高橋 恵一 6
―――
妻とは離婚という形で話が落ち着き、店をあとにした。このまま妻と連れ立って帰るのも気が引けたので、寄るところがあるからと言って先に帰らせた。夜になると空気がいっそう冷たく、昼間より強くなった風が容赦なく頬を叩く。俺はコートを着ているが、山城は薄手のブルゾンしか羽織っておらず、両手をポケットに入れて寒そうに肩をすくめていた。妻の姿が遠のき、二人だけが取り残されると山城は相変わらず小癪な態度で俺に向き直った。
「今度は俺の番だよね」
「何が」
「遠慮なく制裁を下していいよ。そのつもりで今日は来たから」
「……別にいいよ。このあいだ思いきり殴ったし。ただ、悪いと思ってるならひと言謝罪の言葉をもらおうか」
「ハイ……申し訳ございませんでした」
きっとこれだけでは気が済まない人がほとんどだろう。けれども俺は深々と下げる山城の後頭部を見て、もう充分だった。というより、これ以上のいざこざは疲れたのだ。
山城は頭を上げると少し落ち込んでいるような、子犬のような神妙な顔で言った。
「恵一さんが別れるって言った時、俺が言うのもなんだけどショックだったかも。美紀さん、俺といる時は笑顔だったけど、やっぱりどこかいつも寂しそうで、それをちゃんと笑わせてあげられるのは旦那しかいないと思ってたから、美紀さんが旦那と腹割って話し合って再構築して、心から笑えるようになってくれたらいいなと思ってた。……アンタは本当に離婚していいの? これからいくらでも歩み寄れるのに」
「こうなった原因はお前にもあるのに、今更何を言ってるんだよ」
「そうだけど……」
急にしおらしいのが気味が悪くておかしい。
「きっかけが浮気だったというだけで、いずれは離婚してたと思う。実はさ、俺も窮屈だったんだよね、結婚生活が」
山城は首を傾げた。
「掃除も洗濯も料理も完璧、仕事から帰ったら出迎えてくれて、毎日美味しい弁当を作ってくれて労ってくれて、すごくいい奥さんだった。でもその分、自分も仕事を頑張らないととか、だらしないところは見せちゃ駄目な気がして、家にいてもいつも気が張ってたかな。俺も本当はビール飲みながらうたた寝して夜更かししたり、たまには外食やコンビニで昼食を済ませたりしたかった。お互いに『いい妻、いい夫』を演じてたんだな。そんなのいつか駄目になるに決まってる」
「これからダメなところを見せ合えばいいじゃないか」
「……疲れたんだ。それに、俺は今まで妻を愛してたつもりだったけど、どうも違ったようだ。俺には相手のために自らこうしたいという感覚が分からない。……人として欠陥があるのかもしれない」
「そんなことは……」
「きみのことはただの尻軽男だと思ってたけど、俺が知らないところで彼女をたくさん励ましてくれたんだろう。不貞行為は許せないことだ。でも、きみが真剣に彼女のことを考えていたのは分かった。俺にいちいち挑発的な言い方をしていたのも、発破をかけるためだったんだろ。礼を言うのはおかしいかもしれないが、あと腐れなく離婚に持っていけたのはきみが一緒にいてくれたからだと思ってる。ありがとう」
まさか人妻と浮気をして礼を言われるなんて思わなかっただろう。山城はただ戸惑っていた。
「な、なんだよ。礼なんか言われたら胸糞悪い……。慰謝料請求される覚悟もしてたのに」
「俺はきみにも幸せになって欲しい」
「……は……?」
「一人だけを愛するなんて無理だと言っていたけど、きみはたくさんの女の子に元気をあげることで、自分の中の何かを紛らわそうとしているんじゃないかと俺は思うんだけど」
「……」
「いつか誰かに刺される前に、ほどほどにしておけよ」
じゃあ、と俺は踵を返した。暫く歩いたところで、威勢を取り戻した山城が背後から叫ぶ。
「バッ……カじゃねーの! 自分の幸せブチ壊した奴の幸せなんか祈ってどうすんだよ! だから浮気されるんだよ!」
通行人たちがざわざわとこちらを見ている。
「手放すのが早ぇんだよ! この根性なし! アンタだって本当は……っ」
最後まで言い切らないうちに山城に振り返った。夜のせいか、この距離では山城の姿はぼんやりとしか見えない。夜の街中で、街灯に照らされた朧げな姿に向かって微笑んでみせる。悔しそうに顔を歪ませるその表情だけは、はっきり見えた気がした。
***
話し合いの数日後には妻は新しい居住先を決めるとともに離婚届をもらってきていて、役所にそれを提出したのは引っ越しの前日。学生時代から何年も一緒にいて結婚するまでは長かったと思ったのに、別れる時はこんなにも簡単だ。たった一言のメッセージ、たった一枚の紙切れ。人の縁なんてそんなもので終わる。
妻は……美紀は、家を出て行くその直前まで完璧に家事をこなしてくれた。掃除、洗濯、炊事、仕事に行く前に弁当を持たせてくれ、「いってらっしゃい」の代わりに「今までありがとう」という言葉で見送られた。夕方、仕事を終えて帰った時には美紀の姿はなく、家の中は真っ暗で寒くて、ああ、独りになったのだなと実感した。
家具はほとんど置いて行ったので一見、部屋は何も変わらない。けれども美紀のものが入っていたクローゼットや衣装ケースは見事にカラッポだ。今まで一緒にいながら寂しい思いをさせてきた俺が言うのも勝手な話だが、やっぱり長年連れ添ったパートナーがいなくなるのは寂しかった。だが、後悔はしなかった。寂しさと同時に気楽になれたから。
一人になって想いを馳せてみる。
誰と付き合っても「わたしのこと好きじゃないんでしょ」と言われてフラれてばかりだった青春時代。その度にそんなことはないのにと思っていたが、きっと誰も彼も美紀と同じことを感じていたに違いない。大抵のことは相手の判断に任せてきたし、相手の希望に応えるだけだった。
会社の部下の木下が結婚すると言うので、酒の席で無礼を承知で人を好きになるってどんな気持ちなのかを聞いてみた。
「うう~~~ん、やっぱり一緒にいてドキドキしたり離れたくないな~とか、ずっと自分だけを見ててほしいな~とか、そういう気持ちですかねェ。ってか、そういうのは高橋さんのが熟知してるんじゃないんすか?」
離れたくないほどの独占欲も、一緒にいてドキドキするような高揚感も、思い返してみても心当たりがない。たぶん、俺は今まで本気で誰かを好きになったことがないのだ。
俺はこの先また誰かと一緒になろうと思う日が来るのだろうか。ときめきとやらを感じたり、離れがたく思ったり、相手のためにと無償の愛を感じる日が来るだろうか。
――今は、いいか。
分からないものを無理に分かろうとしなくてもいい。もう無神経に誰かを傷付けたくもないし、暫くは気ままな独身を楽しませてもらおう。
会社へ向かう道すがら、赤信号で車を停め、フロントガラスから空を見あげた。一面真っ白な分厚い雲から、雪がちらほらと零れてきた。綿のような雪がフロントガラスに落ちて、みるみる溶けて雫になる。どこか切なさすら覚えるその儚い水滴に重ねて脳裏に浮かんだのは、何故か最後に見た山城の悔しそうな顔だった。
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妻とは離婚という形で話が落ち着き、店をあとにした。このまま妻と連れ立って帰るのも気が引けたので、寄るところがあるからと言って先に帰らせた。夜になると空気がいっそう冷たく、昼間より強くなった風が容赦なく頬を叩く。俺はコートを着ているが、山城は薄手のブルゾンしか羽織っておらず、両手をポケットに入れて寒そうに肩をすくめていた。妻の姿が遠のき、二人だけが取り残されると山城は相変わらず小癪な態度で俺に向き直った。
「今度は俺の番だよね」
「何が」
「遠慮なく制裁を下していいよ。そのつもりで今日は来たから」
「……別にいいよ。このあいだ思いきり殴ったし。ただ、悪いと思ってるならひと言謝罪の言葉をもらおうか」
「ハイ……申し訳ございませんでした」
きっとこれだけでは気が済まない人がほとんどだろう。けれども俺は深々と下げる山城の後頭部を見て、もう充分だった。というより、これ以上のいざこざは疲れたのだ。
山城は頭を上げると少し落ち込んでいるような、子犬のような神妙な顔で言った。
「恵一さんが別れるって言った時、俺が言うのもなんだけどショックだったかも。美紀さん、俺といる時は笑顔だったけど、やっぱりどこかいつも寂しそうで、それをちゃんと笑わせてあげられるのは旦那しかいないと思ってたから、美紀さんが旦那と腹割って話し合って再構築して、心から笑えるようになってくれたらいいなと思ってた。……アンタは本当に離婚していいの? これからいくらでも歩み寄れるのに」
「こうなった原因はお前にもあるのに、今更何を言ってるんだよ」
「そうだけど……」
急にしおらしいのが気味が悪くておかしい。
「きっかけが浮気だったというだけで、いずれは離婚してたと思う。実はさ、俺も窮屈だったんだよね、結婚生活が」
山城は首を傾げた。
「掃除も洗濯も料理も完璧、仕事から帰ったら出迎えてくれて、毎日美味しい弁当を作ってくれて労ってくれて、すごくいい奥さんだった。でもその分、自分も仕事を頑張らないととか、だらしないところは見せちゃ駄目な気がして、家にいてもいつも気が張ってたかな。俺も本当はビール飲みながらうたた寝して夜更かししたり、たまには外食やコンビニで昼食を済ませたりしたかった。お互いに『いい妻、いい夫』を演じてたんだな。そんなのいつか駄目になるに決まってる」
「これからダメなところを見せ合えばいいじゃないか」
「……疲れたんだ。それに、俺は今まで妻を愛してたつもりだったけど、どうも違ったようだ。俺には相手のために自らこうしたいという感覚が分からない。……人として欠陥があるのかもしれない」
「そんなことは……」
「きみのことはただの尻軽男だと思ってたけど、俺が知らないところで彼女をたくさん励ましてくれたんだろう。不貞行為は許せないことだ。でも、きみが真剣に彼女のことを考えていたのは分かった。俺にいちいち挑発的な言い方をしていたのも、発破をかけるためだったんだろ。礼を言うのはおかしいかもしれないが、あと腐れなく離婚に持っていけたのはきみが一緒にいてくれたからだと思ってる。ありがとう」
まさか人妻と浮気をして礼を言われるなんて思わなかっただろう。山城はただ戸惑っていた。
「な、なんだよ。礼なんか言われたら胸糞悪い……。慰謝料請求される覚悟もしてたのに」
「俺はきみにも幸せになって欲しい」
「……は……?」
「一人だけを愛するなんて無理だと言っていたけど、きみはたくさんの女の子に元気をあげることで、自分の中の何かを紛らわそうとしているんじゃないかと俺は思うんだけど」
「……」
「いつか誰かに刺される前に、ほどほどにしておけよ」
じゃあ、と俺は踵を返した。暫く歩いたところで、威勢を取り戻した山城が背後から叫ぶ。
「バッ……カじゃねーの! 自分の幸せブチ壊した奴の幸せなんか祈ってどうすんだよ! だから浮気されるんだよ!」
通行人たちがざわざわとこちらを見ている。
「手放すのが早ぇんだよ! この根性なし! アンタだって本当は……っ」
最後まで言い切らないうちに山城に振り返った。夜のせいか、この距離では山城の姿はぼんやりとしか見えない。夜の街中で、街灯に照らされた朧げな姿に向かって微笑んでみせる。悔しそうに顔を歪ませるその表情だけは、はっきり見えた気がした。
***
話し合いの数日後には妻は新しい居住先を決めるとともに離婚届をもらってきていて、役所にそれを提出したのは引っ越しの前日。学生時代から何年も一緒にいて結婚するまでは長かったと思ったのに、別れる時はこんなにも簡単だ。たった一言のメッセージ、たった一枚の紙切れ。人の縁なんてそんなもので終わる。
妻は……美紀は、家を出て行くその直前まで完璧に家事をこなしてくれた。掃除、洗濯、炊事、仕事に行く前に弁当を持たせてくれ、「いってらっしゃい」の代わりに「今までありがとう」という言葉で見送られた。夕方、仕事を終えて帰った時には美紀の姿はなく、家の中は真っ暗で寒くて、ああ、独りになったのだなと実感した。
家具はほとんど置いて行ったので一見、部屋は何も変わらない。けれども美紀のものが入っていたクローゼットや衣装ケースは見事にカラッポだ。今まで一緒にいながら寂しい思いをさせてきた俺が言うのも勝手な話だが、やっぱり長年連れ添ったパートナーがいなくなるのは寂しかった。だが、後悔はしなかった。寂しさと同時に気楽になれたから。
一人になって想いを馳せてみる。
誰と付き合っても「わたしのこと好きじゃないんでしょ」と言われてフラれてばかりだった青春時代。その度にそんなことはないのにと思っていたが、きっと誰も彼も美紀と同じことを感じていたに違いない。大抵のことは相手の判断に任せてきたし、相手の希望に応えるだけだった。
会社の部下の木下が結婚すると言うので、酒の席で無礼を承知で人を好きになるってどんな気持ちなのかを聞いてみた。
「うう~~~ん、やっぱり一緒にいてドキドキしたり離れたくないな~とか、ずっと自分だけを見ててほしいな~とか、そういう気持ちですかねェ。ってか、そういうのは高橋さんのが熟知してるんじゃないんすか?」
離れたくないほどの独占欲も、一緒にいてドキドキするような高揚感も、思い返してみても心当たりがない。たぶん、俺は今まで本気で誰かを好きになったことがないのだ。
俺はこの先また誰かと一緒になろうと思う日が来るのだろうか。ときめきとやらを感じたり、離れがたく思ったり、相手のためにと無償の愛を感じる日が来るだろうか。
――今は、いいか。
分からないものを無理に分かろうとしなくてもいい。もう無神経に誰かを傷付けたくもないし、暫くは気ままな独身を楽しませてもらおう。
会社へ向かう道すがら、赤信号で車を停め、フロントガラスから空を見あげた。一面真っ白な分厚い雲から、雪がちらほらと零れてきた。綿のような雪がフロントガラスに落ちて、みるみる溶けて雫になる。どこか切なさすら覚えるその儚い水滴に重ねて脳裏に浮かんだのは、何故か最後に見た山城の悔しそうな顔だった。
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