カルマの旋律8-1
父が肝臓を悪くして入院したというのは、今年に入ってすぐ連絡があったので知っていた。秀一が高校に入ったあと、仕事でミスをして職を失った父は酒でストレスを発散するようになった。もともと酒癖が悪く、酔うと悪いほうへ人が変わるので、秀一は父が酒を飲むのが嫌だった。そんなものを飲む暇があったら職を探せと説得もした。
――親に説教するなんざ生意気なんだよ、てめぇはよ! ――
仕方がないので学校に許可を貰ってバイトをした。勉強とバイトを両立させるのは大変だったけれど、息子の姿を見て父も少しは改心すればいいと嫌味のように見せつけてやった。それでも父は重い腰をなかなか上げなかった。
――親父がそんなんだから、お袋が出て行ったんじゃねぇのか! ――
これを言ったらおしまいだな、という言葉も散々言った。その代わり秀一も言われた。「なんであの女はお前を産んだんだ」「消え失せろ」。喧嘩はどんどんエスカレートしていったが、秀一は「こんな大人には絶対になりたくない」という一心でどうにかやり過した。
秀一はどうしても家を出たかった。知識をつけて社会に出るために、大学に進みたかった。奨学金を受け取りながら勉強をして、傍らでのバイト。何度も父に頭を下げようとしたが、意地とプライドがそれを許さなかった。
さすがに父も思うところがあったのだろう。高校二年の秋頃に、父は工場勤務が決まった。
卒業までは真面目に働いてくれた。もしかしたら、このまま関係が修復するかもしれないという期待もあった。けれども秀一が家を出ると言い出した時、父はまた荒れだしたのだ。「俺を置いて家を出るのか」「ひとりだけ楽しもうっていうのか」、「恩知らず」。秀一はいよいよ父が嫌になった。そして大学に合格すると逃げるようにして家を出たのだった。
そうは言っても、唯一の家族だ。何度か父の様子を見にとんぼ帰りをしたことがある。かろうじて仕事は続けているようだが、父はまた酒を浴びていた。焼酎をコップに注いでいる後姿に嫌気がさした。それを見たくなくて、秀一はそれから実家には戻っていない。
『佐久間秀一さんでしょうか。M市の池川総合病院の者です。康文さん……お父様が先週から肝臓を悪くして入院されています』
ああ、そうですか。という程度のものでしかなかった。むしろ今まで生きていたのかとも思った。病院は「見舞いに来い」という意味で電話をしたのではなく、万一の時はお前が支払えという意味で掛けてきたのだろう。だから秀一は治療費はこっちに請求してくれていいとだけ伝えて、見舞いには行かなかった。死んだらまた連絡が来るだろう、と。
―――
父に会うのはおよそ十二年ぶりだった。今まで会いたいとも思わなかったのに、ここにきて急に顔を見たくなった。虫の知らせだろうか。父はもうすぐ死ぬのかもしれない。今更なんの用だと罵られるかもしれないが、その時は言い返してやろうと思う。
ナースステーションで父の場所を聞いたら、不審げに見つめられた。不自然に巻かれたマフラーとキャップがよほど怪しかったらしい。父に確認してくれと言ったら、看護師が相部屋にいると案内してくれた。
病室は四人部屋で、ベッドごとにカーテンで仕切られている。一番奥の窓際のベッドに連れて行かれた。
「佐久間さん、息子さんが来てくれましたよ」
うとうとしていた父は、まだ眠そうな瞼を一生懸命開けようとしたが、秀一は「目を閉じていていい」と言った。
「……秀一か……久しぶりじゃないか」
秀一は父の衰えように驚いた。手足は痩せ、頬もこけている。肌の色は黒く、いかにも肝臓が悪そうな色だ。歳を取ったせいで髪の毛も見事な白髪だ。かつての勢いはどこにもない。到底罵る元気もなさそうだった。つい先程まで身構えていたはずなのに、この姿を見た途端に気が変わった。現金な奴だと言われても、同情するなと言われても、せめて今日くらいは優しくしてやろうかという気になったのだ。
「……今まで来れなくてごめん」
「お前、今、……どうしてるんだ」
偽りなく事実を話すこともできず、秀一は数ヵ月前までの自分のことを話した。
「N証券で働いてる。まあ、給料はそれなりにあるから不自由はしてない」
「結婚は」
「予定はない」
「……そうか」
「実はバイク事故に遭って」
「いつ」
「数ヵ月前。内臓破裂して顔の骨が割れて」
「よく生きてたな。もうなんともないのか」
「体はな。顔は……ちょっと、」
「生きてりゃいい」
「いつから肝臓悪くしたんだよ」
「そんなもん、ずっと悪かったよ。やめろと言われても酒はやめられなかった。今年に入ってほぼ強制的に入院だよ。死ぬまで呑み続けたかったな」
「勘弁してくれよ、それでどれだけ喧嘩したと思ってんだよ」
「へっ……それもいい想い出だぁ」
どこがだよ、と舌打ちしながらも、いつぶりかに父が笑った顔を見るとどうでもよくなった。
「お前には悪かったと思ってるよ。父親らしいことしてやれなかった。縁を切られて当然だ。それなのに来てくれてありがとうな」
あの父がこんなことを言うなんて、と驚いた。本当に近々死ぬかもしれない。ふっ、と目を開けた父は秀一を訝しんで見つめた。
「なんでマフラーを巻いたままなんだ。室内は暑くないのか」
「暑くないから、気にすんな」
「マフラーを取れ。帽子も」
「……」
「久しぶりに会ったんだ。顔くらい見せろ」
見せたところで「秀一」の顔じゃないのに、と思いながら、ここまで言われて取らないのもおかしいので、震える手でゆっくりマフラーと帽子を取った。父は驚きも懐かしみもせず、無表情で秀一の顔を見た。
「顔色は……良さそうだな」
「……」
「痩せたのか」
「忙しくてね」
「……お前、そんな顔だったか……。秀一……じゃ、ない……」
眠気に勝てなかったようで、父はそのまま眠った。
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――親に説教するなんざ生意気なんだよ、てめぇはよ! ――
仕方がないので学校に許可を貰ってバイトをした。勉強とバイトを両立させるのは大変だったけれど、息子の姿を見て父も少しは改心すればいいと嫌味のように見せつけてやった。それでも父は重い腰をなかなか上げなかった。
――親父がそんなんだから、お袋が出て行ったんじゃねぇのか! ――
これを言ったらおしまいだな、という言葉も散々言った。その代わり秀一も言われた。「なんであの女はお前を産んだんだ」「消え失せろ」。喧嘩はどんどんエスカレートしていったが、秀一は「こんな大人には絶対になりたくない」という一心でどうにかやり過した。
秀一はどうしても家を出たかった。知識をつけて社会に出るために、大学に進みたかった。奨学金を受け取りながら勉強をして、傍らでのバイト。何度も父に頭を下げようとしたが、意地とプライドがそれを許さなかった。
さすがに父も思うところがあったのだろう。高校二年の秋頃に、父は工場勤務が決まった。
卒業までは真面目に働いてくれた。もしかしたら、このまま関係が修復するかもしれないという期待もあった。けれども秀一が家を出ると言い出した時、父はまた荒れだしたのだ。「俺を置いて家を出るのか」「ひとりだけ楽しもうっていうのか」、「恩知らず」。秀一はいよいよ父が嫌になった。そして大学に合格すると逃げるようにして家を出たのだった。
そうは言っても、唯一の家族だ。何度か父の様子を見にとんぼ帰りをしたことがある。かろうじて仕事は続けているようだが、父はまた酒を浴びていた。焼酎をコップに注いでいる後姿に嫌気がさした。それを見たくなくて、秀一はそれから実家には戻っていない。
『佐久間秀一さんでしょうか。M市の池川総合病院の者です。康文さん……お父様が先週から肝臓を悪くして入院されています』
ああ、そうですか。という程度のものでしかなかった。むしろ今まで生きていたのかとも思った。病院は「見舞いに来い」という意味で電話をしたのではなく、万一の時はお前が支払えという意味で掛けてきたのだろう。だから秀一は治療費はこっちに請求してくれていいとだけ伝えて、見舞いには行かなかった。死んだらまた連絡が来るだろう、と。
―――
父に会うのはおよそ十二年ぶりだった。今まで会いたいとも思わなかったのに、ここにきて急に顔を見たくなった。虫の知らせだろうか。父はもうすぐ死ぬのかもしれない。今更なんの用だと罵られるかもしれないが、その時は言い返してやろうと思う。
ナースステーションで父の場所を聞いたら、不審げに見つめられた。不自然に巻かれたマフラーとキャップがよほど怪しかったらしい。父に確認してくれと言ったら、看護師が相部屋にいると案内してくれた。
病室は四人部屋で、ベッドごとにカーテンで仕切られている。一番奥の窓際のベッドに連れて行かれた。
「佐久間さん、息子さんが来てくれましたよ」
うとうとしていた父は、まだ眠そうな瞼を一生懸命開けようとしたが、秀一は「目を閉じていていい」と言った。
「……秀一か……久しぶりじゃないか」
秀一は父の衰えように驚いた。手足は痩せ、頬もこけている。肌の色は黒く、いかにも肝臓が悪そうな色だ。歳を取ったせいで髪の毛も見事な白髪だ。かつての勢いはどこにもない。到底罵る元気もなさそうだった。つい先程まで身構えていたはずなのに、この姿を見た途端に気が変わった。現金な奴だと言われても、同情するなと言われても、せめて今日くらいは優しくしてやろうかという気になったのだ。
「……今まで来れなくてごめん」
「お前、今、……どうしてるんだ」
偽りなく事実を話すこともできず、秀一は数ヵ月前までの自分のことを話した。
「N証券で働いてる。まあ、給料はそれなりにあるから不自由はしてない」
「結婚は」
「予定はない」
「……そうか」
「実はバイク事故に遭って」
「いつ」
「数ヵ月前。内臓破裂して顔の骨が割れて」
「よく生きてたな。もうなんともないのか」
「体はな。顔は……ちょっと、」
「生きてりゃいい」
「いつから肝臓悪くしたんだよ」
「そんなもん、ずっと悪かったよ。やめろと言われても酒はやめられなかった。今年に入ってほぼ強制的に入院だよ。死ぬまで呑み続けたかったな」
「勘弁してくれよ、それでどれだけ喧嘩したと思ってんだよ」
「へっ……それもいい想い出だぁ」
どこがだよ、と舌打ちしながらも、いつぶりかに父が笑った顔を見るとどうでもよくなった。
「お前には悪かったと思ってるよ。父親らしいことしてやれなかった。縁を切られて当然だ。それなのに来てくれてありがとうな」
あの父がこんなことを言うなんて、と驚いた。本当に近々死ぬかもしれない。ふっ、と目を開けた父は秀一を訝しんで見つめた。
「なんでマフラーを巻いたままなんだ。室内は暑くないのか」
「暑くないから、気にすんな」
「マフラーを取れ。帽子も」
「……」
「久しぶりに会ったんだ。顔くらい見せろ」
見せたところで「秀一」の顔じゃないのに、と思いながら、ここまで言われて取らないのもおかしいので、震える手でゆっくりマフラーと帽子を取った。父は驚きも懐かしみもせず、無表情で秀一の顔を見た。
「顔色は……良さそうだな」
「……」
「痩せたのか」
「忙しくてね」
「……お前、そんな顔だったか……。秀一……じゃ、ない……」
眠気に勝てなかったようで、父はそのまま眠った。
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