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剛 3

「まひるのこと好きなん。お前も俺のこと好きって言うてくれたよな? ほなけん……なぁ、ええやろ?」

「うん、ええで」

「まひる!」

「ゴン!」

 ひしっと抱き締めたその時、お袋がノックもせずにいきなりドアを開けた。

「あんた、ひとりでなんしょん。さっさと朝ご飯食べまい」

 両腕をクロスさせて自分を抱き締めている一番見られてはいけない姿を見られてしまったが、お袋は特に突っ込むこともなく冷めた様子で出て行った。

 ――ああ……まひるとチューしたい。

 ***

 代掻きから一週間後、梅雨入りしたというのに快晴の土曜日の朝、今日はいよいよ田植えをする。ハエヌキとヒノヒカリは田植えをする時期に差があって、ハエヌキの田植えは数日前にじいちゃんが田植え機で終えてしまった。今日のヒノヒカリもほとんどがじいちゃんと親父が田植え機で行うのだが、俺に任された一反だけは手植えですることになっている。田んぼ作業の中で一番の行事と言ってもいい「田植え」。そんな心躍る素晴らしいイベントに、今年はまひるが手伝いに来てくれることになった。

 ついこの間まで田んぼなんかダサいと言っていたのに、何故手伝う気になったのかと聞いたら、じいちゃんから聞いた米作りの話が興味深かったから、と言っていた。いつの間にそんな話をしたのか知らないが、まひるが田んぼに少しでも興味を持ってくれたことは嬉しい。それよりデニムのオーバーオールで現れたまひるが可愛い。

「で、俺、手植えで田植えってしたことないんやけど、どなするん?」

 ――ここはカッコええとこ見せないかん。

 はりきってじいちゃんの麦わら帽子を被ったら、まひるが口元を引きつらせながら言った。

「もっと他にないんかい」

 田んぼの中は泥に足を取られるので歩きにくい。俺は慣れているけれど、せっかくなので二人で裸足になって田植えを行うことにする。畦から苗の束を放り込み、裾を膝までたくし上げ、水の張った田んぼの中へ足を踏み入れた。ひやりと絡む泥。足の裏全体でその感触を確かめる。冷たさに背中がぞわっとするこの感覚がたまらない。

「田んぼに升目書いとるやろ。筋に沿って後退しながら植えていくんやけど、等間隔に植えないかんけん、二人並んでせないかん。同じ場所に長いことおったら足抜けんようなって尻餅つくで。1、2、3、のリズムで植えるんや」

 手本を見せると、まひるは「こう?」と聞きながら俺の真似をする。

「そうそう。深く植えたら根に酸素がいかんようなるけん、二センチくらいの浅さで置くように、まっすぐ植えるんやで」

「これ、腰にくるな」

「あとでジジイと親父が近所の人誘って来てくれるけん、夕方には終わるやろ」

 小さな小さな米の赤ちゃんだった籾は、育苗箱で育てられているあいだに十二、三センチほどの綺麗な苗になった。去年までは籾の選別から籾まきまで親父とじいちゃんがしているのを横で見ているだけだったが、今年は全部自分でやった。勿論、じいちゃんの監視付きだ。塩水に漬けたり真水に漬けたりして籾の出来損ないを除け、発芽したら籾まき機で籾まき。籾を撒いた育苗箱はビニールシートに被せて、温度に気を付けながら成長を見守った。苗は短すぎても伸びすぎてもいけない。ちょっと気温が高かったりするとぐんぐん成長してしまうのだ。田植えまでの日数を考えて、場合によってはビニールに穴を空けて通気を良くしたり調整をしながら、丁度いい按排に育てる。

 そうやって大事に育てた苗を田んぼに送り出すのだから、巣立つ子どもを見送る親のような気分だ。

「初めての俺の米やで。新米楽しみやわ」

「新米って、やっぱちゃうん?」

「新米の米びつん中に手ェ突っ込んだことあるか? 真っ白でな、サラッサラやねん。サラッサラやのに柔らかいん。ずっと触っとけるわ」

 ニヤニヤしている俺をまひるが不思議そうに見ていたので、慌てて口元を引き締めた。

「今、植えよんはなんの品種?」

「ヒノヒカリ。うちはヒノヒカリとハエヌキ作っとんやけどな。ハエヌキは硬めでパラパラしとってカレーとか丼に合うんやけど、ヒノヒカリはコシヒカリの子どもでもっちりしとって、和食に合うんや。炊き立てのをおにぎりにして海苔巻いて食うたらめっちゃ美味いで」

 ――いかんいかん、ヨダレ垂れるとこやったわ。

 静かな田んぼに聞こえる水の音。
 日差しが暑くて暑くて、暖かい。
 麦わら帽子の隙間から流れる汗。それを乾かすように時々風が吹き抜けた。
 風と一緒になって届く草木の匂い。
 鳥のさえずり。
 時間とか喧騒とか、煩わしいことを全部忘れられる至福の時に、まひると一緒に田植えをしている。長年の夢がかなって俺は今最高に幸せだ。
 拙い手つきで苗を植えながら、まひるは時々息をつき、背中を伸ばしてトントンと腰を叩いた。

「ゴンがさぁ、畦塗りしよる時に、こやって背中叩きよん見て『オッサンみたいやなぁ』って思ったんやけど、実際自分もやってみたら同じことするんやな」

「しんどかったら、休んでもええで」

「いや、するで。なんか昔に戻ったみたいで楽しいわ」

 辺りを見渡して誰も見ていないのを確認する。麦わら帽子のツバがやたら広いので邪魔になるかもしれないと思い、俺は帽子を取ってまひるを見据えた。首を傾げて怪訝そうな表情で、まひるは俺の顔を覗き込んでいる。

 ――肩に手ぇ添えるべきか? いや泥が付いとるけん、いかんな。右からいくんか? それとも左か? 歯ぁ当たったりせんやろか。

 情けないことに俺はまだキスもしたことがないDだ。だけどここはやっぱり男らしくキメたい。ちょっとずつ顔を近付けてまひるの玉のような肌が目前になった時、

「あ、蚊」

 バチン! と頬と叩かれてしまった。

 ――そのタイミング……!?

「いっ……てぇ。思いっきり打ったやろ」

「いや、だって、ホラ。めっちゃデカいん仕留めたで」

 まひるの手の平の真ん中でペチャンコになった蚊のように、俺の勇気もしぼんでしまったのだった。

 その後は真面目にせっせと田植えをして、途中で親父とジジイが助っ人の近所の人も連れて手伝ってくれた。早朝から始めたこともあり、おかげで田植えは午後一時半ごろに終了した。

 ちょっとガタガタしているところは後で直すとして、水だけだった田んぼに小さな苗が彩を与えた。水面に映る空と木。背景にそびえ立つ迫るような山。ずっと泥に足を取られながら腰を曲げていたので明日は筋肉痛になるだろう。そんな全身がズン、と重たく感じる中で、まだスカスカの田んぼがこれからどんどん青々と変わるところを想像すると、「わ――――!!」っと叫びたくなる。隣で汗だくになっているまひるも、少しは同じことを思ってくれているのか、どこか清々しそうな顔をしていた。

 その後は自宅の庭でお袋が簡単に用意した昼食を取った。収穫したての米というわけにはいかないが、艶々したヒノヒカリの握り飯と、とうもろこし農家からの差し入れのゴールドラッシュ。生でも食べられるゴールドラッシュは糖分が多くてかじると口の中いっぱいに瑞々しい甘さが広がる。春大根がたくさん入った豚汁。少し濃いめの味噌の塩分が、汗をかいて疲労した体によく効いた。素朴でのどかな自然の中で、その自然が作り出した食物を体に取り入れることに喜びを感じる俺は、やっぱり年寄りくさいのだろうか。

 おにぎりを頬張りながら、まひるが訊ねた。

「ゴンはずっとここにおるん? 大学は県外出んの?」

「ジジイが腰痛めとるけんなぁ、手伝える時は手伝いたいし、県内やな」

「大学卒業したら、完全にファーマー?」

「考えとらんけど、とりあえずどっか就職はするんちゃう」

 まだ漠然とした願望でしかない、ちょっとした夢がある。ちゃんと形になるまで誰にも言わないでおこうと思ったけれど、田植え後の達成感が後押しして、俺はその願望を語った。

「俺な、自分の店持ちたいん」

「店!?」

「いまはまだ米作るんに農薬使っとんやけど、もっと慣れきたら無農薬で作って、米は勿論、野菜も種類増やしたいん。んで、自分で作った米と野菜使ったカフェ開きたいん」

「ゴンがカフェ」

 「想像つきまへん」とでも言いたそうな、どこか小馬鹿にしたような半笑いだった。

「だって、料理は?」

「俺、自分で弁当作ってんで」

「うそやん」

「こないだの豆ごはんのおにぎりも、おかずも、全部俺が作ったん。あー、筍はお袋やな」

「なんなん、その女子力」

「生きる力と言うてくれ」

 俺がそんな夢を持ったきっかけは里芋だった。家の畑で作っている里芋は大きくてずっしりと詰まっていて、とにかく美味い。煮物にしても、味噌汁に入れても、コロッケにしても、ほくほくと柔らかくて滑らかだ。驚かれるのはおでんに里芋を入れることだが、おでんの里芋はめちゃくちゃ美味い。粘り気があるため見栄えが悪くなることはあるが、その粘り気こそが里芋の栄養だ。そんな美味い里芋が当たり前の我が家。いつか一度だけ、スーパーで里芋を買ったことがある。たまたま手に取ったものがいけなかったのか、妙に堅くてシャリシャリしていて不味かった。その時に、自らの手で無農薬で作ることが、こんなに有難いことだったのだと実感したのだ。

 他の野菜もきっと違うはず。もっと作ってみたい、食べたい、食べて欲しい。それが、俺の夢の一歩だった。

 ――それを、まひると一緒にしたら楽しいやろうなぁ。まひるが接客で俺がキッチンで、休みの日は一緒に農作業すんねん。最高やなぁ。

 勿論、断られたらショックなので、まだ言わない。

「まひるは?」

「俺は……」

 その時、一足遅れて親父が田んぼから戻った。

「剛、育苗箱ちゃんと洗って乾かしとけよ」

「あ、そっか」

 持っていたおにぎりを一気に口に含み、豚汁の残り汁で胃袋に流し込んだ。麦茶を一気飲みして再び麦わら帽子を被る。

「まひるは食ったら帰ってええよ。手伝うてくれてありがとう」

「俺も洗うんしよか?」

「洗うだけやし、かまん。それよりさぁ……」

 キョロキョロ見渡して、誰もいないのを確認してからまひるに顔を近付けた。至近距離でまひるの大きな目を凝視する。そして、

「あ、米」

 口の横に付いていた米粒を取ってくれたまひるは、それを指でピッと飛ばした。

 ――それは食うてくれてもええんやで。

 とか思ってしまった俺は変態かもしれない。庭のどこかに消えてしまった米粒のように、俺の期待も飛ばされてしまった。

「ゴン、髪切らん?」

「……そいや、長いこと散髪しとらんわ」

「俺、実は髪切れるんで。明日、ウチ来る? ベランダで切っちゃる」

「ほんまに?」

「ついでに眉毛カットもしたるわ。ヤマアラシみたいになっとるで」

「よろしく頼んます……」

「ほな、帰るわ。ご馳走様でした。おばちゃん、どこ?」

「え……えーと、台所かな」

 まひるはあっさりと「また明日」と手を振って、帰って行った。

 ――もしかして、チューとかイチャイチャしたいん俺だけ……? っつーか、「好き」って、赤ちゃんが好きとか犬が好きとかそういうレベルやと思とんちゃうか……?

 まひるが食ったあとの皿は、米粒ひとつ残らず綺麗に平らげられていた。


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