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番外編5

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 それからしばらく絵を描くことをやめたのだが、何年も毎日欠かさず描いていた絵も三日も経てば描かないことに慣れてしまった。朝起きて、仕事をして、帰って寝る。ただそれだけの生活。なんとも味気なくてつまらないけれど、気持ちはとても穏やかだったと思う。苦しみの原因から離れるとこんなにも楽になるのだと知った。

 ある日、夜中に何を求めるわけでもなくネットサーフィンをしていたら、とあるブログに辿り着いた。定期購読しているブロガーのフォロワーのフォロワーのフォロワーの……という風にフラフラと色んな人のブログに立ち寄っていたら見つけたのだ。

『あるおっさんの人生記録』というひねりのないタイトルで、普段ならスルーしていただろうそのブログを、どうせ何もすることがないので暇つぶしに読んでみた。
 記事の内容はまさに「おっさん」のこれまでの出来事が綴られているだけだった。けれども何故か読みだすと止まらないのは「おっさん」の体験談が既視感を抱くものだったからだ。「おっさん」が語る街の風景や、店、家族のこと、そして「彼」のこと。すべてが俺の記憶の中にあるものと似通っている。ただ、その時はまさかこのブログの管理人が本当に福島さんだなんて思いもしなかったので、「そうだったらいいのにな」という希望を持つだけで深く探ろうとはしなかった。

 なんの変哲もない「おっさん」のブログは、毎日覗くうちにいつしか日々の楽しみになっていた。「おっさん」の書く文章は優しくて、懐かしい。本当に福島さんが語っているんじゃないかと錯覚するくらいだった。
 そうやって暇つぶしのひとつとして楽しんでいたものが次第に親近感に変わり、やがて恋しさに変わった。このブロガーが恋しいというのはなく、記事を通して記憶から掘り起こされる福島さんを恋しく思った。
正直、今まで福島さんには腹を立てていた。あれだけ好きだと言い合っていたのに俺の言い分を無視して別れを決めてしまった。別れたら別れたであっさり連絡さえ取れなくなった。薄情な人だとムカついていたのだ。
 けれども「おっさん」のブログを読んでいると福島さんといて幸せだったことばかりを思い出す。大学時代、福島さんがいたから挫折から立ち直れたし、これまで絵を描き続けられた。才能も個性もない俺を唯一認めて応援してくれていたのだ。きっとあんなに優しくて純粋な人は他にいない。
 そして俺は思い立ったようにスマホを置いて、何日かぶりに机に向かった。

 絵を描こう。
 例え誰も必要としていなくても、きっとあの人なら必要としてくれるだろう。
 福島さんはいつか会えたら隣を堂々と歩けるような人間になると言っていた。
 俺もそうでありたい。
 福島さんに格好悪い姿は見せられないから。

 ***

「まさか本当に福島さんだったなんてね」

 無意識の独り言に、俺の隣でスヤスヤと寝ていた福島さんが「何か言った?」と寝ぼけた声で言った。すっかり陽が昇った日曜日の朝。休日なのをいいことに、明るい布団の上で俺たちはいつまでもゴロゴロとまどろんでいた。福島さんの無防備な寝顔を眺めるのが好きだ。
 福島さんは昔から実年齢より若く見える。五十を過ぎた今でも、近所の人に「お若いですね」と言われているのをよく見る。けれども、こうして太陽の光に照らされると目元の皺や生え際の白髪がはっきり分かって、俺しか分からない福島さんの歳月を感じて優越感に浸った。

「あのブログはもう更新してないんですか?」

「……よく覚えてたね」

 うつ伏せだった福島さんは両眼をこすりながら寝返り、またウトウトとしている。

「してないよ」

「もう書かないんですか?」

「書かないよ。きみとまたこうして一緒にいるんだから、もう必要ない。消してもいいんだけどね」

 おいで、と広げた福島さんの腕枕に吸い込まれる。寝そべると福島さんは俺の髪を指で弄んだ。

「消さないで下さいね。あのブログを見つけたから、俺は絵を諦めずに済んだし、何よりあれがなければ和瑞さんと再会することも叶わなかった。俺にとって大事なものだから」

「恥ずかしいけどね、僕は」

「時々読み返してるんですよ」

「えぇ……やめてよ」

「あれを読むと和瑞さんと出会った時のこと全部思い出せて幸せな気持ちになるから」

 福島さんは含み笑いをして「そうだね」と呟いた。

「だけど、それは今もこうして一緒にいるからだろうね」

「……」

「川原くんとの日々は僕にとっても本当に幸せなことばかりだよ。でもブログを書いている時は辛かったなぁ。なんで別れちゃったんだろうって後悔ばっかりしてた。今こうして一緒にいられるから、その辛い日々もいい思い出になってるけど、再会できないままだったらって考えると怖いよね」

 確かにそうかもしれない。あの時、絵を描くことをやめていなければネットサーフィンをして暇をつぶすこともなかっただろうし、例えブログを見つけていたとしても素通りしていたかもしれない。そうしたら福島さんの存在に気付くこともメッセージを送ることもなかっただろう。今も独りで死んだように生きていたかもしれない。

「今日は何かしたいことある?」

「あ、俺あとでちょっとアトリエ行こうかな」

 芸術祭のポスターを描いてから、ちょくちょくと絵やデザインの仕事が入ってくるようになり、小さな仕事でも地道に続けるうちに少しずつ利益が出るまでになった。溜まった貯金で本土へ引っ越し、アパートの一室を借りてそこを仕事場にしている。
 早く絵を諦めろと口癖のように言っていた母もようやく認めてくれて、本土へ引っ越す時も快く送り出してくれた。けれども加工場での仕事を辞めたわけではない。漁の時期になると実家へ戻り、加工場の仕事が落ち着くまで島にいる。絵の仕事と漁の時期が重なると忙しくて目が回りそうになるが、有難い忙しさなのでまったく苦ではなかった。

「広告の依頼が入ってたんだっけ」

「うん、デザインお任せしますって言われたのに、いざ提案したら色々注文付けられちゃって。あとから言うなら最初から言ってくれよって話ですよね」

 こぼした愚痴に福島さんが何やらニコニコしている。

「なんですか?」

「いや。そう言いながらも楽しそうだなって思って」

 表情に出ていたのだろうか。俺はおもわず自分の頬をさすった。

「うん、楽しい。今がたぶん人生で一番楽しい」

「僕もだよ」

 もうすぐ正午になる。アトリエに行かなくちゃいけないのに一度キスすると余計離れがたくなった。幸せだな、と思うのと同時に、さっき福島さんが言ったように再会できなかったら、と考えるとぞっとした。だけどこうも思う。
 福島さんはいつも、俺が絵を諦めかけている時に現れる。初めて会った時もブログを見つけた時もそうだった。だからあの時、もしブログを見つけられなかったとしても、いずれどこかで会えたんじゃないだろうかと。
 戯れるだけのキスをしながらそう考えた。

「今日はもう時間ないけどさ、次の休みはちょっと出掛けようか」

「どこに?」

「『ふるーら』って覚えてる? そこの奥さんがね、ふるーらは閉めちゃったんだけど、今も自宅でお菓子を作ってるんだって。ころころパイもあるらしいから行ってみない?」

 と、毎年やりとりしていたらしい年賀状を枕元から取った。

「行きたい!」

「奥さんにね、川原くんを会わせる約束をしてたんだ。ずっと昔の話だけど、僕が離婚した直後くらいに『好きな人と幸せになったら会わせてね』って言ってくれてたからさ」

 ふるーらの奥さんは当時七十歳くらいだと言っていた。今は八十を過ぎているだろう。その世代の人からすれば同性愛は受け入れ難いのではないのか……と不安を抱いた時、福島さんが先回りして言った。

「僕の相手がどんな人かもう知ってるし、話したらぜひ会いたいと楽しみにしてくれてたよ。それにふるーらの奥さんは偏った人じゃないから」

 福島さんがそう言うなら大丈夫なのだろう。
 ぐう、と福島さんのお腹が唸った。

「ころころパイの話したからお腹空いたな……」

「アトリエに行く前にそこのカフェでサンドイッチ食べよ」

 陽が当たっていたベッドに影が差し始めて、ようやく俺たちはそこから離れた。
 いい加減に畳まれた服、籠に乱雑に放り込まれた、まだ洗濯されていない下着、洗い桶に浸されたままの食器。帰ってからでいいよね、なんて後回しにして一緒に家を出る。
 道端であくびをする猫、大声で井戸端会議をする老人たちを通りすぎ、福島さんの他愛ない話に耳を傾けながら考えた。もし福島さんと出会わなかったら今頃何をしていただろう。

早々に絵を諦めて普通のサラリーマンになっていたかもしれない。
誰かと結婚でもして漁をしていたかもしれない。
その昔夢見ていた、都会に出て有名な絵描きになりたいという理想と真逆の人生を歩んで絶望していたかもしれない。
今も昔の夢とはまったく違う人生ではあるけれど――

「あ、帰りにスーパーで枝豆買って帰ろう。塩ゆでした枝豆とビールが最高に美味しいんだよね」

 そんな些細な楽しみを幸せそうに笑う福島さんに、つられて笑った。
 田舎でもいい、地味でも細々としていてもいい。福島さんがいてくれるなら。
 わた雲がまばらに浮かぶ青空の下、穏やかな幸せを噛みしめつつ、俺たちは手をつないだ。



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