カルマの旋律9-3
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一度戻りかけた体重がまた落ちて、なにかと体調を崩しがちだった秀一は、少しずつ外出を増やして崩れた生活習慣を改善させていった。神崎は一日のほとんどは留守なので日中の秀一がどう過ごしているかは知らない。多田の話によると、朝は周辺を歩いて運動したり、ハローワークへ通っているという。食事の準備は意外にも多田と秀一がふたりですると言った。もともと営業職の秀一は弁がたつので多田との会話も弾むらしく「息子といるようだ」と楽しげな多田をよく見た。されども多田には愛想のいい秀一も、神崎と二人きりになると途端に黙り込む。今更和気藹々と世間話をするような雰囲気もなく、些細な会話や報告ですら素直な返事をしないし、極力自ら声を掛けないようにしている。それは神崎も同じで、必要上に話はしないし、雑談をしたいとも思わない。だが、神崎は苦痛ではなかった。家にいるあいだ、秀一は目が届く範囲にとどまっていることが多く、多田と談笑する姿やぼんやりする無防備な表情など、今まで見ようともしなかった一面を傍から観察するのは面白くもあったのだ。
「どうした」
朝から雨が降り続く天気の悪いある日、ソファでうずくまっている秀一に声を掛けた。
「傷が痛い」
手術をした痕が痛むのだと腹を抱えていた。顔も違和感があると言って顎を擦る。
「天気が悪い日はいつもだ」
神崎は念のため見せろと言って秀一のトレーナーを捲った。縫った痕が少し盛り上がっているくらいで、これといって変わりはない。
「我慢できないなら痛み止めを出す」
「そこまでじゃない……」
わざと痕を撫でると、秀一の耳が赤みを帯びてくる。神崎は指を少しずらして下腹部をさすった。ベルトの間際まで来たかと思えば離す。秀一は咄嗟に神崎の手を掴んだ。
「なんだ」
「あ……、か、神崎」
「……」
「……し、たい……」
神崎は薄ら笑いを浮かべ、秀一の唇を覆いながらベルトに手をかけた。
秀一を愛しているかと聞かれれば、その域ではない。あれだけ恨んだ男をそう簡単には愛せない。けれども言葉もなく肌を合わせれば、互いに抱える虚無感や寂寥感を共有することはできる。同情か共感か、自分の中に渦巻く醜い感情が誤魔化されていることは確かだった。
***
連日、雨が降り続いてようやく青空が覗いたか思えば、夕方になってまた天気が崩れた。生憎手ぶらで職場に来た神崎は濡れて帰ることを避けられないようだった。自宅から医院まではそれほど離れていないので、いつも徒歩で通勤しているのだ。雨が止むまで暫く院内にとどまることにした。サアサアとシャワーのように降り注ぐ雨を窓ガラス越しに眺めていると、遠くからひとりの男が医院に向かって歩いてきた。秀一だった。玄関まで出て行くと、秀一の足元は濡れてズボンの色が変わっていて、片手には神崎の傘を持っていた。不貞腐れた面持ちだ。
「傘」
と、ひと言、秀一が言う。
「傘がなんだ」
「持ってきてやったんだろうが。多田さんがどうしても行こうとするから代わりに来ただけだ」
そのうち止むのを待ったほうが良さそうだが、多田の気遣いを無碍にもできず、神崎は秀一と連れ立って医院を出ることにした。会話がないと自然に歩幅はずれるもので、神崎は秀一のやや後ろを追う形で歩いた。沈黙を唯一取り持つのは雨音と、すぐ側の大通りを走っている車の排気音だけだ。ふと秀一が足を止める。本屋に寄ると言うので、あとに付いて行った。
「先に帰れば」
「俺は俺で買いたいものがある」
迷うことなく専門書のコーナーへ行く。小難しそうな本ばかりを吟味する神崎を、秀一は変な眼で見ていた。
「なんだ」
「……暗号みたいな本ばっかり読みやがって」
「医学の常識は日々変わるんでな。経営者でもあるから経済の勉強だってある」
嫌味たらしく秀一の目の前に並んである経営学の本を取った。秀一は舌打ちを残して雑誌コーナーの方へ去った。本当は仕事の本を選びにきたはずなのに、決まりが悪くなったのかファッション誌や趣味雑誌ばかりを手に取っている。仲睦まじい光景とは言い難いが、以前の殺伐とした関係を考えれば随分柔らかくなったものだ。悪くないと思っている。
神崎は目当ての本を持って秀一に目をやった。秀一の背後にある窓の向こうから、車のヘッドライトが不自然なくらいにこちらを照らしていた。窓に背を向けている秀一はおそらく気付いていない。車は大通りから外れて猛スピードで向かってくる。どう見てもコントロールを失っていた。神崎はすぐさま走り出して秀一に被さるように庇ったが、ガラスを突き破って店内に突っ込んで来た乗用車を避けられなかった。けたたましい破壊音と悲鳴が上がり、何が起きたかを把握する暇もなく、二人はガラスの破片と本が散らばった惨禍の中で倒れた。
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一度戻りかけた体重がまた落ちて、なにかと体調を崩しがちだった秀一は、少しずつ外出を増やして崩れた生活習慣を改善させていった。神崎は一日のほとんどは留守なので日中の秀一がどう過ごしているかは知らない。多田の話によると、朝は周辺を歩いて運動したり、ハローワークへ通っているという。食事の準備は意外にも多田と秀一がふたりですると言った。もともと営業職の秀一は弁がたつので多田との会話も弾むらしく「息子といるようだ」と楽しげな多田をよく見た。されども多田には愛想のいい秀一も、神崎と二人きりになると途端に黙り込む。今更和気藹々と世間話をするような雰囲気もなく、些細な会話や報告ですら素直な返事をしないし、極力自ら声を掛けないようにしている。それは神崎も同じで、必要上に話はしないし、雑談をしたいとも思わない。だが、神崎は苦痛ではなかった。家にいるあいだ、秀一は目が届く範囲にとどまっていることが多く、多田と談笑する姿やぼんやりする無防備な表情など、今まで見ようともしなかった一面を傍から観察するのは面白くもあったのだ。
「どうした」
朝から雨が降り続く天気の悪いある日、ソファでうずくまっている秀一に声を掛けた。
「傷が痛い」
手術をした痕が痛むのだと腹を抱えていた。顔も違和感があると言って顎を擦る。
「天気が悪い日はいつもだ」
神崎は念のため見せろと言って秀一のトレーナーを捲った。縫った痕が少し盛り上がっているくらいで、これといって変わりはない。
「我慢できないなら痛み止めを出す」
「そこまでじゃない……」
わざと痕を撫でると、秀一の耳が赤みを帯びてくる。神崎は指を少しずらして下腹部をさすった。ベルトの間際まで来たかと思えば離す。秀一は咄嗟に神崎の手を掴んだ。
「なんだ」
「あ……、か、神崎」
「……」
「……し、たい……」
神崎は薄ら笑いを浮かべ、秀一の唇を覆いながらベルトに手をかけた。
秀一を愛しているかと聞かれれば、その域ではない。あれだけ恨んだ男をそう簡単には愛せない。けれども言葉もなく肌を合わせれば、互いに抱える虚無感や寂寥感を共有することはできる。同情か共感か、自分の中に渦巻く醜い感情が誤魔化されていることは確かだった。
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連日、雨が降り続いてようやく青空が覗いたか思えば、夕方になってまた天気が崩れた。生憎手ぶらで職場に来た神崎は濡れて帰ることを避けられないようだった。自宅から医院まではそれほど離れていないので、いつも徒歩で通勤しているのだ。雨が止むまで暫く院内にとどまることにした。サアサアとシャワーのように降り注ぐ雨を窓ガラス越しに眺めていると、遠くからひとりの男が医院に向かって歩いてきた。秀一だった。玄関まで出て行くと、秀一の足元は濡れてズボンの色が変わっていて、片手には神崎の傘を持っていた。不貞腐れた面持ちだ。
「傘」
と、ひと言、秀一が言う。
「傘がなんだ」
「持ってきてやったんだろうが。多田さんがどうしても行こうとするから代わりに来ただけだ」
そのうち止むのを待ったほうが良さそうだが、多田の気遣いを無碍にもできず、神崎は秀一と連れ立って医院を出ることにした。会話がないと自然に歩幅はずれるもので、神崎は秀一のやや後ろを追う形で歩いた。沈黙を唯一取り持つのは雨音と、すぐ側の大通りを走っている車の排気音だけだ。ふと秀一が足を止める。本屋に寄ると言うので、あとに付いて行った。
「先に帰れば」
「俺は俺で買いたいものがある」
迷うことなく専門書のコーナーへ行く。小難しそうな本ばかりを吟味する神崎を、秀一は変な眼で見ていた。
「なんだ」
「……暗号みたいな本ばっかり読みやがって」
「医学の常識は日々変わるんでな。経営者でもあるから経済の勉強だってある」
嫌味たらしく秀一の目の前に並んである経営学の本を取った。秀一は舌打ちを残して雑誌コーナーの方へ去った。本当は仕事の本を選びにきたはずなのに、決まりが悪くなったのかファッション誌や趣味雑誌ばかりを手に取っている。仲睦まじい光景とは言い難いが、以前の殺伐とした関係を考えれば随分柔らかくなったものだ。悪くないと思っている。
神崎は目当ての本を持って秀一に目をやった。秀一の背後にある窓の向こうから、車のヘッドライトが不自然なくらいにこちらを照らしていた。窓に背を向けている秀一はおそらく気付いていない。車は大通りから外れて猛スピードで向かってくる。どう見てもコントロールを失っていた。神崎はすぐさま走り出して秀一に被さるように庇ったが、ガラスを突き破って店内に突っ込んで来た乗用車を避けられなかった。けたたましい破壊音と悲鳴が上がり、何が起きたかを把握する暇もなく、二人はガラスの破片と本が散らばった惨禍の中で倒れた。
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