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カルマの旋律7-3

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 ところどころに鼠色が混じった、一面を雲が覆う寒空の日曜日。神崎は車を走らせて地元へ向かっていた。今住んでいる中心市街地からはそれほど離れていない、高速道路で二時間ほど走ったところにある小さな町だ。かつて暮らしていた家と母校がある。ただし家には用はない。
 両親が亡くなってから姉と二人で暮らしていた神崎は、姉に医学部へ行かせてもらった。幸い両親が遺した蓄えと保険で大学に行けるだけの額はあり、足りない部分は社会に出た姉が工面してくれたのだ。仲は良くも悪くもない姉弟だった。医学部へ行かせてくれた姉には感謝しているが、神崎は姉が自分と早く離れたがっているのを知っていた。姉は幼い頃から感情を表現せず、両親の死にも悲しまなかった薄情な弟を不気味だと思っていたのだろう。

 ――あんたが医者になってひとりで生きていけるっていうんなら、医学部に行かせてあげる。――

 そして無事に国家試験に合格した日から、姉とは連絡が途絶えた。
 大学を卒業して一度だけ実家へ寄ったことがある。せめて姉に礼のひと言でも伝えなければと思ったからだ。だが、そこには見知らぬ他人が住んでいた。姉は知らないあいだに実家を貸家にしたか売却したか、手放したようだった。家に未練はない。姉が縁を切りたいというなら構わない。もともと心を通わせたこともない希薄な関係だ。とうとう最後の家族と離れても、神崎はやっぱり悲しいとは思わなかった。「そんなものか」という諦めのようなものはあったけれど。

 高速道路を下りた神崎は、川村から聞いた住所へ向かった。不本意だが、秀一の実家だった。
 閑静な住宅街にある小さな白い一軒家は、外壁が日に焼けて黄ばんでいる。天気が悪いとはいえ昼間なのにカーテンが閉められていた。ひと気がないので留守だろうと思いながらもインターホンを押したら、やはり反応がなかった。たまたま近所の住民らしい男性が通りかかったので、行方を聞いた。

「ここ? もう何ヶ月も留守だよ。確かご主人が入院してんだよ」

「入院? ……病院は、」

「さあ、そこまでは知らないけどさ。息子さんがひとりいたよ。でもここ何年も見かけないねぇ。奥さんも随分昔に出て行ったみたいだし。ところでアンタ誰?」

 田舎の人間というのは不躾に正体を探ってくる。絡まれたくはないが、適当に誤魔化したら情報も入らなくなる。

「佐久間さんの息子さん……秀一さんと同級生で。近くに寄ったんで久しぶりに顔を見に来たんです」

 名前を出すことで多少信用されたのか、急に親しげに話された。

「あ、そうなんだ。秀一くんもねぇ、大変だったよねぇ。高校生くらいの時からお父さんがお酒にはまっちゃって、よく喧嘩する声が聞こえてたよ。卒業してからあんまり見てないなぁ。今、どうしてるか知ってる?」

「……いえ、知らないから来たんです」

「そうだよねぇ。試験期間なのにバイトに行ってくるーって自転車乗ってる姿をよく見たよ。普通、グレそうだけどね、お父さんがあんなだったら。でも明るい子だったよ。もし秀一くんに会えたら、よろしく伝えといてね」

 今度は母校の高校へ寄った。たいした思い出がなくても、寄れば感慨深いかと思ったが、「ああ、見覚えがあるな」という程度だった。懐かしむには月日が流れすぎているからなのか、それとも自分にそういった情緒が備わっていないからなのか。おそらく後者だろう。

 休日でも校舎内で活動をしている部活があるのであっさり入れた。神崎がまっすぐ向かったのは音楽室だった。やはり鍵がかかっている。窓から覗いてみたが誰もいない。
 ここからよく、ピアノを弾いているハルカを眺めたものだ。こうして静まり返った音楽室を見ていると、当時のハルカの姿を鮮明に映し出すことができる。だが、あの頃のような胸の高鳴りはなかった。

「わっ! びっくりしたァ! どちら様!?」

 近付いていた気配に気付かず、その声で神崎の方が驚いた。 

「申し訳ございません。わたし、この学校の卒業生で。近くを通りかかって懐かしくなったものですから、無断で入ってしまいました」

「……神崎?」

 名前を言われて神崎は誰だったかと考えた。髪が薄い、神崎より二頭身ほど背が低い小太りの男性教諭だ。柴田という名前を聞いて、音楽の担当だったなとようやく思い出した。

「お久しぶりです」

「うわぁ、懐かしいなぁ! 元気にしてたか? お前、今どうしてるんだ?」

「形成外科医です。街で開業してます」

「医学部に行ったのは知ってたけど、開業までしてたかぁ。立派になったなぁ。なんで音楽室に?」

「……栄田くんのことはご存知ですか」

 柴田は途端に表情を曇らせた。さすがに母校はハルカの死を知っているらしい。

「びっくりだよ。しかも自殺だなんてね。昔はよく栄田のピアノの稽古に付き合ってたから、もうなんていうか……ね」

「僕もいまだに信じられなくて、ここに来れば彼がいそうな気がして寄ったんです」

「仲、良かったっけ?」

「いえ。でも彼がよくここでピアノを弾くのは知ってました。『愛の夢』という曲です」

「ああ、あいつの十八番だったからね」

 柴田は「奇遇だな」と言いながら音楽室の鍵を解いた。

「ちょうど、その楽譜を取りに来たんだ。栄田と同じように音大を目指してる子がいてね。その子に渡そうと思って」

 入っていいですか、と断ってから、柴田のあとについて音楽室に入った。神崎はピアノは弾けないし、音楽に詳しくもないけれど、ピアノに近付くと当時のハルカが触っていたものに触れているという感動があった。柴田が「見てみて」と楽譜を持ってくる。

「これ、栄田が使ってたんだよ。すごいだろ、赤ペンで演奏指示書き込んでさ。何度も何度もアナリーゼしたんだよ」

 男にしては線の細い達者な字で、楽譜にびっしりと、それこそ音符が隠れるんじゃないかというほどに書き込まれてあった。神崎は勝手にハルカを天才だと思っていた。生まれ持った感性を生かして、あの細い指が華麗な音を奏でるのだと。しかし書き込みだらけの譜面を見て違うと知った。この努力があったからこその、あの音色だ。

「『愛の夢』ってさ、もともとは歌曲だったって知ってる?」

「そうなんですか。知りませんでした」

「歌として作られた曲を、リストがピアノ編曲したんだ。メロディもちょっと歌っぽいだろう? あ、ここに歌詞載ってるよ」
 聴いてみる? と聞かれて乗った。その界隈では有名はソプラノ歌手のCDである。ピアノ版とはまた違った流れで、歌は始まった。

※愛しうる限り愛せよ
 愛したいと思う限り愛せよ
 墓場に佇み 嘆き悲しむ時がくる

 なんびとか愛のまごころを
 あたたかくお前のために注ぐとき
 お前は胸に愛を抱いて温め
 ひたぶるにその炎を燃やすがいい

「ピアノ曲だけなら、どんな壮大な歌だよって思うんだけど、聴けば聴くほど切なくてね。正直言って、僕はあまり好きじゃないんだ」

 と、柴田は言った。神崎は否定も同意もせずに歌に聴き入った。
 神崎はどうしてここへ来たのか改めて考えた。昔を懐かしみたかったから、ハルカを思い出して感傷に浸りたかったから、……もしかしたら秀一のことを知る手がかりが少しでもあるかもしれないと思ったからだ。
 会いたいのではない。恋しいのでもない。ハルカは高校時代、秀一の存在を知っていたと言った。秀一はハルカの存在を知っていたのだろうか。川村は「どうしてあいつが栄田に近付いたのか分かる」と言ったが、神崎には分からない。あれだけ愛してあれだけ憎んでいる彼らのことを、神崎は何も知らない。だから会って聞かなければならない。そして場合によっては、秀一に言われた言葉をそのまま返してやらなければならない。

――死んじまえ。――

 胸をお前のために開く人を
 できる限り愛せよ
 いかなる時もその人を悦ばし
 いかなる時もその人を嘆かすな

 わが舌をよく謹めよ
 あしざまの言葉をふと口にしたら
 ああ、それは決して悪意からではなかったのにと嘆いても
 その人は去り、そして悲しむ


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