まひる 2
思えばあいつは小さい頃から虫とか草が大好きだった。
真夏の暑い時も、真冬の寒い時も、「家でかき氷食べようよ」「こたつでみかん食べようよ」と誘っても、「ちょっと待って。今、蝉の脱皮の瞬間を見よんや」とか「もう冬やのに、たんぽぽ見つけたん!」とか言いながら、年中半袖で朝から晩まで外で遊ぶ奴だった。
普通の男子高校生が田んぼが好きだって言ったら「変なの」って思うけど、剛が田んぼが好きだって言ったら納得はする。農家の息子だし、継ぐだろうし、池谷家のおじさんやおじいさんも野菜や米をこよなく愛しているので、剛だってその血が流れているのだから、当たり前といえば当たり前なのだ。
だけどやっぱり、本心では言って欲しかったんだ。お前が一番って。
***
学校へ行く途中、いつものように剛の家の近くを通ったら、どこからともなく剛のおじいさんが現れた。ツバの広い大きな麦わら帽子、よれよれのカッターシャツ、田靴の中にズボンの裾を雑にしまい込んでいる。田舎のファーマーそのものだ。おじいさんはじろじろと俺を見つめ、「まひるくんか」と訊ねた。
「はい」
「おお~きなったなぁ。相変わらず別嬪さんやの! あんじょうようしょんな」
「はい、元気です。……あの、そこの田んぼにいるの剛くんですよね? もう学校行く時間ですけど」
おじいさんと同じイケてない格好で、必死に畦を塗っている。俺が近くにいることも気付いていない。
「何してるんですか?」
「モグラが穴掘って、水が抜けたよったけに、畦塗り直しとんや」
ペタペタと泥を塗りながら、剛は腕で額の汗を拭い、腰を叩きながら背中を伸ばした。よく見たら制服のままじゃないか。そりゃ毎日裾に土を付けててもおかしくないよな。大きな麦わら帽子、首に巻いたタオル、まくった袖から見える逞しい腕の筋肉、
――青春真っ只中の男子高校生に見えない。
脂の乗った大人並みの貫禄がある。それでも本人は精一杯、青春を謳歌してるんだろう。
「……まひるくんは、田んぼに興味ないんか」
「興味……は、あんまり」
「そやろな」
おじいさんはガハハと笑いながら俺の背中をバシバシ叩いた。
「剛くんは、田んぼが大好きみたいですね」
「我が孫ながら、おかしな奴やで。わしは助かるけどな。嫌々やられたんじゃ、わしもあいつも辛いもんな」
「……そんなに田んぼって、いいんですか?」
「『米』って漢字、思い出してみ」
「え? はい」
「八、十、八、と書いて『米』や。米作るには、八十八の課程がいると言われるくらい大変なんや。そもそも稲作っちゅーんは縄文時代からあってな、日本人がコツコツ努力と改良を続けてきたおかげで、わしらは今、当たり前のように米を食いよんや。よぉ『ご飯粒残したらお米の神様が怒る』言われんかったか? ご飯粒ひとつには何人も神様がおるって言われとる。今は肉でも野菜でも好きなもん好きなだけ食えるけど、昔はそうもいかん。米はそんな昔からある、苦労して苦労して育てた、栄養のある、有難い食べ物や」
「お米に栄養があるんですか」
「そや。炭水化物、たんぱく質、脂質、ビタミンB1、B2、B6、カルシウム、鉄分、マグネシウム、亜鉛、食物繊維、それから糖質や。炭水化物抜きダイエット言うて、白米食わん奴おるやろ。あんなん、いかん。糖質が不足したら思考力の低下、筋肉量の低下、基礎代謝が落ちて痩せてもすぐ元に戻る。勿論、食べすぎもいかんけどな」
「へー」
「稲作が始まってからの縄文人は背も伸びて、寿命も延びた。米に栄養がある証拠や。昔の人にしたら、そら貴重な食べもんやったやろうで」
そんな米を作るにはな、まずエリートを選ばないかん。
まだ殻のついとる米を籾っちゅーんやけど、それを塩水に漬けるん。
落ちこぼれの籾は塩水に浮くけん、全部取って雀の餌や。
籾を選んだら、消毒。病気から守らないかんけんな。
ほんで選ばれた籾のエリートだけが、育苗箱に撒かれて苗になるまで大切に育てられる。
人間でいう、赤ちゃんやな。
育苗箱っちゅーゆりかごで苗の赤ちゃん育てよるあいだに、田植えの準備。
田起こしっちゅーてな、トラクターで土を柔らかくして、肥料撒くん。
次に代掻き。田んぼに水入れて、土と水かき混ぜて田植えがしやすいように、粘土みたいな土にするんや。
ほんで畦塗り。水が洩れたら大変やけん。今、剛がしとるやつや。
苗が育ったら、いよいよ田植え。
ゆりかごで大事に育てた赤ちゃんを、田んぼっていう世間に出す時や。
ほんでも、植えるだけじゃいかん。
病気や害虫から守るために、草は刈らんといかんし、水管理も大事や。
雑草があると栄養が全部雑草に取られて稲は育たんくなる。
中干しって分かる? 田んぼはずっと水入れとるんちゃうんで。
いったん水抜いてカラカラにして、シメるんや。そしたら強い稲になる。
そうやって育っていった稲は、田んぼの中で実をつけていく。
実がつけばつくほど、成長すれば成長するほど、謙虚に、美しく。
「実るほど、頭を垂れる、稲穂かな」。まさにこの通りや。
そして大人になった稲穂を、もっと広い世間に出すために、出荷するために、食べるために、稲刈りをするんや。
立派に育ってくれてありがとう、みんなの命にさせていただきます。
「稲」の語源は「命の根」。
そんだけ愛情を込めて作るんや。
――気が付いたら、俺はおじいさんの話に聞き入っていた。――
小さい頃から自然に触れ合って、一体化して、そんな話を聞いて自分がその米を作っているのだと思ったら、田んぼを大切に思うのも分かる気がする。
おじいさんが「剛!」と声を張り上げた。
「もう学校行けぇ! まひるくんが迎えに来てくれとるぞ!」
誰も迎えに来たとは言ってない。剛の「すぐそっち行くけん待って!」という言葉を無視して、俺は急いで走り去った。
靴箱に着いたところで、追いかけて来た剛と一緒になった。はあはあと息を切らせて、汗をかいて、腕にも足にもたくさん泥がついている。
「なんで先行くん」
「お前、手くらい洗えよ。汗も拭け。ズボンの土も落とせ」
「こりゃ失敬。慌てて追いかけて来たけん」
靴箱の隣にある手洗い場でざぶざぶと手を洗った剛は、勢いよく両手を振って水気を落とした。あまりにガサツでズボラなので持っていたタオルを差し出した。
「今日貸してやるから、手ぇ洗ったらそれで拭け」
「かまんの? ありがとう」
「別に、迎えに行ったわけじゃないからな」
身を翻したところ、剛の力強くて大きな手が俺の腕を捉えた。
「俺が悪かった!」
「は?」
「すまん、まひると田んぼを一緒にした俺がアホやった! 俺はまひるが一番大事やで!」
大声で取って付けたように言われて、俺は顔を真っ赤にした。周囲の注目を浴びていることよりも、剛にそんなことを言わせてしまった自分が恥ずかしかったからだ。「お前が一番」って確かに言われたかったけど、こんな無理やり言わせたかったわけじゃない。そして素直になれない俺は、また可愛くない言い方をしてしまう。
「嘘つかんでええ! ずっと田んぼおったらええやん!」
そう言い捨てて、俺は教室ではなく屋上へ走った。もう剛と顔を合わせるのが恥ずかしい。女々しい自分が情けない。大体、なんで俺は「俺と田んぼどっちが大事なんや」とか言ってしまったんだろう。そんなの比べるようなものじゃないのに。
剛は田んぼも俺も、みんな大事なんだ。嘘が付けないだけなんだ。
そして俺は本当は、そんな裏表のない剛が、
「あれっ、なあ! おったで!」
屋上の隅でいるところを、ひとりの男が俺を見て仲間を呼んだ。同学年の、教師も手を焼く不良の集団だ。人工的に染めたパサパサの金髪に、左耳にはピアスの穴。くちゃくちゃとガムを噛みながら近寄って来る。俺の前に立ちはだかると、ズイッと顔を近付けて攻撃的な目で舐めるように俺を見た。頬に男の息がかかって、ぞっとする。
「瀬川って、お前のことちゃうん?」
「え? ……そう、ですけど」
「やっぱなー! 一組にめっちゃ可愛い男子入ってきたって噂あんの、知らん?」
「し、知りません」
「ジブン、自覚ないやろけど狙われてんで。今んとこ誰かになんかされたりした?」
中学の時にこういう類の奴らがいたのを思い出した。いつもどうにかして逃げてきたけれど、東京に行っているあいだに勘が鈍ったのか、どうやって切り抜けてきたのか思い出せない。カタカタ体が震える。立ち上がることもできないまま壁に手をついた男に動きを封じられた。
「どうなんや」
「さ、されてない、です」
「ほな、俺らが最初やな」
――最初って何!?
男は他の連中に「押さえとけ」と命令すると、俺はすぐさま二人の男に羽交い絞めにされ、口にタオルを詰められた。男たちは決してガタイがいいわけじゃないけど、俺は体格も力も標準より下回るので、抵抗しても敵うはずがなかった。金髪の男が俺のシャツを第二ボタン辺りまでこじ開けると、そこから汗でベタついた手を入れてきた。本気で身の危険を感じたその時、
「まひる―――!!」
強烈な音とともにドアが開かれ、壊れたノブを握り締めた剛が現れた。一体どんな馬鹿力を発揮したのか、つがいまで外れている。
「な、なんや、お前!?」
男たちに抑え込まれている俺と目が合うと、剛は目の色を変え、今まで見たこともない怒りが籠もった険しい形相でズンズンと近寄った。そして金髪の男の胸ぐらを掴むと、易々と持ち上げてドスを利かせた声で叫んだ。
「おめぇら何してくれとんじゃ!! くらっしゃげるぞ!!」
「ぐ、ぐるし……!」
俺を押さえ付けていた男たちも慌てて離れ、「か、堪忍してつか!」と声を裏返しながら逃げて行った。連中が立ち去って屋上に俺と剛だけが残ると、剛は俺の口からタオルを出し、両肩を掴んで「大丈夫か!? 怪我しとらんか!?」と体を揺らした。途端に俺の目に涙が溢れて、それまで溜まりに溜まった想いが一気に溢れた。
「ご、ゴンちゃ~~~~ん!」
一番辛かった小学校六年生あたりに戻ったようだった。ガキみたいに泣きながら剛に抱き付いた。
あの時、剛はわざと来なかったんじゃない。
知らなかっただけ。
知ってたら、絶対今みたいに助けに来てくれたはずだ。
いくら田んぼに夢中になってても、きっと来てくれたに違いない。
そんなの初めから分かってたんだ。
分かってたのに、わざと試すような真似をして俺は馬鹿で最低だ。
逞しい胸板にしがみついている俺を、剛は優しくて力強い腕で抱き返してくれた。
「怖かったな。今度からは俺がちゃんと守ったるけんな」
「俺もごめん、俺と田んぼどっちが大事とか試すようなことしてごめん」
「確かに俺は、田んぼは大事や。なんでかっつーたらな、それが俺が生きていく手段やけんや。ずっと米農家の息子として育ったけん、米作らな食っていけんのや。じいちゃんと親父が一生懸命守ってきたもんを俺が潰すわけにいかん。田んぼを守っていかな、俺は生きていけんようになる」
剛の腕の中で、俺はうんうんと頷いた。
「でもな、まひるも一緒くらい大事やで。お前がおらんようなってからめっちゃ寂しかってんで。お前と再会して、もう絶対離れたない思ったんや。田んぼがないと生きていけんけど、まひるもおらんと生きていけん。ほなけん、どっちも同じくらい大事なんや」
馬鹿が付くほど正直で、こんなに素直に生きてる人間はきっとこいつ以外にいない。俺は剛の言葉が嬉しくて、申し訳なくて泣きじゃくった。
「まひる、好っきゃで」
「うん、俺もゴンが好き。ほんまはずっと会いたかってん」
本鈴が鳴ったにも関わらず、俺と剛は青空の下で随分長いこと抱き合った。剛からの土や汗の匂いを嗅ぎながら目をつむると、不思議とそこが学校の屋上ではなく、壮大な大自然の中にいるような、そんな気分になった。
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真夏の暑い時も、真冬の寒い時も、「家でかき氷食べようよ」「こたつでみかん食べようよ」と誘っても、「ちょっと待って。今、蝉の脱皮の瞬間を見よんや」とか「もう冬やのに、たんぽぽ見つけたん!」とか言いながら、年中半袖で朝から晩まで外で遊ぶ奴だった。
普通の男子高校生が田んぼが好きだって言ったら「変なの」って思うけど、剛が田んぼが好きだって言ったら納得はする。農家の息子だし、継ぐだろうし、池谷家のおじさんやおじいさんも野菜や米をこよなく愛しているので、剛だってその血が流れているのだから、当たり前といえば当たり前なのだ。
だけどやっぱり、本心では言って欲しかったんだ。お前が一番って。
***
学校へ行く途中、いつものように剛の家の近くを通ったら、どこからともなく剛のおじいさんが現れた。ツバの広い大きな麦わら帽子、よれよれのカッターシャツ、田靴の中にズボンの裾を雑にしまい込んでいる。田舎のファーマーそのものだ。おじいさんはじろじろと俺を見つめ、「まひるくんか」と訊ねた。
「はい」
「おお~きなったなぁ。相変わらず別嬪さんやの! あんじょうようしょんな」
「はい、元気です。……あの、そこの田んぼにいるの剛くんですよね? もう学校行く時間ですけど」
おじいさんと同じイケてない格好で、必死に畦を塗っている。俺が近くにいることも気付いていない。
「何してるんですか?」
「モグラが穴掘って、水が抜けたよったけに、畦塗り直しとんや」
ペタペタと泥を塗りながら、剛は腕で額の汗を拭い、腰を叩きながら背中を伸ばした。よく見たら制服のままじゃないか。そりゃ毎日裾に土を付けててもおかしくないよな。大きな麦わら帽子、首に巻いたタオル、まくった袖から見える逞しい腕の筋肉、
――青春真っ只中の男子高校生に見えない。
脂の乗った大人並みの貫禄がある。それでも本人は精一杯、青春を謳歌してるんだろう。
「……まひるくんは、田んぼに興味ないんか」
「興味……は、あんまり」
「そやろな」
おじいさんはガハハと笑いながら俺の背中をバシバシ叩いた。
「剛くんは、田んぼが大好きみたいですね」
「我が孫ながら、おかしな奴やで。わしは助かるけどな。嫌々やられたんじゃ、わしもあいつも辛いもんな」
「……そんなに田んぼって、いいんですか?」
「『米』って漢字、思い出してみ」
「え? はい」
「八、十、八、と書いて『米』や。米作るには、八十八の課程がいると言われるくらい大変なんや。そもそも稲作っちゅーんは縄文時代からあってな、日本人がコツコツ努力と改良を続けてきたおかげで、わしらは今、当たり前のように米を食いよんや。よぉ『ご飯粒残したらお米の神様が怒る』言われんかったか? ご飯粒ひとつには何人も神様がおるって言われとる。今は肉でも野菜でも好きなもん好きなだけ食えるけど、昔はそうもいかん。米はそんな昔からある、苦労して苦労して育てた、栄養のある、有難い食べ物や」
「お米に栄養があるんですか」
「そや。炭水化物、たんぱく質、脂質、ビタミンB1、B2、B6、カルシウム、鉄分、マグネシウム、亜鉛、食物繊維、それから糖質や。炭水化物抜きダイエット言うて、白米食わん奴おるやろ。あんなん、いかん。糖質が不足したら思考力の低下、筋肉量の低下、基礎代謝が落ちて痩せてもすぐ元に戻る。勿論、食べすぎもいかんけどな」
「へー」
「稲作が始まってからの縄文人は背も伸びて、寿命も延びた。米に栄養がある証拠や。昔の人にしたら、そら貴重な食べもんやったやろうで」
そんな米を作るにはな、まずエリートを選ばないかん。
まだ殻のついとる米を籾っちゅーんやけど、それを塩水に漬けるん。
落ちこぼれの籾は塩水に浮くけん、全部取って雀の餌や。
籾を選んだら、消毒。病気から守らないかんけんな。
ほんで選ばれた籾のエリートだけが、育苗箱に撒かれて苗になるまで大切に育てられる。
人間でいう、赤ちゃんやな。
育苗箱っちゅーゆりかごで苗の赤ちゃん育てよるあいだに、田植えの準備。
田起こしっちゅーてな、トラクターで土を柔らかくして、肥料撒くん。
次に代掻き。田んぼに水入れて、土と水かき混ぜて田植えがしやすいように、粘土みたいな土にするんや。
ほんで畦塗り。水が洩れたら大変やけん。今、剛がしとるやつや。
苗が育ったら、いよいよ田植え。
ゆりかごで大事に育てた赤ちゃんを、田んぼっていう世間に出す時や。
ほんでも、植えるだけじゃいかん。
病気や害虫から守るために、草は刈らんといかんし、水管理も大事や。
雑草があると栄養が全部雑草に取られて稲は育たんくなる。
中干しって分かる? 田んぼはずっと水入れとるんちゃうんで。
いったん水抜いてカラカラにして、シメるんや。そしたら強い稲になる。
そうやって育っていった稲は、田んぼの中で実をつけていく。
実がつけばつくほど、成長すれば成長するほど、謙虚に、美しく。
「実るほど、頭を垂れる、稲穂かな」。まさにこの通りや。
そして大人になった稲穂を、もっと広い世間に出すために、出荷するために、食べるために、稲刈りをするんや。
立派に育ってくれてありがとう、みんなの命にさせていただきます。
「稲」の語源は「命の根」。
そんだけ愛情を込めて作るんや。
――気が付いたら、俺はおじいさんの話に聞き入っていた。――
小さい頃から自然に触れ合って、一体化して、そんな話を聞いて自分がその米を作っているのだと思ったら、田んぼを大切に思うのも分かる気がする。
おじいさんが「剛!」と声を張り上げた。
「もう学校行けぇ! まひるくんが迎えに来てくれとるぞ!」
誰も迎えに来たとは言ってない。剛の「すぐそっち行くけん待って!」という言葉を無視して、俺は急いで走り去った。
靴箱に着いたところで、追いかけて来た剛と一緒になった。はあはあと息を切らせて、汗をかいて、腕にも足にもたくさん泥がついている。
「なんで先行くん」
「お前、手くらい洗えよ。汗も拭け。ズボンの土も落とせ」
「こりゃ失敬。慌てて追いかけて来たけん」
靴箱の隣にある手洗い場でざぶざぶと手を洗った剛は、勢いよく両手を振って水気を落とした。あまりにガサツでズボラなので持っていたタオルを差し出した。
「今日貸してやるから、手ぇ洗ったらそれで拭け」
「かまんの? ありがとう」
「別に、迎えに行ったわけじゃないからな」
身を翻したところ、剛の力強くて大きな手が俺の腕を捉えた。
「俺が悪かった!」
「は?」
「すまん、まひると田んぼを一緒にした俺がアホやった! 俺はまひるが一番大事やで!」
大声で取って付けたように言われて、俺は顔を真っ赤にした。周囲の注目を浴びていることよりも、剛にそんなことを言わせてしまった自分が恥ずかしかったからだ。「お前が一番」って確かに言われたかったけど、こんな無理やり言わせたかったわけじゃない。そして素直になれない俺は、また可愛くない言い方をしてしまう。
「嘘つかんでええ! ずっと田んぼおったらええやん!」
そう言い捨てて、俺は教室ではなく屋上へ走った。もう剛と顔を合わせるのが恥ずかしい。女々しい自分が情けない。大体、なんで俺は「俺と田んぼどっちが大事なんや」とか言ってしまったんだろう。そんなの比べるようなものじゃないのに。
剛は田んぼも俺も、みんな大事なんだ。嘘が付けないだけなんだ。
そして俺は本当は、そんな裏表のない剛が、
「あれっ、なあ! おったで!」
屋上の隅でいるところを、ひとりの男が俺を見て仲間を呼んだ。同学年の、教師も手を焼く不良の集団だ。人工的に染めたパサパサの金髪に、左耳にはピアスの穴。くちゃくちゃとガムを噛みながら近寄って来る。俺の前に立ちはだかると、ズイッと顔を近付けて攻撃的な目で舐めるように俺を見た。頬に男の息がかかって、ぞっとする。
「瀬川って、お前のことちゃうん?」
「え? ……そう、ですけど」
「やっぱなー! 一組にめっちゃ可愛い男子入ってきたって噂あんの、知らん?」
「し、知りません」
「ジブン、自覚ないやろけど狙われてんで。今んとこ誰かになんかされたりした?」
中学の時にこういう類の奴らがいたのを思い出した。いつもどうにかして逃げてきたけれど、東京に行っているあいだに勘が鈍ったのか、どうやって切り抜けてきたのか思い出せない。カタカタ体が震える。立ち上がることもできないまま壁に手をついた男に動きを封じられた。
「どうなんや」
「さ、されてない、です」
「ほな、俺らが最初やな」
――最初って何!?
男は他の連中に「押さえとけ」と命令すると、俺はすぐさま二人の男に羽交い絞めにされ、口にタオルを詰められた。男たちは決してガタイがいいわけじゃないけど、俺は体格も力も標準より下回るので、抵抗しても敵うはずがなかった。金髪の男が俺のシャツを第二ボタン辺りまでこじ開けると、そこから汗でベタついた手を入れてきた。本気で身の危険を感じたその時、
「まひる―――!!」
強烈な音とともにドアが開かれ、壊れたノブを握り締めた剛が現れた。一体どんな馬鹿力を発揮したのか、つがいまで外れている。
「な、なんや、お前!?」
男たちに抑え込まれている俺と目が合うと、剛は目の色を変え、今まで見たこともない怒りが籠もった険しい形相でズンズンと近寄った。そして金髪の男の胸ぐらを掴むと、易々と持ち上げてドスを利かせた声で叫んだ。
「おめぇら何してくれとんじゃ!! くらっしゃげるぞ!!」
「ぐ、ぐるし……!」
俺を押さえ付けていた男たちも慌てて離れ、「か、堪忍してつか!」と声を裏返しながら逃げて行った。連中が立ち去って屋上に俺と剛だけが残ると、剛は俺の口からタオルを出し、両肩を掴んで「大丈夫か!? 怪我しとらんか!?」と体を揺らした。途端に俺の目に涙が溢れて、それまで溜まりに溜まった想いが一気に溢れた。
「ご、ゴンちゃ~~~~ん!」
一番辛かった小学校六年生あたりに戻ったようだった。ガキみたいに泣きながら剛に抱き付いた。
あの時、剛はわざと来なかったんじゃない。
知らなかっただけ。
知ってたら、絶対今みたいに助けに来てくれたはずだ。
いくら田んぼに夢中になってても、きっと来てくれたに違いない。
そんなの初めから分かってたんだ。
分かってたのに、わざと試すような真似をして俺は馬鹿で最低だ。
逞しい胸板にしがみついている俺を、剛は優しくて力強い腕で抱き返してくれた。
「怖かったな。今度からは俺がちゃんと守ったるけんな」
「俺もごめん、俺と田んぼどっちが大事とか試すようなことしてごめん」
「確かに俺は、田んぼは大事や。なんでかっつーたらな、それが俺が生きていく手段やけんや。ずっと米農家の息子として育ったけん、米作らな食っていけんのや。じいちゃんと親父が一生懸命守ってきたもんを俺が潰すわけにいかん。田んぼを守っていかな、俺は生きていけんようになる」
剛の腕の中で、俺はうんうんと頷いた。
「でもな、まひるも一緒くらい大事やで。お前がおらんようなってからめっちゃ寂しかってんで。お前と再会して、もう絶対離れたない思ったんや。田んぼがないと生きていけんけど、まひるもおらんと生きていけん。ほなけん、どっちも同じくらい大事なんや」
馬鹿が付くほど正直で、こんなに素直に生きてる人間はきっとこいつ以外にいない。俺は剛の言葉が嬉しくて、申し訳なくて泣きじゃくった。
「まひる、好っきゃで」
「うん、俺もゴンが好き。ほんまはずっと会いたかってん」
本鈴が鳴ったにも関わらず、俺と剛は青空の下で随分長いこと抱き合った。剛からの土や汗の匂いを嗅ぎながら目をつむると、不思議とそこが学校の屋上ではなく、壮大な大自然の中にいるような、そんな気分になった。
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