カルマの旋律 最終話
病室を出た秀一と志摩は、院内のカフェテリアに入った。二人掛けのテーブルで向き合って座る。簡単な挨拶のあと、秀一はその後の体の具合を聞かれて、順調であることと世話になった礼を述べた。注文したコーヒーが届いてから、志摩が話に入った。
「俺と正臣……神崎は、幼馴染でね。分野は違うが同じ医師という立場もあって、この歳になっても交流がある」
秀一はそれには驚かなかった。先ほどの志摩の神崎への接し方を見るとその類だろうと思っていたからだ。どちらかというと神崎が子ども扱いされているような印象を受けたのが驚きだったが、それも「俺のほうが三つ上だから弟みたいなものだ」と付け加えられて、納得した。更に「それならば」と抱いた疑問に、志摩は読んでいたかのように答えた。
「すっかりもとの顔に戻ったな」
やはり志摩は神崎の企みを知っていた。志摩は歯の矯正の際、申し分ない治療をしてくれたので感謝しているし、尊敬もしていた。気さくで優しく、安心して任せられた。だが、実は神崎と組んでいた、もしくは知っていて素知らぬふりをしていたのかと思うとがっかりしたし、軽蔑すらした。
「どこからどこまで、知ってるんですか?」
志摩は煙草に火をつけた。椅子の背もたれに肘を置いて、けだるそうにする。歯科医院に通院していた頃はもっと柔らかいイメージがあったが、今のどこか粗野な態度を見る限りこれが素の姿なのだろう。
「お前さんがバイク事故に遭って、正臣の医院に運ばれた直後だよ。正臣から久々に連絡があって、診て欲しい患者がいると頼まれてね。その時に、正臣の考えを知った」
と、すれば神崎が秀一の顔をハルカの顔に整形することは最初から決めていたのだろう。
「最初はさ、冗談だと思ってたんだ、本当に。だって骨格も構造も違うものを、違和感なく同一人物に整形するなんてできないと思ってた。普通はどっかで食い違いが出るはずだ。でも整形後のお前の顔は、栄田ハルカそのものでよ、初めて幼馴染を恐ろしく思ったね」
「……ハルカのことも知ってるんですか」
「あ、顔だけだぜ。写真でしか知らない」
それでもハルカのことと神崎の計画も知っていたということは、秀一がハルカにしたことも聞いているはずだ。
「悪かったな。知らない振りしててよ」
「俺が志摩先生でも、そうすると思います」
「散々だったな。バイク事故に遭ってからそんなに経ってないのに今回も巻き込まれて」
「そういう運命なんです。それだけのことを俺はしたので」
「俺はよ、運命とか神だの仏だの、そういうもんは信じないほうだけど、もし本当にそういうのがあるなら、お前はもう充分罰を受けた。不運を全部が全部、自分のせいにするな」
そういう風に言ってくれたのは初めてだった。秀一は俯いて、少しだけ泣きそうになった。
「……今度は正臣か」
呟いた志摩の言葉にゆっくり顔を上げる。
「あいつの目のこと聞いたか?」
「……失明するかもって」
「そう。目が見えないってことは、仕事ができないってことだ。日常生活も最初は不便だろうが、それはそのうち慣れるだろう。正臣は仕事人間だからな、あいつから仕事を取ったら何が残るんだよ。性格は難アリだけど、俺はあいつの腕は本当にすごいと思ってるから、有能な医者がひとり消えたと思うといたたまれねぇよ」
悔しさを潰すように志摩は煙草を灰皿に押し付けた。突然「どうする?」と聞かれて秀一は頓狂な声を出した。
「一緒に暮らしてんだろ。目が見えなくなって何もできなくなった正臣と過ごせるのかってことだよ」
いくら家政婦が手伝ってくれると言っても、四六時中いるわけではないのだから、多田がいない時は自分が献身的に世話をしてやらなければならない。確かに不安はあるが、秀一の心は既に決まっていた。
「神崎のことは俺が責任を持って見ます。志摩先生は、全部が全部自分のせいにするなと言って下さったけど、やはりこうなったことに何かしら縁を感じてならないんです。神崎は、俺の顔を整形したあと『自分でやったことには自分でけじめをつけたい』と言っていました。今では俺もそう思う。すべての発端が俺であるなら、俺は神崎の面倒を見る義務があって、それがけじめであり、償いでもあると思ってます。それに、」
「それに?」
「今更、あいつと離れる気が、しない……」
それが一番の理由かもしれない。目が見えなくてもいい、仕事ができなくてもいい。絶対に振り向いてくれるはずがないと思っていた相手が、やっと振り向きかけている。ようやく手に入れた二人の時間をここで手放したくない。志摩は小さく溜息をついて、口元を少し緩ませた。
「……さっきさ、びっくりしたんだよ。来るもの拒まず去る者追わず――っていうより、来るもの場合によって拒み、去る者追わずの正臣が、ああやって誰かの服を掴んで引き止めるの初めて見た。『傍にあるものを適当に掴んだ』っていうのじゃない。自分の意思で佐久間を引き止めたんだ。たぶん、今のあいつにはお前が必要なんだろう」
「……そう、ですかね。でも、あれだけハルカのことを好きだったのに」
「誰が誰を好きになるかなんて、分かんねぇもんだな。一時期、佐久間のことを毛嫌いしてたのに、こんな変えるもんなのか、同族意識ってのは」
「同族意識?」
「正臣な、中学生の頃に両親亡くしたんだ」
ふと家政婦の多田が「早くにご両親を亡くされてるし」と洩らしたのを思い出した。
「あんま和やかな家庭じゃなくてよ、小さい頃から厳しく育てられたそうだ。そのせいか両親が亡くなってもあいつは泣かなかった。それを姉ちゃんに責められたんだとよ」
「神崎に、お姉さんがいるんですか」
「ああ、でも正臣が国家試験に受かってから行方が分からないらしい。あいつが言うには縁を切りたいのをずっと我慢してきたんだろうってな。今は生きてるのか死んでるのかも分からないよ」
「……」
「正臣が他人に関心がなくて冷たいのは、そういう家庭環境があったからだと俺は思うんだ。本人は全然そんな素振り見せないけど、やっぱり根底にあるものは隠せない」
「根底にあるもの、」
「誰かに愛されたい。万人からじゃない。特定の誰かから愛されたい。自分が愛している人間に愛されたい。あいつが初めて好きになった他人が栄田だったからな。余計に振り向いて欲しくて、それが叶わなくて異常に執着したんだろ」
秀一は同窓会でハルカを見かけた時、音楽室でピアノを弾くハルカを見つめる神崎の姿を思い出した。神崎のあの熱い視線が自分に向けられたものだったらよかったのに、叶わなかったことに嫉妬した。秀一と神崎は願望も動機も同じだった。神崎はそれを知ったから、秀一を放っておけなくなったのだ。
「色々あったお前らだ。佐久間に無理に正臣を頼むとは言わない。変わらず愛してやってくれとも言えない。でも、少しでもあいつを気の毒に思ってくれるなら、そのあいだだけは傍にいてやってくれないか」
考えるまでもなく、秀一ははっきり答えた。
「大丈夫です。俺も他の人にあいつを任せたくないので」
「……ありがとうな」
―――
志摩と別れて、ひとり神崎の病室に戻った。神崎は先ほどから動いていないようで、ベッドの上で上半身を起こしていた。秀一が近付くと、足音に気付いて神崎が問う。
「……勇作さんは帰ったのか」
「ああ、また来るって。退院してからも時々様子を見に家に行くって言ってたぜ」
ベッドの隣にある丸椅子に腰かけた。気配は感じているようだが、神崎は怖さがあるのか動こうとしない。気付けば午後十一時を過ぎている。雨はまだ降っているのか、窓にパタパタと水滴が落ちる音がした。数時間前まで、まさかこうなるなんて思いもしなかった。突然、光を失って神崎は何を思うのだろう。
「痛いところは?」
「体中が痛むが我慢できないほどじゃない」
「何かしないといけないことがあるんなら、しといてやる。とりあえず当分、医院は休診ってことにするか?」
「それなら、明日の朝、医院に行ってスタッフに事情を説明してくれないか。申し訳ないと伝えてくれ。あと、院長室にA4サイズの黒のファイルがあるんだ。それをここに持って来てくれ」
「でも……」
見えないのに、という言葉を飲み込んだ。
「うちは医療法人なんだ。協会に知らせないといけない。勿論、俺は資料を見ることはできないから、お前に手伝ってもらわないといけない」
「……分かった」
事故直後だというのに、冷静なものだなと秀一は神崎の精神力に感心した。案外、受け止められるものなのだろうか。仕事に未練はないのだろうか。そう思った直後、神崎は膝の上の拳を握り締め、そして包帯の下から涙を滲ませたのだ。下唇を噛み締め、肩を振るわせている。
――因果応報。いい言葉だな。――
いつか神崎が言った台詞だ。本当にそんなものがあるのだとしたら、神崎は報いを受けたのだろう。人の体を弄んだ報いを。二度と繰り返さないようにと、視界を奪われたのかもしれない。秀一は自分が一番どん底だった時のことを思い返した。鏡を見れば忌々しくて外にも出られず、仕事もなく、体は弱るばかり。それなのに死ぬこともできない。あの苦しみを今度は神崎が味わうのかと思うと、ざまあみろと胸がすくような気もするし、哀れで残念でならない。そしてそんな彼の唯一の理解者が自分だけなのだという優越感。秀一はそんな交錯する想いを抱えながら、静かに涙する神崎を見守った。震える拳に手を重ねた。
「俺が誰か分かるか?」
「……佐久間」
「佐久間、なに?」
「……秀一。佐久間秀一」
神崎は声を絞り出して「秀一」と繰り返した。拳に被せていた秀一の手をすがるように握り返す。よほど心細いのだろう。情けなくて可哀想で息が詰まるほど愛おしい。秀一は神崎の後頭部に手を添えて引き寄せ、キスをした。
「俺が一生、お前の傍にいてやる。尽くしてやるよ。だから俺を愛せ」
「……秀一、すまない……愛、してるよ……」
「俺もだ」
かつての堂々とした威勢も自信もなければ、生きがいも取柄も失った。それでも秀一は今、初めて幸せだと思った。自分だけを感じて自分だけを頼ればいい。
ただ、この感触と体温を感じながら、何もない暗い世界で神崎が見ているのは、本当は誰の姿なのか。
それだけは秀一にも分からなかった。
(了)
「俺と正臣……神崎は、幼馴染でね。分野は違うが同じ医師という立場もあって、この歳になっても交流がある」
秀一はそれには驚かなかった。先ほどの志摩の神崎への接し方を見るとその類だろうと思っていたからだ。どちらかというと神崎が子ども扱いされているような印象を受けたのが驚きだったが、それも「俺のほうが三つ上だから弟みたいなものだ」と付け加えられて、納得した。更に「それならば」と抱いた疑問に、志摩は読んでいたかのように答えた。
「すっかりもとの顔に戻ったな」
やはり志摩は神崎の企みを知っていた。志摩は歯の矯正の際、申し分ない治療をしてくれたので感謝しているし、尊敬もしていた。気さくで優しく、安心して任せられた。だが、実は神崎と組んでいた、もしくは知っていて素知らぬふりをしていたのかと思うとがっかりしたし、軽蔑すらした。
「どこからどこまで、知ってるんですか?」
志摩は煙草に火をつけた。椅子の背もたれに肘を置いて、けだるそうにする。歯科医院に通院していた頃はもっと柔らかいイメージがあったが、今のどこか粗野な態度を見る限りこれが素の姿なのだろう。
「お前さんがバイク事故に遭って、正臣の医院に運ばれた直後だよ。正臣から久々に連絡があって、診て欲しい患者がいると頼まれてね。その時に、正臣の考えを知った」
と、すれば神崎が秀一の顔をハルカの顔に整形することは最初から決めていたのだろう。
「最初はさ、冗談だと思ってたんだ、本当に。だって骨格も構造も違うものを、違和感なく同一人物に整形するなんてできないと思ってた。普通はどっかで食い違いが出るはずだ。でも整形後のお前の顔は、栄田ハルカそのものでよ、初めて幼馴染を恐ろしく思ったね」
「……ハルカのことも知ってるんですか」
「あ、顔だけだぜ。写真でしか知らない」
それでもハルカのことと神崎の計画も知っていたということは、秀一がハルカにしたことも聞いているはずだ。
「悪かったな。知らない振りしててよ」
「俺が志摩先生でも、そうすると思います」
「散々だったな。バイク事故に遭ってからそんなに経ってないのに今回も巻き込まれて」
「そういう運命なんです。それだけのことを俺はしたので」
「俺はよ、運命とか神だの仏だの、そういうもんは信じないほうだけど、もし本当にそういうのがあるなら、お前はもう充分罰を受けた。不運を全部が全部、自分のせいにするな」
そういう風に言ってくれたのは初めてだった。秀一は俯いて、少しだけ泣きそうになった。
「……今度は正臣か」
呟いた志摩の言葉にゆっくり顔を上げる。
「あいつの目のこと聞いたか?」
「……失明するかもって」
「そう。目が見えないってことは、仕事ができないってことだ。日常生活も最初は不便だろうが、それはそのうち慣れるだろう。正臣は仕事人間だからな、あいつから仕事を取ったら何が残るんだよ。性格は難アリだけど、俺はあいつの腕は本当にすごいと思ってるから、有能な医者がひとり消えたと思うといたたまれねぇよ」
悔しさを潰すように志摩は煙草を灰皿に押し付けた。突然「どうする?」と聞かれて秀一は頓狂な声を出した。
「一緒に暮らしてんだろ。目が見えなくなって何もできなくなった正臣と過ごせるのかってことだよ」
いくら家政婦が手伝ってくれると言っても、四六時中いるわけではないのだから、多田がいない時は自分が献身的に世話をしてやらなければならない。確かに不安はあるが、秀一の心は既に決まっていた。
「神崎のことは俺が責任を持って見ます。志摩先生は、全部が全部自分のせいにするなと言って下さったけど、やはりこうなったことに何かしら縁を感じてならないんです。神崎は、俺の顔を整形したあと『自分でやったことには自分でけじめをつけたい』と言っていました。今では俺もそう思う。すべての発端が俺であるなら、俺は神崎の面倒を見る義務があって、それがけじめであり、償いでもあると思ってます。それに、」
「それに?」
「今更、あいつと離れる気が、しない……」
それが一番の理由かもしれない。目が見えなくてもいい、仕事ができなくてもいい。絶対に振り向いてくれるはずがないと思っていた相手が、やっと振り向きかけている。ようやく手に入れた二人の時間をここで手放したくない。志摩は小さく溜息をついて、口元を少し緩ませた。
「……さっきさ、びっくりしたんだよ。来るもの拒まず去る者追わず――っていうより、来るもの場合によって拒み、去る者追わずの正臣が、ああやって誰かの服を掴んで引き止めるの初めて見た。『傍にあるものを適当に掴んだ』っていうのじゃない。自分の意思で佐久間を引き止めたんだ。たぶん、今のあいつにはお前が必要なんだろう」
「……そう、ですかね。でも、あれだけハルカのことを好きだったのに」
「誰が誰を好きになるかなんて、分かんねぇもんだな。一時期、佐久間のことを毛嫌いしてたのに、こんな変えるもんなのか、同族意識ってのは」
「同族意識?」
「正臣な、中学生の頃に両親亡くしたんだ」
ふと家政婦の多田が「早くにご両親を亡くされてるし」と洩らしたのを思い出した。
「あんま和やかな家庭じゃなくてよ、小さい頃から厳しく育てられたそうだ。そのせいか両親が亡くなってもあいつは泣かなかった。それを姉ちゃんに責められたんだとよ」
「神崎に、お姉さんがいるんですか」
「ああ、でも正臣が国家試験に受かってから行方が分からないらしい。あいつが言うには縁を切りたいのをずっと我慢してきたんだろうってな。今は生きてるのか死んでるのかも分からないよ」
「……」
「正臣が他人に関心がなくて冷たいのは、そういう家庭環境があったからだと俺は思うんだ。本人は全然そんな素振り見せないけど、やっぱり根底にあるものは隠せない」
「根底にあるもの、」
「誰かに愛されたい。万人からじゃない。特定の誰かから愛されたい。自分が愛している人間に愛されたい。あいつが初めて好きになった他人が栄田だったからな。余計に振り向いて欲しくて、それが叶わなくて異常に執着したんだろ」
秀一は同窓会でハルカを見かけた時、音楽室でピアノを弾くハルカを見つめる神崎の姿を思い出した。神崎のあの熱い視線が自分に向けられたものだったらよかったのに、叶わなかったことに嫉妬した。秀一と神崎は願望も動機も同じだった。神崎はそれを知ったから、秀一を放っておけなくなったのだ。
「色々あったお前らだ。佐久間に無理に正臣を頼むとは言わない。変わらず愛してやってくれとも言えない。でも、少しでもあいつを気の毒に思ってくれるなら、そのあいだだけは傍にいてやってくれないか」
考えるまでもなく、秀一ははっきり答えた。
「大丈夫です。俺も他の人にあいつを任せたくないので」
「……ありがとうな」
―――
志摩と別れて、ひとり神崎の病室に戻った。神崎は先ほどから動いていないようで、ベッドの上で上半身を起こしていた。秀一が近付くと、足音に気付いて神崎が問う。
「……勇作さんは帰ったのか」
「ああ、また来るって。退院してからも時々様子を見に家に行くって言ってたぜ」
ベッドの隣にある丸椅子に腰かけた。気配は感じているようだが、神崎は怖さがあるのか動こうとしない。気付けば午後十一時を過ぎている。雨はまだ降っているのか、窓にパタパタと水滴が落ちる音がした。数時間前まで、まさかこうなるなんて思いもしなかった。突然、光を失って神崎は何を思うのだろう。
「痛いところは?」
「体中が痛むが我慢できないほどじゃない」
「何かしないといけないことがあるんなら、しといてやる。とりあえず当分、医院は休診ってことにするか?」
「それなら、明日の朝、医院に行ってスタッフに事情を説明してくれないか。申し訳ないと伝えてくれ。あと、院長室にA4サイズの黒のファイルがあるんだ。それをここに持って来てくれ」
「でも……」
見えないのに、という言葉を飲み込んだ。
「うちは医療法人なんだ。協会に知らせないといけない。勿論、俺は資料を見ることはできないから、お前に手伝ってもらわないといけない」
「……分かった」
事故直後だというのに、冷静なものだなと秀一は神崎の精神力に感心した。案外、受け止められるものなのだろうか。仕事に未練はないのだろうか。そう思った直後、神崎は膝の上の拳を握り締め、そして包帯の下から涙を滲ませたのだ。下唇を噛み締め、肩を振るわせている。
――因果応報。いい言葉だな。――
いつか神崎が言った台詞だ。本当にそんなものがあるのだとしたら、神崎は報いを受けたのだろう。人の体を弄んだ報いを。二度と繰り返さないようにと、視界を奪われたのかもしれない。秀一は自分が一番どん底だった時のことを思い返した。鏡を見れば忌々しくて外にも出られず、仕事もなく、体は弱るばかり。それなのに死ぬこともできない。あの苦しみを今度は神崎が味わうのかと思うと、ざまあみろと胸がすくような気もするし、哀れで残念でならない。そしてそんな彼の唯一の理解者が自分だけなのだという優越感。秀一はそんな交錯する想いを抱えながら、静かに涙する神崎を見守った。震える拳に手を重ねた。
「俺が誰か分かるか?」
「……佐久間」
「佐久間、なに?」
「……秀一。佐久間秀一」
神崎は声を絞り出して「秀一」と繰り返した。拳に被せていた秀一の手をすがるように握り返す。よほど心細いのだろう。情けなくて可哀想で息が詰まるほど愛おしい。秀一は神崎の後頭部に手を添えて引き寄せ、キスをした。
「俺が一生、お前の傍にいてやる。尽くしてやるよ。だから俺を愛せ」
「……秀一、すまない……愛、してるよ……」
「俺もだ」
かつての堂々とした威勢も自信もなければ、生きがいも取柄も失った。それでも秀一は今、初めて幸せだと思った。自分だけを感じて自分だけを頼ればいい。
ただ、この感触と体温を感じながら、何もない暗い世界で神崎が見ているのは、本当は誰の姿なのか。
それだけは秀一にも分からなかった。
(了)
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