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カルマの旋律8-3

 ―――

「佐久間さーん、包帯取りますね」

 今回の手術も、経過をじっくり見たいからと言われて一ヵ月入院した。もちろん、鏡はない。入院中に神崎が診察に来たのは数回で、あとは看護師が面倒を見てくれた。包帯を取る日も神崎はいなかった。

「あ、佐久間さん、これ神崎先生からです」

 と、茶色の封筒を渡された。医院名が入った封筒なので、どうせ同意書か何かの類だろうと思い、いったん隅に置いた。包帯を解かれ、手鏡を渡される。そこに映っていたもの――。本来の、「佐久間秀一」の、紛れもない自分の顔だった。奥二重の目、鼻も唇も、自分のものだ。醜い傷跡もない。どこにも栄田ハルカの面影はない。あれだけ苦しめられはしたが、秀一は神崎の技術の高さを評価した。感謝すらした。神崎でなければ、ここまで元通りにはならなかっただろう。もし事故に遭ったあと、意地を張り続けて別の医師に頼んでいたら、また違った形で家から出られなかったかもしれない。鏡に映る自分の輪郭を指でなぞりながら、秀一はまた泣いた。

「ごめ……ごめん、なさ……い、はるか……」

 ――ドウカ 許シテクレ。

 看護師から託(ことづか)った神崎からの封筒には、医院を出たらマンションで待っていろ、と書かれたメモが入っていた。嫌だと言ったところで他に行く場所もないので、おとなしく従った。神崎の部屋の前まで来て、ドアを開けようとしたら、中から先に開けられた。驚いて身構える。出迎えたのはえらく庶民的な女性だった。それも高齢とまではいかないが、けっこうな歳だ。神崎の母親かと思ったが、

「あら、先生が帰っていらしたのかと思ったわ。ということは、あなたが佐久間さんね?」

 と、言われて、違うと確信した。

「あの……」

「わたくし、家政婦の多田と申します。神崎先生から今夜、佐久間秀一さんという方がお戻りになるとお聞きしましたの。さ、外は寒いでしょう」

 まだ事態を把握できていないが、強引に手を引かれて部屋の中へ連れて行かれた。
 まず神崎が家政婦を雇っていたことに驚いたし、その家政婦がまた図々しそうな女性であることが意外だった。神崎は秀一のことをどう説明しているのか分からないが、多田は彼らが親しいと勘違いしているようだった。

「入院されてたんでしょ? 先生がね、美味しいものでも食べさせてあげて欲しいって言うものだから、張り切ったんですよ」

 テーブルには二人分のナイフとフォーク、ミートプレートなどが綺麗にコーディネートされている。

「あの、これは……誰と、誰の」

「神崎先生と佐久間さんのですよ。もうすぐお帰りになるんじゃないかしら」

 多田は食事の用意をしながら、あれこれ話した。神崎の家に家政婦として来たのは六年ほど前で、神崎が総合病院に就職した頃だったとか、神崎は仕事の虫であまり浮いた話はないが、時々フラッと出て行ったり、そのまま朝帰りになることがあったとか、けれども約束もなく訪ねて来た女性を家に上げることは一切なかったという。

「先生と結婚したがる女性はきっとたくさんいると思うの。でも先生はそういうことに関しては厳しくって、変な噂が立つことはないわねぇ。あんまり詳しく聞き出せないんだけどねぇ」

 この年代の女性というのは下世話だな、と、元職場にいたお局を思い浮かべた。
 まだ何も盛り付けられていないプレートを前に、空席の向かいで、秀一は畏まって神崎を待った。待ちたいからではなく、多田の手前、そうせざるを得ないからだ。隣の席に腰掛けた多田がここぞとばかりに質問してくる。

 佐久間さんはどこにお勤めなの?
 恋人はいらっしゃるの?
 ご家族はどこに住んでいらっしゃるの?

 どれも答えたくない質問ばかりだったが、当たり障りなく答えた。以前の職場の名前、恋人はおらず、家族は父だけだ。

「まあ、お父様も男手一つで大変だったでしょうねぇ。神崎先生も、早くにご両親を亡くされてるし。お二人とも若いうちから苦労されたのね」

「え?」

「あらやだ、わたしったらお喋りだから」

 多田は詳細を自粛した。そして「先生、遅いですねぇ」と時計を気にしだした。あとは適当にやっておくから先に帰ってくれと言うと、多田はテーブルに食事を並べてから帰り支度を始めた。

「あ、あの、多田さんは、いつ復帰されたんですか?」

「確か二ヵ月ほど前ですよ」

「そのあいだ、神崎はどんな様子でしたか」

「特別、以前と変わりはなかったですよ。ああ、でも時々上の空でしたねぇ。料理の味が薄いとか、今まで言われなかったことを言われました」

「……」

「それじゃ、また明日来ますね」

 多田が出て行くと急に部屋が静まり返る。どうしてこんな広い部屋で、温かい食事が冷めてしまうのを見ながら神崎を待たねばならないのか。だいたい家政婦ってなんだと言いたい。このテーブルクロスも、ハイブランドの食器も、本当にいちいち嫌味でいけ好かない。仲良く食事をする気にもなれない。秀一は目の前のハンバーグとスープを、ナイフなど使わずに噛り付いた。まともな食事は久しぶりだ。事故に遭ってから顎が治るまでは流動食や柔らかいものばかりだったし、ここに来てからは神崎と一緒に食事をしたくなくて、ひとりの時間ができた時に、簡単に拵えたものを食べた。神崎の部屋を出てから二週間くらいは、もうほとんど食べていない。そのあいだ、神崎はひとり美味しい食事をしていたのか、と考えると、やっぱり腹立たしい。

 ――ああ、でも時々上の空でしたねぇ。料理の味が薄いとか、今まで言われなかったことを言われました。――

 少しは動揺したのだろうか。家を出る最後に見た、あの困惑した表情はなんだったのだろう。ちょっとはやり過ぎたとでも思ったのだろうか。だからいきなり手術をすると言い出したのか。なにより、もとの顔に戻った今、どうしてマンションで待っていろとわざわざ伝言されたのかも分からない。すぐに出て行けと言われるか、これまで通りこき使われるか、「佐久間秀一」の顔を目の前にして改めて恨み言をぶつけられるかもしれない。

「……やめよう」

 もう自分は栄田ハルカの顔じゃない。怪我も治ったし忌々しい傷も消えた。早く仕事を見つけてここを出れば、二度と会うこともないはずだ。秀一は考えるのを止めた。 


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