高橋 恵一 2
―――
「あら、早かったのね。おかえりなさい」
定時に仕事を終えて家に帰ると、陽気な声で妻が出迎えた。買い物から戻ったばかりなのか、ダイニングテーブルにエコバッグから出された食材が散乱していた。
「ごめんね、今から作るの」
「ゆっくりでいいよ」
いつも通りの挨拶、笑顔、互いを気遣う言葉。今朝はどうやって接したらいいのかと悩んでいたのが嘘のように落ち着いている。
――昼休み、浮気相手に「直接会って話がしたい」とメッセージを入れてから、わずか十分ほどで返信があった。無視をされるだろうと思っていたので驚いた。しかも、なかなか冷静な反応だったことも意外だった。
『初めまして。言い訳はしません。僕はいつでもかまいませんので、場所と日時を決めていただけますか』
浮気相手が逆上して妻を責めるのではないかという危惧もあったが、文面からしてそれはなさそうだと安堵した。と、同時に浮気が確定して絶望した。頭では分かっていたけど、胸の奥にあった勘違いであってほしいという一縷の望みを絶たれて目の前がクラクラした。話がしたい、と言ったものの、会って何を話すつもりだ? むろん「別れろ」と言うつもりではあるが、二人が関係を持った生々しい経緯を聞いて、俺は落ち着いていられるだろうか。
分からない。考えたくない。だけど考えなくちゃいけない。
俺はおそるおそる文字を打った。
『明日の午後六時に、駅前のカフェ【アネモネ】で。』
メッセージはすぐに既読になり、直後に『分かりました』と返事がきた。俺は追加で、妻は俺が浮気に気付いたことを知らないはずだから、妻には何も連絡をするなと釘を刺した。それについても淡々と『了解です』とだけ返ってきた。あまりにあっさり事が進んだので拍子抜けした。そうなると今度は逆に開き直ったのだ。ここでどんなに揉めても俺は決して悪くない。今後のことは直接「天」から話を聞いてから決めればいい。だから今日は妻とはいつも通りに接しよう、と。
「ね、恵一。来週の土曜日ね、ラッセン展があるらしいんだけど」
「ラッセン好きだったっけ? 行ってきていいよ」
「恵一は行かないの?」
ラッセンは好きでも嫌いでもないが、来週の土曜日は俺たちの関係がどうなっているか分からない。そんなことを当然言えるはずもなく。
「どっちでもいいよ」
ネクタイを緩めていた俺は、思い出したように鞄から弁当箱を取り出した。洗い物をしているうちに出しておかないと機嫌を悪くさせてしまう。弁当は食欲がなかったけれど、無理して米粒ひとつ残さず完食してある。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
空になった弁当箱を見て、妻がフ、と笑う。まるで俺が何も気付いていないとホッとしているように。
***
約束の場所であるカフェには、緊張のあまり十五分ほど早めに着いた。店内に入ると人はまばらで、とりあえずそれらしい人物はいなかったので角の席を選んだ。座るなりウェイターが水を持ってくる。冬を間近に控えた肌寒い季節だというのに、喉の渇きに耐え切れずそれを一気に飲み干した。
どこか時代錯誤な純喫茶。古臭いというより懐古的だ。かすかに流れるピアノ曲がまた洒落ている。妻の浮気相手と対峙するには場違いすぎて、店の選択を誤ったなと後悔した。腕時計に目をやると、ちょうど六時を指そうとしている。大きく息を吸った時、カラン、と軽快なベルとともに店のドアが開かれた。キャップを目深に被った若い男である。その男はキョロキョロと店内を見渡したあと、俺のほうに視線を向けた。ツバの影から目が合い、男はまっすぐこちらへ向かってくる。テーブルの隣に立ち、高くも低くもない声が「高橋さんですか」と訊ねた。
「そうです」
男はキャップを取り、「山城です」と改めて名乗る。さっきまでの緊張はどこへやら、俺はその風貌を見て呆気に取られていた。たった数行のやり取りだったけど、メッセージの雰囲気からして勝手に同い年くらいの素朴な男を想像していた。だが、山城と名乗る目の前の男は茶色のくせ毛をふわふわと遊ばせていて、カーキのブルゾンと膝が色褪せたデニム、つま先が薄汚れたスニーカーといういささか幼稚な格好をした青年だった。大きな猫目とすっきりした頤がいっそう幼く見える。俺や妻より明らかに年下、下手をすれば十代かもしれなかった。
ぽかんとしている俺をよそに、山城は俺の向かいに腰を下ろす。ぞんざいな手つきでキャップを隣に置き、少し乱れた髪をわしわしと掻き上げた。本当にこんな若造が妻の浮気相手なのだろうか……。
「失礼ですが、おいくつで……?」
無遠慮に聞いてしまった。
「二十五です」
ひと回りも違う。それでもまだ十代じゃなかったことにホッとした。山城は通りかかったウェイターにホットコーヒーを注文した。呆れるほどの気楽さで、こいつは自分がしでかしたことを分かっているのだろうかと唖然とする。先に本題に入ったのは山城だった。
「まさか旦那さんから直接連絡がくると思いませんでした。美紀さんは知らないんでしょ? 奥さんを問いただすより先に浮気相手を突撃するなんて、けっこうな度胸ですよね」
「……きみは本当に、美紀と……」
「ハイ。三ヵ月くらい前からです」
と、悪びれもなく言う。俺はメッセージの印象とのギャップに戸惑うばかりだった。山城は俺が質問するまでもなく、ペラペラと妻とのことを話し出した。
「美紀さん、フラワーアレンジメント習ってるでしょ? 俺はそのアレンジメント教室に時々卸してる花屋でしてね。三か月前、生花アレンジメントのレッスンをする花が足りないから急いで持って来てくれないかって講師の人に頼まれて、レッスン中に花を届けたことがあったんですよ。そのレッスンの生徒さんのひとりが美紀さんでした。小柄でおとなしそうで、童顔で地味だったから、最初はあんまり印象に残りませんでした」
人の妻に、よくしゃあしゃあと無礼なことを言えたものだ。
「その日の夕方だったかな。レッスン終わりの美紀さんが店に寄って、急な事態にも迅速に花を届けてくれてありがとうございましたって、わざわざ言いに来てくれたんですよ。『花が好きで今まで色んな花屋に行ったけど、おたくの花が一番綺麗だったので直接お礼を言いたくなった』って言ってくれて。なんかいじらしい人だなって、可愛いなって思ったんですよね」
妻が色んな花屋へ足を運ぶほど花が好きだなんて、初めて知った。アレンジメントはただ手っ取り早く習い事をするのに丁度いいから習っているのだと思っていた。山城は続ける。
「俺もそういう風に言われて嬉しかったから、お礼にオミナエシをプレゼントしたんです。すごく喜んでくれて、それからちょくちょく店に来てくれるようになりました」
オミナエシの花言葉は「親切」ですよ、と言われて心底どうでもよかった。何も言わずに黙っている俺を訝しんでか、山城はやぶから棒に聞いてきた。
「あなたが何も言わない限り俺は延々としゃべり続けますが、詳細を聞きたいですか?」
どうしてこうも態度がえらそうなんだと苛立ちは覚えたが、こういう場合自分がどういう振る舞いをするべきか分からなかった。俺は小さく「続けてくれ」と返した。
「……彼女が店に通うようになってから、俺たちは色んな話をしました。というか、美紀さんの話をたくさん聞きました。もちろん、結婚していることも。旦那さんは優しくて誠実で素敵な人だと褒めていましたよ。でも、どこか寂しそうなのが気になって、悩み事でもあるんですかって突っ込んだんです。まあ、あっさり話してくれましたよ」
「妻は、なんの悩みがあるって?」
「それは俺の口から言うことじゃない。本人と話し合って下さい」
そんなことも知らないのか、と馬鹿にされた気分だった。
「誘ったのはこっちからです。寂しかったら慰めてあげるよって」
「……ひと回りも離れた既婚者なのに」
「年上でも可愛いと思えば可愛いし、既婚者でも好きだと思えば好きだと言う。……恵一サンでしたっけ? アンタ、美紀さんと最後にセックスしたのいつなの?」
不躾な質問には顔をしかめた。挑発するようにテーブルに身を乗り出してズイッと顔を近付けてくるのを、背中を反らせて引いた。
「なんでそんなことをきみに言わなくちゃいけないんだ」
「随分、ご無沙汰みたいだったから。恵一さん、クロカワシステムズのサブリーダーなんだってね。仕事忙しいのは分かるけど、ちゃんと奥さん抱いてあげないと駄目だよ。だからちょっと優しくされただけで簡単に他の男に靡くんだよ」
カッとなって思わずテーブルに拳を叩きつけた。倒れたグラスから水が流れ、テーブルを伝って床を濡らした。穏やかでない俺たちを、店員や他の客が好奇の視線を向けてくる。だが、山城はそんなことなどおかまいなしといった態度だ。
「――アンタさ、さっきからなんにも言わないけど、どうしたいわけ? 自分の奥さんと浮気した男が許せなくて俺を呼び出したんじゃないの。奥さんと浮気男との詳細をジッと聞くだけで悔しくないの?」
悔しいに決まっている。自分よりずっと年下の男に好き放題言われて屈辱じゃないわけがない。だけど情けないことに何も言えなかったのだ。悪いのはあきらかに妻と山城なのに、目の前にいる男があまりに若くて美しくて、負けたとすら思ってしまった。滅茶苦茶なことを言っていると分かっていても迷いのない物言いが俺の調子を狂わせた。
「妻とは別れろ」
たったその一言しか言えなかった。山城はハッ、と嘲笑うとコーヒー代を置いて席を立った。
「ダンナにバレた以上、俺も続ける気はないよ。でもいきなり話がしたい、なんて連絡きたからどんな人が来るのかと思ってたけど、ガッカリしたな。こういう時思いっきり罵倒したり殴ったりするもんなんじゃないの? 人妻に手を出した俺が言うなって話だけど、奥さんが浮気したからって別に怒ってません、みたいなスカした顔してさ。そんな愛のない態度じゃ奥さんが余所の男に行くのも仕方ないと思うぜ。良く言えば冷静なのかもしれないけどさ」
「……」
「アンタ、冷たい男だな」
山城はそう言い残して立ち去った。
俺だって内心では悔しいし、怒っている。なりふりかまわず動けるなら殴り飛ばしている。頭の中では薄汚い言葉が渦巻いているが、あまりに動揺するとそれが上手く言葉にできないだけだ。しかもまるで浮気されたこちらのほうが悪いとでも言うような言われ方には腹が立つ。だが「冷たい男」と言われてドキリとしたのも事実だった。妻の浮気を知ってショックだし、悲しいはずなのに、妻の気持ちが自分から離れてしまっているなら仕方がないという諦めが既にあることに、不覚にも山城の言葉で気付いてしまった。
濡れた床とテーブルを店員が拭いてくれている。「大丈夫ですか?」と気遣われたが、苦笑するしかなかった。迷惑をかけたことを詫びて店をあとにした。
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「あら、早かったのね。おかえりなさい」
定時に仕事を終えて家に帰ると、陽気な声で妻が出迎えた。買い物から戻ったばかりなのか、ダイニングテーブルにエコバッグから出された食材が散乱していた。
「ごめんね、今から作るの」
「ゆっくりでいいよ」
いつも通りの挨拶、笑顔、互いを気遣う言葉。今朝はどうやって接したらいいのかと悩んでいたのが嘘のように落ち着いている。
――昼休み、浮気相手に「直接会って話がしたい」とメッセージを入れてから、わずか十分ほどで返信があった。無視をされるだろうと思っていたので驚いた。しかも、なかなか冷静な反応だったことも意外だった。
『初めまして。言い訳はしません。僕はいつでもかまいませんので、場所と日時を決めていただけますか』
浮気相手が逆上して妻を責めるのではないかという危惧もあったが、文面からしてそれはなさそうだと安堵した。と、同時に浮気が確定して絶望した。頭では分かっていたけど、胸の奥にあった勘違いであってほしいという一縷の望みを絶たれて目の前がクラクラした。話がしたい、と言ったものの、会って何を話すつもりだ? むろん「別れろ」と言うつもりではあるが、二人が関係を持った生々しい経緯を聞いて、俺は落ち着いていられるだろうか。
分からない。考えたくない。だけど考えなくちゃいけない。
俺はおそるおそる文字を打った。
『明日の午後六時に、駅前のカフェ【アネモネ】で。』
メッセージはすぐに既読になり、直後に『分かりました』と返事がきた。俺は追加で、妻は俺が浮気に気付いたことを知らないはずだから、妻には何も連絡をするなと釘を刺した。それについても淡々と『了解です』とだけ返ってきた。あまりにあっさり事が進んだので拍子抜けした。そうなると今度は逆に開き直ったのだ。ここでどんなに揉めても俺は決して悪くない。今後のことは直接「天」から話を聞いてから決めればいい。だから今日は妻とはいつも通りに接しよう、と。
「ね、恵一。来週の土曜日ね、ラッセン展があるらしいんだけど」
「ラッセン好きだったっけ? 行ってきていいよ」
「恵一は行かないの?」
ラッセンは好きでも嫌いでもないが、来週の土曜日は俺たちの関係がどうなっているか分からない。そんなことを当然言えるはずもなく。
「どっちでもいいよ」
ネクタイを緩めていた俺は、思い出したように鞄から弁当箱を取り出した。洗い物をしているうちに出しておかないと機嫌を悪くさせてしまう。弁当は食欲がなかったけれど、無理して米粒ひとつ残さず完食してある。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
空になった弁当箱を見て、妻がフ、と笑う。まるで俺が何も気付いていないとホッとしているように。
***
約束の場所であるカフェには、緊張のあまり十五分ほど早めに着いた。店内に入ると人はまばらで、とりあえずそれらしい人物はいなかったので角の席を選んだ。座るなりウェイターが水を持ってくる。冬を間近に控えた肌寒い季節だというのに、喉の渇きに耐え切れずそれを一気に飲み干した。
どこか時代錯誤な純喫茶。古臭いというより懐古的だ。かすかに流れるピアノ曲がまた洒落ている。妻の浮気相手と対峙するには場違いすぎて、店の選択を誤ったなと後悔した。腕時計に目をやると、ちょうど六時を指そうとしている。大きく息を吸った時、カラン、と軽快なベルとともに店のドアが開かれた。キャップを目深に被った若い男である。その男はキョロキョロと店内を見渡したあと、俺のほうに視線を向けた。ツバの影から目が合い、男はまっすぐこちらへ向かってくる。テーブルの隣に立ち、高くも低くもない声が「高橋さんですか」と訊ねた。
「そうです」
男はキャップを取り、「山城です」と改めて名乗る。さっきまでの緊張はどこへやら、俺はその風貌を見て呆気に取られていた。たった数行のやり取りだったけど、メッセージの雰囲気からして勝手に同い年くらいの素朴な男を想像していた。だが、山城と名乗る目の前の男は茶色のくせ毛をふわふわと遊ばせていて、カーキのブルゾンと膝が色褪せたデニム、つま先が薄汚れたスニーカーといういささか幼稚な格好をした青年だった。大きな猫目とすっきりした頤がいっそう幼く見える。俺や妻より明らかに年下、下手をすれば十代かもしれなかった。
ぽかんとしている俺をよそに、山城は俺の向かいに腰を下ろす。ぞんざいな手つきでキャップを隣に置き、少し乱れた髪をわしわしと掻き上げた。本当にこんな若造が妻の浮気相手なのだろうか……。
「失礼ですが、おいくつで……?」
無遠慮に聞いてしまった。
「二十五です」
ひと回りも違う。それでもまだ十代じゃなかったことにホッとした。山城は通りかかったウェイターにホットコーヒーを注文した。呆れるほどの気楽さで、こいつは自分がしでかしたことを分かっているのだろうかと唖然とする。先に本題に入ったのは山城だった。
「まさか旦那さんから直接連絡がくると思いませんでした。美紀さんは知らないんでしょ? 奥さんを問いただすより先に浮気相手を突撃するなんて、けっこうな度胸ですよね」
「……きみは本当に、美紀と……」
「ハイ。三ヵ月くらい前からです」
と、悪びれもなく言う。俺はメッセージの印象とのギャップに戸惑うばかりだった。山城は俺が質問するまでもなく、ペラペラと妻とのことを話し出した。
「美紀さん、フラワーアレンジメント習ってるでしょ? 俺はそのアレンジメント教室に時々卸してる花屋でしてね。三か月前、生花アレンジメントのレッスンをする花が足りないから急いで持って来てくれないかって講師の人に頼まれて、レッスン中に花を届けたことがあったんですよ。そのレッスンの生徒さんのひとりが美紀さんでした。小柄でおとなしそうで、童顔で地味だったから、最初はあんまり印象に残りませんでした」
人の妻に、よくしゃあしゃあと無礼なことを言えたものだ。
「その日の夕方だったかな。レッスン終わりの美紀さんが店に寄って、急な事態にも迅速に花を届けてくれてありがとうございましたって、わざわざ言いに来てくれたんですよ。『花が好きで今まで色んな花屋に行ったけど、おたくの花が一番綺麗だったので直接お礼を言いたくなった』って言ってくれて。なんかいじらしい人だなって、可愛いなって思ったんですよね」
妻が色んな花屋へ足を運ぶほど花が好きだなんて、初めて知った。アレンジメントはただ手っ取り早く習い事をするのに丁度いいから習っているのだと思っていた。山城は続ける。
「俺もそういう風に言われて嬉しかったから、お礼にオミナエシをプレゼントしたんです。すごく喜んでくれて、それからちょくちょく店に来てくれるようになりました」
オミナエシの花言葉は「親切」ですよ、と言われて心底どうでもよかった。何も言わずに黙っている俺を訝しんでか、山城はやぶから棒に聞いてきた。
「あなたが何も言わない限り俺は延々としゃべり続けますが、詳細を聞きたいですか?」
どうしてこうも態度がえらそうなんだと苛立ちは覚えたが、こういう場合自分がどういう振る舞いをするべきか分からなかった。俺は小さく「続けてくれ」と返した。
「……彼女が店に通うようになってから、俺たちは色んな話をしました。というか、美紀さんの話をたくさん聞きました。もちろん、結婚していることも。旦那さんは優しくて誠実で素敵な人だと褒めていましたよ。でも、どこか寂しそうなのが気になって、悩み事でもあるんですかって突っ込んだんです。まあ、あっさり話してくれましたよ」
「妻は、なんの悩みがあるって?」
「それは俺の口から言うことじゃない。本人と話し合って下さい」
そんなことも知らないのか、と馬鹿にされた気分だった。
「誘ったのはこっちからです。寂しかったら慰めてあげるよって」
「……ひと回りも離れた既婚者なのに」
「年上でも可愛いと思えば可愛いし、既婚者でも好きだと思えば好きだと言う。……恵一サンでしたっけ? アンタ、美紀さんと最後にセックスしたのいつなの?」
不躾な質問には顔をしかめた。挑発するようにテーブルに身を乗り出してズイッと顔を近付けてくるのを、背中を反らせて引いた。
「なんでそんなことをきみに言わなくちゃいけないんだ」
「随分、ご無沙汰みたいだったから。恵一さん、クロカワシステムズのサブリーダーなんだってね。仕事忙しいのは分かるけど、ちゃんと奥さん抱いてあげないと駄目だよ。だからちょっと優しくされただけで簡単に他の男に靡くんだよ」
カッとなって思わずテーブルに拳を叩きつけた。倒れたグラスから水が流れ、テーブルを伝って床を濡らした。穏やかでない俺たちを、店員や他の客が好奇の視線を向けてくる。だが、山城はそんなことなどおかまいなしといった態度だ。
「――アンタさ、さっきからなんにも言わないけど、どうしたいわけ? 自分の奥さんと浮気した男が許せなくて俺を呼び出したんじゃないの。奥さんと浮気男との詳細をジッと聞くだけで悔しくないの?」
悔しいに決まっている。自分よりずっと年下の男に好き放題言われて屈辱じゃないわけがない。だけど情けないことに何も言えなかったのだ。悪いのはあきらかに妻と山城なのに、目の前にいる男があまりに若くて美しくて、負けたとすら思ってしまった。滅茶苦茶なことを言っていると分かっていても迷いのない物言いが俺の調子を狂わせた。
「妻とは別れろ」
たったその一言しか言えなかった。山城はハッ、と嘲笑うとコーヒー代を置いて席を立った。
「ダンナにバレた以上、俺も続ける気はないよ。でもいきなり話がしたい、なんて連絡きたからどんな人が来るのかと思ってたけど、ガッカリしたな。こういう時思いっきり罵倒したり殴ったりするもんなんじゃないの? 人妻に手を出した俺が言うなって話だけど、奥さんが浮気したからって別に怒ってません、みたいなスカした顔してさ。そんな愛のない態度じゃ奥さんが余所の男に行くのも仕方ないと思うぜ。良く言えば冷静なのかもしれないけどさ」
「……」
「アンタ、冷たい男だな」
山城はそう言い残して立ち去った。
俺だって内心では悔しいし、怒っている。なりふりかまわず動けるなら殴り飛ばしている。頭の中では薄汚い言葉が渦巻いているが、あまりに動揺するとそれが上手く言葉にできないだけだ。しかもまるで浮気されたこちらのほうが悪いとでも言うような言われ方には腹が立つ。だが「冷たい男」と言われてドキリとしたのも事実だった。妻の浮気を知ってショックだし、悲しいはずなのに、妻の気持ちが自分から離れてしまっているなら仕方がないという諦めが既にあることに、不覚にも山城の言葉で気付いてしまった。
濡れた床とテーブルを店員が拭いてくれている。「大丈夫ですか?」と気遣われたが、苦笑するしかなかった。迷惑をかけたことを詫びて店をあとにした。
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