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高橋 恵一 5

「……嫌な思いさせてごめんね……。下心があって天ちゃんの花屋さんに通ってたわけじゃないの。アレンジメント教室に天ちゃんが持って来てくれた花がすごく綺麗で、花を買いたくて行ってたの。通ううちにたくさん話をするようになって、親しくなって、それで」

「好きになったのか?」

 妻は俯くだけで返事をしない。だが返事をしないということは肯定したということだ。山城は真顔のまま表情を変えない。

「聞いたところによると、きみは俺の話を彼によくしていたそうだけど」

「……」

「別に愚痴を言うなと言ってるんじゃなくて、悩み事や不満があるならどうして俺に直接言ってくれなかったのかなと思って」

「……不満は、ないの……」

 どういうことか分からず、眉を顰めた。

「恵一は昔から優しくて、わたしの言うことをなんでも聞いてくれたわ。誕生日や記念日も必ずプレゼントをくれて、家事も手伝ってくれて、仕事も愚痴も言わずに頑張ってくれてるし、こんなにいい人はいないって思うの。思うんだけど……」

「だけど?」

「恵一、わたしのこと、愛してる?」

 それは核心を突いた思いがけない質問だった。

「あ、当たり前じゃないか」

「……学生時代、わたしは知り合う前から恵一のことが好きで、ずっとあなたを見てきたわ。あなたと近付きたくてあなたの友達に頼んで紹介してもらったの。告白した時にいいよって言ってくれた時のことは今でも覚えてるわ。それからあなたは不器用なりにわたしを大事にしてくれた。最初は嬉しかった。でもだんだんその優しさに慣れてきて、考えるようになったの。恵一はわたしを好きで優しくしてくれてるんじゃないんじゃないかって」

「どういうこと」

「『付き合ってるから優しくしなきゃ』とか『夫婦だから手伝わなきゃ』とか、義務的な優しさに思えてしまって。誕生日だから何かプレゼントしなきゃ、機嫌を悪くさせないように協力しなきゃって……」

「……それは間違ってるのか」

「本当の優しさって、相手のために自然にこうしたいと思えることだと思うのよ」

 誕生日を祝わないと文句を言われるかもしれないから何か買わないと、
 家で何もしないと怒られたくないからせめてゴミは捨てないと、
 小さい男だと思われたくないから愚痴は言わないようにしないと、
 確かに俺はいつもそう思っていた。だけど、世の中の恋人や夫婦なんてそんなものじゃないのか。

「どうしてそれがきみを愛していないことになるんだ」

「だって、それだけしてくれるのに、あなたはわたし自身に興味がないんだもの」

「――……」

「昔からそうだった。わたしが誰と会っても、どこに行っても、誰と知り合っても、何も聞かないし何も言わない。わたしがなんでアレンジメントを習ってるかも知らなかったでしょ。レッスン日はいつもリビングや玄関に花を飾っていたけど、きっとそれも知らないよね。今回はたまたま天ちゃんからのメッセージが目に入ったから気付いたのかもしれないけど、それまでは全然気にもしたことないでしょ? なんなら、あなたの隣でやり取りしてたこともあったのよ。この人はわたしのこと興味ないのかなって、ずっと考えてた」

「好きでもない人と結婚なんかしない」

「そうね。わたしもそう思って気にしないようにしてきた。あなたがどうであれ、わたしはあなたを好きだったし、わたしを大事にしてくれるのは事実だから、わたしもこの人を大事にしないと……って。家事も頑張ったし、身なりにも気を付けてた」

 妻はふう、と息をついた。

「でもね、わたし本当は料理は苦手だし、綺麗な格好をしたいわけじゃないの。そしてふと、なんで十年以上の付き合いがあってこんな取り繕った関係なんだろうって疲れちゃって」

 いつも栄養バランスを考えられた食事、どんなに朝が早くても弁当は必ず用意してくれる。なんの予定もない休日でもきちんと化粧をして清楚な服を着て。部屋は綺麗に片付けられているし、洗濯物はいつだって清潔だ。

 俺は、妻は「そういう性格なのだ」と思っていた。規則正しい整った生活が好きなのだと。料理が苦手だったなんて今、初めて聞いた。リビングに花なんて飾ってあったか。まさか山城の花屋で買ったものだったのか。もし早く花を飾ってあることに気付いていれば、山城のことも早くに気付いていたかもしれない。――いや、たぶん、花に気付いていたとしても浮気には気付かなかっただろう。妻の言う通り、俺は妻自身のことを知ろうとしなかったから。

 天ちゃんはね、と急に妻の声が柔らかくなった。

「そんな時にわたしの話を聞いてくれたの。どんな花が好きなの? 何色が好き? って、些細なことだけど、たくさん質問してくれるのが嬉しかった。彼が色んな女の子と付き合ってるのは知ってるわ。でも不思議と嫌悪感はなかった。軽率な人は好みじゃないけど、天ちゃんは誰に対しても素直で、見返りを求めなくて、純粋に優しいの。恵一のことはわたしから話した。でも天ちゃん、絶対にあなたのこと悪く言ったりしなかったし、怖いかもしれないけどちゃんと話し合ったほうがいいよって励ましてくれた」

 山城に目を向けると、決まりの悪そうに鼻を掻き、俯いた。

「でも山城は自分から誘ったって」

「……誘ったのはわたしよ。天ちゃんには人妻には手を出したくないって断られたけど、一度だけでいいからって無理を言ったの。……きっとわたしが悪者にならないように嘘をついてくれたのね。そういう人なの。……だから惹かれたの」

 恥ずかしいことに俺はなにも言い返せない。文句の言い様がないのだ。妻に興味を持たなかったことも、俺の優しさが偽善的なものだったことも。
――じゃあ、なんで付き合った? なんで結婚した?

「恵一は優しい。でもわたしのためじゃない。自分に好意を持ってくれる人に忠実なだけ。わたしに『情』はあったんだと思う。でも心から愛してはいないでしょ」

 それが妻が他の男に目を向けた理由なのだ。
 俺の行動に原因があったのではない。そもそも俺の気持ちの問題だったのだ。沈黙が襲う。唯一それを助けてくれるのは店内に流れる静かなピアノ曲だけ。何か言わなければと思うほど言葉が出てこない。そしてこの沈黙が俺を気付かせた。「それは違う、きみを愛している」と即答できないことが答えだ。俺は膝の上で拳を握りしめた。

「……言い返す言葉がないよ。すまない……」

 妻は今にも泣きそうな、寂しそうな表情で、けれども微かに笑った。

「きみの言う通りだよ。正直浮気を知った時、『今までこんなに頑張ったのに俺の何が駄目だったのか』って、そればかり考えてた。あれもしたのに、これもしたのにって」

「……」

「きみのことは好きだよ。そうじゃないと結婚しないし、偽善と言われても優しくしようとは思わない。でも、じゃあ愛ってなんだって考えた時に何も答えられないのも事実だ」

 いったん息をつき、そして俺はずっと迷っていた結論を出した。

「……別れ、ようか」

 驚いているのは山城のようだった。少しだけ目を大きくしてこちらを凝視しているのが視界に入った。

「山城にも言われたんだ。どうして妻の浮気相手が目の前にいるのに黙ってるんだって。やり直したいのか、このまま離れるのか、自分はどうしたいんだって。俺は自分がどうしたいのか分からなかった。簡単に別れるとは言いたくない。だけどこれから何もなかったように結婚生活を続けるのも無理だと。きみの気持ちが俺にないなら、引き止めても仕方ないんじゃないかって。俺の中にあったのは諦めだったんだ。ひどいことを言っているけど」

「いいの。わたしはもっとひどいことしたから」

「確かに俺はきみのことを知らな過ぎた。そして窮屈な思いをさせてしまって悪かった」

「それはお互い様よ……」

「……格好悪いよな。自分は何も悪いことはしてない、自分はこんなにしてやったのにって押しつけがましくてさ、子どもができないからかなとか的外れなことまで考えて、そもそも俺がきみを愛してないからだなんて、最低な話だな」

 妻はそこでピクリと顔をひきつらせた。そしてこれまでずっと黙秘していた山城がようやく口を開いた。

「美紀さん、話はこれで終わりでいいの? 他にも言わなきゃいけないことはない? このまま罪悪感をダンナに押し付けたまま終わるのはさすがにこの人が気の毒だよ」

 すると妻は突然ウワアッ、と声を上げ、両手で顔を覆って泣き出した。俺はまだ何かあるのかとうろたえた。

「ごめんね……ごめんね……!」

「な、何が?」

「わたしが狡いの、わたしが悪いの。恵一がわたしを愛してなくても、子どもができれば頑張れると思ったの。……でもなかなかできなかったから、婦人科に行ったのよ。そしたら妊娠は難しい体質だって言われて……」

「い、いつの話?」

「半年前……。でもそれを恵一に言ったら余計に気持ちが離れるんじゃないかと思って、怖くて言えなかった。恵一が『もしかしたら自分に原因があるのかも』って気にしてるのも本当は気付いてた。でもわたしのせいで出来ないなんて言い出せなくて……。妊娠できない負い目から、夫婦生活も自分から避けていったの……ごめんなさい……!」

 机に伏せて泣き崩れている妻に、俺はただただ呆然としていた。山城は顔色を変えないままで、どことも定まらない視点で微動だにしない。

「は……はは、なんだ、そんなことか……」

 俺の一言で、妻は涙を流したまま顔を上げた。

「そんなことくらいで嫌うわけないだろ……。まあ少しは俺も気にしてたけど、別にそこまで子どもが欲しいと思ってなかったし……。それより、婦人科に行ってたことすら知らなくて、俺は本当にきみのことを何も見てなかったんだな……」

 そしてそんな大事なことすら山城は知っている。
 妻が自ら彼に話したから、というのもあるだろうが、妻が悩みを打ち明けやすいように、話しやすいような空気を作っていたのは彼なのだ。本来、夫である俺がするべきことを、山城は妻にしていた。どうやったって完敗だ。

「ずっと悩んでたんだろ。苦しかったよな。ちゃんと話を聞かなくて本当にごめん。全部話してくれてありがとう。……俺は一からやり直すよ。美紀には……俺なんかよりもっと相応しい人を見つけて欲しい」

 そう言うと妻は涙を拭いながら、静かに笑った。

「わたしの名前呼んでくれたの、久しぶりね……」

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