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番外編4

 ***

 早朝、寝ている母親を起こさないように静かに身支度をして、空が白みだした頃に港へ向かった。加工場での仕事が始まるまでにまだ時間がある。少しでも絵を描いておきたいので、毎日早起きをして仕事が始まるまで港で絵を描くのが習慣だ。
 家ではどうも描きにくい。早く夢を諦めて潔く漁師になるか、もう少し大きな会社にでも入って安定して欲しいと口癖のように言う母親が鬱陶しいからだ。
 靄が掛かった朝の海は幻想的で好きだ。今日はそれを描くことにする。静かな港、ちゃぷん、ちゃぷんと穏やかな揺れる波。鉛筆の滑る音だけに集中するうちに、何も耳に入らなくなる。余計なことを考えず、景色とスケッチブックだけを見る。無心で描いているのに頭のどこかで「あ、今、集中してるな」って客観的になっている自分がいる。絵を描いている時の、この感覚が好きだ。せっかくいい感じに筆が乗っているところで、

「留衣!」

 野太い声とともに肩を掴まれて、集中力が切れてしまった。

「何しとんや?」

 加工場で一緒に働いている上司の山田さんだ。気性が荒い漁師が多い中で、唯一、穏やかで優しいおじさんだ。俺は描きかけのスケッチブックを慌てて閉じた。

「なんな、隠さんでええやろ」

「でも上手くないし……」

「上手い下手なんかかまんきん、見せてんまい」

 にこにこと笑いながらも強引に迫られ、渋々絵を見せた。山田さんは大袈裟なほどに俺の絵を褒めてくれ、かえって恥ずかしくなる。

「上手いなぁ、上手いなぁ、なんや~お前絵が描けるんかぁ。なんで今まで黙っとったん」

「え……話す機会なかったですし……」

「それもそやな。なんで絵描きにならんかったん?」

 嫌な質問だ。「ならんかった」じゃなくて、「なれんかった」からだ。この質問も今までに何度もされてきた。そして俺は決まって「趣味ですから」と言って、あくまで仕事にするつもりはないと見栄を張ってきた。山田さんの問いにもそう答えるつもりだったが、見栄を張るのもいい加減に疲れて何も返せなかった。暗い表情を見せてしまったかもしれない。山田さんは俺の顔を覗き込んだあと、スケッチブックの絵をまじまじと見つめた。

「趣味で終わらすには勿体ないと思うけんどなぁ」

 その言葉に思わず反応する。

「やりたいことあるんやったら、やったらええんやで。お前はまだ若い。なんにでもなれる」

「……そうでしょうか。でも僕より才能のある奴はたくさんいる」

「そんなん考えよったら、なれるもんもなれんわ。わしの知り合いに広告会社で働いとる奴がおるんやけど、そいつがこのあいだイラストレーター探しとるって言うとったわ。雇ってくれんか聞いてみたろか?」

「え、いや、でも」

「なんや、こういうんはどこから成功するもんか分からんで。あとで電話してみるわな」

 どうせ口先だけで終わるだろうと期待はしていなかったが、「知り合いの電話番号を教えるから、あとは自分で連絡を取れ」と山田さんから連絡があったのは、その日の夜のことだった。
 急な展開に戸惑いながらも、もしかしたらやっと一歩を踏み出せるかもしれないとドキドキしながらさっそく電話を掛けた。

『はい、三宅です』

「あ、あの、山田さんからご紹介いただきました川原と申します」

『ああ、聞いてるよ。絵が描けるんだってね』

 三宅という男の人は気さくにそう切り出してくれた。もしかしたら良い反応がもらえるかもしれないと戸惑いが期待に変わっていく。

『イラスト系は描ける?』

「はい。専門学校でイラストコースでしたので……」

『パソコンで描くでしょ? ソフトは何が使える?』

「や……あの、デジタルは使えないことはないんですけど、僕はアナログが主体で」

 三宅さんは「嘘でしょ」と笑った。この流れは嫌な予感しかしなかった。

『今はデジタルが主流だから、それだとちょっと困るなぁ。……ごめんね』

 作品を見てもらうことすら叶わず、やんわり断られた。
 デジタルのほうが華やかだから人目を惹くのは分かるし、それが主流だということも知っている。
 だけど俺はあえてアナログを選んだ。アナログでなければ伝わらない色彩や温かみがあると思っているからだ。
 今までやってきたことがすべて拒否された気がして、悔しさと悲しさをぶつけるようにスマートフォンを壁に向かって放り投げた。ゴッ、と鈍い音を立てて弾き、クッションの上に落ちる。

 ―—誰か、俺を認めて欲しい。

――—

「どうしたの、留衣」

 誰かに優しくされたくて、気が付けば麻耶の家の前にいた。深夜にいきなり訪ねてきた俺を麻耶は責めもせず家の中に入れてくれる。もう寝るところだったのか、寝間着に薄いカーディガンという無防備な格好だ。俺の表情が暗いことに気付いているらしいが、あえて空気を悪くしないように明るく接してくれた。

「ちょっと寒いよね。紅茶でも淹れるから座って待っててよ!」

 そして俺は麻耶の小さい背中を抱きすくめて、暗がりの廊下へ倒れ込んだ。麻耶は「どうしたの」と戸惑ってはいたものの、拒む素振りは見せなかった。いくら好意を持っている相手とは言え、いきなり男に押し倒されたら普通は嫌がるだろうに。

「辛いことでもあった? わたしでよかったら話して」

 話すと駄目な自分にますます惨めになりそうで何も言えなかった。麻耶の肩に顔を埋めたまま動けず、やがて麻耶の両腕が後ろに回った。背中を撫でてくれる。拒否されないことがこんなに嬉しくて有難い。少しだけ体を離すと麻耶は両手で俺の頬を包み、キスをしてきた。

 柔らかい。温かい。寂しい。

「ここじゃなんだから、ベッドいこ?」

 麻耶に言われるがまま寝室へ連れられ、そしてベッドに一緒に雪崩れこむ。もうどうでもよかった。とにかく誰かにすがりたかった。一度断った相手なのにと非難されるかもしれないが、一番辛い時に傍にいてくれる彼女を確かに愛しいと思った。
 運命の相手が誰かなんて分からない。自分が一番好きだと思った人とはきっと縁がない。きっかけがどうあれ、今の俺には彼女が必要だし、これから大事にしていきたい。あの人のことはもう忘れて。
 ――そう思ったのに。

「わたしのことなめてるの」

 低く言った麻耶の声は、あきらかに傷付いていた。
 麻耶を大事にしようと気持ちは燃え上がっていたはずなのに、いざ肌を合わせると途端に心が冷えていくのが分かった。俺がすがりたかった温もりとは別物だった。少しでも抱いた違和感を認めてしまうと、もうそこから先に進むのは無理だった。
 すっかり項垂れている俺の後で、麻耶は聞こえよがしに溜息をついて服を着始めた。

「……もともと留衣はわたしのこと好きじゃないっていうのは知ってたから、今は無理でもこれから好きになってくれるなら、してもいいって思ったよ。でもその場凌ぎでわたしを選んだだけなら幻滅だよ」

「……ごめん」

「否定しないんだ」

 その場凌ぎだというつもりはなかった。八方塞がりになって真っ先に頭に浮かんだのは麻耶だったし、順序は違えど付き合うつもりだった。だけど頭が冷えて麻耶と何年も一緒に過ごすことを想像したら、やっぱり考えられなかった。これをその場凌ぎと言われたら否定はできない。

「留衣さ、好きな人いるんでしょ? そうじゃなきゃ、こんなに頑なにならないと思うんだけど」

 問われてやっと再認識する。そうだ、俺は好きな人がいるんだ。ずっと好きな人が。
頭の中はもう福島さんのことでいっぱいで、福島さんの笑顔を思い浮かべるだけで涙があふれて止まらなかった。

「ごめん、……ごめん……」

「もういいよ。そんなに泣かれたら怒る気も失せちゃったじゃん。ただ、わたしだって傷付いたし泣きたいんだからね」
 こんなにいい子なのに、どうして俺は福島さんじゃないと駄目なのだろう。十九で福島さんに会うまでは恋愛なんてしなくても生きていけたのに、ひとりでどうやって頑張っていたのか、今は思い出せない。

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