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高橋 恵一 4

 家に帰ると妻はもう戻っていて、眉間に皺を寄せた険しい表情で帰って来た俺に戸惑っていた。

「お、遅かったのね。夕飯食べたの?」

「いらない」

 今までしたことのないような冷たい返事に、更に驚いたようだった。困惑する妻を通り過ぎてリビングに入り、ソファに鞄を投げた。

「仕事で何かあったの? 今お風呂のお湯入れてるから……」

 いつもなら有難く思う妻の優しさにイライラする。どんなに気を遣ってくれても、全部がただのご機嫌取りに思えてしまう。妻に目をやると、青い顔で心配そうに俺を見ていた。妻は顔立ちが素朴なぶん、年を取っても昔と変わらず若々しい。家にいても必ず化粧をして清潔感のある服を着て、慎ましいアクセサリーを着ける。それは学生時代からずっとそうだ。それなのに今ではそれが山城のためにしているのではないかと思うと悔しくて情けなくて、何もかも投げやりな気持ちになる。

「山城天」

 その名前を出すと妻の顔が強張ったのが分かった。

「知ってるだろう?」

「……あ……え、と……」

「きみの浮気相手だろ」

「ど……して」

「先週だったかな……。きみのスマホに山城からメッセージが入ってたのを、ポップアップで出てたから見てしまった。大好きだよって書かれてた」

 妻は両眼を泳がせて下唇を震わせた。

「見ちゃいけないと思ってたけど、それを放っておけるほどできた男じゃないから、きみが風呂に入ってるあいだにスマホを見せてもらった。……あ、でもメッセージの詳細は開いてないから。別に気を遣ったんじゃない。どんなやりとりをしているのか見るのが怖かっただけだ」

 勝手にスマートフォンを見たことを咎められるかと思ったが、先に疑われることをしたのは自分だと自覚があるからか、何も言われなかった。それどころか言い訳すらしようとしない。黙って立ち尽くす妻からは諦めが感じられた。

「……実は通話履歴からそれらしい名前を見つけて、それをもとに山城に連絡を取った。きみの浮気を知った翌日に、直接彼に会って話をしたよ」

「え……!?」

「随分、若い子だよね。恋愛観もチャラチャラしているようだし、一時の遊びにしてもどうかと思うよ」

「天ちゃんは……思ってるほど軽い人じゃないわ……」

 ようやくまともに口を開いたかと思えば山城を庇う。俺はそれにもまた苛ついた。妻の口から山城の名前を聞くと、いよいよ現実的なものになった。

「出会いの経緯は彼から大体は聞いてるけど、俺はやっぱりきみの口から直接聞きたい。……どうして浮気なんかしたんだ」

 すると妻はその場に頽れた。そして「ごめんなさい、ごめんなさい」と涙声で謝り続ける。そんな姿を見ても心が痛まないし、むしろ冷ややかな目で見下ろした。

「全部わたしが悪いの。わたしが……」

「そうじゃないだろ。なんで浮気をしたのか聞いてるんだよ」

「……ごめん、なさい……」

 はあ、と深く溜息をつき、「もういい」とだけ残して俺はリビングを出て行った。
 せっかく向き合うチャンスだったのに、結局また逃げてしまった。浮気を否定せず、言い訳もせず、ただ自分が悪いと謝る妻を見て、夫婦としてやり直せる自信がなくなった。というより、やり直せる自信なんて最初からなかった。なんとなくプライドや情に邪魔されて誤魔化してきたものを認めざるを得なくなっただけ。妻にも再構築という選択はなさそうだ。お互いに結論はもう出ている。けれども妻の浮気だけを理由にして離婚するのは嫌だった。
 謝って欲しいのではない。妻のせいにしたいわけじゃない。せめて何故浮気をしたのか、俺の何がいけなかったのかを教えて欲しい。俺に言えない悩みがなんだったのかを知りたい。そうじゃないと俺はこれからまた同じ過ちを繰り返すだろう。

 ***

 それから三日ほど妻とは会話をせず過ごした。妻は寝室で、俺はリビングのソファで寝起きをし、それぞれで適当に朝食を済ませて無言のまま仕事に出掛ける。弁当は毎朝用意されているが、持って行かなかった。故意に忘れられたその弁当を妻がどうしているのかは知らない。昼食として自分で食べているのか、それとも捨てているのか。夜は一応定時に帰って家で夕食を摂るけれど、なんの音もない静かな部屋で黙々と食べる。怒っているから話をしないのではない。どちらが結論を口にするか、お互いに様子を見ているだけだ。修復が不可能と分かり切っている関係で一緒にいなければならない苦痛は、喧嘩をするよりタチが悪かった。

『今日の夕方、六時にアネモネに来て下さい。話をしたいです。』

 痺れを切らせたのか、仕事中に妻からそう連絡が入っていた。妻とは店の好みが合わなくて意見が食い違うこともしばしばだったが、こういう場合に選ぶ店は同じなのだなと苦笑した。そんな日に限って仕事がなかなか片付かず、アネモネに着いたのは約束の時間を四十分ほど過ぎた頃だった。

 店に入って妻を探すと窓際の四人掛けの席にいて、しかもその隣には山城がいた。遅れたことを詫びるより先に、なぜ山城がここにいるのかと声を掛けた。

「ごめんなさい。わたしが無理を言ってお願いしたの」

「二人だけで話すのはできないのか」

「……彼にも一緒に聞いてて欲しくて……」

 山城がいれば喋れるということか。それほど妻は山城に傾倒しているのか。

「すみませんね、恵一さん。俺の顔なんか二度と見たくなかっただろうけど、俺も当事者なんでね」

 とりあえず俺はホットコーヒーを三人分注文して、コートとスーツの上着を脱いだ。姿勢が整うと、妻はポツポツと話し出した。



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