の「可愛い、綺麗」は、見た目のことではなく、その人の持つオーラのことだ。そしてそのオーラは周りがポジティブな言葉をかけてあげると変わることも知っている。だから暗くて卑屈な女の人を見るとお節介を焼きたくなるのだ。
今は職業柄、女性の喜ぶ花を選んであげるのが得意だが、子どもの頃は髪を結ってあげたり、美味しいお菓子をあげて喜ばせていたものだ。俺はいつからそんな奉仕癖がついたのだろう。きっかけはなんだっけ。
『天、見てみて。お母さん、新しい服を買ったの。綺麗でしょ?』
――ああ、そうだ。……母親だ。
―――
「天! 危ない!」
そう叫ばれると同時に、いきなり強く腕を引っ張られた。体が傾いて引っ張られたほうへよろけた直後に、自転車が猛スピードで通り過ぎた。俺の腕を引っ張った彼女が「こわーっ」と、過ぎ去った自転車を見送りながら言った。引っ張ってくれなかったら俺は直撃していただろう。
「ちょっと大丈夫? あんなすごい勢いで向かってくるのにボーッとしてるんだもん」
「びっくりしたァ。全然気付かなかった、ありがとう」
「考え事でもしてたの?」
「ううん、余所見してただけだよ」
気を付けてよね、と軽く注意を受けたあと、彼女はお喋りを再開した。
女の話はあっちにいったりこっちにいったりするから苦手だという男もいるらしいけど、俺はそんな軽快なノリが好きだ。楽しそうに話しているのを聞いているだけでこっちも楽しい。真面目な子や物静かな子とももちろん会話はするけれど、付き合うなら断然明るい子がいい。
そういえば「あの人」は明るくも暗くもない、「地味」という言葉がピッタリだったな、とふと数ヵ月前を思い出す。フラワーアレンジメント教室の帰りだと言ってうちの花屋に寄った一人の女の人。俺が花を届けたアレンジメント教室に通っていて、うちの花を気に入ってくれたそうだ。礼儀正しい清潔そうな人だった。ただ少し違和感があったのは、綺麗な身なりをしているのにそれが妙に似合っていなかったことだ。全体的に淡いパステルカラーで、胸元がすっきりしたカーディガンやロングのフリルスカート。「頑張って着ている」感があった。あと、笑顔に覇気がない。俺は持ち前の奉仕願望を発揮して、彼女と仲良くなろうと試みた。恋愛関係になりたかったわけじゃない。覇気のない笑顔の理由が知りたかっただけだ。
美紀と名乗ったその人は、よほど私生活が満たされないのか俺が少し聞いただけで鬱憤を晴らすように色々話してくれた。転勤を機に学生時代から付き合っている彼と結婚したこと、パートに出たいけど、家事が疎かになりそうでなかなか動けないこと、子どもができないこと。贅沢だとは思うんだけど、と必ず付け加えて寂しそうに笑う。愛する人と幸せになるために一緒になったのに、蓋を開ければ愚痴ばかり。結婚ってなんて不毛なんだろうと、美紀さんの薬指に光る指輪を見ながら思っていた。
美紀さんが俺のことを好きなのは気付いていた。俺も「人として」美紀さんを好きだったが、恋愛感情じゃなかった。でも距離は置かなかった。俺が花を選んであげると笑うのが可愛かったし、喜んでくれるのが嬉しかったから。素直に「幸せになって欲しい」と思ったから、家庭の愚痴も聞いたし、励ました。
「一度だけでいいから抱いて欲しい」と言われたのは知り合って二ヵ月経った頃。いくらなんでも人妻に手を出すのはまずいと自覚はあった。けれども本音を言える相手がおらず、子どもができないかもしれないという絶望、旦那に愛されていないかもしれない不安の中にいる彼女を放っておけずに了承した。寝たのは一度だけだったが、そのあともメッセージのやりとりは続いた。美紀さんの旦那から連絡が来たのはその一ヵ月後。まさか直接メッセージが来るとは思っていなかったからかなりビビッたし、やってしまった後で事の重大さに気付いた。だが、恵一というその男は拍子抜けするほど冷静で、意気地がなかった。こっちはどんな罵詈雑言も受け入れる覚悟だったのに、あの人は俺の話を静かに聞くだけだった。
自分の妻が他の男と寝たのに? その男が目の前にいるのに? 本当に妻を愛しているなら力づくでも取り戻すんじゃないのか。恵一さんからはなんの嫉妬も憎悪も感じられなかった。だからあえて挑発した。奮い立たせて美紀さんを愛しているという確信を得たかったのだ。
――今思えば、なんであんなに必死だったんだろう。
一組の夫婦の危機の原因が自分だという罪悪感から逃れたかった、というのもあるけれど、もっと他の理由で、俺は恵一さんには美紀さんを愛していると証明して欲しかった。その理由がなんなのかは自分でも分からないけれど。
「ねー、天。喉乾いちゃった。ちょっとコーヒー飲んでいかない?」
「いいよー」
彼女に連れられて入ったのは、喫茶【アネモネ】。初めて恵一さんに呼び出されたのも、恵一さんと美紀さんの三人で話し合った時もこの店だった。一体どんな縁があるのかと苦笑いするしかない。
「うっそ、なんか美味しそうなケーキいっぱいあるんだけど」
「好きなの頼んで。ゆっくり選んでいいから」
真剣にケーキを選ぶ彼女に口元を綻ばせながら、窓の外に目を向ける。あの時は風が強くて冷たい冬の夜だった。あの日を境に恵一さんとも美紀さんとも会っていない。そして気付けば春になっている。枝が剥き出しだった街路樹に新緑が芽吹いていた。
――きみはたくさんの女の子に元気をあげることで、自分の中の何かを紛らわそうとしているんじゃないかと俺は思うんだけど。――
最後に言われた恵一さんの言葉が、あの日からずっと頭の中にある。「自分の中の何か」ってなんだ? 俺はただ純粋に好きな女の子が綺麗で元気でいてくれたらいいと思っているだけだ。「愛が何か分からない」なんてふざけた理由であっさり離婚した恵一さんに知ったような口を聞かれるのは心外だ。でも真っ向から否定もできなかった。だから気持ち悪いのだ。いつか恵一さんに会ったら、なんでそう感じたのか聞いてみたい。まあ、そうそう会うこともないけれど……。
と、その瞬間、視界の隅に見覚えのある男が映った。筋の通った鼻、きりりとした眉とやや下がり気味の目尻。接客をしている俺は人の顔を覚えるのは得意だ。髪は切ったのか以前より短くなってツーブロックに整えられているが、恵一さんで間違いない。あの人は歩く時の姿勢がやたらいいので雑踏の中でも目立つのだ。俺は衝動的に駆け出して店を出た。そして横断歩道を渡ろうとしている恵一さんの腕を、掴んだ。ぎょっとした眼が俺を振り返る。
「け、恵一さん、だよね」
「……山城くん?」
初めて名前を呼ばれた気がする。思わず引き留めてしまったものの、その先を考えていなかった。聞きたいことはあるが、数ヵ月ぶりに会っていきなり訊ねることじゃない。「お久しぶりですね」なんてつまらない挨拶をした。
「あ、ああ。そうだな。まさかこんなところで会うとは思わなかったから驚いたよ。今日は花屋は休みなのか」
「あ、うん、火曜日は定休日で……」
恵一さんはワイシャツにネクタイだ。スーツのジャケットを腕に抱えている。どうやら仕事中らしい。俺が止めてしまったせいで青信号が赤に変わってしまった。そして今更ながら元妻の浮気相手なんかに声を掛けられても嫌なだけだろうなと後悔した。変な遠慮をしてしまって、ぎくしゃくした空気が流れた。
俺を追い掛けて店から出て来た彼女が呼ぶ。
「天―! 急にどうしたのよ!」
「あ、ごめん、でも今……」
「彼女?」と聞かれて「はい」と答えた。恵一さんが静かに鼻で笑ったのを、俺は聞き逃さなかった。
「相変わらずなんだな」
どこか含みのある言い方にムッとした。確かに彼女と言ってもお互いの時間が合う時に気が向いたら呼び出しあってデートをするくらいの関係だ。そしてそんな相手は何人もいる。恵一さんからすれば理解不能なのだろう。信号が青に変わると恵一さんは「悪いけど、仕事中だから」と言って横断歩道を渡ってしまった。背後から追いついた彼女が言う。
「誰? 知り合い? 男の人の知り合いなんて珍しいね」
「知り合いというかなんというか」
わざわざ引き留めたのに、なんの話もできなかった。むしろ若干軽蔑すらされた気がする。話したくもないだろう。もし今度どこかで見かけても、もう声は掛けないことにする。
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