カルマの旋律8-4
神崎は結局、日付を過ぎても帰って来なかった。多田が用意した食事はすっかり冷えていたが、捨てるのも気が引けるのでそのままにしてある。秀一は自室で、ひとり先にベッドに入った。なかなか寝付けないまま時間だけが過ぎ、そろそろ丑三つ時に差し掛かろうとした時、――部屋のドアがゆっくり軋みながら開いた。
足音が近づいてくる。秀一は目を瞑って寝たフリをした。緊張で心臓が激しく揺れている。すぐ傍で足は止まったが、何も声を掛けられないし、起こされもしない。視線を感じる。神崎が秀一を見下ろすあの眼を思い出すと手足に冷や汗をかいた。やがてこめかみに指が触れ、フェイスラインを辿って頬、顎となぞられる。そして指が唇に触れた時、神崎は手を離して引き返した。ドアが静かに閉められ、秀一はやり切れなくてシーツを被って体を丸めた。
唐突に理解してしまった。秀一は期待したのだ。あのまま神崎が体に触れることを。
一度も振り向いてくれなかった高校時代。存在を無視された苛立ちを発散するかのように色んな女に手を出した。ハルカを利用したのも、必要以上に反発したのも、根本にあるのは神崎の気を引くためだった。抵抗しようと思えばできたのに、おとなしく抱かれていたのは、いつかハルカではなく、その下の佐久間秀一という存在に気付いてくれないかという願望があったからだ。それでも神崎は認めない。手術をしたのは、ハルカの墓の前で嘆いている秀一を憐れんだからなのかもしれないが、それだけだ。ハルカの面影がない自分はもう用済みなのだ。もし顔を合わせたとしても、どうせ出て行けと言われるだけだろう。触れようとして引き下がった、さっきの瞬間がすべてだ。
翌朝、秀一が目を覚ました時にはもう家政婦の多田がいた。多田は朝食を拵えながら笑い掛ける。
「おはようございます」
「おはようございます。……神崎は……」
「もうお仕事に行かれましたよ。佐久間さんは何時にご出勤で?」
「え、と今日は有給で」
「退院したばかりですものねぇ」
避けているのだろうな、と思った。おそらく昨夜、深夜に帰って来たのも秀一と顔を合わさないためだろう。
――そんなに見たくないのか。
「佐久間さん、朝ごはんはトーストで……あら? どこ行ったのかしら」
―――
酒を大量に買い込んだ。冷たい風が吹き荒れる真冬でも、アルコールを飲めば体はあたたまるはずだ。記憶をなくすくらい、この世のすべてがどうでもよくなるくらいに酒を飲みたい。最後の晩餐に。
マンションの屋上に足を踏み入れた途端、強風に足が崩れそうになった。風に背中を押されて勝手に二歩、三歩と進む。秀一は屋上の真ん中に座り込み、買ってきた酒をかたっぱしから飲んだ。生地の薄いダウンジャケットは、もうくたびれてところどころから羽毛が出ている。かかとのすり減ったスニーカー、色褪せたジーンズ。ろくでもない自分の死に装束には相応しいのかもしれない。
十七階建てマンションの屋上からの景色は恐ろしい眺めだった。おもちゃのブロックのようなビルや家、米粒よりも小さい、街を歩く人。誰もこちらを見上げる者はいないだろう。雲の隙間から見える青空、どうせなら快晴がよかったけれど、もう少しで雲の上に行ける。行ける、のだろうか。ハルカを殺しておいて、自分は天国というものに行けるのだろうか。
――それも仕方ない。
秀一は縁石の上に立ち、この数ヵ月手放さなかったマフラーを投げ捨てた。マフラーはくるくると風に弄ばれながら飛んだ。自分はああいう風には飛べないだろう。気が遠くなりそうな、自分の足元よりずっと下にある地面を見て、ハルカの死を思い知った。今、この瞬間、ハルカにただ謝りたい。人を傷付けてばかりの人生ではすべて失って当然だ。せめてあの世でハルカに会えるように願った。
⇒
足音が近づいてくる。秀一は目を瞑って寝たフリをした。緊張で心臓が激しく揺れている。すぐ傍で足は止まったが、何も声を掛けられないし、起こされもしない。視線を感じる。神崎が秀一を見下ろすあの眼を思い出すと手足に冷や汗をかいた。やがてこめかみに指が触れ、フェイスラインを辿って頬、顎となぞられる。そして指が唇に触れた時、神崎は手を離して引き返した。ドアが静かに閉められ、秀一はやり切れなくてシーツを被って体を丸めた。
唐突に理解してしまった。秀一は期待したのだ。あのまま神崎が体に触れることを。
一度も振り向いてくれなかった高校時代。存在を無視された苛立ちを発散するかのように色んな女に手を出した。ハルカを利用したのも、必要以上に反発したのも、根本にあるのは神崎の気を引くためだった。抵抗しようと思えばできたのに、おとなしく抱かれていたのは、いつかハルカではなく、その下の佐久間秀一という存在に気付いてくれないかという願望があったからだ。それでも神崎は認めない。手術をしたのは、ハルカの墓の前で嘆いている秀一を憐れんだからなのかもしれないが、それだけだ。ハルカの面影がない自分はもう用済みなのだ。もし顔を合わせたとしても、どうせ出て行けと言われるだけだろう。触れようとして引き下がった、さっきの瞬間がすべてだ。
翌朝、秀一が目を覚ました時にはもう家政婦の多田がいた。多田は朝食を拵えながら笑い掛ける。
「おはようございます」
「おはようございます。……神崎は……」
「もうお仕事に行かれましたよ。佐久間さんは何時にご出勤で?」
「え、と今日は有給で」
「退院したばかりですものねぇ」
避けているのだろうな、と思った。おそらく昨夜、深夜に帰って来たのも秀一と顔を合わさないためだろう。
――そんなに見たくないのか。
「佐久間さん、朝ごはんはトーストで……あら? どこ行ったのかしら」
―――
酒を大量に買い込んだ。冷たい風が吹き荒れる真冬でも、アルコールを飲めば体はあたたまるはずだ。記憶をなくすくらい、この世のすべてがどうでもよくなるくらいに酒を飲みたい。最後の晩餐に。
マンションの屋上に足を踏み入れた途端、強風に足が崩れそうになった。風に背中を押されて勝手に二歩、三歩と進む。秀一は屋上の真ん中に座り込み、買ってきた酒をかたっぱしから飲んだ。生地の薄いダウンジャケットは、もうくたびれてところどころから羽毛が出ている。かかとのすり減ったスニーカー、色褪せたジーンズ。ろくでもない自分の死に装束には相応しいのかもしれない。
十七階建てマンションの屋上からの景色は恐ろしい眺めだった。おもちゃのブロックのようなビルや家、米粒よりも小さい、街を歩く人。誰もこちらを見上げる者はいないだろう。雲の隙間から見える青空、どうせなら快晴がよかったけれど、もう少しで雲の上に行ける。行ける、のだろうか。ハルカを殺しておいて、自分は天国というものに行けるのだろうか。
――それも仕方ない。
秀一は縁石の上に立ち、この数ヵ月手放さなかったマフラーを投げ捨てた。マフラーはくるくると風に弄ばれながら飛んだ。自分はああいう風には飛べないだろう。気が遠くなりそうな、自分の足元よりずっと下にある地面を見て、ハルカの死を思い知った。今、この瞬間、ハルカにただ謝りたい。人を傷付けてばかりの人生ではすべて失って当然だ。せめてあの世でハルカに会えるように願った。
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