カルマの旋律7-2
―――
神崎はワインを飲み干したあとのグラスをそっとテーブルに置いた。そっと置いたはずなのに、ちょっとしたガラスの音がやたら大きく聞こえる。
――俺の顔を返せ! ――
返してなどやるものか。まだまだ恨みは晴らし足らない。それなのに、ややもすれば秀一の最後の泣き顔だけをはっきり思い出す。
***
診療が終わる頃に、ひとりの患者が駆け込んで来た。午後の四時に診察の予約を入れていたのに六時を過ぎても現れず、無断キャンセルかと思っていた時だった。
「ううっ、寒いっ、午後から雨が降るって聞いてたのに、傘を持って出るの忘れましてね」
受付でそう話している声が診察室まで聞こえてきて、神崎は「やっぱりか」と思った。雨が降っていることではなく、訪ねてきた患者の正体が分かったからだ。神崎はすぐに「どうぞ」と中へ促した。診察室に現れたのは人の好さそうな男だ。
「神崎、久しぶりだな」
「川村こそ、元気にしていたか? ……その腹を見る限り元気そうだな」
脂肪を蓄えた大きな腹を擦りながら川村は笑った。
予約表に「川村太一」という名前が入っているのは三日前から知っていた。川村は秀一の手術をした後に医院を訪ねてきたことがある。その時に再会したから、今回顔と名前が一致したのだ。そうでなければ今日の診察は「初めまして」状態だっただろう。高校時代の川村のことは秀一以上に覚えがないのだから。
「今日はどうしたんです?」
「敬語はやめてくれないかな。仕事とはいえ知り合いに敬語使われるの苦手で」
「分かった。今日は何かあったのか?」
「ここ、このほくろ」
川村は左手を広げて差し出した。手の平の真ん中に確かに黒い斑点がある。
「数年前にできて、俺は『あ、ほくろだ』って放って置いたんだけど、『それ、悪性じゃないの?』って言われてから気になっちゃって」
神崎は顔を近付けて川村の手の平を暫らく観察したが、「心配ない」と言い放った。
「川村の恋人はメラノーマの心配をしたんだろうが、メラノーマの特徴には当てはまらない。手の平や足の裏にほくろがあるからと言ってメラノーマとは限らないからな」
恋人、とあえて言ったのは、彼が遠回しにその存在をほのめかしているように聞こえたからだ。読み通り、川村は分かりやすく照れた。
「メラノーマって?」
「悪性の癌だよ。六ミリ以上あるもの、形が崩れていたり、色にムラがあったり、サイズが大きくなったりしたら疑ってもいいが、見る限り普通のほくろだ。安心して恋人に報告していい」
「はは、まいったな」
「まさか、これだけじゃないだろうな?」
直球でそう訊ねると、川村は今度は苦笑いに変わって頭を掻いた。
「バレたか。ごめん、個人的に呼び出せばよかったな」
「もう閉院だ。少しだけなら話せる。わざわざ飲み屋で語り合うほどの内容でもないだろう」
川村がなんの用で訊ねてきたか、大体察しが付く。彼は秀一と仲が良い。
「秀一のことなんだけど。……このあいだ話、聞いた」
秀一が出て行った日の前日、珍しく出掛けていたことを思い出した。川村と会っていたのか、と合致した。
「いつ、元に戻してやるの?」
「……」
「確かに栄田を本気で好きでもないのに付き合って傷付けたのは秀一が悪い。それで自殺したんなら、神崎が許せないのも当然だ。でもやり方は他にもあったんじゃないか?」
「例えば」
「それは、分からないけど……。でも整形をしたことで仕事がなくなって人とも会えなくて、すっかり痩せちゃって、少しやりすぎなんじゃないか? ただでさえ交通事故で死にかけて散々だったんだ。罰は受けたはずだよ」
「俺が見なければ、佐久間はあのまま死んでいただろう。それを助けてやったのは俺だ。あいつがどんな形で報いるか、俺が決めてもいいだろう」
「もういいじゃないか。あいつも反省してるよ」
「いいや、していない。だからまだ駄目だ」
「それでも充分、苦しんだよ。まずは元の生活に戻してやれよ」
「元の生活に戻したら、あいつは栄田にしたことを忘れる」
「俺、あいつと高校の頃から仲良いけど、そこまでクズじゃないよ。……女関係は確かに色々あったけどさ。俺からも言い聞かせるし、手術してやってくれ」
それでも神崎は首を縦に振らなかった。それどころか第三者に口を挟まれて苛立ちさえしている。沈黙していると川村が腕時計に目をやり、席を立った。
「ごめん、仕事の邪魔して。帰るわ。でも秀はたぶん、口にしないだけで反省してるし後悔してると思う。それに、あいつがどうして栄田に近付いたのか俺にはなんとなく分かる」
神崎は最後の台詞の理由を聞きたくて見上げた。けれども川村は答えなかった。
「秀、もしかして今、家にいない?」
「どうして知ってるんだ」
「実は電話があったんだ。十何年ぶりかに親父さんに会いに行くらしいよ」
「十何年ぶり?」
「あ、知らない? あいつの親父さん、高校の時からアル中でさ。お袋さんはとっくの昔に離婚してて行方知らずで、あんまいい家庭環境じゃなかったんだよね。大学卒業してから親父さんとは疎遠だったんだけど、それが急に会いにいこうって思ったんだから、なんかしら心境の変化があったんだろ。と、俺は思ってる」
「……」
「ついでに、栄田の墓の場所も聞かれた。――と、だけ伝えておく。じゃ、ありがとう」
家に着いたら家政婦の多田が用意してくれた夕飯をひとりで摂り、きれいに畳まれた洗濯物からタオルを取ってシャワーを浴びた。いちいち料理に難癖をつけたり、何度も洗濯させたりと、そんな手間がなくなって快適に過ごせている。それなのにタオルで顔を拭いた瞬間に微々たる香りの違いに違和感を覚えるのは何故だろう。
潔癖症とまではいかないが、それに近い神崎は部屋の中も身なりもだらしないのは好きじゃない。けれどもどうにもだるくて、風呂上りはシャツを雑に羽織っただけで、髪も濡れたままで倒れ込むようにソファに腰掛けた。ふと本棚の隣にあるCDラックに目をやった。そういえば同窓会でハルカに再会した時、一枚だけCDを出したと聞いて買いに行った。ハルカはピアニストとしてそれほど知られていなかったので探すのに苦労したが、棚の隅に一枚だけあった。毎日のように聴いていたのに、ハルカの自死から一度も聴いていない。神崎はおもむろにCDを流した。
神崎が一番好きな、リストの「愛の夢三番」。生演奏よりは劣るが、それでもやはり彼の奏でる音色は繊細で美しい。語り掛けるような冒頭も、煌めくような導入も、豪華な盛り上がりも、華やかなのに切なく、欲を掻き立てられる。高校時代、毎日のように見ていたハルカの横顔。いつか自分に振り向いて欲しいと夢を見た。
気付けば神崎は自身を慰めていた。自慰でこんなに興奮しているのは初めてかもしれない。先走りがいつもより多く、滑りがいいのですぐに息が上がった。早く達したいのと勿体なさで、強弱をつけながら僅かに息を乱した。目を瞑ると、ハルカが腕の中で快楽に溺れている。白い肌を撫で、平らな胸を弄った。小さくて赤い唇を奪いながらひとつになる。
――ああ栄田、きみと一緒にいきたい!
いよいよ昇りつめた時だった。このまま一気に頂に達そうというところで、瞼に映るハルカの顔が秀一に変わった。黒い髪、汗ばむ額、苦痛に顔を歪めている。生意気で憎くて驚くほどセクシーだった。はっ、と我に返った時には遅かった。神崎は手を止められずにそのまま射精に至った。ドクドクと騒ぎ立てる心臓。大袈裟に乱れる呼吸。とてつもない快感のあとに、ひたすら困惑が襲った。背中が汗で濡れている。神崎はもう一度浴室に駆け込み、体中を洗った。シャワーを済ませたあとはすぐにベッドに入った。ぐっすり眠れば秀一の顔なんか忘れているはずだった。
翌朝、いつもより長く睡眠時間を取ったからか、すっきりとした頭で目覚めた。しかし戸惑いが消えることはなく、それを認めると神崎は川村に電話を掛けた。
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神崎はワインを飲み干したあとのグラスをそっとテーブルに置いた。そっと置いたはずなのに、ちょっとしたガラスの音がやたら大きく聞こえる。
――俺の顔を返せ! ――
返してなどやるものか。まだまだ恨みは晴らし足らない。それなのに、ややもすれば秀一の最後の泣き顔だけをはっきり思い出す。
***
診療が終わる頃に、ひとりの患者が駆け込んで来た。午後の四時に診察の予約を入れていたのに六時を過ぎても現れず、無断キャンセルかと思っていた時だった。
「ううっ、寒いっ、午後から雨が降るって聞いてたのに、傘を持って出るの忘れましてね」
受付でそう話している声が診察室まで聞こえてきて、神崎は「やっぱりか」と思った。雨が降っていることではなく、訪ねてきた患者の正体が分かったからだ。神崎はすぐに「どうぞ」と中へ促した。診察室に現れたのは人の好さそうな男だ。
「神崎、久しぶりだな」
「川村こそ、元気にしていたか? ……その腹を見る限り元気そうだな」
脂肪を蓄えた大きな腹を擦りながら川村は笑った。
予約表に「川村太一」という名前が入っているのは三日前から知っていた。川村は秀一の手術をした後に医院を訪ねてきたことがある。その時に再会したから、今回顔と名前が一致したのだ。そうでなければ今日の診察は「初めまして」状態だっただろう。高校時代の川村のことは秀一以上に覚えがないのだから。
「今日はどうしたんです?」
「敬語はやめてくれないかな。仕事とはいえ知り合いに敬語使われるの苦手で」
「分かった。今日は何かあったのか?」
「ここ、このほくろ」
川村は左手を広げて差し出した。手の平の真ん中に確かに黒い斑点がある。
「数年前にできて、俺は『あ、ほくろだ』って放って置いたんだけど、『それ、悪性じゃないの?』って言われてから気になっちゃって」
神崎は顔を近付けて川村の手の平を暫らく観察したが、「心配ない」と言い放った。
「川村の恋人はメラノーマの心配をしたんだろうが、メラノーマの特徴には当てはまらない。手の平や足の裏にほくろがあるからと言ってメラノーマとは限らないからな」
恋人、とあえて言ったのは、彼が遠回しにその存在をほのめかしているように聞こえたからだ。読み通り、川村は分かりやすく照れた。
「メラノーマって?」
「悪性の癌だよ。六ミリ以上あるもの、形が崩れていたり、色にムラがあったり、サイズが大きくなったりしたら疑ってもいいが、見る限り普通のほくろだ。安心して恋人に報告していい」
「はは、まいったな」
「まさか、これだけじゃないだろうな?」
直球でそう訊ねると、川村は今度は苦笑いに変わって頭を掻いた。
「バレたか。ごめん、個人的に呼び出せばよかったな」
「もう閉院だ。少しだけなら話せる。わざわざ飲み屋で語り合うほどの内容でもないだろう」
川村がなんの用で訊ねてきたか、大体察しが付く。彼は秀一と仲が良い。
「秀一のことなんだけど。……このあいだ話、聞いた」
秀一が出て行った日の前日、珍しく出掛けていたことを思い出した。川村と会っていたのか、と合致した。
「いつ、元に戻してやるの?」
「……」
「確かに栄田を本気で好きでもないのに付き合って傷付けたのは秀一が悪い。それで自殺したんなら、神崎が許せないのも当然だ。でもやり方は他にもあったんじゃないか?」
「例えば」
「それは、分からないけど……。でも整形をしたことで仕事がなくなって人とも会えなくて、すっかり痩せちゃって、少しやりすぎなんじゃないか? ただでさえ交通事故で死にかけて散々だったんだ。罰は受けたはずだよ」
「俺が見なければ、佐久間はあのまま死んでいただろう。それを助けてやったのは俺だ。あいつがどんな形で報いるか、俺が決めてもいいだろう」
「もういいじゃないか。あいつも反省してるよ」
「いいや、していない。だからまだ駄目だ」
「それでも充分、苦しんだよ。まずは元の生活に戻してやれよ」
「元の生活に戻したら、あいつは栄田にしたことを忘れる」
「俺、あいつと高校の頃から仲良いけど、そこまでクズじゃないよ。……女関係は確かに色々あったけどさ。俺からも言い聞かせるし、手術してやってくれ」
それでも神崎は首を縦に振らなかった。それどころか第三者に口を挟まれて苛立ちさえしている。沈黙していると川村が腕時計に目をやり、席を立った。
「ごめん、仕事の邪魔して。帰るわ。でも秀はたぶん、口にしないだけで反省してるし後悔してると思う。それに、あいつがどうして栄田に近付いたのか俺にはなんとなく分かる」
神崎は最後の台詞の理由を聞きたくて見上げた。けれども川村は答えなかった。
「秀、もしかして今、家にいない?」
「どうして知ってるんだ」
「実は電話があったんだ。十何年ぶりかに親父さんに会いに行くらしいよ」
「十何年ぶり?」
「あ、知らない? あいつの親父さん、高校の時からアル中でさ。お袋さんはとっくの昔に離婚してて行方知らずで、あんまいい家庭環境じゃなかったんだよね。大学卒業してから親父さんとは疎遠だったんだけど、それが急に会いにいこうって思ったんだから、なんかしら心境の変化があったんだろ。と、俺は思ってる」
「……」
「ついでに、栄田の墓の場所も聞かれた。――と、だけ伝えておく。じゃ、ありがとう」
家に着いたら家政婦の多田が用意してくれた夕飯をひとりで摂り、きれいに畳まれた洗濯物からタオルを取ってシャワーを浴びた。いちいち料理に難癖をつけたり、何度も洗濯させたりと、そんな手間がなくなって快適に過ごせている。それなのにタオルで顔を拭いた瞬間に微々たる香りの違いに違和感を覚えるのは何故だろう。
潔癖症とまではいかないが、それに近い神崎は部屋の中も身なりもだらしないのは好きじゃない。けれどもどうにもだるくて、風呂上りはシャツを雑に羽織っただけで、髪も濡れたままで倒れ込むようにソファに腰掛けた。ふと本棚の隣にあるCDラックに目をやった。そういえば同窓会でハルカに再会した時、一枚だけCDを出したと聞いて買いに行った。ハルカはピアニストとしてそれほど知られていなかったので探すのに苦労したが、棚の隅に一枚だけあった。毎日のように聴いていたのに、ハルカの自死から一度も聴いていない。神崎はおもむろにCDを流した。
神崎が一番好きな、リストの「愛の夢三番」。生演奏よりは劣るが、それでもやはり彼の奏でる音色は繊細で美しい。語り掛けるような冒頭も、煌めくような導入も、豪華な盛り上がりも、華やかなのに切なく、欲を掻き立てられる。高校時代、毎日のように見ていたハルカの横顔。いつか自分に振り向いて欲しいと夢を見た。
気付けば神崎は自身を慰めていた。自慰でこんなに興奮しているのは初めてかもしれない。先走りがいつもより多く、滑りがいいのですぐに息が上がった。早く達したいのと勿体なさで、強弱をつけながら僅かに息を乱した。目を瞑ると、ハルカが腕の中で快楽に溺れている。白い肌を撫で、平らな胸を弄った。小さくて赤い唇を奪いながらひとつになる。
――ああ栄田、きみと一緒にいきたい!
いよいよ昇りつめた時だった。このまま一気に頂に達そうというところで、瞼に映るハルカの顔が秀一に変わった。黒い髪、汗ばむ額、苦痛に顔を歪めている。生意気で憎くて驚くほどセクシーだった。はっ、と我に返った時には遅かった。神崎は手を止められずにそのまま射精に至った。ドクドクと騒ぎ立てる心臓。大袈裟に乱れる呼吸。とてつもない快感のあとに、ひたすら困惑が襲った。背中が汗で濡れている。神崎はもう一度浴室に駆け込み、体中を洗った。シャワーを済ませたあとはすぐにベッドに入った。ぐっすり眠れば秀一の顔なんか忘れているはずだった。
翌朝、いつもより長く睡眠時間を取ったからか、すっきりとした頭で目覚めた。しかし戸惑いが消えることはなく、それを認めると神崎は川村に電話を掛けた。
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