番外編1
絵を描くことが好きだった。
ひとりの時間を潰すために何かすることがないかと考えていたら、目の前に紙と鉛筆があったから落書きしてみた、というのがきっかけだったと思う。始めは窓から見える庭の木を描いた。下手くそだったけど、無心に描くことが気持ち良くて、今度は家を描いてみよう、猫を描いてみよう、と、色んなものを描いていった。そのうえ「上手に描けてるわね」と褒められると嬉しくて、もっと見て欲しくて、認めて欲しくて、気が付けば絵を描くことに夢中になっていた。
漁師の父は毎年、初夏から秋頃まで漁に出る。そして母は父が獲った魚を加工する手伝いをしている。一年のうちの三分の一は、両親はほとんど家にいなかったし、小さな島では遊びに行くような場所もなかったので、幼少期は一日中絵を描いて過ごした。
当然、それだけ毎日絵を描いていれば自然に上手くもなるもので、「絵が上手い=川原留衣」というイメージが学校でも植え付けられていたくらいだった。行事ごとのチラシやポスター、看板デザイン、そういった仕事は名乗り出なくても勝手に任され、俺もまた張り切ってやるものだから、「さすが」とか「やっぱり上手いね」と褒められることは当たり前のことだったのだ。
だけど、それまで培った自信が揺らぎだしたのは、大学受験を控えた高校三年の夏だった。
「あんた、まさか大学に行く気じゃなかろうね」
美大を受験するための参考書を見た母親からの質問。なんの迷いもなく美術の道を行くつもりだった俺は「勿論」と答えた。前々から「絵描きになりたい」というのは母親にも父親にも話してあったから、両親もそのつもりなのだと思っていた。
「大学に行けなんか、言うとらんよ」
「え、……でも、このあいだの懇談で担任にも美大目指す言うたやん。おかん、横でおったやろ」
「本気なん?」
「なに言うとんの。懇談で嘘言うわけないやろ」
「美大はいかんで。ウチも裕福ちゃうんやきん」
それは薄々気付いてはいたが、だからといって「そうですか」とアッサリ諦めたくもなかった。
「俺もバイトしてなるべく負担にならんようにする。迷惑かけるけど、俺は小さい頃から絵描いてきたから、やっぱり絵の道に行きたい。お願いやきん、行かせてくれんかな」
「お父さんに聞いてみよし」
けれども、父親も「NO」だった。
美大に入っても、その中から本物のアーティストになれるのはほんのひと握り。高い学費を払って絵に時間を注いだところで、せいぜい教員免許を取って美術の先生になるのがいいところだ、と。
「……自分の子どもの夢を応援してやろうって気はないん?」
「えらそうにぬかすな。息子じゃきん厳しいこと言うんやろうが。お前にほんまに絵の才能があるんやったら、わしらも応援する。ほなけど、素人目に見てもお前の絵は『ちょっと上手いだけ』や。目ぇ覚ませ」
「やってみんと分からん」
「分かる」
「分からん!」
「ほんなら、現役で受かれ。浪人したら普通の大学にも行かさん。漁師になれ」
「……」
「現役で受かる自信がないんやったら、諦めろ」
意地だったと思う。俺は必ず現役で受かってやると両親に言い切った。
毎日放課後は美術室で絵を描いて、帰りは画塾に通う。塾がない日はデッサン会に行ったりもした。意気込んでいるうちはまだ良かった。自分で言うのもなんだけど、みるみる上達した。けれども、あるラインまで行き着くと、今度は伸び悩んだ。何を描いても上手く描けない、気に食わない、むしろ下手になった気がする。それなのに周りはどんどん上手くなる。焦りが焦りを呼んだ。
「きみの絵はね、決して下手ではないんだよ。だけど目を引くものがない」
確かに周りの奴らは独特の感性を持っていた。自分では考えもしなかった色、構図。自分とは違う着眼点。こいつらの眼にはこんな色に映っているのか、と思うと、もはや五感から違うのだなと理解し始めた。
それでも「絶対に受かる」と言ったのだから、もう死ぬ気でやった。冬のあいだの記憶なんてほとんどないくらい。あの頃を思い出そうとしても、頭に浮かぶのはキャンバスの前で頭を抱えている自分の姿しかなかった。
なんとか合格通知が届いた時には本当に燃え尽きた気分だった。喜びより、とにかくほっとしたのだ。「まだ夢を追い掛けてもいいんだ」という安心感。だけど、両親は認めてはくれなかった。
「学費の上に生活費も出さないかん。ほんま絵なんか描かすもんやないわ」
ちょっとくらい「頑張ったね」って言うてくれてもええやん
「応援しとるきんね」って言うてくれてもええやん
なかば家出同然で、俺は島を出た。アパートもバイトも自分で決めたし、それでいて「ほら、やっぱり駄目やったやろ」と言われないように、今度こそ見返すつもりで。
でも、やっぱり現実は思ったよりも厳しい。
まず入学式の時点で圧倒された。入学のしおりに「服装はスーツで」と書かれていたにも関わらず、半数はそんなルールを無視した奇抜なファッションをしている。学長ですら、
「今年の新入生は、個性がないですね」と「マニュアル通りに動く人間」を駄目出ししたのだった。
丸一日かけて描いた絵を「駄目だね」と消され、クラスメイトが褒められている傍らで「センスがない」と言われ。画塾にいた奴らよりも、もっと個性も技術もある奴がゴロゴロいるのだ。そしてハッと気付いたのだ。
絵を描くのが、楽しくない。
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ひとりの時間を潰すために何かすることがないかと考えていたら、目の前に紙と鉛筆があったから落書きしてみた、というのがきっかけだったと思う。始めは窓から見える庭の木を描いた。下手くそだったけど、無心に描くことが気持ち良くて、今度は家を描いてみよう、猫を描いてみよう、と、色んなものを描いていった。そのうえ「上手に描けてるわね」と褒められると嬉しくて、もっと見て欲しくて、認めて欲しくて、気が付けば絵を描くことに夢中になっていた。
漁師の父は毎年、初夏から秋頃まで漁に出る。そして母は父が獲った魚を加工する手伝いをしている。一年のうちの三分の一は、両親はほとんど家にいなかったし、小さな島では遊びに行くような場所もなかったので、幼少期は一日中絵を描いて過ごした。
当然、それだけ毎日絵を描いていれば自然に上手くもなるもので、「絵が上手い=川原留衣」というイメージが学校でも植え付けられていたくらいだった。行事ごとのチラシやポスター、看板デザイン、そういった仕事は名乗り出なくても勝手に任され、俺もまた張り切ってやるものだから、「さすが」とか「やっぱり上手いね」と褒められることは当たり前のことだったのだ。
だけど、それまで培った自信が揺らぎだしたのは、大学受験を控えた高校三年の夏だった。
「あんた、まさか大学に行く気じゃなかろうね」
美大を受験するための参考書を見た母親からの質問。なんの迷いもなく美術の道を行くつもりだった俺は「勿論」と答えた。前々から「絵描きになりたい」というのは母親にも父親にも話してあったから、両親もそのつもりなのだと思っていた。
「大学に行けなんか、言うとらんよ」
「え、……でも、このあいだの懇談で担任にも美大目指す言うたやん。おかん、横でおったやろ」
「本気なん?」
「なに言うとんの。懇談で嘘言うわけないやろ」
「美大はいかんで。ウチも裕福ちゃうんやきん」
それは薄々気付いてはいたが、だからといって「そうですか」とアッサリ諦めたくもなかった。
「俺もバイトしてなるべく負担にならんようにする。迷惑かけるけど、俺は小さい頃から絵描いてきたから、やっぱり絵の道に行きたい。お願いやきん、行かせてくれんかな」
「お父さんに聞いてみよし」
けれども、父親も「NO」だった。
美大に入っても、その中から本物のアーティストになれるのはほんのひと握り。高い学費を払って絵に時間を注いだところで、せいぜい教員免許を取って美術の先生になるのがいいところだ、と。
「……自分の子どもの夢を応援してやろうって気はないん?」
「えらそうにぬかすな。息子じゃきん厳しいこと言うんやろうが。お前にほんまに絵の才能があるんやったら、わしらも応援する。ほなけど、素人目に見てもお前の絵は『ちょっと上手いだけ』や。目ぇ覚ませ」
「やってみんと分からん」
「分かる」
「分からん!」
「ほんなら、現役で受かれ。浪人したら普通の大学にも行かさん。漁師になれ」
「……」
「現役で受かる自信がないんやったら、諦めろ」
意地だったと思う。俺は必ず現役で受かってやると両親に言い切った。
毎日放課後は美術室で絵を描いて、帰りは画塾に通う。塾がない日はデッサン会に行ったりもした。意気込んでいるうちはまだ良かった。自分で言うのもなんだけど、みるみる上達した。けれども、あるラインまで行き着くと、今度は伸び悩んだ。何を描いても上手く描けない、気に食わない、むしろ下手になった気がする。それなのに周りはどんどん上手くなる。焦りが焦りを呼んだ。
「きみの絵はね、決して下手ではないんだよ。だけど目を引くものがない」
確かに周りの奴らは独特の感性を持っていた。自分では考えもしなかった色、構図。自分とは違う着眼点。こいつらの眼にはこんな色に映っているのか、と思うと、もはや五感から違うのだなと理解し始めた。
それでも「絶対に受かる」と言ったのだから、もう死ぬ気でやった。冬のあいだの記憶なんてほとんどないくらい。あの頃を思い出そうとしても、頭に浮かぶのはキャンバスの前で頭を抱えている自分の姿しかなかった。
なんとか合格通知が届いた時には本当に燃え尽きた気分だった。喜びより、とにかくほっとしたのだ。「まだ夢を追い掛けてもいいんだ」という安心感。だけど、両親は認めてはくれなかった。
「学費の上に生活費も出さないかん。ほんま絵なんか描かすもんやないわ」
ちょっとくらい「頑張ったね」って言うてくれてもええやん
「応援しとるきんね」って言うてくれてもええやん
なかば家出同然で、俺は島を出た。アパートもバイトも自分で決めたし、それでいて「ほら、やっぱり駄目やったやろ」と言われないように、今度こそ見返すつもりで。
でも、やっぱり現実は思ったよりも厳しい。
まず入学式の時点で圧倒された。入学のしおりに「服装はスーツで」と書かれていたにも関わらず、半数はそんなルールを無視した奇抜なファッションをしている。学長ですら、
「今年の新入生は、個性がないですね」と「マニュアル通りに動く人間」を駄目出ししたのだった。
丸一日かけて描いた絵を「駄目だね」と消され、クラスメイトが褒められている傍らで「センスがない」と言われ。画塾にいた奴らよりも、もっと個性も技術もある奴がゴロゴロいるのだ。そしてハッと気付いたのだ。
絵を描くのが、楽しくない。
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- Posted in: ★ひとりぼっちにさよなら
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