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カルマの旋律8-2

 父の前にはもう出られないと思った。秀一は眠った父に布団を掛け直すと、挨拶もなく足早に病室を去った。マフラーとキャップで顔を隠しながら涙が止まらなかった。
 どうして父のところへ行ったのか分かった。父が心配だったからじゃない。職も生活もすべてを失って「佐久間秀一」という人間の存在すら危うくなってきた中で、唯一血縁である父になら、例え顔が別人でも声や会話で「秀一だ」と断言して認めてもらえるかもしれないと期待したからだった。先に父を見放したのは自分なのに、今までずっと気にも掛けてやらなかったのに、こんな時だけ父にすがろうとした虫のいい自分が情けなかった。

 今度こそ行き場がなくなった。誰にも頼れず、弱音も吐けない。神崎のところには戻りたくない。秀一が最後の最後で行き着いたのは、ハルカの墓前だった。山の中腹にある、見晴らしのいい広い墓地だ。ライトグレーの墓石はまだ新しく、秀一が来るのを待っていたかのように、供えられている仏花が風に揺れている。場所は事前に川村から聞いていた。秀一と違ってマメで人情深い川村は、それほど親しくなかった同級生の墓地ですら認識している。不誠実で軽率に人を傷付ける自分とは違う。秀一は墓の前に佇み、マフラーを解いた。涙も洟も流して、同じ顔を持った仏の前に姿を見せた。

「……俺が誰か分かるか」

 むろん、返事があるはずがない。

「今の俺を見て笑ってるのか。ざまあみろって思ってるだろ」

 もし自分がハルカの立場なら、自分を傷付けて殺した相手をあの世で恨む。他者の手で鉄槌を食らわされれば嘲笑うに違いない。ハルカは生前、決して他人を馬鹿にするような人間ではなかったが、さすがに今回ばかりは秀一を恨んでいるはずだ。

「ハルカ、お前、神崎がお前のこと好きだって知ってたのか? だからわざわざあいつを頼ったのか? 高校の時から、神崎はお前のことしか見てなかった。それを知ってたのか」

 答えなど分かるはずもないのに、秀一は問いかけずにはいられなかった。時折揺れる花や、ざわざわと音を立てる木の葉にすら笑われている気がした。

「……なんで俺なんかに引っ掛かったんだよ。見る目なさすぎだろうが。俺なんかに惚れなきゃ死なずに済んだのにな。……同窓会なんか行かなきゃよかった。再会さえしなければ、昔のことなんか思い出さずに済んだのに。今頃、普通の家庭を持ってたかもしれないのに」

 たいした想い出なんかないと思っていたハルカとのことを、追い込まれて初めて思い出した。
 誘うと必ず二つ返事で受ける。相談に乗ってやると何度も「ありがとう」と感謝してくる。付き合おうと言った時は、これ以上ない微笑みで喜んだ。秀一の思惑など知らずに。あれをしろ、これをしろと命令すれば、ハルカは言うことを聞いた。純粋さが可愛いとは確かに思った。けれどもハルカの懐の深さに触れれば触れるほど嫉妬した。

「俺はお前が嫌いだ」

 最初から好きになんてなるはずがなかった。

「お前が憎たらしいよ。……だから俺は謝らない……」

 そして秀一は「なんとか言えよ!」と叫びながらマフラーを墓石に叩きつけた。傍から見れば頭がおかしいと思われるだろう。それでもそこにしかぶつけようがなかった。現にもうおかしくなりかけている。

「なんでお前なんだよ! なんでアイツはお前が好きなんだよ!」

 本当にただの遊びのつもりだったらよかったかもしれない。子どもじみた逆恨みでしかないと分かっていても、ハルカを手に入れれば劣等感もなくなると思った。その結果、何もかも失った。劣等感が消えるどころか、神崎のハルカに対する想いの深さを突きつけられただけだった。

「そうだよ、俺は最低だよ! 神崎に認められてるお前が羨ましくて、振り向いてくれなかったのが悔しかったから、あの日お前を選んだんだ! 事故に遭った時、俺も連れてってくれたらよかったんだ! 自殺するくらいなら俺を殺せばよかったのに! もうこんな……お前の顔で生きていたくないっ、……どうすりゃいいんだよ……俺はあいつに見て欲しかっただけなんだ……」

 パキッ、と枝を踏む音がした。あきらかな人の存在に気付いて我を取り戻し、秀一は振り返った。思いもしない人物が立っている。ついに幻覚を見たと思った。まさか連れ戻しに来たわけじゃあるまい。会いに来るはずがない。あの冷徹な男が。神崎正臣が。

 ――そうだ、ここはハルカの墓だ。俺じゃない、ハルカに会いに来ただけなんだ。

 神崎は冷たい木枯らしの中、茶色の髪を靡かせながら、秀一を見下ろしている。体が動かなかった。神崎は無表情のまま秀一に向かって一歩一歩、踏み出した。じゃりじゃりと砂を踏む音が近付いてくる。その度に肩が震えた。そして神崎が秀一の腕に触れようとした時、極度の緊張と恐怖のあまり秀一は嘔吐した。触られるのが怖い。神崎の口から拒絶の言葉を聞かされる前に自分から言い放った。

「は……ハルカに会いに来たんだろ……。さっさと手ぇ合わせて行っちまえ……」

 神崎は答えず、秀一の腕を掴んだ。

「なんか言えよ……。馬鹿だとか下らないとか思ってるくせに。俺が憎くて仕方ないんだろ」

「ああ、今でもお前が憎い」

「……」

「だが俺は『佐久間秀一』に会いに来た」

 秀一はゆっくり顔を上げた。神崎の表情はひとつも変わらないが、蔑んでいるでも憐れんでいるでもない。

「オペをしてやる」

 まっすぐ神崎の医院に戻ると、秀一はその日からすぐに入院した。神崎は何か語り掛けることも問い詰めることもせず、事務的な説明だけを淡々として、着々と手術の準備を始めた。今度はまた違う顔に変えられるんじゃないかという疑心もなくはなかったが、イメージを固めたいから写真を見せろと言われて、本当にもとの顔に戻してくれる気があるのだと安心した。

「なんで急に、手術する気になったんだよ」

 神崎はそれには答えなかった。
 そして翌日、急きょ予約患者をキャンセルして医院を閉め、秀一の整形手術に取り掛かったのである。

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