高橋 恵一 1
魔が差した、とはこのことだろうか。
深夜に鳴った妻のスマートフォンに違和感を覚えた。こんな時間に一体誰から連絡が入ったのだろう。
妻は自治会や習い事を通して、この土地では俺より知り合いが多い。平日休日問わず友人と出掛けるのはしばしばだし、毎日のように誰かとメッセージのやり取りをしている。妻のスマートフォンが鳴ることにはなんの不思議もないのに、この時だけ妙な不信感を抱いたのは、今まで日付けを越えた非常識な時間帯に連絡を取り合うことがなかったからだ。
深夜の通知音、入浴中でリビングに不在の妻、目の前で無防備に表示されたポップアップ。悪戯心を煽るには充分だった。いつもなら気にも留めないはずの妻のスマートフォン――、俺はそのパンドラの箱を、開いてしまった。
―――
妻と結婚したのは九年前。就職して六年ほど経った頃だ。東京の本社を中心に全国に支店がある俺の会社は、だいたい三年おきに転勤を余儀なくされる。入社して数年は首都圏内に留まっていたが、七年目の春に関西支社に異動が決まった。大学からの付き合いだった妻とは転勤を機に籍を入れた。二十八歳だった。挙式はしていない。引っ越しで忙しかったし、そのぶん新婚旅行で贅沢をしようと妻と決めたから。
決して器量が良いわけではないが、昔からにこにこと愛想が良く、人を思いやることができて、それでいて上手く甘えることができる。そんな彼女を可愛いと思っていたし、彼女となら幸せになれると信じていた。なかなか子宝には恵まれないが、それならそれで二人の時間が増えるから、と笑う妻に心が救われた。
仕事の愚痴は言わないようにしていたつもりだ。どんなに疲れていてもごみ捨てや皿洗いなど簡単な家事は手伝った。妻が欲しいものやしたいことに反対したこともない。夫婦生活は……最近ご無沙汰だったかもしれないが、週末は車で遠出をしたりショッピングを楽しんだ。先週の妻の誕生日も、なかなか予約の取れないレストランへ食事に行ったばかりだ。妻をないがしろにした覚えはない。
何がいけなかったのだろう。俺になんの不満があったのだろう。一体、どこで、何を間違えたのだろう。
***
『また来てくれるの待ってるね。大好きだよ』
仕事中だというのに、虫唾が走るような口説き文句が書かれた画面をぼんやり見つめていた。昨夜、妻が風呂に入っているあいだにポップアップで表示されているメッセージを写真に収め、そのあとスマートフォンを開いた。無用心なのかあえてなのか知らないがロックはかかっておらず、容易に見ることができた。メッセージの送り主は「テンちゃん」と書かれており、俺はそのアカウント名を控えて着信履歴を探った。電話はあまりしていないのか履歴に残る名前は義父母のものばかりだったが、先週の金曜日に一件だけ「天」という人物との履歴があったので、その番号もメモしておいた。メッセージの確認はしていない。というより、できなかった。妻が浴室から出た音がしたし、何より「テン」とやらとどんなやり取りをしているのか見るのが怖かったからだ。
元の場所にスマートフォンを戻し、あとはソファで寝たふりをした。動揺していたから妻と普通に会話をする自信がなかった。「寝てるの?」と声を掛けられたが、返事をしなかったら妻はそのまま寝室へ引っ込んだ。……しっかりとスマートフォンを握って。
今朝は「仕事がたくさんあるから」と下手な言い訳をして早めに家を出たので、妻とは碌に会話をしていない。今日、家に帰ったらどんな顔をすればいいのだろう……。
「高橋さん、どうしたんスか。ボーッとして」
部下の木下に声を掛けられて、ようやく我に返った。いつの間に昼休みに入ったのか、デスクの島は俺一人になっていた。
「チャイム鳴った?」
「なに言ってんすか。五分前に鳴りましたよ。今日は社食の弁当がビビンバらしくて、みーんな財布持って食堂行っちゃいました。高橋さんは?」
「ああ、俺は持って来てるから」
今朝、家を出る直前に押し付けるように渡された弁当。俺はそれをデスクの上に広げた。そぼろごはん、金平、煮物、卵焼き……健康に気を遣われた申し分のない完璧な弁当だ。
「うまそ~~~! 高橋さんの奥さんって本当料理上手っすよね~! 毎日凝った弁当作ってくれて、ほんと愛されてますね~!」
今の俺にはきつい言葉をぐさぐさと投げたかけたあと、木下は「じゃ、俺も食堂いってきます」と言って去った。
フロアにぽつんと残されて一人虚しく箸をつつく。昨日までは有難く食べていた弁当も、今日はなんの味もしないうえに飲み込むことすら困難だった。
これからどうするべきか。妻の不貞を知ったからと言って頭ごなしに責めるのはよろしくないだろう。たった一本のメッセージで浮気だと断定するのも早いし、証拠が少なすぎる。
じゃあ証拠を集めるために探偵でも雇うか? GPSで監視したり、不穏な行動があればすべて記録する? 証拠を集めてそれを突き出したところでどうなる。ほぼ確実に離婚になるだろう。
離婚、したいのか? 俺は、妻は、離婚したいのか?
自分の中では「分からない」が正直なところだ。妻とは学生時代からの付き合いだ。簡単に別れるとは言いたくない。だからといって今まで通り愛せるかと聞かれたら自信がない。愛せたとしても信用はできない。
妻は? もし浮気が本当なら、どういうつもりで浮気をしたのか。それとも浮気じゃなく本気なのだろうか。
相手との出会いは?
経緯は?
バン、と箸をデスクに叩きつける。昨夜は咄嗟に浮気相手であろう人物の連絡先を控えたが、別にこれを使って妻を追い詰めたいわけじゃない。――いちかばちか。控えておいた名前をアプリで検索する。名前では検索に引っ掛からなかったが、電話番号で検索したら簡単に引っ掛かった。アカウントにしろ妻の無防備なスマートフォンにしろ、こんなにあっさり情報が手に入るなんて、むしろ俺が知るように仕向けられているのではないかと恐怖すら感じた。
正式な登録名は「山城 天」となっていた。通話履歴に「天」と表示されていたのを思い出せば、おそらくこいつで間違いない。
心臓が激しく脈打つ。スマートフォンに水滴がつくほどの手汗。やめておけ、と頭のどこかで誰かが制しているが、震える指は勝手に動いていた。
『こんにちは。高橋美紀の夫の高橋恵一と言います。お聞きしたいことがあるので、直接会ってお話できませんか?』
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