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カルマの旋律9-1

 院内は禁煙だと言ってあるのに煙草に火をつけようとする志摩を、神崎は快く思わないながらも止めなかった。呼び出したのは自分だからだ。理由もなく仕事をする気になれず、医院は午前中で閉めてしまった。志摩を呼ぶのは夜にするつもりだった。メッセージをいれておいたら「今から行く」と返事があった。いきなり仕事を抜け出していいのかと聞いたら、いきなり医院を閉めるお前に言われたくないと返される。

「やる気がねぇ医者だなぁ、俺たちは」

「勇作さんはともかく、俺は常々ちゃんとやってます」

 仕返しのつもりか、吐き出した煙を掛けられた。

「元に戻してやったのが、けっこう早くて驚いたよ。どういう心境の変化だよ」

「あいつが栄田に近付いた理由が、情けないことに俺と同じだったんで」

「振り向いて欲しかった、ね。子どもなら笑って済まされる話を、大人がこじらせたらとんでもねぇことになるな」

 煙草を指で挟んだまま、マグカップを取り、コーヒーを音を立ててすすった。神崎からすれば考えられない組み合わせな上に美しくないが、それを旨そうと感じてしまうのは何故だろう。

「佐久間とはなんか話したのか」

「何も。術後から顔を合わせていません。もとに戻った顔を改めて前にしたら、また罵倒するかもしれない」

「まだ恨めしいのかよ」

「恨めしいのは変わりませんよ。恨まずに済むなら楽ですがね。その方法が分からない」

「簡単じゃねぇか」

 志摩は灰皿に煙草を押し付けた。

「抱いてやりゃいいのよ。佐久間秀一として」

「……」

「本当は分かってるんだろ。お前が今まで抱いてきた奴は、どんなに見た目が栄田でも体も中身も佐久間なんだよ。復讐することで栄田を手に入れたなんて思い上がりも甚だしいぜ。大体、お前は栄田の何が好きだったんだよ。顔か? ピアノの音か? お前はそいつの何を知ってるんだ。お前が好きな栄田はお前の理想が勝手に人格を作り上げてできた幻みたいなもんだ」

 それには何も答えられなかった。

「佐久間もお前と一緒で家庭環境が良くなかったんだってな。寂しい子ども時代がトラウマで誰かに愛されたいんだろ。とりわけ正臣に。それがうまくいかなかったから駄々をこねたんだ。なにかと逆らうのも、栄田と同一視されたくなくて足掻いたんだろ。可愛いじゃないか」

「可愛くはないでしょう」

「でも実際、出て行ったのを放っておけばいいものをわざわざ追い掛けたんだろう」

「……」

「それが情だよ」

 そう言われても神崎には受け入れがたいことだった。確かにハルカを勝手なイメージと記憶で美化していたところはあるかもしれない。それでも神崎がハルカを好きだったのは紛れもない事実で、秀一のせいで自殺したのもまた事実だ。振る舞いも言動も野蛮で、お世辞にも気品があるとは思えない。堕落した恋愛観で、神崎が愛していた人間を傷付けた。今、考えてもやっぱり許しがたいことだ。けれども秀一がそうした原因が神崎にあるというのだから不条理な話である。愛する人間に振り向いてもらえなかったから、それを手に入れた奴が恨めしい。佐久間秀一が今でも憎い。だけど彼を思うと自分と重ねて哀れになる。これを情というのかどうかも分からなかった。

 昼過ぎに自宅に戻ると誰もいなかった。部屋は綺麗に片付いていて、バルコニーに洗濯ものが干されてある。いつもならまだ多田がいる時間帯だが、見当たらない。秀一の姿もない。もう顔を隠す必要がないのだからどこか出掛けたのだろうか。神崎は溜息を放ちながらソファに腰を下ろした。

 秀一をここに置いておく理由もなくなったのだから、戻って来たら今度は「出て行け」と言おうか。それで秀一が去ったら、二度と会うことはないだろう。だが、そうなったら彼は今後どう過ごすのだろう、と考えてしまう。仕事を見つけて、ハルカや神崎とのことを忘れて新しい人生を歩むか、自責の念と神崎にされたことのトラウマで孤独に生きていくか。どちらを想像しても、どういうわけか神崎はすっきりしなかった。ならどうすれば満足なのだろう。そもそも神崎自身も秀一を追い出したところですべて吹っ切れる自信がない。もう充分仕返しはしたはずだ。それなのに秀一を追い出すのはまだ早い気もする。
 テーブルに置いてあるCDを見た。母校に行った時、柴田に譲ってもらったソプラノ歌手のアルバムだ。

 愛しうる限り愛せよ
 愛したいと思う限り愛せよ
 墓場に佇み 嘆き悲しむ時がくる

 その時お前は墓のほとりにひざまづき
 憂いに濡れた眼差しを落とす
 もはやその人の影もない
 細い 湿った墓場の草ばかり

 「あなたの墓に涙を流している
 このわたしをご覧ください
 わたくしがあなたを罵ったのも
 ああ、それは決して悪意からではなかったのです」

 そう言ってもその人は聞きもしない、見もしない
 喜んでお前を抱きにも来ない
 しばしばお前に接吻したその唇は
 再び「とうに許しているよ」とも語らない


「あっ、先生、お帰りだったんですね」

 家政婦の多田が慌てた様子で戻ってきた。手には秀一のマフラーを持っている。

「それは?」

「今朝から佐久間さんが見当たらないんです。どこかお出かけになったのかと思ったのですが、洗濯物を干していたらこれが飛んできたんです。昨日、佐久間さんがこのマフラーをしていたのを見たので、佐久間さんのだと思うのですが……」

 神崎はバルコニーに出て、身を乗り出して見上げた。ここから見えるはずもないが、まさかと思ったのだ。どうも胸騒ぎがするので、神崎は部屋を飛び出して屋上へ向かった。屋上への入り口は普段施錠されているが、各部屋の鍵を使えば簡単に開く。ドアの鍵が開いていたので、秀一は屋上へ行ったと確信した。 階段を駆け上がり、ドアを開け放すと強風でふらついた。そして前方に縁石に立っている秀一を見た。神崎は考える間もなく駆け出した。

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